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20/30

20話

 この時期の十六時半はまだ明るく、空も青いが、ずっと遠くには微かな橙が滲み始めている。肺の中まで温まるような夏の香りを堪能しながら、駅から伸びるセミの鳴き声が喧しい並木通りを十分ほど歩いた場所に、海月の家はあった。


 五階建ての集合住宅。外観は小綺麗な白亜を基調とした、落ち着いたもの。


 築年数は随分と若いように見受けられるが、外観から察するに一部屋はあまり大きくない。弥香と同じくワンルームだろう。立地も考えると、家賃はそこまで高くはなさそうだ。そんな洞察と共に、オートロックの掛かっている一階エントランス部分で教えてもらった番号を呼び出すと、間もなく、風邪気味の声がインターフォンで応じた。


「開けました」


 スピーカーからそんな海月の声が聞こえた直後、自動ドアが開く。藍墨は、聞いたことのないような海月の弱った声に驚きつつ、中に足を踏み入れた。それから、エレベーターを経由して五階最東端の角部屋に辿り着く。


 インターフォンを押すと、間もなく扉が開いた。


「――こんにちは、お待ちしていました」


 顔を覗かせたのは当然、海月だ。しかし、身に纏う黒の寝間着は学校で見るブラウス姿とは対照的な新鮮さを醸し出し、髪は微かに乱れ、化粧の無い顔は弱く仄かに赤い。それでも一切色褪せない美しさの中に、触れると壊れてしまうような繊細さを感じさせた。


 扉を中から開けてくれる彼女をしばらく呆然と眺めた藍墨は、我に返って手を挙げる。


「見舞いに来た」


 片方の手に提げたビニール袋を藍墨が一瞥すると、同じくそれを見た海月が微笑する。


「わざわざありがとうございます。別に、よかったのに――けほ」


 口を覆ってそっぽを向き、空咳をする海月。そして弱い笑みで謝辞を告げる。


「マスクしてくるべきでしたね、すみません」

「別に構わないわ、息苦しいだろうし。それより、ここで帰った方がいい?」


 てっきり、すぐ部屋へ招かれるものだとばかり思っていた藍墨は、嫌味を一切見せずに純粋な疑問としてそう尋ねた。すると海月は半笑いで目を逸らし、目を瞑る。


「伝染しちゃうと申し訳ないですし、症状も軽いです。それに、手間でしょう?」


 その言い方が少し建前が過ぎるように感じた藍墨は、一拍の思考の後に切り返す。


「そうね。思ったよりは大丈夫そうだし、他人の看病なんて面倒くさい。風邪を貰っても困る。それで――本音は?」


 建前を無視して単刀直入に尋ねると、海月は可笑しそうに相好を崩す。


 これくらいの方がやりやすいだろう。そう思って藍墨は笑いつつ、注釈する。


「別に嫌味じゃないからね? 家に他人を上げたくない気持ちは分かるし、迷惑を隠す建前ならこのまま誤魔化してほしい。ただ、『ちょっと手を貸してもらいたいけど遠慮をしてる』とかなら、悪いけどその可能性を無視して帰る訳にはいかない」


 海月は微笑を湛えたまま押し黙って悩むこと数秒、苦笑混じりに嘆息した。


「参りました。観念して白状すると、遠慮です。別に助けてほしいとかではありませんが、帰ってほしい訳でもないです。退屈なので雑談に付き合ってほしいと思ってます。が、」


 海月は観念してそう白状すると、サンダルで一歩踏み込んで、大きく扉を開けた。


「風邪を伝染しても責任は取りませんし、上げるからには看病していただきますね」


 目を細めて笑う海月。藍墨は開いた扉の縁を掴んで引っ張り、笑顔で頷いた。


「望むところよ。お邪魔します」


 ――海月の家は独身向けのワンルームだった。弥香の部屋と間取りは変わらないだろう。


 玄関に入ると一直線に広めの廊下が伸び、左右にキッチンや浴室、トイレ。突き当たりの扉を抜けると広めの部屋が広がっており、そこにはベッドやデスクが置いてある。そこに案内された藍墨は、しばし周りを見回して唖然とした。


 弥香の部屋が『弥香の性格を考えると、意外にも質素』という評価だとすると、こちらは『生活感が見えないほど無機質』だった。


 家電は冷蔵庫と洗濯機、電子レンジと炊飯器程度か。家具はテーブルとチェアが一組と、シングルベッドが一つ。備え付けのクローゼットには同じ色の服が何組か。キッチンには珈琲や紅茶に使う器具や茶葉、豆があるものの、それ以外の趣味がどこにも見えない。何かの勉強に使用されたらしき専門書は部屋の隅に山積み。カーペットも敷いていなければ、テレビや音響機器などの物音を発する機械すら置いていない。


