水曜日のお嬢さん①
店の奥、店主がいつもいる椅子から見える場所、手が届きそうで届かない高さに、あの本は置かれている。
展示している本で、売り物ではない。
以前「これは売り物ですか?お値段を教えてください。購入したいです。」と、訪ねた時に、そう店主が言っていた。
その本は、見開きに開かれた状態で、いつも綺麗な挿絵のページが見えるように飾られている。そして、時々ページが変わるのだ。
カランカランッ
最近付けられたドアベルが、狭い店内に鳴り響いた。
「いらっしゃいませ。」
お気に入りなのだろう。
店主は、いつものように、一番奥にあるレジの奥で、ところどころ擦れて年季の入った1人掛けの革のソファーに腰を下ろし、読んでいた。本から目をあげ、私をみた。
「こんにちは。」
私は店主にぺこりと頭を下げる。すると、店主はふわっと笑って、
「こんにちは。水曜日のお嬢さん。」
親しみを込めて私をそう呼んだ。その呼び名に笑顔で答える。店主は、私のその顔を確認すると、また読みかけの本に視線を落とした。
『水曜日のお嬢さん』
最近、古本屋「ねこのへや」の店主から、そう呼ばれている。
私は、この、私だけの私のための呼び名を、とても気に入っていた。
大切な人だったあの人から呼ばれていた呼び名には、他にも相手がいたのだけれど…。
このお店との出会いは、偶然だった。
私は、異動になってこの近くのビルで働くようになってから、いつも決まって水曜日のお昼休みにこの古本屋に足を運んでいた。水曜日は、シフトが唯一早番の日で、朝お弁当を作る時間がないから、お昼を求めて職場のそばを探索していた時に偶然、この古本屋を見つけたからだ。それ以来毎週ここに通っている。
初めてお店に入った時、なんだか心が落ち着いて、「また来たい」って思ったんだ。なんの変哲もない、時代を長く渡ってきた紙の匂いの中、天井まで積み上げられた古書が並ぶ、この小さな素敵な古本屋に。
本を見つつ、店の奥まで進むと、
「かわいい…」
思わず呟いていた。
そこには、値札のついていない本が、飾られていた。天井近くの本棚の棚にちょうど良く見える角度で飾られている一冊の見開きに置かれている本に、私の視線は釘付けになっていた
この挿絵、とっても素敵…
くまのお人形さんが、優しい色合いで椅子に座って寝ているような絵だった。
年季の入った本の、その挿絵もまた、年季の入った色合いだったが、それがまたなんともいえない魅力を放ち、立ち止まらずにはいられなかったのである。
挿絵に魅入っていると、
「こんにちは。」
不意に話しかけられて、そちらを向くと、白髪で、黒いエプロンをみにつけた男性が立っていた。
「こんにちは。」
会釈をする。
不思議だ。
エプロンを身につけているだけで、このお店の人だって思うことが、とても不思議だった。けれど、きっとこの人は、このお店の人だと、ひと目見ただけで確信している自分がいた。
「ごゆっくりどうぞ。」
店主はそう言って本を一冊手に取ると、またレジの椅子に腰をかけ、読書をはじめるのだった
なんかいいな。
お店も店主さんも。
それから、毎週水曜日に立ち寄るようになった。
半年が過ぎた頃、店内に落とし物をして店を後にしようとした私を、
「水曜日のお嬢さん。」
と、店主は呼び止めたのである。
それから、私は、「水曜日のお嬢さん」と呼ばれている。
つづく!
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次回投稿をお楽しみに!