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18/30

18話

 数分もすると、澄冷の嗚咽がすっかり静まり返った。


「泣き止んだ?」


 弥香が含み笑いと共に尋ねると、抱擁する澄冷の首筋が赤く見えた。澄冷は弥香に抱き着く腕を解かぬまま、恥じ入るようにか細い呻き声を上げた。


「ご、ごめんね、色々と」

「んふふ、いいよ! むしろ、澄冷の気持ちが伝わって嬉しかったよ」


 澄冷の首筋が更に色濃くなり、抱擁してくるその腕にいっそう力が加わった。


 ベッドとローテーブルの間、向かい合って抱き合う澄冷と弥香。気密性と防音性の高いワンルームはとても静かで、お互いの呼吸音と脈拍だけが聞こえ合う。冷房は利いているのに、身体が熱い。触れ合っているせいだろう。そうに違いない。


 弥香が身体の火照りを冷ますように抱擁を解こうとすると、澄冷が腕に力を込める。


 胴体が正面から再び触れ合って、弥香の心臓が際高く早鐘を打った。


「待って、私、今……お化粧落ちて、酷いから」


 そんなことか。弥香は怪訝を微笑に変える。


「そんなことないよ。澄冷は世界で一番可愛いんだから」


 抵抗する澄冷の身体をそっと剥がした弥香は、真正面から澄冷の泣き顔を見る。


 目が赤い。目元は腫れている。化粧もあちこちが落ちている。確かに、普段、人に見られることに気を遣っている彼女からすれば、見せたくない姿かもしれない。だが、同時に、弥香にしか見せてくれない姿であり、弥香の為の顔だった。それが、愛おしい。


「ほら、可愛い!」


 弥香は吸い込まれるように澄冷を見詰めて、その両頬に触れる。


 微かに濡れたそれを指でなぞると、澄冷は真っ赤にした顔を恥ずかしそうに隠した。


 弥香はあんまり言うのも悪いかと口を噤むと、話を軌道修正した。


「元気、出た? 安心できた?」


 弥香自身、今の自分が自立して安定した人間だとは思わない。


 だが、それでも一人で立てるよう少しずつ成長していく意思はある。そして、それを示したつもりだ。澄冷もそれを感じ取れたらしく、小さく頷く。


「うん、本当にごめんね。失礼なこともいっぱい言った」

「大丈夫、大丈夫。私も大概失礼だって自覚してるもんね!」

「自覚してるなら直さないと駄目だよ」


 じと、と半眼を向けてくる澄冷に弥香はサッと目を逸らして話題を変える。


「それにしても、私、本当に澄冷に愛想尽かされたかと思ったんだからね!」


 ぷんぷんと煙に巻くように言い立てる弥香。露骨に誤魔化そうとする意志を感じて目を細める澄冷だったが――ふと、ここ最近の弥香とのコミュニケーションを思い出す。


 ――私は、澄冷とずっと一緒に居たいよ。


 弥香が勉強の件で三人を頼ったあの日、弥香は澄冷にそう言った。あの時、藍墨や海月の言葉が引っ掛かって思い悩んでいた澄冷は、それに何も答えられなかった。


 だが、今なら胸を張って答えられる。澄冷は少しの気恥ずかしさを振り払う。


「そうだ、この前の話。覚えてる? 弥香ちゃんが一緒に居たいって言ってくれた」


 思い出した弥香はほんのりと頬を染めながら「あー」と薄っすらと汗を滲ませる。


「なんか改めて話すの恥ずかしいし、忘れていいよ?」

「ううん、忘れない。それでね、ちゃんと返事ができてなかったなって」


 話から逃げようとした弥香の戯言を切り捨て、澄冷は弥香の顔を見詰める。


 今度は弥香が照れる番だった。段々と、染まるように顔を赤くしていくと、逃げるように顔を背けようとする。澄冷は子供っぽく頬を膨らませながら、弥香の熱くて仕方がない顔を掴むと、自分の方を向かせる。弥香は汗を握った拳をカーペットに立てて仰け反る。


「て、照れちゃうから。やめよ、ね?」

「やめない。今、ちゃんと伝えるね」


 ――どうして? 私は、清川ちゃんの好きなものを知りたいよ?


