17話
――全身の筋肉が一斉に収縮したように、弥香は跳ね上がって飛び起きる。
バクバクと、痛いくらい心臓が脈動していた。全身を冷や汗が濡らしている。脳の奥に氷を差し込んだような鈍い頭痛が脈拍に合わせて頭を襲う。
レースのカーテンから差し込む陽射しは正午を過ぎて間もないもの。
弥香がゴロゴロと痛む目でぐるりと室内を見回すと、そこはベッドやローテーブルが置かれた質素な自宅のワンルームだった。どうやらベッドにもたれかかりながら眠っていたらしく、腰や背中の辺りが痛い。サイバー研の面々が来る前に片付けを済ませて、待っている間に居眠りをしてしまったらしい。
弥香はしょぼしょぼする目を擦りながら、壁時計を凝視して時間を確かめる。
集合時間は十三時半だったはずだ。そろそろ来てもおかしくないが――そう思って、靄の消えつつある眼でどうにか時間を確かめた弥香は、目を疑う。
分針は八と九の間を指していた。時刻は十三時四十三分。変な声が喉奥から出る。
何回、目を擦って確かめても、時間は変わらない。既に集合時間は過ぎている。
変な汗で服の中に冷たい感覚を味わった弥香は、転びそうになりながら駆け出す。そして玄関扉を開けるも、澄冷達はそこに居ない。「なんで」泣きそうな声で呻いた弥香は、再び部屋に戻って時計を確かめて、集合時間が過ぎていることを確かめる。
弥香の脳裏を悪夢が過った。目尻に涙を滲ませながら、まだ覚醒しきれていない頭を精一杯動かして考える。休日にまで自分に勉強を教えるのが急に嫌になったのだろうか、それとも事故に遭ってしまったのだろうか、弥香は半泣きで電話をしようとスマホを探す。
その時だった。ピンポーン、と、場違いに軽快な音が部屋に響き渡る。
弥香が大慌てでドアモニターのボタンを押すと、見慣れた三人が顔を覗かせた。
「遅くなってごめんね、弥香ちゃん。澄冷です。それと取り巻きが二名」
そんな澄冷の言葉の後、後ろで手を振る藍墨と海月。
それを視認した弥香は、全身から力が抜けるのを感じた。そして、泣きそうだった顔を一気に緩めると、鼻をすすって笑い、エントランスのオートロックを解錠する。
「もー、日付を間違えたと思った! 開けたよ、入って入って!」
弥香は満面の笑みでぐしぐしと目元をシャツの裾で拭い、歓迎の支度をする。
やがて、今度は部屋の方のインターフォンが鳴った。念のため覗き窓を確かめた弥香はだらしない笑みをこぼし、鍵と扉を開け放って歓迎した。
「いらっしゃーい! 遅かったじゃんか、もう! 事故に遭ったかと!」
すると、扉の前には微かに汗を浮かべた澄冷と海月と藍墨。手にはビニール袋。
微かに息を乱しながら玄関に上がった澄冷は、申し訳なさそうに相好を崩す。
「ごめんね、途中で飲み物とか買おうって話になって――連絡はした、んだけど……」
と、不意に澄冷は何かに気付いたように弥香をジッと見詰めた。その顔が心配そうに歪む。「?」と首を傾げる弥香。しばらくその顔を眺めた藍墨が、代わりに訊いた。
「アンタ、もしかして泣いてた?」
触れるべきか悩ましそうな慎重な質問に、弥香は何度か瞬きを繰り返す。そして、それを弱々しい笑みに変えると、シャツの裾で再び目元を拭った。
「変な夢見ちゃったの」
しかし弥香は深くは語らず、「ほら上がって!」と三人を手招いて奥へ。
三人は一瞬だけ視線を交錯させる。だが――重い空気を引き摺っても仕方が無い。そう判断した藍墨は「客人にスリッパも無いとはね」と軽口を叩きながら奥へ行った。
幾らか空気が弛緩して、海月と澄冷も一抹の安堵と共にそれに続いた。
さて、四人で勉強する程度の余裕はありそうなワンルームの一室には冷房が効いていた。薄っすらとかいた汗の気化熱で体温があっという間に必要以上に奪われていく。
明るく楽しい性格の弥香とは対照的に、部屋には余計なものが置いていない。ベッドとローテーブル、それからその近くには何やら厳ついマイクやカメラなどの機材だけ。
