14話
「――そんな訳で針葉樹林は亜寒帯特有の植生でして……」
「あ……あかんたい? 博多弁?」
「あかんのはアンタの学力ね。亜鉛の亜、寒い帯と書いて亜寒帯よ」
「気候だよ、弥香ちゃん。熱帯温帯乾燥帯とか」
一時間後、真面目な顔で真剣にノートと向き合って座る弥香の周りを、藍墨、海月、澄冷が立って取り囲んでいた。弥香の小柄も相まって傍目には威圧的で物騒な光景だが、当の弥香が頑張って取り組んでいる分、三人も努めて優しく勉強を教えている。
「分かったばい! 亜寒帯ってこればい! あかんくなかったばい!」
藍墨と澄冷の言葉で思い出したらしく、弥香は言いながらノートに『亜寒帯』と記す。そして『褒めろ』とでも言いたげに目を輝かせてこちらを振り返った。
「そう、正解! 弥香ちゃん天才!」
パチパチと満面の笑みで拍手する澄冷に気分を良くして、弥香はふふんと指を立てる。
「もう完璧に思い出したよ! なるほどね、植物と気候の分布には密接ないんかが……いんか……? いん、関係性がある!」
「因果関係ですね」
「そう、因果関係! 乾燥帯とか寒帯は、人間が暮らすのも大変だから樹木はあんまり無い! でも水分が多い熱帯は木が過ごしやすいから熱帯雨林になるんでしょ! で、で! 温帯は日本みたいのが……えっと、照葉樹林とかがいっぱいあるの! でも、夏に乾燥する地中海せー気候とかは乾かないように固くなるから、硬葉樹林!」
どうだ、と言いたげに弥香が三人に指を突き付けるので、澄冷は満面の笑みで「素晴らしい!」と拍手した。海月も「やればできるじゃないですか」と微笑んだ。
実際――記憶力そのものはかなりのものらしい。しかし、情報を単品で記憶するので、知識として格納、出力ができていないというのが、先程までの藍墨の印象だった。だが、例えば地理や生物学であれば因果関係を絡めて伝えることで、今のように持ち前の記憶力が遺憾なく発揮されるらしい。
「どうだ、藍墨! 私だってやればできるたい!」
弥香が指を突き付けてくる。藍墨は相好を崩しながら肩を竦めた。
「やるじゃん」
「もっとちゃんと褒めろー!」
「はいはい、凄い凄い。この調子で頑張って」
ぐりぐりとお腹に擦り付けられる弥香の頭を軽く撫でながら、藍墨は幾らか真面目に褒めてやる。すると弥香は「んふぅ」と満足そうに目を細めて机に向き直った。
そんな弥香の様子を藍墨が見詰めていると、何やら視界の端に違和感。
藍墨がひょいと視線をそちらに――澄冷の方に向けると、彼女は弾かれたように目を丸くして曖昧に笑った。そして誤魔化すように弥香の勉強に視線を移す。
どうやら彼女がこちらを見詰めていたらしい。何か付いているだろうか――藍墨は己の顔に触れるも、そこには美しさしかない。
気にするほどのことではないか、と藍墨が思考を切り替えたとき、
「少し疲れましたね。飲み物でも買ってきましょうか。お三方、何を飲みます?」
海月がそう尋ねてきた。
弥香は満開の笑みで海月を振り返ると、「コーラ!」と財布ごと差し出してくる。澄冷は少々申し訳なさそうに「お茶系で。小銭ないから電子マネーでお願いします」と同じく財布を。苦笑しながら二人分の財布を受け取った海月がこちらを見る。
「あたしも行く。四人分持つのは大変でしょ」
藍墨がそう言いながら部室の出口を指すと、海月は嬉しそうに頬を綻ばす。
「お金だけ出してくれてもいいんですよ?」
「手だけなら出してやってもいいけどね。グーで。ほら、行くわよ」
二人は一階の昇降口近くの自販機まで下りた。こうして海月と一緒にここを訪れると、いつぞやの花火大会の日を思い出す。藍墨が懐かしんでいると、同じことを思ったか、海月が「懐かしいですね、ほんの二週間程度ですが」と微笑んだ。
「そうね。あの時はまさか、こんな変な部活に入部するとは思わなかったわ」
「それで、どうです? その変な部活には慣れました?」
「住めば都とはよく言ったものね。今はもう、自分の居場所だと思ってる」
藍墨が臆面もなく言い切ると、海月は嬉しそうに破顔して「よかった」と囁いた。
さて、二人揃って自販機の前に立ち、ハッキリ銘柄を言った弥香以外の飲み物を吟味する。澄冷はお茶系と言ったが、普段緑茶を好んでいるのでそれでいいだろう。自分達はどうしようか、とそんな風に考えながら、暇潰しに談笑を始める。
