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21話

 しばらくして、藍墨は出来上がった料理を二枚の皿に全部盛り合わせた。丁寧に小鉢に入れてやりたい気持ちはあったが、そもそもそんなもの、この家には無いらしい。


 お椀におかゆを入れてほうれん草の胡麻和えや適当に作った浅漬けをそこに添えつつ、要望のあった生姜入りの餃子を別の浅い皿に、その上に厚焼き玉子とポテトサラダ。


 藍墨が皿を持って行くと、ベッドの上に座り込んでぼんやりとスマホを眺めていた海月が顔を上げる。そして運ばれてきた品を見た海月は驚きと共に目を輝かせ、「手が込んでますね」と、流石に感嘆した様子だった。


 藍墨は得意げに「そうでしょ」と笑って料理を置こうとして、剥き出しの皿二枚をどこに置いたものかと視線を巡らせる。テーブルと言えるものは明らかにデスクワーク用のテーブルセットしかないが、病人にあれを使わせるべきだろうか。


「そこに本があるので」


 海月が苦笑しながら部屋の隅を指す。それを見た藍墨も思わず苦笑しながら一度皿をテーブルに置いて、取ってきた専門書をベッドの上に置いて仮テーブルとした。


「著者も報われないわね。こんな粗末に扱われて」

「読んで捨てるだけの方が憐れでしょう。最大限に有効活用するべきです」

「そう思うなら電子書籍でも買えばいいのに」


 藍墨がそう言いながら専門書の上に皿を並べる最中、海月は皿を倒さないよう慎重に毛布を剥いで、身体の向きを藍墨の側に向けて座り直す。


「カードがありません。親ともあまり連絡を取りませんし」

「社長令嬢といえども同じ法律の下で生きてんのね。ほい、食べな」


 藍墨がそう言いながらデスクから椅子を引っ張ってきて、ベッド脇に座る。


 しかし、海月は専門書の上に置かれた二枚の皿をジッと見下ろしたまま動かない。スプーンも箸も皿の上に架けてある。何が足りないというのか。藍墨がそう訝しがると殆ど同時、海月は悪戯めいた笑みで藍墨を一瞥し、両手を膝の上に置く。


「食べさせてください。あーん」


 藍墨は呆れながら一蹴しようとしたが、見舞いを遠慮しようとした彼女を問い詰めて無理やり家に上がった以上、ある程度の妥協は必要かと思い直す。半眼で溜息を吐いた。


 徐に食器に手を伸ばして、まずはおかゆを幾らかスプーンで掬ってやる。


「ほら、あーん」


 渋々食べさせてやると、しかし海月はむ、と口を閉じたまま動かない。


 今度は何だと藍墨が眉を顰めると、身体を仰け反らせた海月が不満げに言った。


「ちゃんとふーふーして冷ましてください! 火傷したらどうするんですか!」

「それだけ文句を言う元気があるなら自分で食えるでしょ! ほら自分で持て!」


 藍墨が言いながら皿とスプーンを突き出すも、「ぷい」と口に出しながら海月が顔を背ける。星ヶ丘海月という人間は――場が滞っている時には潤滑油または歯車の如く立ち回れる人間だが、事が順調に運ぶと退屈が過ぎて引っ掻き回したくなるらしい。