四人は中央に置かれているローテーブルを囲って座る。三人がお茶菓子や飲み物の手土産を次々に置いていくと、弥香は勉強もそっちのけに満面の笑みを見せ、「そうだ!」と席を立った。数秒後、トレイに四人分のマグカップを乗せて戻ってくる。
「じゃーん! 藍墨と海月のマグカップも買いました! 百均だけど!」
笑顔で弥香が見せるのは、藍色と黄色のマグカップ。
「藍墨は藍だからまんま藍色でしょ、海月は月だから黄色!」
そう言いながら弥香がマグカップを差し出してくるので、二人でそれを受け取る。
藍墨と海月はやや驚いたような顔を見合わせる。紙コップを買ってきているのでそれで済ませるつもりだったのだが、まさかそこまでしてもらえるとは。
――百均だけど、と弥香は言うが、そんなことは関係ない。藍墨は微笑み、海月は堪えきれず嬉しそうに破顔した。
「別によかったのに。わざわざありがとね」
「ありがとうございます。代わりと言ってはなんですが――」
言いながら海月がビニール袋を漁るので「いいよ、そんなの!」と弥香が手を振る。
「――レシートをあげます」
「本当にそんなのじゃん! 要らないよ!」
「冗談です。お菓子も買ってきたので食べながら勉強をしましょう」
どうやら暗い空気を払拭するための冗談だったらしい。海月は軽く肩を竦めた後、ビニール袋からお菓子を取り出す。それを見て、藍墨も思い出して鞄を開ける。
「あ、そうだ。あたしも、一応それらしい茶菓子も買ってあるから」
二人が少し高めのお茶菓子を並べると、弥香は「わ」と嬉しそうな声を上げた。
「勉強前に少し食べよう!」と彼女は浮かれながらペットボトルに手を伸ばし――ふと、何かを思い出したように動きを止めて己の両手の平を見た。そして、パタパタとシャツの襟を摘まんで中に空気を入れると、ほんのり頬を染めながらか細い声で言った。
「ごめん、ちょっと、さっき凄く汗かいて……シャワー浴びてきていい?」
友人を家に招いた状態でするものではない、と思うくらいの良識はあるらしい。
とはいえ、そんなことを気にするような面々ではない。三人が「どーぞ」と声を揃えると、弥香は着替えとバスタオルを衣装棚から引っ張り出して廊下に面する浴室へ行く。
さて、家主が居なくなった一室で、藍墨は溜息と共にベッドに背中を預ける。
数秒の沈黙が場に降りてきた。誰も勉強道具を取り出さず、飲み物も菓子も開けない。澄冷は思い詰めたような表情で俯き悩んで、それが気になっている藍墨と海月は何も言わず、ジッとその顔を見詰め続けている。ハッと我に返ったように澄冷が顔を上げ、突き刺さる二人の視線に気付くと、誤魔化すように菓子類を開けようと手を伸ばす。
「――で? 清川は何を悩んでるの?」
藍墨がふと、そんな流し目を送ると、澄冷は半笑いでギクリと肩を震わせた。
「な、何の話?」と誤魔化すように笑うから、澄冷が開けた袋から一足先に個包装のお菓子を摘まんだ海月が、それを口に放り込み、手で口を隠しながら続く。
「むぐ……部屋に入ってから一言も喋ってないじゃないですか。貴女が静かなのは別段珍しくもありませんが、そこまで浮かない表情なのはレアです」
「……そんなに顔に出てた?」
澄冷が己の頬に触れながら瞳を伏せると、藍墨は「いっそ書いてあった」と頷いた。
澄冷は自己嫌悪に駆られた様子で顔を覆い隠して溜息を吐き――呻きながらローテーブルに突っ伏す。「私達でよければ話してくださいよ」と海月が突っ伏した澄冷の頭にせんべいを置くと、澄冷は「んむぅ」と唸ってそれを手に取る。
「思えばここ最近、ずっと様子がおかしい。最初は――二夕見が勉強を教わろうとした日かしら? 部屋で、二人で何かしてたかと思えば、勉強会の件を言い淀んだ」
せんべいを食べずに見詰める澄冷を眺めながら、藍墨はそう語る。
恐ろしいほどの慧眼である。澄冷は鋭い二人に観念して、瞑目し――白状した。