「身内にわざわざ言うことではないでしょうが――弥香の件、ありがとうございます」
「なに、勉強の話? 確かに、身内にわざわざ本人以外が言うことじゃないわね」
改まって見詰めて感謝を伝えてくる海月に、藍墨は冗談気味にそう応じる。「ふふ」と嬉しそうな海月は、自販機をジッと見詰め、微かに眉を上げた。決まったらしい。
「弥香は頭が良いので、そんな彼女の『できない』に答えだけ教えるのは、言わば対症療法です。それを一概に悪とは言えませんが、やっぱり――将来の彼女のことを考えると、原因療法として勉強に対する向き合い方を改めてほしい」
言いながら海月はボタンをポチ、と押して自分用の珈琲を買った。それを引っ張り出してスカートのポケットに詰めながら、隣で紅茶を買う藍墨を見る。
「だから、貴女がしっかり言ってくれたことに安心しました」
「余程のことが無ければ、あと一年半の高校生活だからね。先のことも考えると、内容を教えるだけじゃアイツの為にならない――ま、清川を否定するみたいになっちゃったのは少し申し訳ないけどね」
澄冷だけは、弥香の頼みにすぐ頷き返していた。
それを否定する雰囲気になってしまった点だけが気掛かりだったが、「彼女は気にしませんよ」と海月は言い切る。
その辺りは付き合いの長さが感じられて、羨ましい藍墨だった。
「しかし、清川って本当に二夕見には甘いわね」
藍墨がそう言いながら弥香のコーラを購入すると、そこに海月がこう呟く。
「――あの二人は特別ですからね」
最後に澄冷の緑茶を購入した海月を、藍墨は怪訝な目で見詰める。
『特別』。その言葉が少し引っ掛かった。単なる友人ではないという意図と、そして先程の澄冷の奇妙な視線の真相も含んでいるような単語だったからだ。
海月は徐に自販機からペットボトルを取り出すと、一瞬だけ考え、告げる。
「歴史の授業はお好きですか? 一年にも満たない、短い歴史ですが」
サイバーセキュリティ研究部が発足したのは、今から一年前のことだった。
以前も聞いたが、創設時の部員数は二名。星ヶ丘海月は発足から三か月後に入部した新参者であり――つまり、最初は弥香と澄冷の二人だけで立ち上げた部活だったらしい。
海月も全てを知っている訳ではないらしいが、断片的に聞いてきた内容をまとめると、つまりこういう経緯でサイバーセキュリティ研究部が出来上がったそうだ。
まず、清川澄冷という有名インフルエンサーがいた。
一人っ子である彼女は両親の愛情を一身に浴びながら不自由なく育てられ、人に愛情を、つまり『好き』を伝えることの尊さに目覚めたそうだ。
愛に溢れる彼女は、小学校に入学後、自分の友人達を同性異性を問わず、事あるごとに褒め、好意を伝えてきた。
転換期は中学二年生の頃だった。小学校から何も変わらずに友人へと『好き』を伝え続けてきた澄冷だったが――澄冷の愛は変わらなくても、周囲の受け止め方は変わった。多感な年頃の男女だ。そこに恋愛感情も含んでいるのだと解釈し始め、そんな男女が同時多発的に数名出現。澄冷との交際を巡って凄まじい修羅場が発生したらしい。
それに反省した澄冷は、あまり表立って好意を伝えないようにしようと決め、高校に進学。しかし、それでも彼女の中から愛情は消えることがなく、溢れる愛の発散場所として、澄冷はSNSを選んだ。それが、インフルエンサーSUMIの誕生秘話だ。
それからは平々凡々、澄冷は胸の内にある博愛を隠して友人と楽しく過ごしていた。
そんなある日の昼休み。夏も始まろうかという日射の中、人の少ない中庭で、澄冷が弁当を食べながら学校でうっかりSUMIのアカウントを開いてしまった時だ。
「あ、そのアカウント! 知ってる!」
ギクッと澄冷が肩を竦ませたのも束の間。誰も居ないと思い込んでいた後ろから、ひょっこりと顔を出してくる女子生徒が居た。風貌や制服の具合から察するに同じ一年生らしいが、見覚えは無いので、きっと別のクラスだろう。当時の澄冷はそう思っていたが、何を隠そう、これこそが澄冷と二夕見弥香との初対面であった。
澄冷が大慌てで言い訳の言葉を探す中、弥香は矢継ぎ早に好奇の眼差しを見せる。
