5話
半眼で監視する藍墨の目の前で着衣ショーを披露させられた海月は、何を考えているのか分からない不敵な笑みを浮かべながら、椅子の傍に立ってリボンをきゅっと締める。
「見苦しいものをお見せしました」
「そう思ったならさっさと服を着なさいよ」
「いえ、朝陽さんなら別にいいかなと」
しれっと言う海月に、藍墨は呆れ果てる。腰に手を置いて責めるような目を向けた。
「誰かが来たらどうすんのよ」
「いやあ……職員会議中ですし誰も来ないと思って。場所も場所ですし」
「そんなこと言って、これで目撃するの二日連続二回目なんだけど」
「奇遇ですね、私も人生で二回だけ。二日連続二回目です」
「もしかしてこれあたしの運が悪い?」
藍墨は愕然としながら呟く。人によっては幸運かもしれないが。
海月は「日頃の行いは良さそうですけどね」と可笑しそうに目を細めた。
藍墨はそんな海月の笑顔を暫し黙って眺めた後、少し真面目に釘を刺す。
「とにかく、気を付けなさいよ。世の中は真人間ばかりじゃないんだから。アンタみたいのが見られたら何されるか分からないんだし。あんま心配させるな」
容姿を理由にステレオタイプなことを言いたくはなかったが、藍墨が知る人類の中でも星ヶ丘海月の容姿は群を抜いて美形だ。きっと男子受けは良いことだろう。或いは女子からも人気かもしれない。弱みを見せることについて、もう少し慎重になるべきだ。
そう伝えた藍墨だが、しかし、海月は少々複雑そうな表情で見詰めて来た。宝石のような眼差しは藍墨を中心に捉えると、やがて何かに堪えかねたようにそっぽを向く。ふらり、と、落ち着かない様子で海月の上履きがその場に揺れ、彼女は背中で手を組んだ。
「何よ?」
藍墨が眉を顰めて尋ねると、海月は曖昧な笑みで視線を逸らす。
「いえ――不覚にも多少、弥香の気持ちを理解してしまったのが。癪で」
そう前置きをした後、海月は幾らか神妙な面持ちに切り替える。そして、何の話か分からずに首を傾げている藍墨へ、真正面に向き直った。口許だけが微かに緩んでいる。
「ご心配、ありがとうございます。もう少し真剣に考えるべきでしたね、省みます」
「や……まあ、分かればいいのよ。そこまで真面目に受け止めなくても」
本気で心配してはいたが、本気で受け止められると些か拍子抜けだ。
「――で、当初の予定の方は終わってるの? 鍵、こっちで返すけど」
藍墨が卓上にあった鍵を拾い上げて訊くと、海月は抵抗の意を顔に示す。
「仕事は終わってますが、そこまでしてもらう訳にも。こちらで返します」
「どうせあたしは帰るだけだから。二人で行く意味も無いしね。アンタは早く部活に顔出してあげなさいよ。二夕見のやつ、両手広げて廊下を走ってたわよ」
半笑いで「出会い頭にスライディング食らった」と足下を指してやると、海月は「あー……」と情景が目に浮かんだ様子で苦笑を見せた。
「彼女はテンションが上がると落ち着かなくて……お怪我はありませんでしたか?」
「それは大丈夫。それより、部活、楽しんでおいで」
藍墨はキーホルダーに指を通してくるりと回し、踵を返して準備室を出る。
素直にそれに続いた海月の隣で漏れなく施錠をし、藍墨は「じゃ」と海月に別れを告げた。しかしながら、む、と唇を結んで少し考えた海月は、飄々と付いてくる。
「途中までは一緒でしょう? それとも露出狂は嫌ですか」
藍墨の顔の横で揺れる亜麻色の絹糸から、清涼感ある柑橘の香りが漂う。エアコンの効いていない部屋に長らく居たからか、その肌は微かに汗ばんで陶磁器のように美しい。
見惚れるほど綺麗な彼女から視線を前に逸らし、藍墨は軽く肩を竦めた。
「露出狂は嫌に決まってるでしょ」
そりゃそうか、と言いたげに笑う海月。
誤解は生じていない様子だが、一応。藍墨は海月に合わせて歩調を落とし、「でもアンタはそこまで嫌じゃない」と伝えておくと、海月は嬉しそうに破顔した。
「私も朝陽さんのことは気に入ってますよ。優しい人ですからね」
