4話
「――ってことがあったのよ。……いつまで笑ってんの?」
生徒会代理として部活動の監査を終えた晩、藍墨は朝陽家の食卓で今日の出来事を掻い摘んで語っていた。話し相手は長机を一緒に囲うただ一人の肉親、実母の梨乃だ。
波乱万丈の出来事を可笑しそうに聞いて味噌汁も飲めていなかった彼女は、十数秒ほど笑い尽くした後、深呼吸をしてから微笑みを向けてくる。
「その部は楽しい子がいっぱいいるのね」
「……まあ、愉快で退屈しない場所だったのは否定しないけど」
「久しぶりに藍墨ちゃんから楽しそうな話が聞けて、お母さん、安心したわ」
噛み締めるような梨乃の言葉に、藍墨は押し黙って瞳を伏せる。
しばらく、長机の横に置かれたテレビが芸人の掛け合いを垂れ流す。観客の爆笑に紛れ込ませるように、藍墨は嘆息を捨てて焼き魚に箸を伸ばした。
「楽しいと言えば聞こえは良いけど、騒々しくて喧しくもあったわね」
「そんな、素直じゃないこと言っちゃって。結局、その件は黙ってあげるんでしょ?」
「んぐ……黙ってあげるというのは正確じゃないわね。部室の継続要件に人気インフルエンサーのアカウントを使っているとはいえ、部の活動とSNSの状況を完全に結びつけるのはどうかと思うから。やってることはマジで怒られるべきだと思うけど、だからって部の問題とは解釈できない。それはそれ、これはこれ。あたしは公私を区別したの」
「ふうん、それで? 楽しかった? その子達と話して」
藍墨は二口目を取ろうと皿に伸ばしていた箸を止め、胡乱な目を母に向ける。
「何だって?」
「藍墨ちゃんが一つのことをそんなにたくさん話すの、珍しいから」
「……そんなに長話だったかしら。ごめん、話を変えるわ」
「ああ、違う違う。嫌味とかじゃなくて。本当に、お母さん安心したから」
そう呟く梨乃の瞳には微かな罪悪感が滲んでいた。
「ほら、その――私の病気のせいで、藍墨ちゃん、中学に殆ど行かなかったでしょ?」
ギランバレー症候群。藍墨が中学に進学して間もなく、梨乃はそんな大病を患った。
ある程度あった家の貯金はその治療費に注ぎ込まれることになり、収入が途絶えるということもあって、家賃や生活費が危ぶまれる状況だった。諸般の事情で親族も頼れない中、その状況をどうにかできるのは藍墨しか居なかったのである。
何度も蒸し返されるその話に、藍墨はやや呆れたような顔でこう言い返す。
「だから。それは自分で選んだことなんだから、母さんが気にすることじゃないって。金も無い癖に不倫して離婚して養育費も支払えないような父親と結婚したのは祖父さんと祖母さんの我儘で、離婚しただけで絶縁を突き付けてきたのも向こう側。病気は母さんの意思でコントロールできるものじゃないし、仕方が無いから生活費と多少の治療費は自分で稼ぐしかない。そうなった経緯に母さんの過失は無いでしょ」
「……だとしても、そのせいで――お友達付き合いとかできなくなって」
「そのお陰で、今、母さんとご飯を食べられる。あたしはそっちを誇りたい」
藍墨が毅然と言い返すと、梨乃は少し泣きそうな顔で目尻を濡らし、小さく何度か頷いて「ごめんね、変な話をして」と笑った。「まったくよ」と藍墨は言い返す。
「それに自分が人より不幸だとは思わない。中学時代に働けたお陰で色々得るものはあったしね。新聞配達は中学生でもできるとか、動画投稿は意外と稼げるとか」
「動画投稿だっけ? そういうの、今、流行ってるものねえ」
「そ。最近は動画投稿も含めてSNSって括られるみたいだけど、まあ、スマホ一台で仕事を取れる昨今、SNSを制する者が個人事業を制すると言っても過言じゃないわね。そういう意味では、サイバー研も中々時流に乗ってるのかもしれない」
梨乃が病気に伏し、収入が途絶え、貯金が治療費で減っていく一方の頃。
親戚を頼れない以上はどうにか自分で稼ぐしか無いと判断した藍墨は、最初に新聞配達を始めた。しかしながら、収入は支出に比べると雀の涙。どうにか額を増やさなければならない中、中学生でも可能な仕事を探した末、藍墨は動画投稿に出会った。
今ではからっきしだが、そういう経緯も踏まえると、あの三人と多少話をできるところはあるのかもしれない。そんなことを考えていた。