「君が中の人だったの⁉ 凄い人気だよね、そのアカウント! いつも見るよ、いつもキラキラしてて凄く好き! あのねあのね、私もSNSやってるの、これ!」
忙しなくスマホを取り出した弥香が見せたのは、当時から炎上騒動を繰り返していた『両翼の大天使ミカエル』のアカウントだった。当然、その悪名は澄冷も知っていた。
「一緒だね!」
疑問符を大量に浮かべた澄冷は、一緒という言葉の意味を頭の辞書で引き直す。
しかし、SNSをしているという一点では一緒だと思い直し、一旦、呑み込む。
次に、目を疑った。悪名の知れ渡る炎上アカウントの持ち主と目の前の明るく社交的な少女が結び付かなくて、脳が理解を拒んだのだ。しかし、あまりにも彼女が嬉しそうだったから、否定するのも申し訳なくて、澄冷は愛想笑いを返す。
「えっと、う、うん……そ、そうだね?」
「私達仲良くなれそうだね! ねえねえ、君、一人でご飯食べてるの? お友達は? 部活とかは入ってる? 入ってなかったらさ、私と部活作らない? SNS部!」
一つの呼びかけ、三つの質問。澄冷がそれへの返答を探している最中に、何一つ聞くことなく弥香はそんな提案をしたらしい。当然、澄冷からすれば青天の霹靂だ。今日知り合ったばかりの他クラスの女子生徒が秘密を知ったかと思えば自分の秘密も暴露して、同志だと肩を組んできて、その上で部活まで始めようと。理解が及ばなかった。
当時、澄冷は部活には所属していなかった。
だが、中学時代の修羅場が尾を引いて――現実で誰かと特別親しくすることへの抵抗があった。そしてSNSとは、澄冷にとって現実で発信できない好きを発信する場であり、それ故に現実と結びつけるのは本意ではなかった。故に、回答は拒絶だった。
「ご……ごめんね、そういうのは、あんまり考えてなくて」
澄冷は当初、てっきり弥香が食い下がってくるとばかり思っていたらしい。しかし、意外にも弥香は寂しさを隠すような笑みで「そっか!」と了承し、去っていった。
去り際の、弥香の残念そうな表情が、澄冷はしばらく忘れられなかったそうだ。
それから何度か学校で出会うことはあったが、弥香は澄冷にしつこく迫ることはせず、しかし友達を見つけたとばかりに、会う度嬉しそうに手を振ってきた。澄冷は段々と絆されていく気持ちを自覚しながらも、都度弥香に挨拶を返して、そんな関係が半月、続いた。
そんなある日、澄冷はクラスメイトからの「他クラスの連中と一緒に遊ぶんだけど、どう?」という十名規模の誘いを受けて放課後のカラオケに同席した。
すると、そこには同じようにクラスメイトに招かれたらしい弥香が居たらしい。
澄冷と再会した弥香は一緒に遊ぶことを嬉しそうにしつつも、しかし、澄冷だけに構うことはなく、輪の中心で周囲に愛されながら人気のアニメソングを歌い続けていた。
意外だった。あの日、自分を部活に誘った時――友人が少ないのだろうと思ったから。だが、実際は自分よりもずっと大勢と打ち解けている人気者だった。
しかし、だとすると彼女はなぜ自分を部活に誘ったのか。
大勢に声を掛けていただけで、澄冷が特別扱いされていたわけではないのか。或いは、澄冷に声を掛けたいと思うだけの理由がどこかにあったのか。分からなかった。
そして数時間でカラオケを退店した集団は、次にどこに行きたいかと話し合った。娯楽施設が提案されたが、お小遣いが足りないと言う者がいた。飲食店はどうだろうという提案には、なんか良さそうな場所はあるかという疑問で議論が難航する。
実を言うと、澄冷には良い場所の心当たりがあった。ちょうど、この辺りに最近オープンしたカフェだ。まだあまり注目されていないが、インスタグラムでは大勢で訪れても歓迎すると宣言していた。メニューは軽食に力を入れており、特にフルーツサンドは高品質低価格を謳っており、いつかは行ってみたいと澄冷も思っていた。
だが――中学時代を思い出す。安易に好きを公言することで勘違いをさせ、傷付けた。この場においてそのトラウマを引き摺る必要は無いが、それでも、自分の好きを伝えるよりも、現実では誰かの好きを受け止める方がずっと健全で安全だと考える。
そう考えた澄冷は口を噤んで成り行きに身を任せたが――やがて、それならそろそろお開きにしようかという提案もあって、集まりは終わった。