「はいはい。あたし程度の真人間は探せばその辺に居るでしょ」
「ええ、ですから私はその辺の真人間を片っ端から気に入ってるんでしょうね。――ところが意外なことに、ここ数年で貴女みたいのには一人しか会っていません」
おどけた顔で笑う海月の視線を受け、藍墨は苦笑しながら視線を反対側に流した。
横並びで階段を下りつつ、海月はこう続ける。
「昨日は色々と目を瞑ってくれてありがとうございます」
「……現実的な話、ミカエルの件を報告したってそれを理由に廃部は無理でしょ」
「かもしれませんね。ですが、日頃の活動内容に干渉される恐れはありました」
「それは大丈夫。今の生徒会はモザイク除去部を許すような連中だから」
「そういえばこの学校って兼部できるんでしたっけ?」
「入ろうとするな。絶対に部室から栗の花の匂いがするわよ」
藍墨がバッサリと切り捨てると、海月は可笑しそうにコロコロと笑った。そして三階から二階への踊り場に差し掛かった頃、ふと、海月は気になった様子で口を開く。
「そういえば――朝陽さんは部活とかは入ってらっしゃらないんですか?」
唐突な問い掛けに、藍墨は思わずその場に足を止めてしまう。
二段ほど先を進んだ海月は、不思議そうな顔で半身を振り返って藍墨を見た。
「朝陽さん?」
「いや……まあ、部活は。入ってない」
そう答えた藍墨は気を取り直して階段を下りていくが、今度は海月がそれを追わない。
「何」とやや身構えながら藍墨が振り返ると、海月は見透かしたような笑みを見せる。
「何か悩み事ですか? 言ってくださいよ、私達の仲でしょう」
「出会って二日。話した回数はクラスメイトより少ないでしょ」
「でも私の下着を二種類見ましたよね。貴重な体験ですよ」
どうやら退く気は無いらしく、藍墨はどうしたものかと視線を逸らして嘆息する。
藍墨に、他人に愚痴を漏らして自らの重荷を押し付けるような趣味は無い。しかし人によっては誰かの趣味で盛り上がりたかったりするのだろうか、と訊いてみる。
「愚痴を聞く趣味でもあんの?」
「いえ、まったく。できれば聞きたくありませんね」
バッサリであった。しかし海月は微かに口許を綻ばせてこう続ける。
「でも朝陽さんの話は聞きたいです。天秤にかけて、紙一重でそちらに傾いてます」
そう言われて、喜んで口を開ける人間が果たしてどれだけ居るだろうか。藍墨は苦笑しながら気が引けつつも、しかし、そう言ってくれた友人の為に口を開こうと思う。
「じゃあ少し付き合ってよ」
藍墨は肩の力を抜きながら歩き出し、階下の方を指した。
さて、一階の昇降口近くには集会にも使えるような広間があり、そこには自販機が併設されている。藍墨はそこで二人分のアイスココアを買って、一つを海月に放った。
「ご馳走様です」
「ん。まあ下らない話を聞く給料だと思って」
藍墨は言いながら自販機横の壁に背中を預けてプルタブを引き、まずはココアを一口。同じように一口飲んだ海月は、藍墨が口を開くのを静かな眼で見守る。
雑談をするような雰囲気ではなかったので、藍墨は単刀直入に切り出した。
「――部活、さ。どっかしらには入りたいと思ってんのよ」
すると海月はニヤリと笑い、自らの胸に手を当てた。
「おすすめの部活があります。サイバーセキュリティ研究部って言うんですけど」
「あー、はいはい。どいつもこいつも似たようなことばかり言って」
満更でもなさそうに笑って呟いた藍墨は、ココアをもう一口飲む。そんな藍墨をしばらく見詰めた海月は、缶を手元で揺らしながら疑問を口にした。
「真面目な話、ウチでなくても面白い部活には事欠かない高校でしょう。貴女の性格を勘案しても、特に問題は思い浮かびません。部活、入らないんですか?」
海月の質問を神妙な顔で受け止め、藍墨は瞑目して溜息をこぼす。
