13話
――七月上旬に差し掛かった。もう間もなく期末考査で、それを越えたら夏休み。
外は蜃気楼が浮かぶほどの茹だるような暑さで、太陽は誰に怒っているのか、呆れるほどに眩く煌めいている。運動部は汗だくで水分補給を繰り返しながら自らの肉体を苛め抜き、文化部の大半は冷房の効いた室内で青春を謳歌していた。
そんなある日の部活で、「注目!」と叫んだ弥香が立ち上がって腰に手を置く。
藍墨は読んでいた漫画に栞を挟んで閉じる。澄冷が持ってきたジョジョの奇妙な冒険だ。
海月と澄冷は勉強の片手間にしていた動画鑑賞や趣味を中断し、視線を弥香へ。
一同の視線を受けて満足そうに頷いた弥香は、やけに神妙な顔で語り出した。
「皆さん、来週には期末テストじゃないですか!」
三人は呆けた顔を見合わせ、何を今更と頷き、藍墨が代表して返事する。
「まあ、そうだけど。それがどうかした?」
「私はサイバー研の部長として皆の勉学の調子を知る義務がある! そんな訳で、一人ずつ成績の方を言って貰おうかな⁉」
何を怒っているのか、鬼教官のような口調で腕を組み声を張る弥香。また何か妙なことを考えているのだろうか。藍墨が呆れる中、微笑んだ海月が頬杖を突いて先陣を切る。
「私は可もなく不可もなく、ですね。中間は全教科九割前後といった具合で」
「ほ、ほう……な、中々やるじゃないか! はい次、澄冷!」
「私も同じくらいかな? 理数系が八割程度と落ち込み気味なので夏は克服しようと」
「……えっと、八割が低い方って認識で合ってる? か⁉」
「うん」と頷く澄冷を度し難い目で見詰めた弥香は、最後、縋るように藍墨を見る。
「あたしは六教科は殆ど満点だったかな? 他は七割八割って感じ」
唇を引き結んで両の拳を震わせた弥香は、熱い吐息を絞り出して続ける。
「とっ、ところで君達は知ってるかね、期末の点数が低いと、夏休みに補習があると」
「知らなかったわ」「私も」「知りませんでしたね」
三人の無情な返答を聞いた弥香は「今知ったよね」と何度か頷いた後、頭を下げた。
「助けてください!」
「そんなこったろうと思ったよ!」
「成績発表~」
「太鼓の達人みたいに言うな。全部不可でしょうが」
最初から勉強を教えてもらう算段だったらしく、弥香は中間考査の答案を全教科分持ってきていた。太鼓キャラクターのような声色で彼女が広げたそれらに、三人は「う」と呻き声を上げていく。死屍累々――という程でもないのが余計に生々しい。
「そ、そんなに悪くないでしょ⁉ これでも授業は真面目に受けてるんだから」
弥香は冷や汗を浮かべながら言い訳がましく言うが、それに構っている余裕はない。
六教科は殆どが半分を切っている惨状だ。唯一、情報だけはやけに高い程度。その他の教科も概ねが半分以下、たまに運良く点数が伸びているものもあるが、総じて、酷い点数だ。藍墨は目頭を揉み、海月はどこからメスを入れるべきかと頭を悩ませている。
最も協力的なのは澄冷だ。
「と、取り敢えず……弥香ちゃんの将来の為にも六教科は頑張ろう!」
「て、手伝ってくれるの⁉ 勉強、教えてくれる?」
弥香の縋るような眼差しに、澄冷は力強く頷き返した。
「勿論! 私でよければ。あんまり上手には教えられないかもだけど。ま、まあ! 情報はかなり高いから、実質五教科だよ! 中学と一緒! 頑張ろうね!」
弥香は感激の極みを抱擁によって澄冷へ伝え、澄冷は満更でもなさそうに笑う。
そして弥香は藍墨と海月もチラリと盗み見るが、しかし二人の表情は険しい。「う」と今度は弥香が呻き声を上げて身構える中、まずは藍墨が挙手をする。
「あまり教えすぎるのはあたしは反対かな。助け過ぎるのも二夕見の為にならない」
実際、答案を見る限り必要最低限の能力は確かにある。故に、範囲内の問題の解き方に絞って教えれば、弥香は難なくそれを覚えてテストで好成績を収めそうだ。しかし、可能であったとしても、事はそう単純ではない。目の前の障害を取り除くために力添えをすることと、怠惰の皺寄せを乗り越えるために手を差し伸べることは本質がまるで違う。
困難に取り組む姿勢そのものを改善しない限りは、それを繰り返すことになる。
「い、いやいや、そんなぁ。ちょちょいと教えるだけでいいんで、おなしゃす!」
弥香は媚びを売るように手を拝み合わせるが、
「まあ、単に能力不足なら教えることも吝かではないのですが――」
海月は悩ましそうに答案を見詰め、「ふうむ」と唸る。難色を示す二人に焦ったか、弥香は卑屈な笑みでゴマをすりながら二人を上目に見た。
「試験範囲をちょろーっと、出そうな問題とか答えを教えてくれれば憶えるから!」
わざわざ解き方まで教えてくれなくていい、と伝えたつもりだったが、逆効果だった。
藍墨としては、弥香が本当にどうしようもなく困っているのなら手を貸すことに全く躊躇は無い。だが、それが彼女の為にならないのであれば話は別だ。
藍墨は呆れ顔の海月から答案を受け取り、代わりにハッキリと伝えた。
「……授業を真面目に聞いてるのは嘘じゃないと思う。実際、暗記系は正答率が高い」