最小限主義者(ミニマリスト)?」


 それらしい言葉を呟く藍墨だが、部屋に山積みの本など、無駄が無い訳ではない。


 ただ、明日、海月がフラッと消えてしまえるくらい、この部屋に重心が無いのだ。


「そうでもありませんよ。キッチンに茶葉とか置いていますし。本とかも読んでいます。娯楽はスマホ一つで片付きますし、あまり買うものがないだけで」


 言いながらベッドに腰を置く海月。その身体がスプリングに少し弾む。


 藍墨は「なるほど」と唸りながら部屋を見回して、やはり、その生活感の無さに驚く。何と表現するべきか――そう、捨てたくないだろうなと思わせる物が無い。


「なんか、夜逃げ前夜って感じね」

「ふふ、言い得て妙ですね。何もかもが嫌になったら未練もなく捨てていけます」

「……何か悩み事でもあるの?」


 何だか嫌な響きに感じて藍墨が深掘りすると、海月は枕を胸に抱いて目を細める。


「そうではありませんよ。ほら。以前、家族と交渉をしたと話したじゃないですか」


 言われた藍墨は記憶を遡り、最初。この部に入る直前の花火大会を思い出す。


 『――後は簡単な話です。嫌気が差した私は家族と交渉をし――』。その一言を思い出した藍墨は「言ってたわね」と頷く。


 すると海月は、抱えていた枕をポイとベッドの頭に投げる。


「その時、私は元々家族と住んでいた家を出たんです。で、家出からの帰宅を交渉材料として経営との断絶という要求を呑ませたんです。交渉というよりは、脅迫をした訳です」


 目を細めて懐かしむ海月を、藍墨は丸い目で黙って見詰める。


「『何かから逃げる』ことを、私は『家を出る』と解釈しているのかもしれません。だから、そうですね。その時に未練になりそうなものを置いていないのかも」


 勝手にチェアに腰掛けて話を聞いていた藍墨は、ふと、テーブルの上の解熱剤に目を留める。どうやら最低限の自己管理はできているようで、あまり心配は要らなかったかもしれない。そう思いつつも、ビニール袋からゼリーや飲料水を取り出しつつ語る。


「――アンタがあたしを部活に引き込んだくせに、居なくなるつもり?」

「そうは言っていません。習性の話です。今はサイバー研が居心地良いですから」

「いいや信用できないわね。アンタはそう言ってフラッと消えるタイプの人間よ」


 海月は掴み所の無い笑みで静かに藍墨を見詰めると、眉尻を下げて「かもしれません」と観念して認めた。「でしょ」と藍墨は言いつつ、空いたスペースを指で指した。


「だからさ。近い内に、半々で金出してこの空きスペースにソファとテレビを買おう。そんで、休みの日とかに集まって、ここで映画を観よう」


 船から海へ錨を下ろすように、藍墨は何故だか海月の心を掴みたくて仕方がなかった。


 きっと、いつか本当に彼女がどこかに行ってしまうような感じがして――それはきっと彼女の選択した人生なのだから好きにすればいいはずだが、それが嫌だった。


 だから、そう提案してみた。すると、海月は呆けた顔で藍墨を見詰め、何度か瞬き。


 やがて、堪えきれない様子でクツクツと肩を揺すると、顔を伏せながら笑いだす。


「あんまり見たことないタイプですよね、朝陽さんって」

「……それ褒めてる? 返答次第じゃ拳が出るけど」

「病人に暴力を振るう気ですか? いいから看病してください」


 ニヤリと笑った海月は病人という名の盾を行使する。それにより当初の目的を思い出した藍墨は、軽く肩を竦めて苦笑し、立ち上がる。


 そして取り出したゼリー飲料を海月へと放り投げた。海月は危なげなく掴む。


「これだけ話せるってことは、具合はそこそこ良さそうね?」

「今朝の時点で熱は三十七度五分です。計ってないですが、今は七度くらいですかね」

「解熱剤も飲んでるみたいだし、あんまり心配はしなくてよさそうだけど――ご飯は食べた? 食料の買い置きとかはしてあるの?」

「こういう時の為にインスタント麺を常備してあるので、それを食べました」


 藍墨はキッチンに置いてあるゴミ箱をひょっこりと覗く。中には小さなカップ麺が一つ。朝か昼か、どちらにしても栄養は足りていないだろう。


 責め立てるような眼差しを海月に送ると、彼女も自覚はあるようで目を逸らす。


「冷蔵庫に何か入ってるなら作ってやるけど」

「いえ、それは悪いです。一昨日の夜に買ってそろそろ消費期限が怪しい挽肉と餃子の皮と生姜があるので焼き餃子を作れますしパックご飯もあるのでおかゆも作れて冷凍庫に入っている冷凍ほうれん草で胡麻和えも作ることができますけども! それは悪いです」

「分かった分かった! 全部やってやるから!」

「あとインスタント味噌汁も飲みたいですね。それは悪いです」

「やるやる。やるから、その心にもない語尾をやめろ。精度の悪い翻訳機か」


 藍墨はキッチンに引っ掛けてあるエプロンを掴んで「これ使うわよ」とベッドでゼリー飲料を飲む海月に揺らして見せ、ブラウスの上に巻く。言われた材料を冷蔵庫から引っ張り出しつつ、調理器具を探して戸棚を開けようとして、一応確認。


「見られて困る場所とかある?」


 客人として節度を弁えた確認に、家主は照れ笑いを浮かべて自分の身を抱く。


「流石に下着の中は恥ずかしいです」

「一番恥ずかしいのはアンタの頭だけどね」


 聞いた自分が馬鹿だったと構わず戸棚を開けまくって調理器具を出していく。


 これでも中学校三年間は殆ど自炊をし続けていたのだ。もちろん、仕事と並行をしていたので手の抜き方ばかりが上手になっていったが、最低限の腕はある。


「冷蔵庫に入っているものは好きに使って構いませんよ」


 部屋から少し枯れた声が飛んでくる。藍墨はそれらを順繰りに開けながら訊き返した。


「了解。何か苦手なものはある?」

「漫画の最終回で伏線も無しに登場人物がくっつく展開ですかね。朝陽さんは?」

「アンタとゴキブリかな」


 よく考えると、一人暮らしなのだから苦手なものを置いている道理がない。


 藍墨は適当に冷蔵庫と冷凍庫を漁って、消費期限が近そうなものを手当たり次第に引っ張り出した。



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