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26話

「それじゃ、私は担当の方にご挨拶に行ってくるから。二時間後に貸し切り浴場で!」


 水族館を出てから数十分の移動と一時間程度の寄り道を終えて、四人は沼津にあるホテルに到着した。


 全十階建ての白亜の外壁に圧巻されながらエントランスに入ると、丁重なおもてなしの後にカード型のルームキーを貸与された。


 部屋割は藍墨と海月で一室、弥香と澄冷で一室だ。


 そのまま翌朝まで別行動などと寂しいことは断じてないが、そうしない為にも、四人はエントランスの共有スペースで軽い打ち合わせを挟んでいた。


「あたし達も行った方が良い? 同行させてもらってるし」

「あんまり大勢で行っても困らせるだけかも。気持ちは嬉しいけど、四人はね」

「ここは大人しく部屋に向かうべきでしょう。プロのお仕事はプロにお任せします」


 海月がそう言って敬礼をすると、澄冷は誇らしそうに敬礼を返す。


 「なるほど、了解。よろしく」と藍墨も食い下がらずに微笑んで了承の意を返す。


 しかし、一人寂しくカードキーを持っていた弥香は、寂しそうに澄冷を盗み見る。


「澄冷ー、私はー? 私は行ってもいーい?」


 間延びした声で、親に許諾を得る子供のようなことを言う弥香。


 澄冷は唸りながら思案に暮れるが、四人でぞろぞろと行くならばともかく、二人なら大して向こうも困らないと判断したのだろう。


「まあ、相部屋なんだしその辺は一緒に動いた方が楽かもね」


 と、藍墨が適当な助け船を出すと、「だね」と澄冷も了承の意を返す。


 パッと顔を明るくさせた弥香に満面の笑みで澄冷は手を差し出す。


「それじゃ、行こうか弥香ちゃん。あんまり変なことは言わないでね」

「言わない! 静かにしてる! 一緒に行こう!」


 そう言って立ち上がった二人に、藍墨と海月も席を立って返す。


「それでは、およそ二時間後に貸し切り浴場で。それまで時間を潰しています」


 海月が最終確認も兼ねてそう伝えると、「了解!」「楽しんで!」と弥香、澄冷がサムズアップを返してくる。そんな二人を楽しそうに眺めた後、二人はエレベーターへ向かった。


 長い長い、揺れることもないエレベーターに運ばれて、二人は最上階の十階に。


 やけに踏み心地の良い廊下を抜けて角部屋に到達した二人は、既にその厳かな空気に飲まれながら、一泊三万円の部屋への期待に胸を弾ませつつ部屋を開ける。


「――うわ」

「わあ」


 開けて中を覗いた二人は、照明を付ける前にそんな声を上げた。


 夏場の十七時ということもあって、外はまだ仄かに明るい。そんな外の明るさを取り込むように、備え付けられた窓が十階からの絶景を映し出している。


 水平線という鏡を挟んで海と空が青々と視界一杯に広がっている。それが辛うじて別のものだと分かるのは、人の息遣いが感じられるようにポツポツと灯り始めた町並みの明かりと、それを照らす明かりに仄かに混じり始めた薄橙色。


 広々とした間取りにはテレビやツインベッド、ソファが置かれていて、きっと実費で宿泊することになっていたら決して選ばなかっただろう部屋が目の前にあった。


「これが無料で泊まれるとは。インフルエンサーって凄いのね」

「今度、肩でも揉んでおきましょう。貴重な体験です」

「アンタなんかは実家に居た頃、一泊何十万のホテルとか泊まったことありそうだけど」


 藍墨は部屋の脇にカードキーを挿して照明を灯し、中に入りながら海月を振り返る。


 海月は荷物をソファの脇の地面に置きながら、そこに帽子を被せつつ軽薄に笑った。


「それはもちろん、ありますけども」

「あるんかい」

「祖父のお金で、まだ物心がついて間もない頃です。子供ながらに凄いとは思いましたよ。でも、こうして友人と旅行に来て泊まった部屋には別の意味があって、別の心が動くものです。私はこのホテルも好きですよ。欲を言えば、自分のお金で払いたかったですけども」


 苦笑と共に冷房を付け、シャツをはためかせて汗を乾かす海月。そんな彼女に、


「そこはほら、貰えるものは貰っておこうの精神と――」


 藍墨は言いながらスマホを取り出し、海月も思い出したようにそれに倣う。


「――それに見合うだけの対価を支払おう、ってことですね」

「あたしらの写真にそこまでの価値があるとは思えないけどね」


 そんなやり取りをしながら、何とも高価な部屋やその窓から見える絶景を撮る。


 さて、諸々の荷物整理も終えた二人は、十九時頃に控えている入浴を前にベッドに倒れる気分にもならず、ソファに並んで寄りかかって真っ暗なテレビを眺めていた。


「どうする? この後。まだ二時間あるけど。コンビニでも行く?」

「どこか行きたい場所を探しましょうか。朝陽さんに付き合いますよ」


 海月は思わず見惚れるような笑みと共に藍墨の顔を覗き込む。


 しかし、藍墨は肘掛けに頬杖を突いて視線を逸らすと「んー」と思い悩む。この期に及んで藍墨のやりたいことを優先しようとする海月に思うところがある。だが、ここで海月のやりたいことを尋ねたところで、きっと彼女は巧みな言葉で煙に巻くのだろう。


