27話
静岡に来て最初に訪れた例のソフトクリーム屋は、十八時まで経営しているらしい。
二人が到着したのは、すっかり辺りも紫色を帯び始めた薄暗い十七時半だ。
暇そうに欠伸をしていた店員の女性は今朝も見た顔で、彼女はこちらに気付くと不思議そうにした。そんな彼女に珈琲を二杯注文すると、閉店間際だというのに快く引き受けたばかりか、余ったからとお茶菓子もセットで付けてくれた。
紫に染まっていく夏の夕暮れを、窓際のカウンター席で眺める。
町はすっかり薄暗くなっていた。街灯がハッキリと道を照らしており、逆光で余計に暗く見えるビルの明かりが目に眩しい。セミの鳴き声も、この時間はもう聞こえない。
横並びに座った二人の手元にはマグカップが一つずつと、クッキーが幾つか。
芳香を揺蕩わせる珈琲に、海月がそっと口を付ける。藍墨がそれを横目に盗み見ていると、海月は珈琲の感想よりも先に、「飲まないんですか?」と笑って呟いた。
観念して藍墨も口を付けると――案の定、ホテルで飲んだものと違いが分からなかった。だが、舌を凝らすと、徐々に仄かな苦味が強調されていくような気がした。
「少し……というか、かなり苦い?」
藍墨がポツリと呟くと、海月は徐に頷く。
「イタリアンローストですね。最高段階の焙煎です。通常はエスプレッソで楽しむようなローストですが、このお店では敢えてハンドドリップにしているみたいです。豆は……マンデリンのは入っていると思うんですが、他は分かりませんね。でも、味わいに奥行きが感じられるので、結構、方向性の違う豆でしょうか?」
ペラペラと蘊蓄を語る海月。
藍墨がニヤニヤと眺めていると、海月は少しムッとした顔で唇を尖らせる。
「馬鹿にしてます?」
海月が好きなものを味わう様を眺めるのが嬉しかったのだが、どうやら誤解を与えてしまったらしい。しかし、素直に否定するのも恥ずかしいので乗っかっておく。
「詳しいんだなって思って」
「相手を博識と呼ぶのって、自分の無知を否定するための愚者の習慣ですよね」
「一で小突いたら百で殴り返してくるのやめない?」
「殴ってはいませんよ。否定する気もありません、人間の防衛本能ですから。自分を無知と認める苦しさから逃れるための最も浅ましく容易な手段が相手への冷笑ですものね」
「千で殴れとは言ってない。悪かった、あたしが悪かった」
藍墨が素直に笑うと、クスクスと海月はクッキーに手を伸ばす。
「冗談です。貴女がそういう人でないことは誰よりも存じ上げています」
「……アンタが嬉しそうでよかった。どう? 満足できた?」
藍墨が少し照れくさくなりながら尋ねると、海月は持っていたクッキーを口に運ぶ。そして、その甘みを苦い珈琲で洗い流すと、飄々とした笑みと共に答えた。
「滅多に飲めるものではないと思います。来てよかった」
「それならあたしもよかった。少しでもアンタの為になったなら」
藍墨がそう呟きながら肩の力を抜いてマグカップを掴むと、海月は何かの感情を堪えるように密かに頬を綻ばせる。そして、それを隠すように顔を背けた後、そのままちらりとレジの方を盗み見る。そちらまで声が届かないだろうことを確認して、こう呟いた。
「まあ、来られなくても明日には忘れていたとは思いますけども」
軽薄な笑みを浮かべて視線を寄越す海月に、藍墨は半眼で苦笑を返した。
「おい。あたしが可哀想だとは思わないの?」
すると海月は軽薄な笑みに小さじ一杯の友愛を浮かべ、「ただ」と続けた。
「来られなかったことは明日には忘れていたとしても、来られたことはずっと忘れません」
藍墨が呆けた顔でマジマジと海月の顔を見詰めると、彼女は珍しく照れ笑いを見せた。
「私の手を引っ張ってくれてありがとうございます」
藍墨は呆けた笑みを段々と満更でもなさそうな表情に変え、返答を探す。
気にするなというのは素っ気ないか。しかし、軽口を叩くのもこちらばかりが照れているようで面白くない。同じく面白みに欠いたとしても、まだ無難に――そう悩む藍墨の脳裏を過ったのは、あの花火大会の夜。あの日、藍墨も似たような例を海月に伝えた。
「どういたしまして」