「……入りたいとは思ってる。ただ、一緒に楽しめる自信が無くて、尻込みする。入部した後、一緒に楽しい時間を過ごしてる自分の姿が想像できない。かといってスポーツや文化系の競技に打ち込みたいと思えないし、だったらもう、いいのかな、って」
こちらを黙ってマジマジと見詰める海月に、藍墨はやや自嘲気味にこう続けた。
「あたしは退屈な人間だから」
物憂げにそっとこぼした藍墨を物言いたげに見詰めた海月は、こう訊いてくる。
「私の目にはそう見えませんが、もしかして誰かに言われました?」
生憎と、藍墨の周りには善人ばかりが居る。
「そういう訳じゃないけどね。ただ、母親とか担任にまで心配されると、傍目にはどれだけつまらない人間に見えるのか、って考える」
海月は眉を上げて少々意外そうな声を発した。
「ご家族と、仲が良いんですね。親御さんまでご心配をされてるんですか」
藍墨はその言葉を曖昧な表情で受け止める。
その表情を見て、違うのか、と言いたげに海月は首を捻る。
客観的に見て親子仲は良い方だろうが、この心配に関しては朝陽家の歩んできた歴史が関与する部分が大きいだろう。それはわざわざ言うような出来事でもなかったが、わざわざ話を聞こうとしてくれた友人が隣に居るせいか、藍墨の口は普段より軽かった。
「中学に上がってすぐの頃、母さんが重い病気を患ったの」
海月の双眸が驚きに見張られた。口を噤む海月を一瞥し、藍墨は場の空気が重くなり過ぎないように軽薄な笑みを覗かせた。
「しばらく入院を余儀なくされるような大病で、当然、仕事はできないし、貯金は治療費で消えていく。生活も危ぶまれるような状況だったから、あたしは中学に殆ど行かないで、仕事ばっかりしてたのよ。まあ、今はもう完治してるけどもね」
どうやら察しが良く聡いらしい。海月は得心に頷いて話の核心を突いた。
「お母さんの心配は、貴女を中学に行かせられなかった負い目からですか」
「あたしはそう思ってる。でも、まあ――実際。小学校は小学校で離婚騒動とかあって引っ越しと転校もあったし、総じて、人より友達付き合いに疎い自覚はある」
軽い口調を心掛けたが、海月の表情は思い詰めるように暗くなっていた。
藍墨は場を和ませるように軽薄な顔で、底抜けに明るい声を取り繕った。
「さっき――二夕見から部活に入りたくないかって訊かれたのよ」
「歓迎しますよ」と海月は微笑んで追従するが、藍墨は悩ましく目を逸らす。
「あたし自身も、そんな会話の流れになった時に――そう誘ってくれるのを期待していたのかもしれない。でも、何でかな。不思議と『入りたい』とは言わなかった」
藍墨はどうして自分の心が揺れなかったのかを見詰め直す。自分の内面を見詰め、心と向き合った。しかし、じっくりと考えてもまともな回答も得られなかったから、それらしい言葉を取り繕って、投げやりに笑いながら吐き出した。
「……アンタ達は楽しくて良い奴らだけど、あたしはそうじゃないのかも」
明るい表情を心掛けたつもりだったが、海月は納得しかねるように責めるような目を向けて来た。藍墨は笑顔で視線を逸らし、やがて、ふふ、と小さく吹き出す。
「『そんなことないよ』って言ってほしい訳じゃないからね」
「分かってます。貴女はそういうタイプじゃないので。そうだったら楽でしたが」
「言ってみれば? 気が変わるかもよ?」
「そんなことありませんよ。貴女は楽しい人です」
「ありがと」
そんな言葉を往復させ、二人で静かに笑みをこぼす。
「さて」と藍墨は弾みを付けて壁から背中を剥がし、軽く柔軟運動をしてから鞄を拾い上げる。「カウンセリング料はそれで勘弁してね」と藍墨は缶を持った指で海月の手元の缶を指す。海月は異論無いと言うように缶を持ち上げてふるふると揺らした。
そうして飲み干した缶をゴミ箱に捨てて帰ろうと歩き出す藍墨だったが、その背中を海月が呼び止めた。
「貴女は――私に似ていますね」
立ち止まる。何らかの意味を含んだその言葉に、藍墨は唖然とした顔で振り返った。
「似てる? あたしとアンタが?」