そうして疎らに同級生たちが散っていく中、澄冷は一人でその店に行ってみようかと考える。しかし、クラスメイト達に別れを告げた弥香がこちらに向かってくるのが見えた。
この前の一件を思い出して身構える澄冷に、弥香は不思議そうな目で言った。
「清川ちゃんがこの前拡散してたお店、この辺りじゃない? 行かないの?」
自分のアカウントを見ていたのか。それに、その店の件まで知っていたのか。
そんな驚きもあったが、それ以上に、その件を承知の上で、弥香が何も言わないでいてくれたことが、一番驚いた。澄冷の意向を汲んでくれたことは疑う余地もなかった。
ぐいぐいと距離を詰めてくるイメージが先行していた澄冷は、その印象を改める。
「知ってたんだね。黙っていてくれたんだ」
「何か言いたそうだけど、ずっと言わなかったから……理由があるのかなって」
「……私、何か言いたそうだった?」
澄冷は微かに頬を染めて上品に口を手で隠す。弥香はにやりと頷いた。
「ろぼねにそわそわしてたよ!」
「ろ、ろぼ……? あ、露骨? あ、うん。そっか、そうなんだ」
恥ずかしそうに口を押さえる弥香。悪いとは思いつつも、澄冷はそれが少し可笑しくて笑ってしまった。不満そうに頬を膨らませる弥香に、誤魔化すように澄冷は語る。
「一度、痛い目を見たから。あんまり自分の好きを表立って言うべきじゃないなって」
すると弥香は一転、眉尻を下げて心配そうな表情で澄冷の顔を覗き込む。
「何かあったの?」
言いたくない。その言葉を呑み込み、澄冷は弥香の先程の配慮に報いる。
「人に好き好き言い過ぎて、そういう意味だって勘違いさせちゃったことがあるの」
他人からすれば些末なトラウマかもしれないが、澄冷には随分と苦い過去だった。
絞り出すように告げた澄冷の言葉に、弥香は顎を摘まんで唸る。
「……それは……その、言い方が悪かっただけなのでは?」
「うん、私もそう思う。だけど結局、私が伝える好意って自己満足なんだって気付いたの。相手の為じゃなくて、私が言いたいから言う。だったら、黙ってた方が誠実かなって」
日も傾いて久しい紫紺の空の下、遠くに見える半月を、自己嫌悪の滲んだ瞳で眺める。
そんな澄冷の呟きを聞いた弥香は、心底不思議そうに首を傾げた。
「どうして? 私は、清川ちゃんの好きなものを知りたいよ?」
――澄冷曰く、その言葉があったから、今の自分が居るのだそうだ。
大きく目を見開いた澄冷は、自分の中で消化しきれていなかった数々の感情が、あっという間に昇華したのを感じた。漠然と感じていた肩の重さが消え、強張っていた表情が自然に緩んだのを感じた。驚くほど単純に、その言葉一つで自分の愛情の存在を肯定できてしまったから、澄冷は弱々しい笑みを浮かべ――最後に一度だけ、尋ねた。
「本当に……?」
「うん! 最初に清川ちゃんに声を掛けたのだって、インスタの投稿が好きだったからだもん。『好き』を自分にできる精一杯の気持ちで言葉にしてた。良い人なんだろうなって思ってたから、だから、見付けたとき、勢いでそのままいっちゃったの」
弥香は照れくさそうにモジモジと胸元で指を合わせ、そう告白した。
澄冷はそんな弥香の言葉を噛み締める。
好意とは、愛情とは――素敵な感情だと思っていた。そう盲目的に信じていたせいで、稚拙な伝え方で人に誤解をさせた。ならば改めればいいかと問われると、そうではないと思っていた。元より相手の為の言葉ではなくて、ただ、やり場のない感情を言語化して満足するためだけの儀式なのだとすれば、それは匿名でやるべきだと。
でも、そんな自分の好きを聞きたいと言ってくれた人がいた。
こんな自分でもいいのだろうか。そんな自問を、外から肯定してくれた。気付けば、緩んだ口から、少しだけ緊張の残るこんな声が飛び出た。
「……じゃ、じゃあ――今から、そのお店。一緒に行かない?」
返答は、満開の笑みと両手のサムズアップだった。
「――道理で、二夕見には甘い訳だ」
海月の昔話を聞き終えた藍墨は、自販機脇の壁に寄り掛かったままそう呟いた。
海月はその隣に背筋よく立って、乾いた口を珈琲缶で潤していた。そして、中身が八割残っている缶を振ると、「そろそろ戻りましょうか」と階段の方を指した。