すると、愛娘の考えを見透かしたように梨乃が微笑む。
「入ってみたら? その部活」
藍墨は唖然と口を開き、それから眉根を寄せて梨乃の真意を探る。
「あのうるさそうな部活に? あたしまで馬鹿に見られそう」
「こら、陰口言わないの! 良い子達なんでしょ」
「一人はネットで炎上を繰り返す火だるま。一人は学校で下着の自撮りをする露出狂」
「でも、悪い子じゃないんでしょ?」
見透かしたような梨乃の言葉に、藍墨は不満そうに唇を尖らせると、観念して頷く。
「まあ、友好的だったり、友達との居場所を守るために頑張ったり。良い奴らだと思う」
「ふふ、きっとそういう子達と一緒だと、人生も華やかで楽しくなるわ。藍墨ちゃん、いつも退屈そうにしてるから。丁度いいんじゃない?」
素直に頷けない愛娘をジッと見詰め、梨乃はこう続けた。
「藍墨ちゃんを世界で一番知ってる私が思うに、貴女は、振り回してくれるような子達と過ごすのがおすすめ。きっと、夢中になれる時間がやってくる」
翌日の放課後、藍墨は生徒で溢れかえる廊下を一人で歩き、帰路を辿っていた。
秋楽と小春は生徒会の業務があるとのこと。それに、そうでなくたって二人とはいつも示し合わせて一緒に帰っている訳ではない。つまり、喧騒の中を静かに歩くこの時間は、藍墨にとって何の変哲もないいつも通りの日常に過ぎない――のだが。
「ぶおおおおん! ぶーーーーん!」
非日常の塊のような女が廊下の向こうから両手を飛行機のように広げて走って来た。
茶色く長い二つ結びの三つ編みと小さな身長。見間違える道理もなく、二夕見弥香だ。
弥香はアクロバット飛行でもするかの如く、時折羽を畳んで、廊下で騒々しくしている生徒の隙間を駆け抜けてこっちに迫る。何をしているんだ、あの馬鹿は、と藍墨が呆れながら弥香の視線の先を辿ろうとすると、その目は明らかに藍墨を向いていた。
「藍墨空港着陸!」
身構える間もなく、ずざあと廊下をスライディングした弥香が藍墨の足を奪った。藍墨は弥香と縺れるように盛大に転び、それを見て騒々しくなる衆人環視の中で叫んだ。
「不時着だ! 殺すぞ!」
あまりにも予想だにしない奇襲にストレートな暴言を吐く藍墨だったが、どうやら彼女も足を奪うまでするつもりはなかった様子で、「てへ」と舌を出した。
「パンツの摩擦係数が思ってたより低かった」
「アンタの知能指数も思ってたより低かった」
弥香は無言でペロと舌を出して誤魔化そうとするので、引っ張ってやりたくなる。
藍墨は呆れつつも徐に立ち上がり、そして、一応弥香にも手を差し出してやる。
「怪我は?」
「全然へーき。テンション上がっちゃった。ごめんよ」
起き上がった弥香は流石に悪いと思ったか、しょんぼりと謝ってくるので、藍墨はそれで溜飲を下げることにした。
「次やったら殴るのは前提として。何? あたしに何か用だった?」
「昨日の件。本当に上手い具合に処理してくれたんでしょ? お礼を言いたくて!」
「お礼参りなら貰ったけどね」
「ごめんて。でも本当にありがとね。感謝の極みです」
大きく掲げた両手を拝むように合わせる弥香を、藍墨は微笑と共に眺める。
「……まあ、アンタのプライベートアカウントがどんなゴミでも部の存続とは切り分けて考えないとね」
「ゴミとは失礼な! フォロワー七十万人超えなんだからね」
ぷんぷんと頬を膨らませる弥香。藍墨は半眼で言い返す。
「フォロワーというより向いてる銃口の数でしょ、ミカエルの場合」
「あ、こら! 表でその名前を出しちゃ駄目! 殺害予告とか来てるんだから!」
瞬間、藍墨は驚きに唾液を吸引しかけてむせ返った。
「だったら余計にあんなアカウント消しなさいよ⁉」
「やだやだ」
「やだじゃない。政治関係はマジで洒落にならないんだから」
「洒落にならないくらい投稿の『いいね』が伸びるのです」
「『いいね』が増えた分だけアンタの寿命が縮んでるのよ」
藍墨は呆れ返って嘆息し、あまり執拗に言っても仕方が無いかと話を進める。
「どうしてアンタみたいな根明があんな投稿してんのよ。何だっけ? 女は一人五人子供を産めだとか、男の雑魚精子が少子高齢化の原因だとか」
「あれ? 二毛作って知らない? 男女両方から『いいね』が貰えるじゃん」