「……私、弥香ちゃんと少し距離を置いた方がいいのかな、って」
驚愕の告白を受け、海月は愕然とお菓子をカーペットに落とす。藍墨はまん丸く見開いた目で澄冷を見詰める。そして、二人で視線を合わせた後――再び澄冷を見た。
「な、なに、喧嘩でもした? 仲裁なら買って出るけど」
「そういう雰囲気には見えませんね。理由をお尋ねしても?」
澄冷は淀む心を落ち着かせるように深呼吸をした後、扉を隔てて聞こえるシャワー音の方を一瞥する。そして唇を噛んで瞑目した後、徐に開けて、告げた。
「――弥香ちゃんは、まだ、自分の家族のことに囚われていると思うの」
話が極めて深刻なものであると察して、藍墨は閉口して気持ちを切り替える。
海月は「ふむ」と勘案するように顎を摘まんで視線を伏せると、澄冷を見る。
「他人への精神的依存から抜け出せていない――という話ですか?」
「なるほど」と藍墨は一足早く小さな声で得心し、澄冷も沈痛な面持ちで頷く。
「弥香ちゃんは人懐っこいけど、その根底では――……ごめんね、陰口みたいになる。でも、断じてそんなつもりはないの。だけど……弥香ちゃんは、やっぱりいつも、誰かとの繋がりに飢えているんじゃないかって、そんな風に思う」
心の底から辛そうな顔で、澄冷はそう絞り出した。
それを言語化するのは本意ではないのだろう。しかし、澄冷がどれだけ弥香を見て、弥香を想っているかは藍墨にも海月にもよく分かる。藍墨はその意志を高く買い、口を噤んで先を促し、海月は真剣な顔で頷いてその言葉を認めた。
「どう感じるかは人それぞれですね。賛同するかはさておき、他でもない澄冷さんの考えであるなら。それは否定しません。――けど、どうして、弥香が繋がりに飢えているという事実が、弥香と距離を置くという話になるんでしょうか?」
海月の問いに、澄冷は微かに眉尻を下げると、沈む感情を押し留めながら答える。
「二人が、言ったじゃない? この前、弥香ちゃんが勉強を教えてって言ってきた時」
視線を合わせて記憶を掘り起こす藍墨と海月。代わりに澄冷が言葉にした。
「人に縋り続けた先にはその人の堕落があって、でも、堕落した時、その人の傍に自分が居る保証はない」
――日頃の自分に生じる負荷を全て代替してもらった果てにあるのは堕落の一途。
――あたし達が毎回勉強を教えなければいけないって状態は健全じゃないでしょ。
思い出した藍墨と海月は再び視線を合わせ、微かに気まずそうに顔を歪める。まさか弥香に発破をかけるための言葉が、巡り巡って澄冷を爆破していたとは。
「それは、怠け切った弥香を奮い立たせるための言葉です」
海月がそう弁明をすると、澄冷も二人を責めている訳ではないのだと苦笑する。
「そ、それは分かってるの。ごめんね、嫌味っぽく言っちゃって――でも、そうじゃなくてね。もしも、なんだけど……苦しみを乗り越えなきゃいけない時、すぐ傍で支え続けている人が居るなら、それは、その人が立ち直る邪魔をしてるんじゃないかって……」
澄冷は、一切の自信が消え失せた不安一色の瞳を揺らして声を絞り出す。
「弥香ちゃんの傍に居たいと思うのは、私の自己満足なんじゃないかって、そう思うの」
膿は出尽くした様子だ。幾らか肩の荷が降りた様子で、澄冷は一息を吐く。
海月はテーブルの上に置いた手を組んで神妙な顔で押し黙り、藍墨も少し、考える。
何かしらの悩みを抱いていると思っていたが、想像以上に深刻な話だった。
しかし、不思議と気分が沈まないのは――澄冷が弥香を大事に想っていると確信できたからだろう。それも、相手から依存される状態は健全ではないと考え、同時に、自分自身の気持ちが依存になってしまわないような客観性も維持している。自己満足ではないかという自問が出た時点で、それはその精神性を高潔だと評価させるに足るものだ。
しかし、それでも澄冷自身が弥香との向き合い方に疑問を抱いているのなら、それは解決する必要がある。さて、どうしたものか。藍墨がそう腕を組んでいると、