 上手に折り合いをつけるしかないと母は言った。


 少しずつ受け入れていくしかないのだろう。


「まあ、少しくらいゆっくりする時間があってもいいんじゃない?」

「承知しました。では珈琲でも入れましょう。こういう場所にインスタントが――」


 言いながら海月が立ち上がって部屋を散策すると、ポットと珈琲のパックが置いてある。ふふんと笑ってそれを見せつけてくる海月に「アンタも好きね」と藍墨は苦笑した。


 そうして冷蔵庫に入っていた無料の水をポットに注いで湯を沸かす海月。そんな彼女の姿を不思議な気持ちで眺めていた藍墨は、間もなくその正体に気付く。非日常感だ。


「こんな夏休みになるとは、二年に進級した頃には想像もつかなかった」


 藍墨が噛み締めながらポツリと呟くと、海月の嬉しそうな瞳がポットから藍墨へ向く。


「今日、ここが、あの日踏み出した一歩の延長線上です。後悔はしていますか?」


 分かり切ったことを聞かないでほしい。藍墨が笑いながら目を瞑ると、「愚問でしたね」と海月は何も聞かずに野暮な質問を止めて、それから仄かな珈琲の香りを立て始める。


 あれから約一か月。ふと、藍墨は出会ったばかりの頃を思い出す。


 惰性に日常を繰り返していた。


 今が惰性でないかと聞かれると返答は危ういが、しかし、この惰性には危機感も嫌悪感も無い。楽しくて、しかし、しっかりと前を見て歩ける友人が揃っているこの部活が好きで、だから、今、この時間が愛おしくて仕方がない。


 そして、そんな風に藍墨が部活動に入ることとなった発端は、やはり星ヶ丘海月だ。


 あの日、代わり映えのない日常を選ぼうとした藍墨の手を引いてくれた。全ての転機はあの日、あの瞬間に集約されている。だから、藍墨にとって海月とは――


「――アンタはさ、どこか行きたい場所は無いの?」


 気付けば藍墨は、自然にそう訊いていた。


 海月はパチクリと目を瞬きさせた後、ふっと相好を崩して視線を逸らす。


「私は皆さんが笑顔になれる場所に行きたいですね。それ以外は特に」

「まーたそんなことを言う。アンタだって珈琲とか紅茶とか好きなんでしょ?」

「そういうのは一人でも楽しめますから。あまり気を遣わないでください」


 海月はそう言うと、沸いた湯をカップに注いで珈琲の芳香を部屋に漂わせた。


 藍墨は今一つ釈然としない顔で、相槌も打たずに視線を逸らす。「ん-」と唸った。


 ボタンが掛け違えているような、歯車が噛み合っていないようなもどかしさと歯痒さを感じる。この感覚の正体は何だろうかと自らの内面に目を向け、藍墨は思考に没する。


 事実として、星ヶ丘海月はサイバーセキュリティ研究部の面々を大切に想っているのだろう。そして、その愛情に基づく行動を苦労とは考えていない。


 それ故に、藍墨が遠慮をするなと伝えるのは是正すべき筋違いだ。


 だが、それはさておき、海月の行きたい場所に行こうと提案することは、筋の通った、至って当然の提案のようにも思う。しかしながら、彼女はそれを拒んで、藍墨も言い返す言葉を持たない。どうして上手く煙に巻かれるのか、話のどこが噛み合っていないのか。


