◆奥三河の山奥に伝わる畏れ 02
<CMが明け、スタジオ照明が男性タレントの顔に暗い影を落としている。声は一段と低くなり周囲を警戒するようなトーンに変わっていた>
Kディレクターと山を降り、民宿に戻ったのは夕方の五時を少し回ったころでした。
真夏とはいえ奥三河の山間部は肌寒く、日が傾くにつれ森の緑は深い藍色に染まり、民宿に戻ってからも何かが背中にまとわりつく嫌な感覚がずっと残っていました。
汗でも湿気でもない。
今思えば、祠に吊るされていた無数のボタンの視線だったのかもしれません。
部屋に戻っても異変は立て続けに起こりました。
――パキ……ッ
静かな部屋に突然鳴り響くラップ音。
乾いた木材の割れる音がパキパキと何度も鳴りはじめたんです。
いくら築年数の経っている民宿とはいえ、ここまで立て続けに響くのは不自然。
昨日までは一切鳴っていなかったんですから。
Kディレクターは「山の民宿なんてどこもこんなもんだろ」と笑いながら部屋のテーブルにカバンの中身を広げていました。
水筒に懐中電灯、携帯食料、そして祠から持ち帰ったひし形の赤いボタン。
その直後、また音がしました。
――パキ、パキ、パキ……ッ
今度は間隔も短く、まるで生き物が民宿の屋根裏を這うような音でした。
Kディレクターもさすがに眉をひそめましたが、それでも冗談めかした声で「まあ……古い建物だし問題ない問題ない」と軽くあしらっていました。
でも、僕にはそのラップ音がワラボエの唸り声にしか思えなかった。
祠に祀られていたボタンを勝手に持ち帰ったんです。
山の神様の怒りを買わないはずがない。
それからしばらくして、今度は別の声が混じりはじめました。
――ヒソヒソ……
――クスクス……
誰かが廊下で囁いているような小さな声。
そして、廊下を走る子どもの足音が時折耳につくようになったんです。
部屋の前を裸足の子どもがトタトタと、まるで追いかけっこでもするように何度も往復する。
僕がフロントに居た民宿の女将に尋ねてみても、今日宿泊してるのは僕らだけだと言われる始末。
ついさっきも、小さな足音が入れ違うように廊下を駆け抜けていったばかりなのに。
「もしかしたらワラボエ様が来たのかも」
女将は顎に手を添えてそう呟きました。
昔からこの地域には悪い子を諌めるための歌があり、悪事を働けばワラボエ様に連れ去られると怖がらせてきたそうです。
――悪い子眠らぬ 影が来る
――戸口に立って 見ているよ
――悪い子怖がり 影が出る
――虚ろに虚ろに 引きずるよ
――うめく叫びは 闇に消え
――祟られ祟られ 童吠える
「なにか悪さでもしたんですか?」
女将は冗談半分に僕に尋ねてきました。
さすがに祠にあったボタンを無断で持ち帰ったとは言えず、僕は黙って首を横に振ることしかできませんでした。
部屋に戻ってKディレクターにそのことを話すと、なぜか嬉しそうに「民宿まで来てくれるなら丁度いいじゃないか」と軽口を叩かれました。
面白い絵が撮れるかもと持参してきた業務用のカメラを部屋の隅にセットしはじめたんです。
カメラを三脚に固定し、一晩中、部屋の全貌を捉えられるように。
「夜が楽しみだなぁ」
Kディレクターはほくそ笑みながらそう呟きました。
こんな山奥まで来たかいがあった。
いい絵が撮れたら局の連中を驚かせてやれる、と。
だけど、僕には何か恐ろしいものを自ら招き入れているようにしか見えなかった。
その夜、川の字に布団を敷いて僕らは寝る準備を整えました。
部屋の窓からはどこまでも深い闇しか見えない。
Kディレクターは山歩きで疲れたのかすぐにいびきをかきはじめましたが、僕は極度の緊張と部屋に鳴り続けるラップ音のせいで中々寝つけませんでした。
部屋の空気が妙に重かったんです。
天井の影が薄っすら揺れているように見えて何度も目を閉じては開いて、閉じては開いてを繰り返して。