「端的に言えば、気にし過ぎだと思います」
楽天的な声で、海月がそう切り捨てた。
澄冷はどこか肩透かしを食らったような、拍子抜けした顔で唖然と口を開く。
「き、気にし過ぎ……かな……?」
「はい。共依存が不健全であることは否定しません。でも――共依存ってゼロかイチではないと思うんです。普通の家庭の普通の親子でも、数パーセントくらいは相手の存在で自己のアイデンティティを確立している部分があるはず。そういう意味では、どれだけ気を遣おうとも貴女と弥香の間には相互に抱く感情で支え合う部分が生まれてしまう」
海月は澄冷を安心させるため、微笑みながら言葉を尽くす。
「だから、問題は存在そのものではなくそれが際限なく肥大化すること。でも、今、澄冷さんは自分の行いを見詰め直して悩んでいます。それができるなら、心配は要らないでしょう。貴女は膨れ上がった依存をフラットに戻せる自制心を持っています」
葛藤に瞳を揺らす澄冷へ、海月は優しくこう付け加えた。
「私は、そこまで愛されている弥香が羨ましいですよ」
普段の人を食ったような態度は何処、海月は努めて誠実に言葉を尽くした。
澄冷も、その言葉を受けても尚、薄暗い葛藤を抱え続けるのは難しかったらしい。「そっか」と明らかに気持ちを切り替えた表情で呟き、「そうなのかな」と続けた。
そうして、先程よりは幾らか強い意思を表情に思い悩む澄冷。
そんな彼女をしばらく見詰めた海月は、薄笑いを浮かべながら藍墨に流し目を送る。
「朝陽さんはどうです? 何か思うところはありますか」
思考を切り上げてこちらを見る澄冷。藍墨は軽く眉を上げると、半笑いで肩を竦めた。
「生憎、あたしが言いたいことは全部星ヶ丘が言っちゃったわ」
冗談めかした言葉に可笑しそうに肩を揺らす海月。澄冷も幾らか表情が弛緩する。
そんな二人に「ただ、付け加えるなら」と、藍墨は続ける。
少し不思議そうにする澄冷と数秒、藍墨は黙って視線を交錯させる。そしてシャワー音のする廊下の方を一瞥し、今までの弥香との会話を思い出してから言った。
「――二夕見は、ちゃんと立ち直れる奴だと思う」
澄冷の双眸が瞠られた。藍墨は揺るぎない眼差しでジッと澄冷を見詰める。
二夕見弥香の過去は、きっと聞いた通りで間違いないのだろう。
彼女は親に捨てられた。そして、それに端を発してか、人との繋がりを強く渇望しているという事実を藍墨も肌で感じる。
しかし、弥香が現在、誰かに依存して自己を支えており、今後もそうし続けるのではないかという澄冷の懸念には異議を唱えたい。
澄冷はこの中で最も弥香と近しい人間だからこそ、公平に物事を見るために、近すぎる距離に対して厳しく否定的な視点でバランスを取った。だが、ここ最近知り合って、そして様子を見てきた藍墨であれば、真に客観的な視点から言葉を紡ぐことができる。
そう思ったが故の藍墨の評価に、澄冷は不安そうな目で尋ねてくる。
「どうして、そう思うの?」
藍墨はつい先ほどの弥香の涙を思い出して、言った。
「さっき、悪い夢を見たと言った。具体的に何かは分からないけれど、もしかしたら家族のことかもしれない。だとすれば清川の言う通り、未だに過去に囚われているんだと思う。でも――それに苦しんでいたとしても、それをあたし達には吐き出さなかった」
澄冷の目が大きく見開かれた。間もなく、納得したように瞑目して頷く。
藍墨は自身の考えが伝わったことに安堵しながら、丁寧に言葉を重ねた。
「自分で抱えて、前に進もうと努力している。あたしはそう解釈した。決して清川を否定するつもりは無いけれど……あたしは二夕見の努力を認めて、見守りたい」
藍墨は「それに」と幾らか楽天的な声で言う。
――そしてふと、藍墨が窓の外に視線をやる。二人も続いて目を向けた。
レースのカーテンの向こう、青々とした空を背景に鳥が悠然と飛んでいた。