あの日の海月と同じように答えてやると、すぐに気付いた彼女は軽く眉を上げる。そして、驚きの表情を瞬く間に笑みに崩して、「やれやれ」と負け惜しみを口にした。
それから十分程度で二人は珈琲を飲みきり、クッキーも食べ終えた。
「そろそろ戻ろうか」
時間にはまだ充分に余裕があるが、あまり長居しても店に迷惑だろう。
藍墨がそう言って立ち上がると「ですね」と海月も名残惜しそうに頷く。それを認めた藍墨が食器類を返却口に返そうと手に取りかけたその時、「あ」と海月が呟く。
どうかしたかと藍墨が海月を見ると、彼女は唇を引き結んで目を泳がせていた。視線はテーブルの上へ向いており、藍墨を見ようとはしない。「何かやらかした?」と訊くも、海月は「いや、その」と判然としない言葉をもごもごと繰り返した後、両手を膝に。
「あー……ええとですね、その……あー……」
珍しく歯切れが悪いから、何か重大な問題でもあったのではないかと藍墨も不安になる。「星ヶ丘?」と藍墨が心配になって顔を覗き込むと、海月は口を押さえるように頬杖を突いて目を瞑り、仄かに頬を染める。「その」と手の中で呟いて、緊張を唾と共に呑む。
「すみません、こういうの、慣れてなくて」
何の話だ。藍墨が首を捻ると、海月はようやく藍墨を見て、緊張と共に言った。
「水族館、戻りたいって言ったら……困りますか?」
藍墨は心配に細めていた目を丸く大きく見開いて口を噤んだ。
唖然とする藍墨の反応をどう解釈したか、海月は後悔と緊張を微かに顔に覗かせる。
「やっぱり売店、見たいなって思って……あの、二十時までは再入場でき――」
「――行こう」
人の言葉を遮るのが好ましくないことだとは分かっていても、それでも藍墨は言葉を被せた。海月が心を許してくれたというのに、それを誤魔化すような言葉の数々を彼女に言わせたくなかった。
今度は海月の目が丸く見開かれ、藍墨を捉える。藍墨は繰り返した。
「行こう」
藍墨がそっと手を差し出すと、海月は安堵と愛情に表情を崩して、手を掴み返す。
「ええ」と呟くその声には、すっかり喜びと楽しさが満ち溢れていた。
入り口でチケットを再提示すると、記載されていた通り再入場できた。
時刻は十八時を過ぎており、あまり長々と眺め続けていると弥香や澄冷との約束の時間に遅れてしまうかもしれない。そうは思って二人は脇目も振らず売店に直行する。
売店はタイルの床の上に木製の棚が敷き詰める形で構成されていて、大きなぬいぐるみやトートバッグなどの類は壁際に、小物やアクセサリーは店の中央に配置されている。
「これ買うの?」
入店早々に藍墨が壁際の巨大なぬいぐるみ群を指すと、海月は苦笑を返す。
「二泊三日の初日にこのサイズのぬいぐるみを買う人が居ますか?」
「そうは言っても日帰りで来るような場所じゃないんだから、買うならこういう時じゃないと。このチョウチンアンコウとかどうよ。可愛くて好きだけど」
藍墨は笑いながら値札を見る。そして、笑みを固めた。
数秒後、藍墨は笑ったまま視線を切って中央の棚を見た。
「こっちの小物とかどうよ」
「小物が小物を探してる」
「うるさい! お財布的に買えるかと精神衛生的に買えるかは別なのよ」
「まあ、大きくなった時にまた来る機会があれば、その時は車に積みましょう」
笑って呟く海月をジッと見詰めた藍墨は「そうね」と呟いて小物を眺める。
それから二人はあーだこーだと言い合いながら様々なグッズを眺める。悪癖かもしれないが、こういう場面でも実用性ばかりを考えてしまうせいで一向に決まらない。そんな藍墨がチラリと海月を見ると、彼女はクラゲのグッズを熱心に見詰めていた。
「アンタって本当にクラゲが好きなのね」
「子供っぽいとは思いますが、同じ名前ということで親近感があります」
「掴み所が無い感じも何となく似てるしね」
藍墨がそう言って賛同をすると、海月はとぼけた顔でグッズを見た。
「流されやすい性格とかも似てるかもしれません」
「いや、それは無い。アンタは大概頑固でしょ」
「そう言われると否定はできませんが、朝陽さんに言われるのは釈然としませんね」
半眼で口許だけ笑った海月がそう言い返してくるので、藍墨は「お互い様か」と肩を竦めた。そんな藍墨の横顔を横目で楽しそうに眺めた海月は、グッズに視線を戻す。
