22話
翌日の放課後。寄り道もせずに藍墨が部室に顔を出すと、既に海月が居た。
彼女はスマホを眺めていた目をこちらに向け、穏やかに相好を崩す。
「お疲れ様です。昨日はありがとうございました」
昨日の件がフラッシュバックした藍墨は、ぐっと目を瞑って記憶の苦い部分を蹴飛ばす。
藍墨は鞄をテーブルの脇に放り投げ、そのまま海月の隣の椅子を引いて座る。サイバー研の席順は不同だ。来た順にその日の気分で好きな場所に座る。
「お疲れ。もうすっかり具合は良くなった?」
「ええ、有り余るエネルギーのやり場に困っています。歯を食い縛っていただいても?」
「風邪は治っても別の病気が発症してるわよ」
「冗談ですよ。健全に裸体をSNSに投稿して発散しています――あ、お茶淹れますよ」
どこが健全だ。藍墨はポットに向かう海月に半眼で「さんきゅ」と言いつつスマホを取り出す。断じて性欲由来ではない理由で海月の裏垢を確認すると、案の定、昼頃に写真が投稿されている。トイレの個室で撮った下着姿の自撮り画像だ。それも、学校の制服が辛うじて見えない位置で、見事に特定を避ける配慮をしており、呆れるばかりだった。
興味本位でフォロワーの数を確認すると、既に九万人。部内最多のBAN回数を考慮すると、やはり彼女のSNSフォロワーを伸ばす技術は本物か。
「どうですか。今日の自撮りは私史上トップクラスにえっちだと思うのですが」
ティーポットに上品な所作で茶葉を入れながら訊いてくる海月に、藍墨は複雑な顔で再び写真を見る。恐らくほとんど無加工だろうそれは、唖然とするほど艶やかで綺麗な肌だ。色白の肌と対照的に、黒地に赤い装飾の付いた下着で上下が揃っている。露出度は一般的な下着と大差ないが、基本の造形美と自分を熟知した画角は情欲を煽るのだろう。
「……まあ、こんだけフォロワー数が伸びるのも納得できるとだけ答えとく」
「そうでしょう。性的なものを投稿するとフォロワーが伸びるんです」
「……そう」と藍墨が唸るように相槌を打つと、海月は微笑む。
「おちんちんと一緒ですね!」
「ああくそ、言うと思ったよ! アンタそれ二夕見と清川の前で絶対言うなよ⁉」
「朝陽さんにしか言いませんよ、こんなツッコミ任せで幼稚な下ネタ」
「あたしを何だと思ってんのよ」
「朝陽さんは突けば鳴くので」
「打てば響くね。頼むから心の陰茎を仕舞って」
海月はどこ吹く風で口笛を吹いて四人分の紅茶を準備し始め、藍墨は溜息を吐く。
しかし、まだ不調が残っていたら遠慮なく帰らせようと思っていたところ、どうやらすっかり快復しているらしいことは確認できたので、これでよしとしよう。
そして、海月の淹れたお茶が芳香を部室に漂わせ始めた頃。
「おつかれー!」「さまでーす」
弥香と澄冷が明るい挨拶と共に部室の扉を開けた。
藍墨と海月が口々に挨拶を返す。
すると、二人は平然と紅茶を準備している海月を見て目を丸くした。
「海月! もう具合は大丈夫なの⁉」
海月は弥香の心配に申し訳なさそうにしながら、ポットに湯を注ぎつつ答える。
「ええ、お陰様で。朝陽さんから伺いましたが、随分とご心配いただいたそうで」
「まあ、海月ちゃんが何も言わずに休むのはいつもだから、あんまり気に留めるのも、とは思ったけどね。でもやっぱり、一人暮らしだと気になっちゃうよ」
澄冷が少々弱った顔で本音を吐露すると、海月も幾らか弱い顔で押し黙る。
そして、海月は黙ったままその場に居る三人を順繰りに一瞥し、微笑んで頷いた。
「――省みます。次があれば必ず連絡しますので」
すると弥香と澄冷は安堵の顔を見せた。弥香がぷんぷんと冗談めかして言う。
「約束だかんね! 嘘ついたら家に行っちゃうから!」
「ええ、菓子折りをお持ちになって是非。お待ちしています」
海月が弥香と澄冷を見てそう伝えると、澄冷が胸を撫で下ろす。
「ありがとね。でも、海月ちゃんのスタンスを否定したい訳じゃないからね」