 弥香がそう言ってくれたから、今の自分が居る。この関係の発端はそこだ。だったら、弥香に対して胸の内を明かすことを臆するべきではない。


 弥香の顔を掴む澄冷の手とその腕を、弥香の手が抵抗するように掴み返す。


 そんな可愛らしい足掻きをものともせずに、澄冷はハッキリと伝えた。


「私も弥香ちゃんと一緒に居たい。最後の最後まで、一緒がいい」


 もう、これ以上は無いだろうくらいまで真っ赤に染まった弥香の顔。それに共鳴するように、澄冷も仄かに頬を染めていた。甘い沈黙が、暫し二人の間を漂う。


「……わ、私も」


 弥香がそう呟くと、澄冷は胸が痛いくらい脈動するのを感じた。


 ベッドとローテーブルの隙間。手を伸ばせば抱擁できるくらいの至近距離。


 ふと、お互いがお互いの目から唇へ視線を落とす。吸い寄せられるように相手の唇を見詰め合い、視線を感じ合ったお互いが唇を動かすと、それに惹き付けられたように、お互いの視線が更に熱を帯びる。


 しばらく澄冷の唇を見詰めた弥香は、内緒話をする子供の様に声を潜めて呟いた。


「――ねえ、澄冷って、キスしたことある?」


 唐突な問いに、澄冷の心臓がおかしな跳ね方をした。心臓の脈動に合わせて小刻みに空気を出し入れする肺を懸命に抑え、澄冷は首をぎこちなく横に振る。「ない、けど」すると、弥香も「私もだよ」と、放心した様子で答えてから、感情に背中を押されて囁く。


「してみる?」


 弥香の瞳に、仄かに垣間見える、彼女の幼さと不釣り合いな情欲。


 澄冷は固唾を飲んでそれを見詰め、葛藤した。


 弥香のことは好きだ。女性として恋愛感情と劣情を抱いている。


 そして、相手からそれに近い感情を向けられていることも――正直なところ、理解している。だが、同時に、同年代に対して失礼であると理解しても尚、澄冷は弥香を保護するべき使命感のようなものを抱いている。


 そんな人間が一時の感情に身を任せて肉体的接触をしていいのか、葛藤した。


 だが、駄目だった。好奇心と性的欲求に負けて、澄冷は目を瞑る。


 それを承諾だと受理した弥香は、バクバクと跳ねる心臓を押さえるように胸に一瞬、手を当て、もう片方の手で耳に髪をかけながら固唾を飲む。


 冷房に揺れるカーテン。カーペットに伸び縮みする陽射し。道路を行き交う車の、小さな、小さな排気音。対照的にうるさい鼓動のせいで、ここだけ隔絶した世界に感じられた。


 そして弥香は、ベッドに背中を預ける澄冷へ覆いかぶさるように腕を伸ばし、シーツの上に手を置いてそれを握り締めた。澄冷の足の間に自らの膝を挟んで身体を密着させる。


 弥香は静かに澄冷へ顔を近付けて、その首筋に熱い吐息をかける。


 反対に、弥香の耳を澄冷の熱い吐息が撫でた。


 澄冷は真っ赤な顔で呼気を弾ませる。その首が生唾に蠢く。


 しばらく、至近距離で弥香は澄冷を見詰める。澄冷は瞑っていた瞳を微かに開けて弥香を覗き見ると、目の前にあるその顔を見て、一際、呼吸を荒くさせた。


 弥香は目を瞑る。澄冷も、それに倣うように目を瞑った。


 目を瞑ったせいで相手の顔の場所が曖昧になる。お互いに初めての口付けは、ひどく稚拙なものだった。だが、夜道で街灯の明かりを探すように、相手の呼吸音を頼りに口を近付ける。そして、お互いの呼吸をお互いの口で受け止め合って、覚悟を決めた。