キーホルダーや文房具、小型ぬいぐるみやフィギュア、靴下など多種多様だ。中でも取り分けて海月の目を惹いたのは、クラゲ型の風鈴。キラキラと光る目でジッとそれを見詰めた海月は、軽く音を鳴らして「おお」と小さく呟き、葛藤する。
「それ、可愛いくて良いじゃない」
「でしょう。欲しいんですけどね、割れ物はちょっと怖くて」
「あー……じゃあ、まあ、それもまた、今度にしとく?」
「むぅ――割れた時の方が凹みそうなので、そうしておきますか。また今度ね」
そう言いながら海月はクラゲの風鈴から名残惜しそうに視線を切り、他のグッズを見繕う。心行くまで満喫してくれたら幸いだ。藍墨も商品を眺めながらそんな風に思う。
「クラゲって」
ふと、海月が呟く。その口ぶりは独り言のように平坦だった。
「見守ってないと波に攫われそうな感じがして。少し心配になるんですよね」
そう語る海月がどのような心情だったのかは藍墨には分からない。クラゲが好きである理由についての言葉なのか、それとも、そこに自分を重ねているのか。ただ、何はどうあれ、藍墨にも思うところはあるので、メンダコの靴下を眺めながら呟き返す。
「そうやって生きてきた生物なんだから、人間が心配したって仕方が無いと思うけどね。それに、同じ海流で同じように流されたクラゲの大量発生なんてよく聞く話だし、流されるっていうのはあたし達が思っているよりも寂しくないんじゃないかしら」
藍墨の言葉を、目を丸くして聞いていた海月は、「……なるほど」と噛み締める。
そんな海月を横目に見た藍墨は、「だから」と付け加えた。
「アンタがクラゲみたいに流される時が来たら、一緒に流れてやる」
そんな言葉遊びを、藍墨はハッキリと伝えた。
海月はピタリと動きを止め、大きな目を何度かパチクリと開け閉めして藍墨を見る。
奉仕的な生き様や何も置いていない部屋。海月がいつかどこかへと消え去ってしまうような危機感を、藍墨は先程まで漠然と覚えていた。重心が見えないから、その居場所が分からなくて、そのせいで、手を離すと見失ってしまうような気がしていた。
星ヶ丘海月は孤独な人間ではない。孤独に苦しむ人間でもない。
だが、誰にも言えない心はきっとある。そして、もしも彼女が理解者を求める日が来るのなら、それが自分でありたい。藍墨はそう思う。
「アンタは風邪をひいても何も言わないし、自分のことは後回しで他人を優先する。家には何も置いてないし、いつかフラッとアンタが消えても、誰も追えない気がするのよ」
藍墨のそんな評価はあながち否定できたものでもないらしく、海月は微妙な笑みで黙る。そんな言葉より雄弁な顔に、藍墨は微笑を浮かべて「だから」と言った。
「あたしに大切にされなさい」
藍墨の言葉に、海月は口を噤んで目を泳がせる。
そして、色々な感情を噛み締めるように目を瞑って、ほんのりと頬を染めた。
からかうような笑みでからかうように口を開いて、しかし言葉が出ず。海月はやがて、参ったと言いたげに火照った頬をパタパタと扇いで、嘆息した。
「漫画でも滅多に聞きませんけどね、そんな台詞。命令形ですか」
「そうでもしないとアンタは言うことを聞かないでしょ。鎖みたいなもんよ。こう言っておけば、アンタが色々と放り捨てようとした最後の最後に、あたしが残る」
藍墨がそんな打算を吐露すると、海月は可笑しそうに吹き出した。「策士ですね」と困ったように呟いた後、「見事に術中にはまっています」と素直に白状した。
そう言いながら海月は再び商品棚に視線を戻し、ふと、一か所で視線を留める。
「ヘアピン――可愛いですね、これ」
そこにはヘアアクセサリーの類が並んでいた。アメリカピンやヘアクリップ、バレッタやカチューシャ等々だ。その中でも海月が着目したのは、クラゲのヘアアクセサリー類。
海月が手に取ったのは、クラゲの笠のような膨らみが付いたリボンだ。彼女は外出時にポニーテールにすることもあるので、実用性も考慮すると良いチョイスだろう。
しかし、藍墨は自分が買う訳でもないので、気まぐれに棚を見て適当に指す。
「これとかも中々良さそうじゃない?」
「どれ――あのですね、自分が着けないからって適当を言わないでください」