一人暮らしの友人が休んだとなれば、澄冷は当然、それを心配する。
しかし、その心配は他人の交遊への向き合い方を否定するものであってはならないだろう。海月が自分のプライベートの事情を明かさないことに相応の理由があるのなら、それは尊重するべきだ。
その持論があるから、澄冷は罪悪感と安堵と謝意を織り交ぜた顔で弁明を図った。
「分かっています。でも、私も貴女達の心配を踏み躙りたい訳ではないので」
しかし、海月は真っ直ぐな視線を返して答えた。そこに遠慮の意思は見られない。
安堵に肩の力を抜いて、「そっか」と澄冷は微笑を浮かべる。
「じゃあ私も、次黙って休んだ日には海月ちゃんの家に行っちゃおうかな!」
「でしたらお好みの茶葉を用意してお待ちしております」
慇懃に微笑んで澄冷に応対する海月へ、弥香は頬を膨らませて抗議の声を上げた。
「私には菓子折りを持って来させるくせに!」
「二人が来ればお茶会ができますね」
飄々と笑ってあしらう海月に、弥香はぐぎぎと悔しそうに歯を食い縛る。
さて、昨日、充分に話したので成り行きを静観していた藍墨だったが、会話も一区切り付いた様子なので、いい加減に話題を変えることにする。
「――さておき、ようやく夏休み前に四人揃ったわね」
そう言いながら藍墨が弥香を見ると、彼女はハッと目を輝かせて顔を上げた。
「そうじゃんそうじゃん! もう、海月が来ないから全然話が進まなかったのさ!」
「それは失礼いたしました。それで? その進めたかった話とは?」
聡い海月のことだ。薄っすらと察しているだろうが、形式的にサイバーセキュリティ研究部部長の二夕見弥香に尋ねる。弥香は「んふう」と上機嫌に胸を張ると、いそいそと鞄をテーブルに置いて、長机の、椅子が置いていない上座側の短辺に立つ。
「夏休み! どこに旅行に行きたいですか⁉」
どん、と机に手を置いた弥香が満面の笑みでそう尋ねた。
我が校では七月十九日から八月三十一日までの四十四日間、夏休みとなる。
真っ当な部活動があるものは顧問の定めた日数だけ活動し、赤点を取ったものは最低でも五日間の補習が義務付けられている。三年生は就活や進学に向けた追加授業を任意で受けられ、バイトをしている者は店長に昼間のシフトを入れられて怒り狂う。
さて、サイバーセキュリティ研究部はというと、バイトをしているのは海月だけ。それもシフトにはかなりの融通が利く。勉強の方も一名を除いて心配は要らない者が大半。
「――取り敢えず、日程にはかなりの融通が利きますよね。私達は」
前提条件を幾らか確かめ合った後、紅茶を淹れ終えたカップを海月が置いていく。
そんな彼女の確認に、藍墨は「そうね」と相槌を打って話を一気に進める。
「多分だけど、こんな履歴書にも書けないような部活に所属している辺り、ここに居る全員は夏休みのどこに予定が入っても問題ないメンツだと思うのよ」
海月は半笑いで「仰る通り」と紅茶を一口。弥香は「当然」と笑ってサムズアップ。
澄冷は少々複雑そうに言い返す言葉を探したが、困り顔で笑って「否定できないなぁ」と一言。三人からの賛同の意を得た藍墨は、淀みそうな議論に早速結論を出す。
「だから、まずは行きたい場所を決める。そんで、その観光地のイベントスケジュールを確かめてから、逆算する形で日程を決めるのが良いと思うんだけど、どう?」
我ながら妙案ではないだろうか。
そう思った藍墨の思惑通り、澄冷は「おお!」と感心したように手を叩いて言う。
「賛成賛成、異議なし! 楽しそうなイベントがあったらどうせ調整するものね」
ではこの方針で問題ないだろうかと藍墨が結論を出そうとすると、海月が挙手。
「異議あり。具体的な日付はともかく、概ね前半、後半と決めるくらいはしてもいいかと」
提案の内容は理解できるし合理的に思えるが、目的が判然としない。藍墨は気分を害した素振りも見せず、心底不思議に思いながら「その心は?」と訊く。
