絶対零度に至る『深海の星』
『深海の星』と名付けられたそれは、漆黒の真珠を中心に嵌め、いくつものダイヤモンドで縁取られた首飾りのことだ。――あまりにも大きな真珠が見つかったものだから、当時は誰もが口々に話題にし、その輝きに多くの者が魅了された。
まるで宇宙のような深い黒に、きらりと光りが当たれば美しい。
『深海の星』を見つけ最初に手にした者は、それを愛する妻へ送るつもりだった。
「返せ……、それは俺の……」
その人は目の前で気に入りの甘いお菓子でも眺めるかのように、『深海の星』を手に微笑んでいた。周りに黒服の男たちが次々に壁を作り、逃げ場がないことを示している。
「頼む、ずっと……、求めてたんだ……」
懇願が届かないのは分かっているが、全てを諦めきれるほど往生際が良い人間ではなかった。――あれは自分のものだ。
「これは私のモノよ。――誰が持つに相応しいか、見ればわかるでしょう? あなたみたいな人たちが持つにはもったいなくてよ」
白手袋をしたその人が人差し指と親指で恭しくそれを箱にしまえば、近くの黒服がアタッシュケースを広げた。念入りに傷付かないよう、緩衝材が敷き詰められている。
『深海の星』が持ち去られてしまう――。
何度も痛めつけられた身体はすでに言うことを聞かず、自力で床から起き上がることすら出来なくなっていた。――自分の身体だというのに、こんなにも重いのだったのか。
少しでも近付こうと足掻けば、誰かの足が腕や頭、背中や足を無遠慮に踏みつけ、この場から動くことを許さなかった。
「さぁ、用は済んだわ。……さぁ、私の『うさぎちゃん』、あとはよろしくね」
声の主はこの場を後にしようと踵を返せば、ガチャリと周囲の人間が銃器を構えた。――この後の展開など、簡単に想像がつくだろう。
冷たい銃口が四方から向けられるも、すぐにその引き金を引くつもりはないようで最期の時間が与えられる。
カツカツとヒールの遠ざかる音に、どこかに活路がないかと重い身体と動きの悪い視界が逃げ道を探す。いつまであるか分からないカウントダウンと、己の末路の想像が心臓を早くした。
『火事場のなんとやら』というが、完全にそんなものを頼る時間もなく、足をもがれたカマキリみたいに痛みを押して這いずり出ようとすれば、黒服の手にした引き金が引かれる。爆竹のようにめでたい音が連続で響く音だけがこの場を去った者の耳に遠く届くのみだった。
「――返してだなんて傲慢ね。これはあなたのじゃないでしょうに。本来あるべき場所へ返すべきよ」
カツカツと存在感を知らしめるようにヒールの鳴る音と共に、その人は言う。
「いつだって弱いものは自由を奪い奪われ、当人の意志は無視される――。あなただってこんな暗い場所にいるのは嫌でしょう? せっかく暗い海の底からここへ来たんですもの」
傍にいるのはアタッシュケースを持つ黒服と護衛のためにいる二人だが、彼らに伝えた訳ではないので返事はない。――細く長い指に嵌められた、柔らかな輝きが様々な色を反射する大振りの石を見つめる。
「ようやく、……ようやく自由にしてあげられた。――おめでとう、そしてお帰り」
愛おしそうに白とも青とも緑とも、幾重にも踊って見える濡れたような煌めきを放つ石にキスをする。
「改めて、自由の光の下でのびのびするといいわ」
白いスーツに身を包み、高いヒールを履いたその人がその場を後にした。