「羽を怪我した鳥を空に投げても、飛び立てないでしょ? 傷が癒えるまでの止まり木になることを――そんなに、難しく考えなくてもいいと思う」
サイバーセキュリティ研究部は弥香にとっての鳥籠ではない。止まり木だ。
根本の認識が誤っていたことに気付いた澄冷は、視界が開けたように呆けた顔を見せる。そして、青々とした空にしばらく見惚れると、自由な空を往く鳥に想いを馳せた。
やがて、自嘲気味に「そっか」と呟きながら両手で顔を覆う。そして、自分の足跡を否定しなくてもいいのだと気付けた安堵に、表情を少しだけ緩めて、徐に顔を上げる。
そして、色々な感情を噛み締めながら、澄冷は感謝の念を呟いた。
「二人とも、ありがとね。私は……本当に友達に恵まれた」
「どういたしまして」と、示し合わせたように藍墨と海月の台詞が重なった。
澄冷は吹っ切れたように笑い、それを見た藍墨と海月も幾らか表情を和ませた。
さて、そんな会話をしていると、いつの間にかシャワーの音が止んでいた。
そして浴室を出てきた弥香は、脱衣所が無いので平然と廊下で身体を拭いて着替えを始める。曇り硝子越しにその情景を見てしまった澄冷は、目を白黒させながら逸らし、己を叱責するように鋭く両頬を弾き出した。そんな奇行を藍墨と海月がギョッと見る。
それから十数秒後、ぶかぶかのシャツを着た弥香が満面の笑みで出てくる。
「お待たせしましたー! ふぃー、さっぱりだぜ!」
風呂上がりの弥香はいつもと雰囲気が違って見えた。一番大きいのは髪だろうか。二本の三つ編みにしている腰より長い茶髪が、今はストレートに伸びている。新鮮だ。見慣れぬ弥香の姿に澄冷が挙動不審になる中、藍墨はテーブルに頬杖を突いて呟く。
「そんだけ髪が長いと大変でしょ。洗うのも乾かすのも、結ぶのも」
「そうなんよー! もうねぇ、切っちゃいたいんだけどね。でも澄冷が可愛いって言ってくれるからあんまり切りたくないの。ね! だから乾かしてくれるよね! ね!」
言いながら弥香が満面の笑みでドライヤーを引っ張り出して澄冷に差し出す。
澄冷は「あ」「いや」と視線を泳がせた。新鮮な弥香の姿にドギマギというのが二割、残りの八割は先程まで抱いていた弥香への接し方に対する懐疑心の名残。
しかし、澄冷は何かを考えた後――すとんと肩の力を抜く。そして、力の抜けた優しい笑みを浮かべると、ドライヤーを受け取った。
「うん、おいで」
すると弥香はパッと顔を明るくして「本当⁉」と目を輝かせた。
藍墨と海月は軽く視線を合わせると、示し合わせたように一斉に立ち上がる。
「じゃ、あたし達はしばらくその辺を散歩してくるわ」
藍墨がそう言いながら玄関の方を指すと、「えっ」と弥香が目を丸くする。
「ど、どうして⁉ そんな長々と乾かさないよ⁉ 待っててよ!」
「実はこの辺りに新しくカフェができたそうで。朝陽さんと行こうと話をして」
「えー⁉ 皆で行こうよ、私も行きたい!」
「ところがそこの店主、馬鹿が嫌いらしくて。前科八犯なのよ」
「怖い怖い怖い! 何して八回も捕まったの⁉ 馬鹿が行ったら殺される⁉」
「八回とも脱税」
「一番の馬鹿は店主でしょ」
流石に冗談だと気付いたらしい弥香が不満そうに「そんなに私達と行きたくないの」と頬を膨らませるから、藍墨は苦笑をして「居た方がいい?」と弥香、そして澄冷に訊く。
すると弥香はようやく、藍墨と海月の真意に思い至ったらしい。ここ最近の澄冷の様子がおかしいことには気付いていたのだろう。澄冷の顔を盗み見る。
そして澄冷が「外してくれると」と答えたから、藍墨と海月は頷いて退室した。
「三人で内緒話してたんだ」
藍墨と海月が部屋を出て行ってからしばらく。
ベッドに背中を預けた澄冷の足の間で髪を乾かされながら、弥香がそう呟く。言葉には責め立てる色はない。むしろ、その意図に勘付いているように、少し嬉しそうだ。