「部長がずっとそわそわしています。たぶん、二十日後とかだと耐えられません」
苦笑する海月が視線で指すのは、パイプ椅子に座ってずっとそわそわと身体を動かし続ける、対面の弥香だ。彼女はキラキラと輝いた瞳でうんうんと何度も頷いた。
藍墨と澄冷は脱力しながら吹き出し、藍墨は「なるほど」と話をまとめた。
「了解、我らが部長のご所望なので、前半にしましょっか」
「異議なし。まあ、予算とか切り詰めて前後半で行ってもいいもんね」
澄冷がそう賛同の意を示すと、パチンと海月が指を鳴らす。
「そうそう、そういえばですが――皆さん、予算の方は大丈夫ですか? 成り行きで旅行に行くって話が進んでいますけども。一応、心配させていただけると」
海月がそう尋ねると、藍墨と澄冷、弥香は視線を合わせて探り合う。
「あたしは中学時代の収入が続いてる。基本的には問題ないわね」
「私はインスタ経由で結構お仕事貰ってるから、全く無問題。お小遣いもあります」
「私も一人暮らしできるくらい稼いでるからね。大丈夫! 一番お金持ちだよ!」
三人の回答を聞いて安堵の息を吐いた海月は、嬉しそうに笑って話を進めた。
「であれば問題は無さそうですね。もちろん、私も収入は充分にありますので」
全員の懐事情を確かめたところで、藍墨は話を進める。
「――さて、それじゃあ予算の方は一旦度外視で、取り敢えず、行きたい場所を決めようか。取捨選択は後でやるから、まずは好きに挙げていってもらえるかしら」
途端、三人の目が興奮と高揚に彩られた。一斉に黙ったかと思うと、スマホやパソコンを取り出して、カタカタポチポチと調べ物を始める。
その間に藍墨はルーズリーフを一枚取り出し、ペンを構えて書記になった。
それから十数秒後、「はい!」と弥香が元気よく笑顔で手を挙げるので「弥香」と指名。
指名された弥香は叩いていたパソコンをくるりと回して三人に画面を見せた。
「フィンランド!」
第一案からとんでもない旅行先が示され、流石に度肝を抜かれた。
「待て待て待て! 国外⁉」
表示された画面には真っ暗闇の中を煌々と彩るオーロラ。
取捨選択は後でするとはいったが、軽い気持ちで後輩にご馳走すると言ったら叙々苑に意気揚々と駆け出された先輩の気分だ。
しかし、弥香は至って本気で提案をしていたらしい。真面目に食い下がる。
「いやでもね、藍墨。未成年でもパスポート自体は取れるらしいのだよ。それに海月はフィンランドのクォーターだからね。聖地巡礼だよ」
藍墨は悩ましそうな半眼を弥香から苦笑する海月へ向ける。
「だってさ。アンタは行きたい?」
「いえ、全く。祖母はフィンランド人ですが、日本生まれ日本育ちですし」
「だ、そうです。まあ、一応候補としては書いておくけども」
藍墨は不満そうな弥香の膨らんだ頬を見て、溜息混じりにペンを走らせる。
しかし、開幕からとんでもない意見が出てきたせいで、場の空気が淀んだ。何となく真面目な回答を出しづらい空気になっていないかと藍墨が心配した矢先、「はい」と、ボケの塊のような海月が手を挙げる。藍墨は心底渋々と「どうぞ」と発言を促す。
「フォロワーさんから聞きました」
海月がスマホを構える。「何と書いていましたか?」と藍墨は形式的に訊く。
海月はくるりとスマホを反転して画面を見せた。そこにはモザイクを着込んだ男女。
「デンマークにあるそうです。『ヌーディストビーチ』」
「そいつはブロックしなさい! はい次」
続いて「はい」と澄冷が挙手。「どうぞ」と頭痛を堪えながら藍墨は発言を促す。
「フォロワーさんから聞きました」
先程の海月をなぞらえてそう切り出しながらスマホを構える澄冷。何だかおかしな空気になってきたが、もうこのまま走り切る方がいいと判断して「何と書いていましたか?」と繰り返して形式的に訊く。すると澄冷はスマホを反転させる。そこには山頂の絶景。
「絶景だそうです。『エベレスト山頂』」
「まずは富士山から! はい次」
