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三:慶応三年十一月下旬

 慶応三年十一月下旬。乙女は、坂本家の縁側で魂が抜けたように虚空(こくう)を眺めていた。

 それは、坂本家の主である権平の異変から始まる。

 城に出仕していた筈の権平が顔を真っ白にして昼過ぎに帰って来ると、玄関に着くなりへたりこんでしまった。明らかに様子がおかしかったので権平の妻・千野(ちの)や乙女が駆け寄ると、権平は唇を震わせながら言った。

「龍馬が……殺された……」

 権平の口から明かされた、衝撃の内容。それを聞いた乙女は、頭が真っ白になった。

 俄かには信じられなかった。約一月前、大政奉還という大仕事を成し遂げたあの龍馬が、まさか殺されるなんて。龍馬自身も剣の腕が立つし、危険を察知する勘も鋭かった。龍馬が度々活動していた京には不逞浪士を厳しく取り締まる新選組が目を光らせていたが、龍馬は捕縛されたり斬られたりしなかったのも、こうした危険察知能力に長けていた事が大きかった。

 だが、権平が語る内容に、乙女も龍馬の死を事実と受け止めざるを得なくなった。

 去る、十一月十五日。京・近江屋に潜伏していた龍馬の元に、同志の中岡慎太郎が訊ねてきた。普段は万一の逃亡の事も考えて土蔵で過ごしていたが、三日程前から風邪を引いてしまい事件前日から母屋の二階で療養していた。

 龍馬は慎太郎と話をしていたが、夜になって一階の玄関で大きな物音がした。下には用心棒で付き人を兼ねる元力士の山田藤吉(とうきち)が居たので龍馬は「ほたえな! (土佐弁で“騒ぐな”の意味)」と叫んだ直後――抜刀した四人の刺客が部屋に雪崩れ込んできた! 突然の襲撃に龍馬も慎太郎も応戦出来ず、切り刻まれてしまった。

 この凶行に近江屋の家族は一階の奥に居て無事だったが、助けを呼ぶ事は出来なかった。頃合を見計らって近江屋の主人が土佐藩邸へ駆け込み、一報を受けた土佐藩士は直ちに現場へ向かった。ちょうどその頃、龍馬から「軍鶏(しゃも)を買ってきて欲しい」と頼まれた付き人の菊屋峰吉が近江屋へ戻り、事件が発覚した。

 土佐藩士や峰吉が駆け付けた時には、既に龍馬は亡くなっていた。全身を(なます)切りにされ、頭も割れ顔も判別がつかないくらい酷い有様だった。残りの二人はまだ息をしていたので懸命な治療が行われたが、十六日には藤吉が、十七日には慎太郎が息を引き取った。

 龍馬の凶報は大急ぎで国元の土佐にも送られたが、何分距離があったが為に遅れて届けられた次第だ。

(龍馬……)

 愛おしい弟が死んだと聞かされても、乙女は涙が出なかった。多くの人が龍馬の死を目撃しているのだから事実なのだろうが、乙女自身がその目で確かめてないので現実感が全く湧かなかった。

 もしかしたら、明日にでも「よ、元気にしちょったか?」と坂本家に顔を出してくれるかも知れない。乙女の夫婦仲の悪さを揶揄(からか)ってきそうだが、「もう別れた」と言い返したらどういう反応をするだろうか。「そうじゃったか!」と驚くか? いや、(むし)ろ「乙女姉にはちと難しかったか」と腹を抱えて笑いそうだ。

「……龍馬」

 その名を、声に出してみる。心の中の龍馬はこちらを向いて微笑んだ。

 そうだ。龍馬はいつも笑っていた。それも、楽しそうに。幼い時はよく泣いていたけれど、成人してからの龍馬は泣いたり怒ったりする姿をあまり見た覚えが無かった。可笑(おか)しな事があればゲラゲラと笑い、自分が熱中している時はウキウキとしながら熱く語り、嬉しい事があれば自分事のように喜んだ。

 脱藩してからは会えなかったが、代わりに送られてくる手紙の文字が龍馬の心をよく体現していた。龍馬の筆遣いは実に活き活きとしていて、文字から龍馬の楽しさや熱意が伝わってくる気がした。離れ離れではあるけれど、心と心で繋がっていたのだ。

 龍馬の事を想い返していると、楽しかった想い出がどんどん溢れてくる。

「りょうまぁ……」

 乙女はもう一度その名を呼ぶが、その声は湿り気を帯びていた。直後、乙女の瞳から一粒の涙が(こぼ)れる。

 そこから先は、言葉にならなかった。乙女の双眸(そうぼう)から次々と大粒の涙が溢れ出す。

 もう一度だけ、会いたい。龍馬が今までやってきた事、これからやりたかった事を、思う存分に聞きたい。あの人の心をくすぐるような笑顔を、また見たい。それが二度と叶わないのが、悔しくて悔しくてたまらなかった。

 部屋の中に、乙女が(すす)り泣く音だけが木霊(こだま)した。


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