「もしかして右翼と左翼もその理屈? アンタいつか両脇刺されるわよ」
「だから外では言わないでほしいのです。しー」
言いながら自分の鼻先に指を立てる弥香。藍墨は心底彼女の行動原理が理解できない。
「何が楽しくてそんなことしてんのよ。『いいね』がそんなに欲しい?」
「うん? んー『いいね』が、って言うより、皆が構ってくれるじゃん」
小春の『究極の構ってちゃん』という評を思い出した藍墨は、友人の慧眼に感服しながら「……程々にしなさいよ」と最後に釘を刺すことにした。
「で、これから部活?」
「そう! 行く前にお礼を言っておこうと」
「そ。じゃあ確かに受け取った」
藍墨は言いながら歩き出し、弥香もそれを足早に追いかけて横に並んだ。
「藍墨はこれから帰り?」
「そ。今日は早めに帰って勉強でもしようかな」
「真面目! もっと友達と遊んだりしないの?」
「誘われたら行くけど、自分からはあんまりね。そこまで交遊に頓着は無い」
すると弥香は不思議そうに首を傾げる。社交的な人間には理解できないか。
「トンチャク……ヌンチャク?」
「そっちかい」
ぶんぶんとブルースリーの如くエアヌンチャクを披露する弥香に笑ってしまう。
彼女のような人間と同じ部活だったら楽しいのだろうな、と、ふと、そんなことを考えた藍墨は、帰路を辿る足も止めぬまま、こう尋ねてみた。
「部活。そんなに楽しい?」
すると弥香は再び首を傾げる。今度は、意味は正しく伝わっているはずだ。
弥香は何かを探るようにジッと藍墨を見詰めた後、素直に笑って頷いた。
「楽しいよ! 凄く」
曇り無い返答に、眩しそうに目を細める藍墨。弥香はそこに続けて言う。
「何か特別なことをやる部活じゃないけど、皆が居れば楽しいよ。澄冷は人気なインフルエンサーだから、色々面白い話を持ってきてくれるでしょ。でも本人はそういうのと無関係に良い子だし優しい。海月はたまーに腹立つこととかも言うけど! でも、実は一番気遣い屋さんだし、私と澄冷に足りない部分をよく見てくれるし、大事な気持ちは尊重してくれるし、部活の楽しさばかりを味わえるのは、多分、アイツのお陰が大きい!」
照り付けるような太陽から目を逸らすように、藍墨は前を向いて呟き答えた。
「そっか」
しかし、そんな藍墨の横顔をジッと見詰めた弥香は小首を捻った。
「どうして?」
藍墨は視線だけチラリと弥香に流した後、誤魔化すように前を向いたまま答える。
「いや、大した理由は無いわ。単に気になっただけ」
「ふうん」とまるで納得した素振りの見えない生返事をした弥香は、そのまま何度かチラチラと藍墨を盗み見る。そのまま並んで歩いて、階段の近くで意を決した。
「藍墨はさ。もしかして、ウチの部活に入りたいの?」
思わず目を剥いて足を止めた藍墨は、素っ頓狂な声を上げた。
「――は?」
それは的外れだと嗤う意の声ではなく、純粋な驚きで紡がれた声だった。だから弥香も怯むことなくその隣に止まり、自分の言葉を続けた。
「そういう風に聞こえた。違うなら忘れて! でも、藍墨は良い奴だから。入ってくれたらきっと賑やかで楽しくなるし、入りたいなら――私も、きっと、皆も歓迎するよ」
藍墨は真剣な眼差しで話を聞き終えると、視線を階段の踊り場へ下ろして考える。
自分はサイバーセキュリティ研究部に入りたいのだろうか? 違うだろうと思っていたが、それなら『部活は楽しいか』などという質問は何故紡いだ? まさか母親の言葉に感化されているのだろうか。しかし、本当に心からあの騒がしい部活を羨んでいるのだとすれば、入らない理由など一つも無いのだから、本来は二つ返事で頷いているはずだ。
この場で即答できないということは、それだけの理由が自分の中にあるのだろう。
藍墨はしばらく黙った後、最後にちらりと弥香を見た。
「ありがとう。考えておくわ」
弥香は満足そうに笑みを浮かべると、ぐっとサムズアップを見せた。
そうして去っていく弥香の背中を見送った後、藍墨は悶々と自分の気持ちと向き合いながら昇降口まで階段を降りていく。
ちょうど一階に差し掛かった辺りで、担任の藤岡とエンカウントした。
「げ」
「げ、とは放課後に出会った担任に随分な挨拶だな」