「あ」


 藍墨が呟く。コト、と、丁度、藍墨の前のテーブルにマグカップが置かれた。


「どうかしましたか?」


 マグカップを置いた海月が怪訝そうに藍墨の顔を覗き込んだ。


 藍墨はジッと海月の瞳を見詰め返して、今しがた得た回答を率直にぶつけた。


「いや、ずっと引っ掛かってたんだけど、ようやく分かった。アンタ、狡いんだ」


 一人納得したように呟く藍墨の随分な物言いに、海月は思わず苦笑をこぼす。「随分ですね?」と半笑いを浮かべながら、海月もマグカップ片手にソファへ座り込む。


「これでもお三方には道理を弁えて接しているつもりですが、何かご不満が?」


 藍墨は感謝の意と共に会釈してマグカップを手に取り、一口を飲んでから言った。


「アンタさ、やっぱりあたし達に気を遣ってるでしょ」


 海月はそんな藍墨の言葉を心底理解できない様子で瞬きを繰り返す。


 そして、否定の言葉を口にしようとして、しかし、どう言っていいものか分かりかねた様子で一度口を噤む。そして、悩ましそうに顔を歪めながら慎重に言い返した。


「いえ、その――本当に遠慮とか気遣いではなく。私は本心から、そうしたくて行動をしています。貴女達と一緒に居て、貴女達が笑ってくれるのが、本当に嬉しいんです」

「――――って、アンタはそう答えるでしょ?」


 どう言い返されるかと身構えていた海月だったが、藍墨はその言葉を否定せず、受け入れた上で話を先に進める。海月は意味が分からないと怪訝そうな顔でぎこちなく頷いた。


 そんな海月に、藍墨は伝家の宝刀を抜くように用意していた言葉を突き付けた。


「じゃあ、どうしてあたしの言葉は全て気遣いだと決めつけるの?」


 海月は「それは」と反射的に言い返そうとして口を開き、しかし、すぐに閉じる。


 言葉の続きが出ない様子だった。言葉を探すように視線を虚空へ投げて熟考した海月は、しかし、適切な言葉が見つからずに「む」と唇を引き結ぶ。


 やがて、その顔に徐々に納得と驚愕を滲ませ、呆然と藍墨を見た。


「……違うんですか?」


 藍墨は僅かも間を置かずに頷いて言い返した。


「違――う、とは言い切れない。でも、気遣いだけじゃない」


 藍墨はハッキリと言い切った後、ようやく前進した一歩を噛み締めるように口を噤む。ソファに背中を預け、丁寧に言葉を選んでから話の続きを伝えた。


「あたしだってアンタが大切よ。アンタが笑ってくれたら嬉しい」


 少しだけ恥ずかしくはあったが、それでも藍墨は臆面もなく伝えた。


 その言葉に、海月の瞳が動揺に揺れる様がハッキリと見えた。彼女は驚きに僅かだけ開いていた口をピタリと噤むと、自分を省みるように口を押さえて俯いた。そのまま、何も言わずにジッとマグカップの液面を見詰めて押し黙り続ける。


 海月が何を考えているのかは藍墨には分からなかったが、彼女が聡いことだけは誰よりも理解している。余計な口を挟まず、藍墨は静かに海月の返事を待った。


 やがて、海月は細長い溜息を天井に向けて吐き出した。


 藍墨が静かに視線だけを送ると、海月は仄かな笑みを浮かべて目を瞑った。


「――参りました。私が間違っていました」


 藍墨が吹き出すと、海月も同様に小さな声で笑い出す。


「別にアンタが間違ってると言いたかった訳じゃないけどね」

「おや! 朝陽さんのことだから日課のロジハラに勤しんでいるのかと」

「ちょっと殊勝かなと思ったらこれよ。まあ、その方がアンタらしいけど」


 減らず口に藍墨が笑っていると、海月は思案を湛えた表情で少し沈黙する。そして再び自分の感情を見詰め直すと、「うん」と自分に宛てて頷いて、言った。


「傲慢でしたね。心のどこかに、私は愛情を注いでいる側だからという傲りがありました。だから、貴女達はそれを一方的に享受していればいいんだと」

「それは――まあ、あたしにも言えることかな。あたしだって、アンタが遠慮しているって決め付けて、少し失礼なことを言った。だから、その辺はナシにしよう」


 藍墨はお互いの罪悪感を一蹴するようにそう言い切る。


 海月は静かに手元のマグカップを見詰めた。部屋の照明と、それからカーテンを閉めていない窓から差し込む薄橙の夕日が黒い液面に揺れていた。そこに、藍墨が言う。


「あたしは喧嘩をしたい訳じゃない。ただ――不器用でも、アンタに何かをしたかった」


 ピタリ、と、揺れていた液面が凪ぐ。「どうしてそこまで」と海月がお人好しに呆れながら訊くと、どうしてそんなことを訊くのかと言いたげに藍墨は苦笑した。


「さっきも言ったでしょ。あたしだってアンタ達が大切だから。それに、」


 少しだけ気後れを覚えながらも、藍墨は海月の双眸を真っ直ぐに見詰めた。


「アンタに手を引いてもらった道の先に、今がある。だからアンタに恩を返したい」


 静まり返った液面に代わって、海月の瞳が何かを湛えるように揺れる。


 そして彼女はふっと息を吐いて笑うと、マグカップを置いて膝の上に手を組んだ。


「――恩なんて言わないでください。損得みたいで悲しいじゃないですか」


 藍墨は静かに海月の顔を見詰めた後、「そうね」と相好を崩した。


「だからアンタに大切にされるのは得じゃないし、アンタを大切にするのも損じゃない」


 藍墨がそう伝えると、海月は参ったと言いたげに笑顔を覗かせた。


 そして抱えた荷物を押し出すように、細長い溜息を虚空に吐く。それから「珈琲」と、置いたマグカップを一瞥する。首を傾げる藍墨へと視線を移し、海月は続けて言った。


「あのソフトクリーム屋の珈琲が飲みたいです」


 藍墨はその言葉に手元の湯気が立つ珈琲を見詰める。


 そして可笑しそうに唇を緩めると、それを一気に飲み干して、悶えるように口を押さえながら立ち上がった。


「一緒に行こう」


 藍墨がハッキリと伝えると、海月は目を細めて頬を綻ばせた。それから、藍墨に倣うように一気に珈琲を飲み――「あづっ⁉」と悲痛な声を上げた。



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