それから布団の中で寝返りを繰り返していると耳を澄まさなくても聞こえるほどの歌声が部屋の外、廊下の奥からぼんやり聞こえてきたんです。
子どもの幼い声。
だけどその歌声はあまりに暗く、どこか恨みがましいものを感じました。
――カーゴメ カーゴメ
――カーゴノ ナーカノ オーニーハ
――イーツイーツ デーヤール
――ヨーアーケーノ バンニ
知っているわらべ歌なのに歌詞が一部間違っていて、まるで僕たちを責めているように聞こえる。
その歌声はゆっくり廊下を移動すると僕たちがいる部屋の前でピタッと止まり、“ヒタッ……ヒタッ……”と濡れた足音が障子の向こうから迫ってきました。
僕はもう限界でした。
全身の毛穴が開ききり、言葉にできない恐怖が皮膚を這い上がってくる。
ワラボエが来た。
そう直感した僕は声を出したら終わりだと思い、必死に口を結びました。
布団を頭からかぶり両耳を手で塞いで、自分の心臓の音だけが聞こえるように意識を集中させたんです。
だけど、布団の中に隠れても無駄でした。
歌声はまるで僕の耳に直接流れ込んでくるように響いてきたんです。
――ツールト カーメガ スーベッタ
――ウシロノ ショウメン ダアレ
冷たく粘着質な声が布団を通り抜け僕の精神を蝕んでいく。
その極限の恐怖の中で僕はいつしか意識を失ってしまいました。
その翌朝。
僕が鉛のように重い体を引きずって目を覚ますと、隣でKディレクターが昨夜のことなど微塵も感じさせない顔で歯を磨いていました。
恐る恐るわらべ歌のことを尋ねると、Kディレクターは「なんのことだ?」と言って大笑いしました。
おまえ、さすがに怖がりすぎだ。
そんなことじゃテレビ業界で食って行けないぞ、と。
わらべ歌は僕のそら耳だと一蹴されたんです。
それから僕らは朝食もそこそこに部屋に設置してあったカメラをパソコンに繋いで映像を確認しました。
Kディレクターも一晩中回していたカメラをチェックすることには乗り気だったので。
映像の冒頭では、Kディレクターの大きないびきと僕がうなされながら寝返りを繰り返している姿が延々と映っていました。
子どもの歌声はカメラのマイクに拾われておらず「やっぱり、おまえのそら耳じゃないか」とKディレクターが僕のことをからかってきました。
そんなはずはない。
あのわらべ歌は本当にそら耳だったのだろうか。
僕が眉をひそめて安堵と羞恥心の入り混じった気持ちになっていると、僕らが寝静まってからおよそ十分後。
――バキ……ッ
急にカメラがそれまでとは比較にならない激しいラップ音を捉えたんです。
その音と共に古い障子がスーッと、まるで誰かに引かれるように開きました。
当然、障子の向こうには誰もいない。
ざらついたノイズが五月雨式に映像に走り、部屋の隅に置いてあった椅子がガタンと音を立てて数センチ移動しました。
さらにオーブと呼ばれる光の玉が画面にふたつ、みっつと次々に現れ、部屋の中をぼんやりとした影がゆっくり横切っていったんです。
僕とKディレクターは同時に息を呑みました。
ありえない怪奇現象が立て続けに確かな証拠として記録されている。
とんでもない動画を撮ってしまったという背徳感と圧倒的な恐怖から言葉が出ず、ただただ画面を凝視することしかできませんでした。
それから少しして画面の端から何かが現れました。
何かと濁したのは理由があって、ぱっと見はおかっぱ頭の女の子だったんですけど確実に人間じゃない。
それだけは断言できる。
フクロウのお面を被っていて顔は見えないんですが、はじめてその姿を映像で見たとき、全身が総毛立ったのを覚えています。
そいつは布団の近くまで来るとお面に開いた真っ黒な瞳をカメラに向けてきました。
カメラの存在にそこではじめて気付いたように。
そこまで再生したところでKディレクターは顔を強張らせてパソコンの電源を落としました。
僕も血の気の引くような冷たさを感じながら、しばらく真っ暗な画面を見続けるしかありませんでした。
<ここで再び、CMに入る>