続いて「はい」と挙手するのは弥香。「どうぞ」藍墨は自我を殺して促す。
「フォロワーさんから聞きましたっ」
二人と同じ流れで大喜利できることが嬉しいらしく、弥香はニコニコとパソコンを構えて藍墨の返答を待つ。藍墨は断腸の思いで「何と書いていましたか?」と聞いてやる。もはやペンを走らせる気力も無い。
弥香は満面の笑みでパソコンを反転させた。そこには模造の男性器群。
「アイスランドにあるそうです。『ペニス博物館』!」
「探せばそこら辺にある! はい次!」
「はい」と一巡して海月。藍墨は額を押さえて一呼吸を置き、「どうぞ」と促す。
「フォロワーさんから聞きました」
「何と書いていましたか?」
海月は穏やかに微笑んでスマホをひっくり返す。
「クロアチアにあるそうです。『ヌーディストビーチ』」
藍墨はぐっと言葉を詰まらせて天井を仰ぎ、溜息を吐きながら俯く。
そして深呼吸をして呼吸を整えると、出来得る限りの感情を込めて叫んだ。
「笑点か! ――離れろ! 山と全裸と男性器から!」
耐えきれずに藍墨が声を荒らげるも、三人はきゃっきゃと笑いながら顔を見合わせるばかり。何がそんなに楽しいのだか。いや、ツッコミを入れてしまった自分も悪いか。
「くそ、二夕見が最初にボケたせいで流れが持ってかれた」
「心外だよ藍墨、最初のは真面目だったよ!」
「二回目以降は全部ボケですけどね」
「つまり二回目に口を開いたアンタが全部悪い」
「てへ」
舌を出してコツンと頭を小突く海月。藍墨は堪えきれずに中指を突き立てた。「で、真面目な話、どうする?」と藍墨が再び話を進行すると、流石に三人も真面目に考える。
「私は特別なこだわりも無いので、無人島でもなければ異議は唱えませんよ」
「私は……まあ、言うまでもないだろうけど。国内がいいなぁ」
海月と澄冷が順にそう語り、しかしその曖昧な提案では、まるで決まらない。
当然、藍墨も具体的にどこに行きたいなど決めておらず――三人の行きたい場所に合わせようと考えていた。そんな風に考える人間が三人集まっているせいで決まらない。
しかし、幸いにも主体性の塊である弥香が、爛々と目を輝かせて挙手した。
「はいはい、はーい! 私、海行きたい! 広くて綺麗な海で泳ぎたい!」
「――海」
思わず藍墨が口の中で反芻する。
――海とかビーチとか海水浴場とか!
思い返すと定期考査後、海月の欠席時に弥香はそんなことを言っていた。なるほど、海。藍墨は特別泳ぎたい訳ではないが、海は嫌いではないし、海の近くにある様々な観光施設は寧ろ好きな部類だ。「うん、悪くないんじゃない?」と藍墨は二人を見る。
「私も賛成! 夏といえば海だよ。泳ぐのは苦手だけど――別に、海だけに入る訳じゃないんでしょ?」
澄冷が賛同の意を示しつつ懸念事項を確かめると、弥香は大きく頷く。
「何日か居る内の一回でも入れれば全然いいよ! でも皆で行きたい!」
「おっけー! 私は砂浜に居るかもだけど。海月ちゃんはどうかな?」
「私は海の月と書いて海月ですから。それに、他ならぬ部長のご提案ならば」
冗談交じりの海月の快諾を受け、弥香はパッと表情を明るくさせて藍墨を見る。
部長は弥香だろうに、どうやらすっかり司会進行は藍墨に一任された様子だ。藍墨は微笑を浮かべながら大きく頷いて、ルーズリーフに一文。『海があるところ』。それをペンで素早く囲った藍墨は、一同を見回した。
「それじゃ、旅行先は『綺麗な海で海水浴ができる所』。それで具体的な場所は――」
藍墨がそう話を進めようとした矢先、ぶぶ、とバイブレーションの音。
四人の視線が一斉に集まったのは、澄冷の手元に置かれているスマホだった。澄冷は「ちょっとごめんね」と断りを入れながら真剣な顔でスマホを眺め始める。三人は注目し続けるのもやり辛いだろうと配慮し、相槌と共に話を先に進めることにした。
弥香がカタカタとパソコンを叩き始め、海月と藍墨はマグカップを片手にそこに集う。