澄冷は「うん」と、弥香の綺麗で長い髪を丁寧にドライヤーで乾かしながら頷く。
「正直、嫌われるようなことしちゃったかな、と思ってた」
弥香が前を向いたままぼそりと言うから、澄冷は微かに動きを強張らせた。
「……そんなことない。勝手に嫌うなんて、絶対にそんなことしないよ、弥香ちゃん」
「でも、最近、少しぎこちなかったよね? 何か嫌なことしちゃった?」
「ううん、そういうのでもない。弥香ちゃんは何も悪くないよ」
「何も悪くないなんてことはないよ。少なくとも頭は悪いからね。んふふ」
笑ってはいけないのだろうが、切れ味のある自虐ジョークに澄冷は吹き出す。
澄冷が笑ってくれたのが嬉しかったか、弥香もニコニコと満面の笑みで肩を揺する。
「ごめんね、色々、悩んじゃって。それが態度に出ちゃった」
幾らか弛緩した空気に身を委ねるように、澄冷はそう語る。弥香は丸い目を何度か瞬きすると、「そっかぁ」と自分からは掘り起こさず、聞きに徹した。
さて、ある程度は髪も乾き始めたかという頃。澄冷は静かに切り出す。
「さっき、弥香ちゃんが言ってた……変な夢、ってさ。昔の話?」
もしも彼女のトラウマに関わることであれば、それを聞き出すことが正しいのかは分からない。しかし、聞かずに話を進めることもできない。
思い詰めた表情でそんな疑問を繰り出した澄冷だったが、弥香の返答は軽いものだ。
「――うん、そうだよ。お母さん達が居なくなった時の」
澄冷は悲痛に歪んだ顔で悔恨と苦悩の吐息をこぼし、それがドライヤーの音に掻き消える。弱々しく唇を噛みながら、それを気取られないように振る舞うが――髪を伝播して伝わる微かな指の震えを感じ取ったように、弥香は緩んだ表情を微かに締め、微笑する。
「大丈夫だよ、そんな心配しないで。たまに思い出すだけで、もう全然気にしてない! 今は皆が居るからね! まったく寂しくないし、むしろ毎日楽しいよ! 本当に」
そう励ますように言葉を尽くす弥香だったが、逆効果だった。
澄冷は見開いた眼を大きく揺らすと、奥歯を噛む。ドライヤーのスイッチを切った。
不思議そうに振り返った弥香が見たのは、具合でも悪いのかと心配になるほど苦しそうな顔をした澄冷だった。弥香は心配そうに澄冷の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫? 何か、嫌なこと言っちゃった?」
澄冷はそんな心配をさせた自分に嫌悪感を抱きながら、首を左右に振った。そして、うじうじと思い悩む自分に対する自己嫌悪を強めながら、苦悩の片鱗を言葉にした。
「凄く、凄く弥香ちゃんに失礼なことだけど、言っていいかな」
「うぇっ……ま、まあ……どんとこい!」
弥香は微かに怯んだが、怯えを澄冷への信頼で塗り潰して身構えた。
澄冷は奥歯を噛んで視線を虚空に流した後、そっと声を絞り出す。
弥香は言った。皆が居るから楽しい、と。しかし――
「――人生、何があるか分からない。数年後かもしれないし、十数年後かもしれないし、数十年後かもしれないけど……いつか、私達はお別れするかもしれないよね?」
悲痛な感情を幾つも乗り越えて言葉を絞り出した澄冷を見て、弥香は弱々しい顔で口を噤んだ。澄冷は、自己嫌悪と決意が綯い交ぜになった顔で弥香の未来を詰問した。
「その時、弥香ちゃんは大丈夫?」
弥香はようやく澄冷の言わんとすること、その全貌を理解して目を丸く見開いた。
「私がずっと近くに居るのは、弥香ちゃんの決別の邪魔になってない?」
澄冷が泣き出しそうに顔を歪めながらそう質問を続けると、弥香は全てが腑に落ちて肩を落とす。そして、不安も不満も、怯えも――負の感情の一切を表情から消す。しばらく真面目な顔で思い詰めたかと思うと、表情を優しく緩め、静かに首を横に振った。
「そんなことは絶対にないよ、澄冷」
その声は普段と少し違った。子供っぽく誰かに甘えるときのものでも、敢えて不遜な言い回しをして場を和ますときでも、或いは素の可愛らしいものでもない。