二人で歩き出すと間もなく、海月は歴史の続きを語る。
「それからすぐに二人は部を発足したそうです。サイバーセキュリティ研究部って名前は澄冷さんの入れ知恵だとか。それっぽい名前なら騙せる、と」
「二夕見じゃないだろうなとは思ってたけどね。そっか、清川か」
藍墨は僅かに肩を揺らして笑った後、自分が居なかった時代の部活に想いを馳せる。
「しかし――聞く感じだと、二夕見は昔から変わってないみたいね。あの人懐っこさも、ミカエルのアカウントも」
「良くも悪くも無邪気で直情的ですからね。世話が焼けますよ」
まるで保護者のような口ぶりだと笑った藍墨は、ふと、気になる。
「そういえば――アイツの親って、ミカエルのアカウントのことは知ってるの?」
すると、階段の一段目に掛けていた海月の足が止まった。その表情が消え失せる。
半歩後を追っていた藍墨は、勢いのまま二段だけ上がった後、怪訝に振り返る。
「……星ヶ丘?」
急に黙って止まってどうしたのかと視線で訊くと、海月は熟慮に視線を伏せる。
珍しく険しい真剣な表情でしばらく沈黙した末、海月は小さな吐息をこぼした。
「いえ、そういえば朝陽さんにはまだお伝えしていなかったな、と」
弥香の親に関する話を切り出して、この返答。内容は薄っすらと察しが付く。
藍墨とて母子家庭であり、そうなった経緯も笑顔で語りたいものではない。自分が迂闊だったなと思い至った藍墨は「悪い、話を変えようか」と歩き出そうとする。
しかし、「待ってください」と、落ち着いた声で海月が腕を掴む。
「真面目な話で、プライベートに関わる話ですが――敬遠だけが正しいとは思えません。朝陽さんが嫌でなければ、私と共犯になっていただけると」
「物騒な響きね。言ったのがアンタでなければ首を横に振ってたわよ」
「ご英断に感謝します。さて――どこからどう話そうか」
海月は手を離して真剣な表情で口を噤み、丁寧に、丁寧に言葉を選ぶ。
「まず、これは弥香のプライバシーです。私は彼女に許可を得ず貴女に話します」
「そうなると少し話が変わってくる。アイツの為にも聞けないかもしれない」
「そう思うならそれで結構です。貴女自身のご判断を最優先にしてください」
「……とはいえ、アンタが考えなしにそういうことをするとも思えない。から、駄目だと思ったら忘れることにする。一旦、聞かせてもらおうかしら」
静かな階段で、思慮と配慮が張り巡らされた建前が何往復か交わされる。
「澄冷さんはどうやら詳しく知っているようですが、私がこの話を聞いたのは一度だけ。部室で昼寝していた弥香が、悪夢に起きて、寝ぼけながら自分の口で語りました。関係各所で裏取りをして――内容が真実であることも確かめています」
勿体ぶる。そう言いたくもなったが、しかし、ここまで丁寧に話を進めなければならないほど深刻な話なのだとしたら、黙って耳を傾けるべきだろう。藍墨は沈黙で先を促す。
「貴女がこれを知るべきか否かは弥香が判断をするべきです。しかし、知らず知らずに貴女が彼女の地雷を踏み抜いてしまう可能性がある。かといって彼女自身に話させるのは、あの日の苦しそうな表情を思い出して気が進みません」
藍墨は少し考え、「過保護ね」と言ってみる。海月は弱々しく笑う。
「仰る通りです。勉強の件と同じで、誰かがいつまでも手を貸し続けるのは彼女の為にならないのでしょうね。でも、弥香は――いつか、ちゃんと立ち直ると信じています。だから、その日を守るためなら、プライバシーを踏み躙っても根回しをしましょう」
海月の瞳には友人としての決意の火が灯っていた。であれば、今の言葉は失言だ。「軽率な言葉だった」と藍墨は瞳を伏せて謝罪の意を示すも、海月は首を左右に振る。
「さて……これを聞いたことで不利益があったら、私に責任を押し付けてくださいね」
プライバシーを踏み躙ることを糾弾されたら、という話だろう。
内容を知らない限り何とも答えにくいが、海月の意思は伝わっている。
「最初に聞いた通り。アンタの共犯よ。それで、結局、その内容は?」
海月は浅い呼吸で息を整えた後、薄暗い眼差しでジッと藍墨を見詰めた。
「――弥香に両親はいません。物心がついてすぐ、彼女は親に捨てられました」




