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16話

 ――そうして訪れた週末。


 十三時前。藍墨が駅の改札口の向かいにあるステンドグラス前でスマホを触っていると、改札から二人組が歩いてくる。見ると、その二人は随分と注目を浴びていた。


「朝陽さん。お待たせしました。今日は暑いですね」

「一応、五分前だから許してくれると嬉しいかな。こんにちは」


 澄冷と海月だった。対面した藍墨は、一瞬、思わず言葉を失った。


 弥香や藍墨も容姿は悪くない部類だが、この二人を前にすると霞むと言わざるを得ない。制服姿が見慣れているせいで感覚が麻痺しつつあったが、こうして私服を目の当たりにすると、新鮮さが否応なしに二人の魅力を脳に叩き付けてきた。


 澄冷は黒を基調とした半袖のシャツワンピースで、太陽光を集めて仕方が無いだろう色なのに、全身は不思議な清涼感を纏っている。対して、海月はオーバーサイズの半袖にハーフパンツと極めてカジュアルかつシンプルなのに、味付けの淡白さが素材の旨味を引き立てていた。今日は珍しく髪をポニーテールにしており、不覚にも目を奪われる。


「朝陽さん? どうしました? 間抜けな顔をして」

「ああ、よかった。見慣れぬ美人だと思ったら星ヶ丘だった」

「あらやだ、澄冷さん。美人ですって。ルッキズムですよ、ルッキズム」

「反骨精神だね。私は藍墨ちゃんのそういうところ素敵だと思うよ」


 言われ慣れているのか、二人は微かも動じた様子を見せない。


「誉め言葉くらい素直に受け取りなさいよ」


 ――厳密にはルッキズムとは人を外見に基づいて判断し、差別することの意である。それに照らし合わせると、藍墨はむしろ贔屓しない分だけ平等側の人間である。


 さて、揃った三人は澄冷を筆頭に駅を出て市街地を歩き出す。


 目的地は弥香の家。つまり、今日の授業会場である。


 淀みない足取りで弥香の家までの道を歩く澄冷の後ろ姿を、藍墨は暫し眺める。


「清川は何度か二夕見の家に来たことあるんだっけ?」

「うん! まあ、そんな高頻度じゃないけどね。案内は任せてよ」


 暫し物憂げな表情で黙った藍墨は、軽い溜息を挟んでから会話を繋ぐ。


「一応、手土産にその辺の茶菓子を買ってきたんだけど――普通に渡していいかしら?」


 少々目を丸くして藍墨を振り返った澄冷は、すぐ、その質問の意図に気付いたらしい。


 澄冷がちらりと海月を一瞥するので、海月は重々しく頷いた。海月が「すみませんね」と謝罪の意を告げるから、澄冷は確信して首を左右に振った。


「ううん、私が配慮して動くべき部分だったと思うから、むしろありがとう。そうだよね、藍墨ちゃんにも知っておいてもらった方がいいと思う。それで――」


 澄冷は藍墨を見ると、様々な感情を湛えた笑みで質問に答えた。


「――渡して大丈夫。だけど、弥香ちゃん、一人暮らしだから……」


 察しは付いていたが、海月に仄めかされた通り、後見人とも上手くいっていないらしい。藍墨はやるせない感情を滲ませた顔で嘆息をし、しばらく薄暗い顔で路傍を見詰める。


 しかし、海月と澄冷が心配そうに盗み見る中、ぴしゃりと己の頬を叩いた。


「よし。飲み物でも買っていってやろうか。休憩時間が無いと文句言うだろうし」


 海月は頬を綻ばせて「ですね」と賛同。澄冷も嬉しそうに「いいね、近くのスーパーに寄って行こうか」とスマホを取り出した。






 ――二夕見弥香は実の両親の名前も知らなければ、顔すら覚えていない。


 蓋をした記憶の奥底に微かに漂っているのは、三歳の頃の出来事だ。


「だから会社の同僚と飲み会だって昨日言っただろうが!」

「貴方いつもそればかりじゃない! 少しくらいは帰ってきて家事を手伝ってよ!」

「働いてないお前が家事するのなんて当然だろうが! 誰の金で飯が食えてんだ!」


 母親と父親がずっと怒鳴り合うような喧嘩をして、それが怖くて泣いていた。すると怒り狂った母親にうるさいと殴り倒されていた記憶がある。思い出すだけで頬が痛い。


 それから父親を家で見ることはなくなり、間もなく、代わりに知らない男性が日替わりの勢いで家を出入りするようになった。次第に母親は家のことをしなくなり、弥香は冷蔵庫の中にあるものを勝手に食べて過ごすようになった。週に一回帰ってくる母親に愛情を求めて飛び付いては張り倒され、母親に対する感情も畏怖に染まっていった。


 四歳になろうかという頃。母親は家に帰ってこなくなった。


 家からご飯が無くなって、このまま飢えて死んでしまうのだろうかと思って家を出た。そして、何かタダで食べられるものは無いかと歩き回っていたところを、警察に保護され、事情聴取の末に母親の妹――つまり叔母の家に世話になることになった。