藍墨が指したのはデフォルメされたクラゲが変顔をしたヘアクリップだ。クリップ部分が触手が絡み合うような形になっており、街中で見たら一度は振り返るだろう。
「いやいや、アンタが着けたら何でも似合うって。あたしは良いと思うけど」
藍墨が薄笑いで適当なことを言うので、海月は苦笑しながら溜息を吐き出す。
そしてふと、何か妙案でも閃いた様子で視線を虚空に投げると、再び藍墨を見る。
「じゃあ藍墨さんが着けるとしたらどれを買うんですか?」
そう言われると、あんまり適当なものを選んで趣味を誤解されるのも嫌だ。
「そう訊かれると少し真面目に答えるけど――」
藍墨は一転して真剣な眼差しで顎を摘まんで、やがて「これかしら」その中の一つのヘアピンを指す。それは、細長いダークシルバーのヘアピンだった。その曲線部にはクラゲを模した透明なジェルが貼り付けられていて、注視しないとクラゲであると気付けない程、普段遣いに向いたお洒落な逸品だった。クラゲの色もレパートリー豊かである。
そんな藍墨の回答を聞いた海月は、「ふむ」と顎を摘まんでジッとそれを見る。
そしてチラリと藍墨の方を見るので、藍墨はふふんと胸を張った。
「センスいいでしょ」
「ええ、容姿と美的センスは比例しないと知りました」
「ついでに永久歯が抜ける痛みも知っておく?」
「財布の痛みなら知っておこうかと。良いチョイスなのでこれを買います」
言いながら海月は、藍墨が選んだクラゲのヘアピンを三つ手に取る。色は、青と白と黄色。良い色彩の感覚だと胸中で褒めながら、藍墨も思い出したように商品を眺め、そして母親用のお土産の品を適当に見繕う。結局、藍墨が選んだのはメンダコの万年筆で、海月が選んだのは先のヘアピンの他に、幾つかのクラゲグッズだった。
そうして、二人でレジに並んで各々見繕った商品を購入した。
二人揃って財布の僅かな痛みを覚えながら売店を後にして、水族館を出る。
気付けば外は真っ暗で、時刻は十八時半を迎えようとしていた。
「うわ、もうこんな時間か。これ、次のバス乗り遅れるとヤバそうね」
急がないと澄冷たちとの約束の時間に間に合わない。
藍墨はバスの時刻表をスマホで検索しながらバス停まで向かおうとして――
「朝陽さん」
海月が服の裾を摘まんだので、歩みを止めた。
藍墨が振り返ると、月明かりと街灯の明かりに照らされた海月の顔に、微かな緊張の色が滲んでいた。水族館の明かりが逆光になっているせいか表情は判然としないが、どうやら真面目な話があるらしく、藍墨もバス停へ向けていた足を海月へと向け直す。
藍墨が丸くした目で見詰め返すと、海月は固い唾を一度、呑む。
「あー、と」と、藍墨を――その髪を見詰めると、もう一度唾を呑んで、言った。
「そのヘアピンって、何か大事なものだったりしますか?」
唐突過ぎる質問に、藍墨は面食らって瞬きを繰り返した。
藍墨が思わず自分の髪に手を伸ばすと、そこには毎朝寝ぼけ眼を擦りながら付けている三つのヘアピン。何の変哲もない、真っ黒なヘアピンだ。
「いや、全然。百均で買った適当なやつだけど――」
そう呟いた藍墨は、ピタリと動きを止めて海月の手元を注視する。
海月は藍墨の回答に安堵すると、ごそごそと紙袋を開けて中から何かを取り出す。
この期に及んでとぼけた真似をできるほど演技派のつもりは無い。海月の質問の意図も、その行動の意味も理解できる藍墨は、口を噤んで、待った。
既に月がハッキリと視認できるような空の暗さだ。海月の顔色は判然としない。だが、その表情が緊張に苛まれていることは確信できるから、軽口は憚られた。
やがて、海月は僅かに震える手で三つのヘアピンを取り出す。
そして――それを、藍墨へと差し出した。
目を揺らす藍墨へ、海月は、緊張から視線を虚空に留めて言う。
「あの、これ。色々嬉しかったのでお礼をしたくて――買ったんですけど」
藍墨は言葉が出なかった。
あの海月がわざわざそんなことを、という驚きと、お礼なんて必要ないと言いたくなる気持ちが綯い交ぜになって口を塞いでいた。