「げ――元気にお過ごしでしょうか藤岡先生。あたしは元気です」
「そりゃよかった。ちょうど頼みたいことがあってな」
「クソ教師が」
吐き捨てる藍墨も厭わず、藤岡はほくほくと笑って腕を組む。
「そう言うな。一応、仕事を引き受けた生徒の授業態度にはこっそり加点してるんだ」
「それはそれで教育者として大丈夫なんすか? まあ、有難く貰いますが」
「そこで遠慮なく受け取れる人間を選んでいるという部分もある。ま、お前の成績にとっては誤差だろうから、今度何かしらの宿題を免除にしてやるよ――職員室の俺の机にこの前の小テストの用紙があるから、数学準備室に全部運んどいてくれ。鍵は職員室で受け取れる。俺の名前を出せば話は通るはずだ」
人遣いが荒いが、どうせ放課後は暇なので受けておくが吉だろう。
「承知しました」と溜息混じりに答えた藍墨は、そのまま一階にある職員室を訪れた。
「――数学準備室? ああ、さっき別の子が教材を抱えて持って行ったよ。まだ返って来てないから、中に居るんじゃないかな」
職員室を訪れて経緯を説明すると、初老の温厚な男性教師がそう答えてくれる。
数学科の教師は本当に生徒遣いが荒いなと呆れ果てながら、藍墨は藤岡の机に置かれている答案用紙を引っ手繰るように両腕で全部抱え、その足で数学準備室へ向かう。
そうして四階まで着いた藍墨は、少し息を乱しながら数学準備室の引き戸を足でこじ開けた。半ば投げやりな挨拶を部屋へ叫ぶ。
「失礼しまぁす! 藤岡先生のパシリで来ました!」
中に数学科の教師でも居れば多少は意趣返しになるだろう。
そう思って中を見回した藍墨は、薄暗く狭い準備室の一画に目を留めて表情を失う。
中に居たのは、亜麻色の髪をした美貌の女子生徒だけだった。
数学準備室は、他の準備室と同様に狭苦しく荷物が敷き詰められている。放課後間もないということもあって外はまだ随分と明るかったが、分厚いカーテンが閉まっているせいか室内は薄暗い。そんな暗い部屋の中央に配置された荷物だらけの机とパイプ椅子。
彼女は制服を丁寧に折り畳んで置き――上下で揃えた、光沢のある白い下着姿に靴下だけという背徳的かつ扇情的な姿でパイプ椅子に座していた。
自身のスマホの内カメラを向ける彼女の名は、星ヶ丘海月。
「おや、朝陽さん。お疲れ様です。昨日ぶりですね」
海月は少々唖然とした顔で藍墨を見詰めて挨拶した。カシャ、とスマホが鳴る。
藍墨は呆然とした顔で、頭から足の爪先までじっくりと海月を見た。それからハッと我に返ると、抱えていた答案用紙を取り敢えず机に置く。
「お疲れ。他にも良いように使われたって生徒はアンタだったのね」
「あはは、随分な言い草ですね。――産休明けの女性教師だったので、重たい荷物を見かねまして。代わりにやっておくと、私から進言したんですよ」
あまり自慢話をしたがる性格ではないようで、そう語る顔に誇らしさは無い。良い性格をしていると前々から思ってはいたが、性格が良くもあるらしい。藍墨は笑う。
「なるほど、そりゃ失礼なことを言ったわね。撤回する」
「いえいえ、その先生の名誉の為に言っただけですから」
言いながら海月は自身のブラを軽く引っ張って、その内側に上からインカメラを向けて写真を何枚か。どうにも納得のいく仕上がりにならないようで、撮った写真を眺めて何度か首を捻ったかと思うと、ショーツを軽く引っ張ってその隙間を撮影し始めた。
「朝陽さんはこれからお帰りですか?」
藍墨は肩に提げていた鞄を開け、中から適当に教科書を引き抜いて頷く。
「まあね。アンタは? この後は部活?」
「ええ。一旦部室で集まって、誰かがどこか行きたいと言えば移動ですね」
「本当にサイバーセキュリティってのは名ばかりね。楽しそうだけどさ」
「本当に楽しいですよ。個性的な人ばかりで、退屈しない毎日です」
海月は日常という宝物を噛み締めるように、目を細めて笑う。それを幾らか羨ましそうに見つめた藍墨は、それから、手に持っていた教科書を丸めた。
すると、それに気付いた海月は何度か瞬きをした後、観念し、頭を差し出してきた。
殊勝なことだ。藍墨は小さく頷き、丸めた教科書で望み通りに頭を引っ叩いてやった。
「いい加減服を着ろ!」
「あいて!」