「個人的にはね、ご飯が美味しい場所に行きたい! それでね、皆で遊ぶ時間がいっぱい欲しいから、交通の便が良いところ! それでそれで、えっとね、あんまり遠くない方がいいかな。移動がいっぱいだと疲れちゃうもん」
弥香が矢継ぎ早に要望を言い立てながら日本地図を開き、海月と藍墨が覗き込みながら方向性を少しずつ固めていく。
「そうなると、関東・中部・東北辺りから目的地を見繕いたいですね」
「そうね――太平洋側の方が良いかしら?」
「ねえねえ、太平洋ってどこ?」
「東京に近い方の海。つまり下よ」
「南と言わない辺りに朝陽さんの指導力が窺えますね」
「ば、馬鹿にしてる⁉ 私だって南くらい分かるんだからね!」
「じゃあ南ってどこですか?」
「下」
そんな馬鹿みたいなやり取りをしていると、「あー」と澄冷の声が上がる。
三人が顔を上げてパソコン越しに見ると、スマホから顔を上げた澄冷もこちらを見ていた。藍墨はどうかしたのかと尋ねようとしたが、澄冷は何やらニヤニヤと笑っており、恐らく良いことがあったのだろうことは明白だった。あからさまに『どうしたの』と聞いてほしそうに沈黙しているものだから、何だか素直に聞き入れてやるのも嫌だった。
仕方がないと笑いながら、弥香が微かな期待を瞳に冗談めかして訊く。
「何か良いことがあったの?」
弥香がそう訊くと、よくぞ訊いてくれたと言いたげに澄冷は空咳をして勿体ぶる。そして、笑みを隠しきれない顔に、どうにか威厳のありそうな表情を浮かべて言った。
「――静岡県のホテルから、宿泊付きの紹介案件が届きました。どうする?」
渡りに船を見た三人はバッと顔を見合わせる。そして、その表情を見た途端、もう言葉は不要だということを確信して、三人同時に返答を叫んだ。
「――そんな訳で、夏休み入ってすぐに友達と旅行に行くから」
その日の夜、藍墨は夕飯の食卓に着きながら、母の梨乃に顛末を報告した。
梨乃は暫し呆然としていた顔に、段々と喜色を浮かべていく。そして、旅行に行く当事者よりも嬉しそうな顔で「そっかぁ」と噛み締めながら頷いた。
「楽しんでおいで。怪我とか事故には本当に気を付けるのよ?」
「もちろん。お土産は五体満足健康笑顔のあたしだからね」
「ええ、本当にそれでいいの。私に余計な気なんて遣わなくていいんだから」
「冗談よ。何か良い感じのものを買ってくるから期待してて」
藍墨がヒラヒラと手を振って、それ以降聞く耳を持たないように「いただきます」と味噌汁に手を付けると、対岸で手を合わせてから、梨乃は不満そうに焼き魚に箸を伸ばす。
「別にいいのに。それより、お金は大丈夫? お小遣い渡すよ?」
「んー、その辺は全然大丈夫。ただ、未成年だからホテルの宿泊同意書だけ後で書いて」
「もちろん」と頷いた梨乃は、何やら物思いに耽るように藍墨を見詰める。
「それにしても、紹介案件? だっけ? 凄いお友達が居るのねぇ」
「そうね。そのインフルエンサーもそうだし、他の二人も凄いわ。あたしには勿体ないくらい、気の良い連中。本当に――――あの部に入ってよかった」
藍墨がポツリと呟くと、梨乃は我が事のように嬉しそうに微笑む。
「ねえ、藍墨ちゃん」
「うん?」
「学校、楽しい?」
急に何だ、と藍墨が小鉢に箸を伸ばしながら胡乱な目を向ける。梨乃は微笑みながら藍墨の近況を尋ねつつ、その瞳の奥には見慣れた罪悪感が滲んでいる。
中学時代、梨乃の病気と実家との仲の悪さに端を発して藍墨が皺寄せを受けた件だろう。幾ら気にしていないと言っても聞く耳を持たない。とはいえ、親として子供の青春の三年間を奪ったことに対する負い目が大きいのだろう。藍墨は軽く肩を竦めた。
「もちろん。今も――それから中学時代もね」
藍墨がそう言うと、梨乃は見透かされたことへの気恥ずかしさに目を逸らす。だが、藍墨はほうれん草を咀嚼しながらジッと梨乃を見詰め、嚥下するや否や、こう言う。