しかし、あんまり黙っていても海月を不安がらせるだけだと、藍墨はどうにか口を開こうとする。しかし、一番、この口を上手に開かせない理由を――嬉しさを飼いならすのに、もう少しだけ時間を要した。どうにか、藍墨は緩む口を抑えたまま尋ねる。
「いいの?」
「私は着けません。受け取り手が居ないならメルカリに出します」
「随分な脅迫ね。そう言われたら受け取るしかないけど」
藍墨は丁重に海月から三つのヘアピンを受け取る。
それぞれ個別に包装されていて、それらは藍墨の手の中で輝いている。月明かりと、街灯と水族館から漏れ出す明かりに。
藍墨はしばらくそれを見詰めた後、噛み締めるように目を瞑って唇を噛む。
「あー……その。あんまり澄まし顔で居るのもダサいと思うからさ」
「は、はい。そうですね」
「そこで肯定されるのも腹立つけど、まあ、何。ちゃんと言う。ちゃんと伝える」
藍墨はそう言って深呼吸をすると、抑え切れない笑みを見せた。
「凄く嬉しい。ありがとう」
その言葉で、やっと海月の表情が弛緩した。海月は唇を噛んで笑みを懸命に抑え込もうとするが、堪えきれず、穏やかに笑って「よかった」と心のこもった声を出す。
そして海月は手を後ろに組むと、やや上目遣いに藍墨を見詰めた。
「普段遣いが難しかったら家にでも飾っていてください」
それはサプライズでアクセサリーを贈る上で必要な配慮かもしれないが、しかし、この場には必要ない。藍墨は「いや、今着ける」と個包装をその場で剥き始める。そして、思いの外、開けて台紙から取り外すのに手間がかかるから、バスの時刻を考慮した藍墨は、可笑しそうに眺めているだけの海月に残る二つのヘアピンを返す。
「暇なら開けてくれない?」
やれやれと笑った海月はそれを受け取り、藍墨と同様に苦労しながらヘアピンを出す。
藍墨は着けていた三つの黒いヘアピンを無造作に外すと、それをポケットに捻じ込む。そして、最初に手に取った、月と同じ色のクラゲのヘアピンを定位置に差し込んだ。
そして、
「――ジッとしてください。顔を私に寄せて」
そう言って、海月は剥いたヘアピンを手に取って藍墨の頭に近付ける。
どうやら着けてくれるらしいが、少し照れくさく恥ずかしい。だが、自分で着けると突っぱねる気にもなれなくて、藍墨は言われるがままに顔を差し出した。
呼吸が首を触れ合うような至近距離で、海月の熱い指先が藍墨の顔に、頬と耳に触れる。
海月は少し拙く、けれども優しい手付きで髪を押さえてヘアピンを二つ、三つと、順に差し込んでいく。どうやら藍墨のヘアピンの位置をしっかりと把握しているらしく、海月が差し込んだ場所は一切の非の打ち所も無く完璧であった。
最後のヘアピンが差し込まれ、海月は藍墨の顎と頬に指を這わせ、自分の方を向かせる。
じっくり、十秒。お互いが無言で見詰め合う。
海月の顔は水族館の逆光で薄暗く、藍墨の顔は、海月の影で同様に暗い。ただ、お互いの存在だけが瞳の中で煌めいていた。
「どう? 似合ってるかしら」
藍墨が視線を逸らさずに尋ねる。すると、海月は徐に頷いた。
「ええ、とても。素敵です」
藍墨は、そう微笑んだ海月の双眸に薄っすらと映る、自分の姿を見詰める。
普段の飾り気のないヘアピンの位置には、三色の目立たない小さなクラゲがふわふわと揺蕩っている。けれどもそれは、注視しないと分からないほど日常に調和していた。
少しの間、再び黙って見詰め合う。やがて、先に照れた藍墨が軽口を叩いた。
「なんか、『海月のことが大好き』みたいなヘアピンになっちゃったわね」
海月の友人がクラゲのヘアピンを付けていれば、そこに意味を勘繰る者が居るかもしれない。そう危惧する藍墨だったが、海月は飄々とした笑みで言い返す。
「事実じゃないですか。大切にしてくれるんでしょう?」
そう言われると返す言葉も無く、藍墨は「そうね」と笑いながら肩を竦めた。
海月はニコニコとそんな藍墨を見詰めた後、後ろに手を組んで照れ笑いを見せる。
「――大切にされてあげるので、大切にしてくださいね。藍墨さん」
藍墨が呆けた顔をすると、海月は返答を恥ずかしがるように「帰りましょう」と歩き出す。数秒ほどその背中を黙って見詰めた藍墨は笑ってその後に続く。
近くにあるバス停まで横並びで歩くこと数秒、藍墨はこう答えた。
「約束するわ。海月」