 藍墨は呆れた顔で海月の横顔を眺めること数秒、観念してスプーンを吐息で冷ます。


「はい、あーん」


 そう言って差し出すと、今度こそ海月は緩んだ笑みでそれをパクリと咥えた。


 しばらく無言で咀嚼していた彼女は、嚥下の後に「美味しいです」と素直に言う。何だかんだ、それが満更でもなかった藍墨は二口目を用意しようとして、


「あ、テンポ悪いんでやっぱり冷まさなくていいですよ」


 どうやってこの女をぶっ飛ばしてやろうかと考え始めた。


 さて、そうしてあーだこーだ言いながら最終的に自分の手で食べ終えた海月は、料理人に感謝を伝えるべく丁寧に手を合わせ、小さく会釈をした。


「――ごちそうさまでした。美味しかったです。お店出せますよ、この味なら」

「お褒めに預かり光栄ね。和食? それとも中華?」

「いえ、カラオケボックスですね」

「料理一筋じゃ勝負できないか……」


 嫌な部分で素直な海月の評価に藍墨が苦笑していると、海月は微笑を返す。


「冗談です。本当に美味しかったし、助かりました。ありがとうございます」


 藍墨は「ん」と照れ隠しに簡素な相槌だけ打って食器を片付ける。


 ついでにそこに置いてあったスポンジと洗剤を使って手早く洗い物まで済ませた。


 藍墨が部屋に戻ると、海月はベッドを立って解熱鎮痛剤を飲んでいた。半分ほど残ったペットボトルと薬の残骸をまとめて置いた海月は、藍墨を流し目に見る。


「療養中こそしっかりとご飯を食べるべきですね。かなり、気が楽になりました」

「ガソリンの入ってない車は動けないからね。これに懲りたらちゃんと食べる。食べる気力が無いなら頼りなさい。行くから。いつでも」


 藍墨が冗談を許さない真っ直ぐな瞳で海月を見詰めると、流石の海月も、微笑みながらも黙って殊勝に頷いた。そして、少しだけ照れ笑いを浮かべる。少し強めに言い過ぎたかと反省した藍墨は、場を和ますように笑いながら付け加えた。


「それに、あたしの綺麗な顔を見られて気分が良くなったでしょ」

「あはは、鏡の中にそれ以上の美人が住んでるので、あんまり」

「そっか、じゃあ今日は元気そうな顔が見られてよかった。ばいばい」

「冗談じゃないですか。そんな急いで荷物を纏めなくても」


 鞄を掴もうとした藍墨を焦りながら制止する海月。もちろん冗談だが、具合を確かめて料理まで振る舞ったのだから、これ以上、ここに残っても休養の邪魔だろう。


 そう考える藍墨の思考が伝わったか、海月も最後に言い残すように口を開く。


「色々、ありがとうございました。それから、ご心配をおかけしました」


 藍墨は『気にするな』と言おうとした口を閉ざして悩み、そして本心を語る。


「……風邪のことって家族には話してる?」


 すると海月は目を丸くして質問の真意を測りつつ、首を左右に振った。


「いえ、わざわざ言うほどのことではないかと。それがどうしました?」

「『家族を頼ろうと思ったけど来てくれなかった』なら仕方が無いんだけど、そうでないなら、アンタは誰にも自分の体調悪化を言わなかった。あたし達にも」


 海月は一抹の罪悪感を瞳に目を逸らし、「怒ってますか?」と一言。


 藍墨は逡巡を隠すように瞑目して「怒ってる」と伝え返した。


「心配した。『だから相応の態度を取れ』と迫ることが傲慢だって自覚はあるけど、友達が何も言わずに部活に来なくて、学校にも来てなくて。風邪でよかったけど、もっと重い症状だったら? 普通はそこまで心配しないだろうけど、アンタは一人暮らしでしょ」


 心の底から心配したのだと、表情と語気でハッキリ伝えると、海月は苦笑する。


「もっと重かったらちゃんと家族を頼りますし、皆さんにも連絡をします。それに、その辺の諸々を一人でもやる意思のない人間が、一人暮らしをするべきではありません」


 ぐうの音も出ない反論を受けた藍墨は仰け反って顔をしかめ「ぐう」と唸る。


 「たかが風邪です。違いますか」と海月が重ねて問いかけてくるので、藍墨は腕を組んでぐぬぬと唸ること数秒、弱々しく溜息を吐き出して頷いた。


「……そうね、アンタの言い分が正しいわ。確かに、過剰に重く受け止め過ぎた」

「気持ちは有難いですけどね。でも、そんなに心配するようなことではないでしょう」


 海月が幾らかフォローを入れるようにそう言うが、藍墨は眉を顰めてそれを否定した。


「いや、それは違う。アンタに非があると決めつけて責めた部分は間違ってたと思うけど、あたし達の心配そのものが間違ってるとは思わない。これから何度でも、アンタが何も言わずに学校を休んだら心配する。それは変えようがない」