その真意を尋ねようとした、その時だった。ドタバタと騒がしい足音が階段の方から聞こえてくる。弥香以外にもこんな足音を立てる人間が居るとは――そんな呆れを含んだ眼差しを藍墨と海月が階段へ送ると、顔を出したのはまさしく、その二夕見弥香だった。
頭を抱える藍墨と、腰に手を置いて苦笑する海月。
そんな二人を見付けた弥香は「あー!」と元気よく声を上げて駆け寄ってくる。
「見付けた! 海月! 探したんだからね!」
「これは失礼しました、部長。何か御用です?」
海月の前で急停止した弥香はスマホを取り出し、その画面を海月に見せる。
「花火大会やるんだって! お祭りも! 今日、十八時から横浜で」
ギョッとする藍墨に反して、慣れたものか、海月は「ほう」と感嘆の声を上げる。比較的常識人寄りだと思っていた海月が乗り気なので、藍墨は唖然とした顔で訊く。
「今から横浜⁉ 国分寺から⁉ 一時間以上は――」
言いながらスマホを取り出した藍墨は、時刻が十六時半前であることを確かめてしまう。理論上は間に合うから、二の句を告げなくなって呆然と二人を見た。
「いいでしょ、藍墨も来る?」
良い笑顔でサムズアップする弥香に「いや、あたしは」と藍墨は尻込みする。
そんな易々と気軽に行けるような位置ではないだろう。それに、昨日の仲が良いやり取りを見ていると、自分は異物なのではないかと気が引ける。後はそれをどう伝えるかという問題だったが、しかし、弥香は何かを察したように微笑むと「無理強いはしないよ!」と、笑顔でサムズアップして、それ以上は藍墨の回答を拒んだ。
物わかりの良い彼女は、次いでサムズアップした手の人差し指で海月を指す。
すると、海月は徐に頷き返した。
「当然、私は行きますよ。ただ、混みそうなので早めに発ちたいですね」
「勿論。澄冷ももう準備してるから、下りてきたらすぐに行こう! 様子見てくる!」
弥香は溜まり切ったエネルギーのやり場に困ったように階段を駆け戻っていく。
活気に溢れた彼女の背中を、藍墨は少し羨むように見詰めた。
そんな藍墨の顔を静かに見詰めた海月は、半分ほど残ったアイスココアを一気に呷る。そして甘い液体を拭うように唇を舌で湿らせた後、静謐な調子で言葉を紡いだ。
「朝陽さんも行きませんか?」
藍墨は葛藤に揺れる眼差しを隠すように目を瞑り、心にもない言葉を吐いた。
「行っておいで。あたしはあそこまで元気よく無邪気に楽しめないと思うから」
そう答えた藍墨の顔をしばらく見詰め、海月は「一つ、いいですか?」と返した。
「朝陽さんは――心の底から楽しいと思う時間を過ごしたことは、ありますか?」
妙な質問に目を開いた藍墨は、真意を探るように海月の顔を見詰めた。その真っ直ぐな目は、昇降口から伸びる斜陽に浅瀬の如く煌めき揺れていた。
さて、思い返すと、藍墨の幼稚園時代は仲の悪い両親の喧嘩に振り回されていた。
小学校では離婚に因る引っ越しと転校でドタバタしていた。
それから何度かは母に連れられて外に遊んだこともあるが、その頃から体調を崩しがちだった彼女を気遣う時間の方が長かった。中学は言わずもがな難病を患った彼女を支え、高校では、ずっと尻込みをしている。思い返すと、そういう時間は無い。
「無いと思うけど」
藍墨は目を伏せて、背中から注ぐ夕日に生じた己の影を見下ろした。
その言葉に満足したか。海月は同じように藍墨の影に目を落として頷く。
「だったらやっぱり、貴女は私によく似ているんだと思います――」
それがどういう意味かを訊くより早く、海月は自販機横のゴミ箱に缶を入れる。
「――物言いが乱暴だったら許していただきたいのですが、楽しいことを経験したことのない人が、物事を楽しそうかどうか、楽しめるか否か、正常に判断できますか?」
面食らった藍墨は唇を横一文字に引き結び、そして顎に手を添えて思案する。
何だか反論したくなるような言い回しだったが、悔しいことに正論だ。痛みを知らない人間は、それを想像することはできても、それが正確であるとは限らない。
