ヒスノイズ 05
報告が遅れてしまいました。
筆者の柳瀬です。
つい先ほど戻ってきたばかりですが、なんとか生きています。
ただ、今の私が本当に正常な状態にあるのか正直自信がありません。
頭の中全体にモヤがかかっているというか記憶が途切れ途切れというか……
指先が震えてスマホの操作すらおぼつかない状態なので。
それでも記憶が完全に消えてしまう前にあの場所で何が起きたのか全て書き残さなければいけない。
そんな強い強迫観念に駆られながら私は今、朦朧とする意識の中でこれを書いています。
ワラボエの祠であった出来事をひとつひとつ思い返しながら――
今日の朝、民宿を出発した私は久遠さんから指示されたトンネルを通り抜け、道と呼ぶには心許ない山道をひとり歩いていました。
足元はぬかるみ、湿った腐葉土の匂いが鼻の鼻腔にまとわりつく。
木々は異様なほど密集していて昼間のはずなのに薄暗く、小動物や小鳥の影も見当たらない。
自分の呼吸する吐息と耳鳴りだけが静かな空間に寂しく響いていました。
――ジ……ジジジ……
頭の中で砂嵐のようなノイズが絶え間なく鳴り続ける。
どれくらい歩いたでしょうか。
しばらく進んでいると急に視界が開け、木々の隙間から話に聞いていた祠が姿を現しました。
山の一部に溶け込んでいるような石造りの祠。
屋根は歪み、苔とシダに覆われ長い間ここに放置されてきたのがひと目で分かる。
周囲には何重にも渡ってしめ縄が張り巡らされ、雨風に晒された古いお札がミノムシのようにぶら下がっていました。
もはや神様を祀る祠というより何かを封じ込めるための檻のようにみえる。
「これがワラボエの祠……」
私は震える手で祠の社殿にあたる朽ちかけの扉に手をかけました。
耳鳴りが強くなり、吐き気が込み上げてくる。
開いてはいけない。
そう本能が叫んでいましたが、こんなところまで来た以上、ここで引き返すわけにもいかない。
ギィ……と耳障りな音を立てて社殿の扉が開きました。
スマホのライトで照らすと中には無数の赤い糸が鈴なりに吊られ、その一本一本に小さなボタンが結び付けられている。
丸いボタン、四角いボタン、キャラクターの絵が描かれたボタン。
まるで生まれてくるはずだった赤ん坊が身に着ける衣服の一部を吊るしているかのように。
私は必死で探しました。
久遠さんが言っていた星型のボタンを。
小夜子を、そして亜香里をこの世に繋ぎ止めてしまっている原因を。
――あった
無数の糸の奥に一際古びた赤い星型のボタンが静かに揺れていました。
私はポケットから持参したハサミを取り出し、震える手でその赤い糸を挟みました。
「ごめんね、小夜子ちゃん。
お母さんのところに帰ろうね」
――パチン
乾いた音とともに床に転がる星型のボタン。
その直後でした。
森のざわめきがピタリと止んだんです。
風も耳鳴りも自分の呼吸音さえも静まり返り、ぞっとするような悪寒が背筋を這い上がりました。
背中に突き刺さる無数の視線。
祠の外に何かの気配がする。
いや、外だけじゃない。
四方を囲う森すべてから。
恐る恐る振り返った私は息を呑みました。
何十人もの人間が私を取り囲むように立っていたんです。
青白い肌。
虚ろな目。
表情のない顔。
老若男女、年齢も性別もばらばら。
それなのに全員が同じように俯き加減で私の顔をみつめている。
考えるよりも先に脳が悲鳴を上げました。
ノイズが脳内に流れ込み、視界が歪む。
――ジジジジ……ギギギッ、キリキリキリ……
――ザザザッ……ピーピー……ガガガガ……
――ギー……ジリリリ……ブツ、ガーー……
――ギギッ……ザラザラ……ジリジリジリ……
私はたまらずその場にうずくまりました。
ノイズの向こう側から落ち葉を踏む足音が近づいてくる。
顔を上げると人混みに紛れてひとりの女の子が前に出てきました。
白いメンフクロウのお面を被った小さな女の子。
小夜子。
その名前が脳裏をよぎる。
ついに現れた。
私は恐怖で身動きが取れませんでした。
女の子はゆっくりと私の前まで近づくとお面に空いた両穴で私の顔を覗き込んできました。
次の瞬間、女の子の声が直接、私の脳内に響いてきたんです。
――ドウシテ……
幼いけれど底冷えするような冷たい声。
――ドウシテ……ドウシテ……
どうして?