不安に駆られる友人を励ますために、弥香は穏やかな声色を作って語る。
驚いた澄冷は顔を上げ、弥香の顔を見詰める。そして、優しく微笑むその顔を見て――――悟った。自分が、とんだ傲慢な勘違いをしていたことを。
澄冷は、自分が弥香の未来を心配しているつもりだった。
だが、違った。逆だ。
勝手に不安になっていた澄冷を、今、弥香が心配しているのだ。
ようやくそれに気付いた澄冷が、自己嫌悪に暗い顔を俯かせる。
だが、そんな澄冷の両手を弥香が握った。
弾かれたように再び顔を上げる澄冷。弥香は心から嬉しそうに頬を綻ばせた。
「――ありがとね、ずっと、心配してくれてたんだね」
その一言で自己嫌悪が払拭されそうになる自分の浅ましさが、澄冷は嫌になる。
澄冷は目の奥に熱を感じて、誤魔化すように唇を噛んだ。
弥香は更に強く澄冷の手を握って、弥香は真っ直ぐに澄冷を見詰めた。
「正直に告白するよ。私は、サイバー研のみんなが居るから人生が楽しい。みんなのお陰で、今は気持ちが落ち着いてる。だから、居なくなったら凄く寂しいと思うし、凄く苦しくなると思う。そういう意味では……まだ、大丈夫じゃないかも」
少しだけ自嘲気味に笑った後、弥香は心配そうな澄冷に微笑みを向けた。
「でも、いつか、ちゃんと大丈夫になる。みんながいなくても寂しくないって胸を張って言えるようになるよ。だから、澄冷。安心して。それまで、傍に居てよ」
澄冷は目尻に熱い雫を膨らませると、それが落ちてしまわないように目を開いて俯いて、何度か熱い呼吸を繰り返した。
そして、ゆっくりと首を横に振って、くぐもった声で弥香の弱さを認めようとする。
「誰だって、一人は寂しいよ。そこまで強くならなくたっていいと思う」
寂しく思うのは当然だ。それを堪えられないのではないかと澄冷は心配していただけ。寂しさを感じなくなる必要は無い。澄冷はそう言いたかった。
しかし、弥香は間隙を置かずにハッキリと言い返す。
「ううん、きっとそうなる。絶対に、そう言えるようになる」
小首を傾げた澄冷に、弥香は満面の笑みを見せた。
「そうすれば、みんなと一緒に居る理由が、寂しいからじゃなくて、好きだからになる」
澄冷は視界が一気に曇り、束の間、世界が何も見えなくなった。
震える呼吸が喉から絞り出され、熱い液体が自身の膝を叩いた。
ポロポロと涙を落とす澄冷から、弥香は強い愛情を感じ取る。友達が泣いているのにそれを喜ぶというのは凄く性格が悪いような気もしたが、しかし、堪えきれなかった。
「泣かないで。澄冷が私のことを大事に想ってくれてるのが、凄く伝わったよ」
弥香は自身が抱いた感情を素直に伝え、そして澄冷の震える身体を抱擁した。
澄冷は嗚咽を上げながら抱き締めて返し、くぐもった声で謝罪を紡ぐ。
「ごめ、ごめんね……弥香ちゃん。私……何も、分かってなくて」
震える澄冷の背中を優しく撫で、弥香は少しだけ目を濡らす。
――何も言わずに消えた実の両親。他人として接し続けた義理の家族。
愛情を渇望していた。そして、それを注いでくれる友人達に、心理的に依存していた。澄冷の危惧していた通り、最初は、その居心地の良さに浸っていた。
しかし、いつからだったか、そんな友人達が居なくなる悪夢を見始めた。
嫌な夢を見ては、現実を見て安堵して、その繰り返し。ふと、気付く。
――私は、私を大事にしてくれる人で安心しようとしているだけじゃないか。
だから、そんな悪夢由来の雑念を否定したい。弥香は、自分が憧れた素敵なインフルエンサーのように、胸を張って好きなものを好きと言えるように、過去を清算する。いつか悪い夢を忘れられたその日に、笑顔で、胸を張って大好きだと言えるように。
その夢を最初にくれたのが、他でもない清川澄冷だった。
「ううん、私を一番理解してくれてるのは澄冷だよ。絶対にそう」