 そして――次の瞬間、玄関扉が勢いよく開けられる音が聞こえた。


 ビクゥッと肩を震わせた両名。澄冷が大慌てで弥香から離れようとすると、弥香もそれに呼応するように仰け反って、思い切りローテーブルに背中をぶつける。そして、勢いで卓上のペットボトルが倒れ、お菓子が乗っていた紙皿を叩き、お菓子が宙を舞う。


「ぎゃー! お、お菓子が!」

「待って弥香ちゃん! ドライヤー!」


 忠告とほぼ同時、お菓子を拾おうとして置きっぱなしだったドライヤーに足を引っ掛けた弥香は転びかけ、それを支えようとした澄冷ごとまとめて床に転がる。


「ちょっとちょっと、何の騒ぎ⁉ まさか喧嘩して――」


 どうやら戻ってきたのは藍墨達だったらしい。財布でも忘れたのだろうか。


 仄かに汗をかいた藍墨と海月が部屋の扉を開けると、カーペットに転がったお菓子をお腹で押し潰す弥香と、それに覆い被さるメイクの崩れた澄冷の姿。


 二人はそんな光景を呆然と眺め、顔を見合わせた。


 何があったかは分からないが、何かが起きたことは明白だ。


 しかしながら、仲直りが済んだことも明らかだったから――藍墨と海月は吹き出した。






「結果発表~!」


 約二週間後。夏休みも目前に控えたある日の放課後、部室で、弥香が某太鼓ゲームキャラの声真似をした。固唾を飲んで見守る藍墨、海月、澄冷。三人の前に答案が広がる。


 緊迫の表情でざっと目を通す三人。そして、その目がカッと見開かれた。


「赤点、なんと、ゼロです! わー!」


 弥香が歓声と共に満面の笑みで拍手をすると、三人も思わず声を上げて拍手に応じた。


 三人からすれば、まだまだ酷い点数だ。赤点をギリギリ回避しているとはいえ、平均点未満も多い。だが、注力した六教科に限っては平均点を大きく上回っており、彼女の元の成績を考慮すると上昇量は著しい。歓声を上げるに足る結果と言えるだろう。


「本当に頑張りましたね。胸を張っていい結果だと思いますよ、弥香」

「んふふふ、私はね、やればできる子なのですよ。もっと褒めろぅ!」

「ちゃんと頑張ってたもんね。私は見てたよ、弥香ちゃんの努力。凄い!」

「でしょでしょ? いやぁ、お陰様で赤点ゼロゼロ、補習ゼロゼロ、ぜっぜ~、ゼロゼロ、おっお~」


 弥香はご機嫌な様子で、頭の上にゼロを示す輪を腕で作りながらステップを踏む。


「何よ、その気持ち悪い動き」

「ゼロゼロ音頭」

「馬鹿の舞かと思いました」

「なんだとぉ!」


 弥香は上機嫌を隠せない怒り顔で海月に噛み付き、海月も微笑みながらそれをあしらう。


 その傍らで藍墨は弥香の答案を一通り眺め、本当に彼女が頑張ったのだという事実を噛み締める。無論、藍墨や海月、そしてもちろん澄冷も丁寧に指導をした。だが、教示(ティーチング)ではなく指導(コーチング)の側面が大きい。結果という実を結ばせたのは、最終的には弥香の努力による部分が大きい。


 見ると、澄冷も心から嬉しそうな笑みで弥香の答案を眺めている。


 ふと、目が合った。澄冷は嬉しそうな破顔を見せ、藍墨も頬を綻ばせた。


 ――弥香の家で授業を実施した数日後、藍墨と海月は時間を設けて澄冷の心境の変化を聞いた。細かい部分は伏せつつも、弥香と澄冷の間に何があったか、今はお互いにどう思っているかを聞き、そして、もう心配は要らないと判断した。


「――っと、そうだそうだ! まあね、私も頑張りましたけども! 流石に皆さんに教えてもらった部分は大きいんじゃないかと思った訳よ!」

「『大きいんじゃないか』っていうか、大きいでしょ」

「うるさい! そこでね、一応、お礼をと思いまして」


 弥香は少し照れくさそうにしつつも、鞄から何かを取り出す。


 机に置いたそれは、タッパーに入った剥き出しのクッキーだった。中には乾燥材も。市販品としては少し不揃いなそれを恥ずかしそうに置いた弥香は、「や、焼いた」と一言。弥香が自分で作ったものをこうして持ってくるのは初めてで、藍墨はもちろん、海月も澄冷も唖然としている。すると何を思ったか、「中まで火は入ってるよ!」と弁明。