 弥香は幼心に、警察とは正義の味方なのだと信じていた。


 そして、そんな正義の味方が自分を保護してくれたのなら、自分がこんなに寂しいのは環境が悪いからなのだとようやく気付いた。そして、叔母の家に行けばこの寂しさも埋まるのかと期待して――そして、失望した。


 弥香を待っていたのは、愛情ではなく義務的な保護だった。


 与えられたのは一軒家の書斎を改造した狭い一人部屋だけ。一歳差の姉と妹が両親と笑顔で過ごす中、その輪の中に弥香は入れなかった。リビングに椅子が四つしかないからという理由で、三食は私室で一人きり。両親からは徹底した敬語で余所余所しく扱われ、姉妹のようなお小遣いは当然なければ、欲しいものなど手に入らない。


 喉が渇くように愛情を渇望した弥香は、両親に自分を好きになってもらえるようにおどけた発言をするようになった。一度でいいから姉妹のような笑顔を向けてもらいたくて頑張ったが、待っていたのは無関心と他人行儀。だったら悪いことをしてやろう、と小学校で廊下を走り回ってみたら、先生や両親に怒られ、次は家を追い出すと言われた。


 姉妹と同じ小学校に行ったせいか、弥香の家庭環境は学校中に知れ渡っており、可愛そうな腫れ物を扱うように接され続けて、友達もできなかった。


 中学に上がると、ようやく、小学校からスマホを買い与えられていた妹のお下がりとしてスマホを手に入れた。高校に進学したらバイトして自分で支払うという約束のもと、初めて、インターネットを通じて世界中と繋がることができた。


 新鮮な体験だった。自分がSNSに書き込んだ言葉に、誰かが反応してくれる。


 呟いた言葉に返信があって、ふざけた言葉に笑ってくれる人がいる。


 初めて、弥香の中の孤独が埋まった。それが本質的な問題解決でないと理解しても尚、愛を渇望した心は、電子データの水に喉の渇きを癒された。


 それからは、少しずつ人並みの情緒を取り戻したと思う。


 中学ではそれなりに交友関係は広がった。スマホで勉強したインターネット関連の知識、技術を使って様々な小銭稼ぎを試みて、偶然動画投稿が上手くいったから、スマホも新しいものに買い替えた。姉妹は最新モデルを妬ましそうに見ていたが、終ぞ、弥香にプライベートで話しかけてくることはなかった。


 そうしてSNS上に自分の居場所を作っていった弥香が、高校に上がって間もなく。


 インスタグラム上に、超人気インフルエンサーを見付けた。


 綺麗なものを素直に綺麗だと言語化し、好きなものを心の底から湧き上がる愛情で伝える、そんな優しい愛に溢れた人だった。大勢に笑顔と幸福と愛を分け与えるそんな投稿に惹かれて、憧れて、弥香は毎日のようにその投稿を眺めて――こんな偶然もあるのかと驚きながら、その張本人と学校の中庭で邂逅した。


「君が中の人だったの⁉ 凄い人気だよね、そのアカウント! いつも見るよ、いつもキラキラしてて凄く好き! あのねあのね、私もSNSやってるの、これ!」


 そうして出会った清川澄冷という少女は、愛に溢れた人物だった。


 人より感受性が高く、多くの物を愛して、好いて、更にそれを言葉にすることを憚らない。そんな性格が災いして過去に痛い目を見たと語っていたが、今では昔以上に多くのものへ、昔以上に上手な言葉で愛を囁いて、より多くの人を笑顔にした。


 当初、彼女は弥香との接点を拒んだ。


 それでも数奇な運命が自分達を結び付けてくれた。


 澄冷は、悪いことをしたらしっかりと注意をしてくれた。


 頑張ったことは満面の笑みで褒めてくれた。


 楽しいことは一緒に分かち合ってくれた。


 辛いことは一緒に背負おうとしてくれた。


 澄冷と出会えたことが、二夕見弥香の人生における最大の幸福だった。


 それからしばらくして出会った星ヶ丘海月は、澄冷より少しだけ捻くれた人だと思う。しかし、澄冷では少し言いづらそうな、けれども相手の為に必要な言葉はハッキリと伝え、そのために自分が悪者になることも厭わない、根っからの善人だった。本当に大事な部分では、仕方が無いという素振りで躊躇いなく手を貸してくれる。彼女と出会えたお陰で、弥香は世界の暗い部分を落ち着いて見詰めることができるようになった。


 ここ最近知り合った朝陽藍墨は、自分と同じように、孤独に思うところがある人間だった。しかし、自分の足で少しずつ歩き出して、同じ部に来てくれた。過去に囚われて、今でもたまに悪夢を見る自分と違って、前に進んでいる。憧れた。そして最近では、駄目な部分の多い自分の様々な場所を個性と認め、受け入れて接してくれている。年齢不相応に達観した部分のある彼女との交流で、少しずつ自分も精神的に成長できている気がする。


 弥香はそんな三人のことが大好きだった。愛している。


 だからこそ、たまに――悪夢を見てしまう。


 週に一度帰ってきていた母親の姿が、ある日を境に見えなくなった日のように。


 開ける度に挨拶してくれる部活の友人達が、ある日、急に消えてしまう悪夢を。



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