「まあ、母さんが色々と後悔すること自体は止められないけど、あたしは本当に何も気にしていない。自分が同年代の友達よりハンデが多かったのは認めるけど、それがあって今のあたしが居る。そんで、あたしは今のあたしを大した奴だと自分で思ってる」
自画自賛ではあるが――謙遜と自己の過小評価が別物であるように、適切な自己評価と傲慢も別物だ。客観的に見て、それなりの偏差値の高校で六教科満点に近い点数を取って、家族を支えられるだけの収入を確立した経験があって、身に余る友達が居る。
これ以上は無い。だったら、今の自分を否定はできない。
「その全ての根幹は、あたしが母さんのもとに生まれた事実に在る。あたしは母さんの娘で良かったって心から思ってるから、あんまり申し訳なさそうにしないでよ」
あっけらかんと藍墨が言うと、気付けば梨乃の顔は歪んでいた。
やがて、ポロリと梨乃の双眸から涙が垂れる。ギョッとした顔で狼狽える藍墨だったが、梨乃は弱々しく笑うと「ありがとね」と呟いて、大きく鼻を啜った。己の両頬を叩く。
どうやらこの話はここまでらしく、梨乃は英気を養うように次々に料理へ箸を伸ばす。
少し湿った空気になってしまったので、藍墨はどうしたものかと悩む。そして、ふと、ここ最近の悩みを打ち明けてみることにした。
「例えばの話なんだけど――」
梨乃は「ほーひはの」とサラダを口に頬張りながら相槌を打つ。
「――もしも仮に、あたしが一人暮らしをしたとして」
「んぐ……し、したいの?」
「いや、まったく。将来的にはするだろうけど、そうじゃなくて仮の話」
中学時代に関する対話を終えてからの話題としては、失敗だったか。とはいえ、ここまで話したなら最後まで伝えるべきだろう。藍墨は例え話を頭の中で構築する。
「一人暮らし中のあたしが何かしらの重い病気を患ったとして。でも迷惑をかけたくないからって理由で母さんに何も言わなかったことが後で判明したら、どう思う?」
藍墨は頭の片隅に海月の存在を置きながら、そう尋ねる。
梨乃は不思議そうな顔で顎を摘まんで考え、そして単刀直入に答えた。
「凄く悲しいし、心配だし、家に帰ってこない? って訊くと思う」
至って自然で納得のできる回答に、藍墨は何度か頷いて「そうよね」と呟いた。
――星ヶ丘海月は、自分が風邪をひいた件について、『伝えたところでできることはなく、心配をさせるだけ』と口を噤んだ。後々、伝えない方が心配だと理解すると考えを改めたが、抜本的な部分は変わっていない。彼女は、他人本位だ。
考え方の根幹が、『自分がどう思うか』ではなく『他人がどう思うか』に終始している。結局、彼女は藍墨達が楽しくないと感じるだろう悩み事は相談せず、抱え込んだまま笑顔を浮かべる人間で、それを苦とも思わないのだろう。
藍墨がうんうんと唸っていると、梨乃が心配そうに見詰めてくる。
「どうかしたの?」
藍墨は少し悩んだが、娘らしく素直に相談することにした。
「友達の一人が、器用で何でもできる良い奴なんだけど。だからかな、困った時とかは全然頼ってくれなくて、その癖、こっちが困るだろうことには根回しをしてくる。寂しいから少しくらい頼ってほしいんだけど、でもそれはあたしの我儘じゃないか、とか」
「そんなことを悩んでる」と藍墨が肩を落とすと、梨乃は微笑ましそうに頬を綻ばす。娘の悩みがそんなに面白いかと半眼を突き刺すと、梨乃は瞑目して語った。
「まあ、友達相手でも素直に悩み事を打ち明けられるとは限らないもの」
「……それはその通りだけどね。こっちも釈然としないのよ」
「そうね。藍墨ちゃんが間違っているとは思わないし、強要しないなら我儘でもない。でも、その子の考え方も自立していて立派だとは思う。だから、どっちも正しい」
梨乃はそう語ると、ニヤニヤと大人の目で藍墨を見詰めた。
「正しい者同士で折り合いを付けるなら、話さないと駄目よ」
藍墨は深々と溜息を吐くと、肩を竦めながら適当に頷いた。
「肝に銘じます」