どうしてって何が?
私はあなたを助けようと思って来たのに。
お母さんのところに帰してあげようと思って。
――ドウシテ……ウンデクレナカッタノ?
何を言っているの?
産むって何を?
私は柳瀬佳織。
ただの大学生で友達を探しに……
――ドウシテ ウンデクレナカッタノ?
――ドウシテ ウンデクレナカッタノ?
――ドウシテ ウンデクレナカッタノ?
声が反響する。
小夜子の声じゃない。
これはもっと身近に聞いたことのある声。
いや、知らない。
私は知らない。
やめて、入ってこないで。
私の記憶をかき回さないで!
――ママ ハ ドウシテ ウンデクレナカッタノ?
「うるさい! 黙れ!!」
私は堪えきれず絶叫してしまいました。
頭を抱え、喉が張り裂けるほどの大きな声で。
「何度も同じことを繰り返さないで!!
私は……私は……私は周囲の反対を振り切ってでも産んだんだ!!」
……え?
口をついて出た言葉に私自身が凍りつきました。
産んだ?
私が?
誰を?
私は大学生で独身で……違う。
脳内に鮮烈な映像がフラッシュバックする。
病院の白い天井、産声、小さな指。
赤い星型のボタンがついたお気に入りの子供服。
保育園の帰り道。
仕事の電話。
深夜の在宅勤務。
副業ではじめた子育てブログ。
「ママ、あそぼ」という声を振り切って閉じたリビングのドア。
独りぼっちの部屋。
目の前の女の子がゆっくりとお面に手をかける。
白い指がお面を持ち上げ、現れたその素顔を見て私の心臓は止まりそうになりました。
シワシワの老婆の顔でも崩れた怨霊の顔でもない。
どうして思い出せなかったのか。
自分の娘なのに。
「……い、おり?」
私の愛しい娘。
あの子は小夜子なんかじゃなかった。
私が切ったボタンは小夜子のものじゃなかった。
あれはいおりの……
「もーいーかい?」
無邪気な声が響きました。
懐かしい、あの子の声。
「まーだだよ」
私の口が勝手に動く。
「もーいーかい?」
「もーいーよ」
いおりがニッコリと嬉しそうに微笑みかける。
まるで久しぶりにママに構ってもらえたことが嬉しくてたまらないように。
「ママ、みいつけた」
その瞬間、いおりの姿が陽炎のように揺らぎ、ふっと掻き消えました。
後には静寂と冷たい山の冷気だけが残っていました。
ああ、そうか。
きっと、いおりが私に罰を与えたんだ。
私が仕事ばかりで構ってあげられなかったから。
育児ノイローゼ気味になって、あの子の声を『ノイズ』のように思ってしまった自分への罰。
お腹を痛めてまで産んだ私の一番大切な存在なのに。
あの子をひとりで育てる重圧から逃げるために私は本来進学するはずだった女子大生という殻に逃げ込んでしまった。
いおりはどこ?
ねえ、いおりに会いたい。
ボタン、切っちゃったよ。
これでお家に帰れるの?
あれ?
あなたは誰?
これを読んでいるあなたは誰ですか?
私は……誰だ?
私の名前は柳瀬佳織?
それとも、いおりのママ?
頭の中がノイズで埋め尽くされていく。
――ジジジ……ザザッ……
私のいおりを返して……