むふん、と偉そうに胸を張る弥香を半眼で一瞥し「ただし」と藍墨は続ける。
「文章系や簡単な思考問題の類は殆ど間違えている、というより、適当に答えてる」
ぎく、と肩を震わす弥香。そんな弥香を澄冷はジトリと見詰めた。
「このことから二夕見弥香という人間をプロファイリングすると、なまじ記憶力がある分だけ勉強をしなくても点数を取れてきた幼少期の成功体験に胡坐をかいて生きて来た結果、思考力が衰えて勉強に対する集中力が著しく欠如し、文章を読んで噛み砕いてアウトプットするという一連の能力が極めて退化した愚かな種であると推察される。やる気の問題である以上、勉強を教えるより先に本人の心持ちを改める必要がある」
「藍墨もしかして私のこと嫌い⁉」
容赦ない指摘の数々を浴びた弥香は半泣きで肩を落として「澄冷~」と唯一の味方に甘える。澄冷も「お手柔らかに」と笑いながら藍墨に依願するが、藍墨は心を鬼にする。
「アンタはXで難しい記事を見付けたらAIに要約を依頼するタイプでしょ」
「えぇ⁉ まさかそんな、サイバーセキュリティ研究部の部長がAIを鵜呑みに……」
海月が動揺しながら擁護の声を上げるも、弥香は冷や汗と一緒に俯き、押し黙った。
「してるんかい」
思わずツッコミを入れた海月は、溜息の後、額を押さえる。
海月にとっての二夕見弥香という人物は、世話が焼ける部分はあっても大切な友人だ。助けてやりたい意思はあったが、将来を見越すと安易な手助けは弥香の為にならない。
「あのですね、弥香。AIの活用が駄目とは言いません。寧ろ優れたツールは有効活用するべきです。ただし、節度を守りましょう。日頃の自分に生じる負荷を全て代替してもらった果てにあるのは堕落の一途、使わない筋肉は驚くほどあっという間に衰え、思考を排した先には無知だけが残ります。知識を得るには、時に知性が必要です。つまり貴女の課題は明白。貴女は知性という筋肉が衰えつつある。まずは自身を見詰め直しましょう」
海月の容赦ない指摘を受け――何故だか、澄冷は動揺したように激しく目を揺らす。
澄冷は動揺を隠さない目で海月を見詰め、次に、思い詰めたような表情で弥香に視線を移す。だが、それに気付かない弥香は海月へ噛み付いた。
「遠回しに凄く馬鹿だって言ってない⁉」
「心底、安心しました。その答えをAIに求めなくて」
「わーん! 澄冷~! 二人がいじめる!」
澄冷はハッと我に返ると、その頭を撫でながら苦笑して言葉を尽くす。
「よ、よーしよし、でもね、弥香ちゃん。二人は弥香ちゃんの為に言ってるんだよ」
「ね?」と澄冷がこちらに訊いてくるので、藍墨は溜息を吐き、懐疑的な視線を向けてくる弥香を見詰め返す。海月も少々物言いたげな顔で弥香を見た。
「あのね、あたし達が毎回勉強を教えなければいけない――って状態は健全じゃないでしょ。いつかは自分一人で点数を取れるようにならないと。今回、テスト範囲の答えを教えたってそれはその場凌ぎのもの。本当に必要なのはそこじゃない」
「暗記がここまでできてる時点で、馬鹿さ加減を『頭が悪い』の一言で片づけるのは怠慢ですよ。そりゃ記憶力と思考力は完全には結びつかないとはいえ、貴女はやればできるんですから。やる気を出して勉強に取り組む姿勢から育むべきです」
弥香は不満そうだった顔を一転、省みるように目を伏せて澄冷から離れ、手を後ろに組む。そして不安そうに眉尻を下げて指を胸元に合わせると、二人を上目に盗み見た。
「じゃ、じゃあ……が、頑張るから。勉強のやり方から教えて……ほしい」
柄にもなく不安そうに弥香がそう言い直すと、藍墨と海月は微笑んだ。
「それなら教えてやる」「喜んで」
パッと顔を明るくさせた弥香は、じわじわと頬を綻ばせ、やがて我慢できないと言いたげにニコニコと満面の笑みを咲かせ、ぴょんぴょん、と踵を浮かす。
「いいの⁉ ありがとう二人とも!」
それぞれの片手を両手で握ってお礼を伝えた弥香は、ふと眉尻を下げる。
「さ、さっきはごめんね。怒られるの嫌で、ふざけた態度を取っちゃって」
先ほどの自分の行動に思うところがあったのか、弥香は肩を落として恐る恐る謝罪した。こうして殊勝になられると調子が狂う。藍墨と海月は仄かな笑みで顔を見合わせた後、やれやれと言いたげな表情でそれぞれ謝罪に応えた。
「気にしてない。それに、あたしの伝えたことは間違ってないと思うけど、伝え方が正しかったかは分からない。少し言い方がきつかったわね。ごめん」
「同じく、少々言い過ぎました。すみません、ご容赦いただけると」
すると弥香はバタバタとその場で足踏み、そして飛び付いてくる。
「あー、好き好き! 二人とも大好きっ! ありがとね!」
双方に一度ずつ抱擁をして頬ずりをする弥香。二人は苦笑と共にそれを受け入れた。
そして弥香は上機嫌で澄冷のもとに戻ろうとする。
しかし、振り返った弥香が見たのは、悩ましそうな顔で顎を摘まんで虚空を見詰める澄冷。「澄冷?」と弥香が首を傾げると、澄冷は弾かれたように我に返り、「うん? あ、勉強、始めよっか!」と取り繕うような笑みを浮かべた。