 弥香のことだから生焼けなど心配な部分もあったが――本人がそこまで意識していたのなら、きっと大丈夫だろう。それに、心配よりも驚きが多かっただけだ。


「私は紅茶を準備しましょう。珈琲がよければ言ってください」

「もちろん私も有難く頂くよ。でも、こんなに大変じゃなかった?」


 海月が言いながら立ち上がり、澄冷は笑顔でタッパーを受け取る。


 二人が素直に受け取ってくれたから、弥香はパッと笑顔を咲かせた。


「んまあ、正直、面倒くさかったよ! あんまりやりたくないかも」


 そうは言いつつも、弥香は後ろで手を組んで、恥ずかしそうに付け加えた。


「でも、お礼を形にしたかった」


 藍墨と海月、澄冷は歯痒いような感情を共有し合うように視線を合わせる。


 弥香の為に休日に勉強を教えに行った。彼女の過去を心配した。それらは、自分の中にある心配を拭うための行動で、決して弥香の為だけの行動ではない。だから、勉強では結果を出して、過去の苦悩については、いつか乗り越えてくれれば、それでいい。


 わざわざクッキーなんて焼いてくれなくても、それだけでよかったのだが――形になった弥香のお礼が思いのほか嬉しかったから、藍墨はニヤリと笑う。


「『お礼』なら――私達三人で食べていいってこと?」


 ハッと目を丸くした弥香がぶんぶんと首を左右に振った。


「駄目に決まってるでしょ、私も食べる! 私よ、産まれてきてくれてありがとう!」


 そう叫ぶが早いか、弥香は誰よりも真っ先に自分の焼いたクッキーに手を伸ばす。


 一息に二枚を口に放り込んで「美味い!」と叫ぶ弥香。


 「自画自賛ですね」と海月は紅茶を準備する手を止め、クッキーを一つ摘まむ。そして一口噛んで目を丸くしたかと思うと、「確かに美味しいです」と素直に褒めた。


「でしょでしょ、ちゃんとレシピを調べて真面目に作ったんだから!」

「それじゃあ私も一口頂こうかな」


 そうして食べた澄冷が絶賛の声を上げると、気分を良くした弥香が朗々と頑張ったところを語り出し、二人は微笑ましくそれを傾聴していた。途中から、海月が紅茶と一緒に茶々も入れつつも、澄冷は律義に弥香の秘伝クッキーレシピをスマホにメモしている。


 藍墨は時折、適当な口を挟みながらも、それを微笑ましく眺めた。


 そんな光景が愛おしくて写真でも撮ろうとした藍墨は、ふと、スマホの通知に気付く。


 SNSの通知だった。藍墨のスマホに届く通知は主に二種類。自分への返信やダイレクトメッセージなどの気付かなければいけないものと、澄冷か弥香のアカウントの投稿。


 今回は後者だった。アカウント名は両翼の大天使ミカエル。投稿日は先ほど。


『パパ活批判はブランドものを買えない貧乏人の僻みだ』


 そう叫んだ数分後には、ミカエルは手のひらをひっくり返している。


『パパ活とはすなわち売春のことで、放置すると日本の品位が――』


 相も変わらず芯も無く叫び散らかすだけの『究極のかまってちゃん』に、藍墨は苦笑混じりの溜息を吐き出す。思い返すと、小春の言っていたその指摘は正しかったのだろう。弥香は誰かに構ってほしくて、それで炎上などという愚かな道に進んだのだ。


 いつかは自立すると語っていたそうだが、これを見る限りではまだ先の話だろう。


 だが――軽く吹き出した後、藍墨は『いいね』も付けずに投稿を閉じ、そしてカメラを起動する。それから、わいわいと騒ぐ三人にカメラを向けた。


 人間、そんなすぐには変われない。だが、そんな人生が愛おしかった。



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