 今度は海月が言い返す言葉を失い、「む」と省みるように真面目な顔で黙った。


「あたしはアンタを大事な友達だと思ってる。あたしだけじゃない、二夕見は一人の病気は辛いはずって心配してたし、清川はあたし達を出し抜いて一人で見舞いに行こうとした。もしも弥香が何も言わずに病欠したら、アンタも同じことをしたでしょ?」


 藍墨が尋ねると、海月は眉を顰めてじっくりと思い悩み、やがて溜息を吐いて頷いた。


「……ええ、そうですね。浅慮でした。確かに、私も同じことをしたと思います」

「アンタの側に何かしろと驕った要求をする気は無いけど、心配はさせてよ」


 しばらく思い詰めるように瞳を伏せた海月は、やがて、静かに双眸を閉じた。数秒ほど黙って更に考え込んだ末、海月は珍しく自信のない瞳を泳がせながら口を開く。


「そんなに私のことを心配してくれていたんですか? お三方とも」


 まるで譲歩でもしそうな気配に思わず驚きつつも、藍墨は「勿論」と頷いた。


 弥香は更に悩ましそうに眉根を寄せながら、難しそうに続けて訊いた。


「私は弥香と違って自分の意思で一人暮らしをしています。故に、自分の生活に基づく責任はできる限り自分で背負うべきだと考えていました。それに――お三方に事情を話したところで、心配させるだけで、してもらえることは無いとも思ってました」


 それは間違いとも言い切れないが、藍墨が何かを言う前に、海月は微笑んで続ける。


「でも、休むだけでそこまで心配してくるお人好し達を相手には、本末転倒でしたね。心配だけをさせるのは本意ではありません。次は、しっかり連絡します」


 藍墨はほっと一息を吐いて脱力し、少し言葉を探す。


 海月に行動を改めさせることが正しい訳ではないと、今しがた気付いたばかりだ。それでも彼女が折れてくれたことに、どのような言葉を伝えるべきか。ありがとう、とだけ伝えるのは傲慢な気がして、けれども拒むのも支離滅裂だろう。


 そう悩む藍墨の顔を見た海月は、胸中を察したように付け加える。


「代わりに、困った時はちゃんと来てくださいね?」


 良い落としどころだ。藍墨は感服の意を微笑に込めて頷いた。


「約束する。絶対に行く。ありがとう、手間をかけさせてごめんね」

「ふふ。まあ、心配されるのも存外、嫌いじゃないので。申し訳なくは思いますが」


 その口ぶりに海月の背景事情を思い出し、藍墨は一歩踏み込んでみる。


「家族だって心配してるんじゃない? 別に、仲が悪い訳ではないんでしょ?」

「度々、電話で近況報告をし合って、過ぎた仕送りを貰うくらいには。とはいえ、こちら側の我儘でこういう生活をしているのに、心配してほしいとは言えませんよ」

「小さい頃から社交の場に連れ回されて友達とも過ごせない人生を強制されたら、そりゃ反発もするでしょ。そう省みたから家族だってアンタの一人暮らしを許可した。別に、アンタばかりが殊勝に構えなくてもいいんじゃない?」