「できない、とは思うけど。何、あたしが悲観的過ぎるって言いたいの?」
「そこまでは言いませんが……『自分が輪の中で楽しんでいる姿が想像できない』っていうのは、当たり前だろうと思いまして。だって、経験したことが無いんですから」
海月の言葉は楔の如く深く藍墨の胸に突き刺さり、抜けない。ぐっと眉根を潜める。
ここ二年の自分の生き方を否定されているようで、少し気分は悪い。だが、自分が間違っているのだとすれば、否定されることによる不快感は素直に受け止めるべきか。
「じゃあ、アンタ達と一緒に居れば楽しいってこと?」
「約束はしかねます。時間の無駄かもしれないし、楽しいかもしれない。これは経験談ですが――自分が何を楽しいと思う人間か、そして、その居場所はどんな楽しさを提供してくれる場所か。それが分からないなら、もう、我々は飛び込むしかないんですよ」
海月は飄々と笑って腰に手を置き、やや上目に藍墨の顔を見詰めた。
「味の想像が付かない料理があったら、食べたくありませんか? ――美味しそう、不味そうでは勿体ないでしょう。美味しかったと不味かった、の方がずっと楽しい」
胸に突き刺さっていた楔が初春の残雪の如く緩やかに融けていき、気付けば乾いていた胸に、その言葉がよく沁み込んだ。臓腑に沁みるような綺麗な言葉の数々に、良いように説得されて堪るかという反骨心を抱きつつも、感銘を受けてしまう。
「よく口が回るわね。アンタ、詐欺師とか向いてそう」
藍墨が微笑しながら、辛うじて皮肉を吐き出すと、
「ふふ、誉め言葉と受け取っておきましょう。どうです? 今日、一晩だけでも」
それを慇懃に受け取った海月は、そう言って藍墨へ緩やかに歩み寄る。
そして社交の場と錯覚するような流麗な所作で、海月は藍墨に手を差し出した。
「――私に騙されてみませんか?」
一曲如何ですかと尋ねるような所作を、藍墨は逡巡の走る瞳で見詰める。
今更ながら、朝陽藍墨は別に、サイバーセキュリティ研究部に入りたくない訳ではない。だが、入って楽しめる気がしないから、何となく変化を避けた。先程の弥香の誘いを断ったのもそう。何となく楽しめるか怪しかったので、変化を避けた。仲良し三人組の輪の中に入って、自分がそれをかき乱すだけなのだとすれば、居ない方がマシだと。
楽しさを求める気持ちと現状維持バイアスが天秤に乗って、今まで、ずっと現状を肯定し続けてきた。だが、今、目の前の彼女が天秤に布を覆い被せた。
藍墨は唇を巻き込むように噛んで目を逸らし、幾つかの言葉を思い浮かべる。
その間、海月はずっと藍墨を待ち続けた。急かすことも、呆れることも無く。
やれやれ、と、先に呆れ果てたのは藍墨の方だった。観念して笑い、頷いた。
「分かった。アンタに騙されてみる」
言いながら海月から差し出された手を握り返すと、海月は頬を綻ばせて頷いた。
ぎゅっと藍墨の手を掴むように引っ張って、昇降口へと歩き出す海月。時を同じくして階段から汗をかいた澄冷が下りてきて、「あれ?」とこちらを見ながら声を上げた。少し遅れて、弥香もその後に続き――二人の様子を見て目を丸くした。
「今日は朝陽さんも行きます。四人で行きましょう」
澄冷と弥香は、その言葉に更に驚いたような顔を見せる。
仄かな緊張に藍墨の手が汗ばみ、藍墨は固唾を飲むが、それを蹴散らすような興奮の声が、瞬く間に二人の喉から上がった。
「何さ、やっぱり来るんじゃん! 友達なんて多い方が楽しいんだから、歓迎だよ!」
「電車で行こうと思うんだけど大丈夫? 暑いとか疲れたとか、何かあったら言って」
少しだけ唖然とした顔を晒す藍墨を、海月は「ね?」とにこやかに振り返る。
藍墨は溜息と共に笑って何度か頷き、そっと海月の手を離す。
「あたしも電車通学だから大丈夫。それより、花火の時間に遅れる前に行こう」
言いながら藍墨が靴を履き替えると、三人は急いで己の靴箱へ走った。