 藍墨が言い返すと、海月は嬉しそうに相好を崩してマジマジと見詰めてくる。「何よ」と藍墨が眉を顰めると、「いえ」と、海月はいっそう嬉しそうにした。


「本当に貴女は、滅多に見ないタイプの人ですね」

「さっきからそれ、褒めてる?」


 半眼で問い質す藍墨に、海月はのらりくらりと笑いながら答えた。


「善悪は私には判断できません。が、私は貴女のそういう部分を素敵だと思います」


 真正面から褒められた藍墨は面食らって押し黙り、照れ隠しに顔をしかめる。


 そんな藍墨の反応の裏側を見透かしたように海月はクスクスと笑うと、お辞儀した。


「今日は来てくれてありがとうございました。嬉しかったです」

「そう言ってもらえてよかった。色々、文句ばかり言って悪かったね」

「いえ、皆さんを心配させるのは本意ではありませんから」


 そう答える海月の言葉に、藍墨は少し引っ掛かりを覚えながら鞄を担ぐ。


 そして、その引っ掛かりの正体に間もなく思い至った。


 海月の言動は先程から――思い返すと以前から、他人本位なのだ。自分がどうしたい、という意思表明よりも先に、相手の為に何をするべきかを考えている。悩んでいる藍墨の手を引いて、弥香の過去をひっそりと藍墨に共有して、心配させるだけだからと風邪のことを話さずに病欠して、しかし、心配だけさせている事実を理由にそれを改めた。


 それは、悪と呼ぶにはあまりにも綺麗で崇高な生き様のように思える。


 だから藍墨は足を止めて問い質すこともできず「じゃ」と言いながら玄関に歩いていき、その微笑の裏側で悶々と考え続けることしかできない。


 しかし、何も知らずに済ませるのは薄情じゃないかと思い直し、靴に足を通して間もなく、「そうだ」と思い出したように、見送りに来た海月へ尋ねてみた。


「アンタ自身は、来てほしいか来てほしくないかだと、どっちだったの?」


 質問の意図を測り損ねた様子で首を捻る海月に、藍墨は言葉を重ねる。


「あたし達を心配させたくないから連絡をしなかった。でも、それが余計に心配させるだけだったから、今度から連絡する。でも、アンタ自身はどう思ってたのか、って」


 「なるほど」と得心して少し考えた海月は、少し照れくさそうに言った。


「一人は寂しいし、貴女達と過ごす時間は楽しいです」


 その言葉が無性に嬉しかった藍墨は思わず頬を綻ばせつつも、それを隠すように視線を逸らして「そっか」と素っ気なく言っておく。しかし、傍らで海月の言葉が続いた。


「でも、一緒に遊ぶ時間を投げ出してまで私の看病に来てほしいとは思えません。心配だとしても……楽しくはないでしょう? 誰かの見舞いをすることは」


 藍墨の本心を問い詰めるように、真っ直ぐ、海月の視線が藍墨に突き刺さる。


 友人の看病は楽しくないだろう。海月は容赦なくその質問を突き付けてきた。


 藍墨は反射的に言い返そうとするも、しかし、理性で考えると否定しきることは難しいとも思う。心配だったのは嘘ではない。無事を確認できた安心した。海月と雑談をしたり馬鹿なことをする時間も楽しいと思った。しかし、見舞いそのものが楽しい訳ではない。


 海月と見舞いをするよりも、海月と外で遊ぶ方が楽しい。


「私は、楽しんでいる貴女達の笑顔が好きです。楽しくないことはさせたくありません」


 藍墨は難しい顔で視線を逸らして少し悩み、しかし、去り際にまで遺恨を遺す訳にはいかないだろうと気持ちを切り替え、笑う。「アンタの意思を尊重する」と伝えると、「恐れ入ります」と海月は少しの安堵を滲ませて微笑をこぼし、手を振った。


 藍墨も手を振り返して部屋を出て、扉を閉め、施錠の音を聞いて一息。マンションの暑苦しい外廊下で蝉の鳴き声の消え失せた夕刻の風を浴び、紫紺に染まった空を一瞥する。


「楽しくない、か」


 それを言われたら否定するのは難しい。それが、少しだけ悔しかった。



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