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二:慶応三年十月某日(後)

 脱藩した龍馬は八月に江戸へ上ると、剣術修行で世話になった小千葉道場に一先(ひとま)ず滞在することとなった。小千葉道場の主・千葉定吉(さだきち)の息子の千葉重太郎(じゅうたろう)もまた攘夷派の人間で、重太郎と共に幕府内でも指折りの開国論者である勝“麟太郎(りんたろう)海舟(かいしゅう)を斬ろうと屋敷を訪れた。しかし、逆に海舟から日本を取り巻く世界情勢と四方を海に囲まれた日本における海防の重要性を説かれ、感銘を受けた龍馬はそれまでの攘夷派から考え方をガラリと入れ替えた。文久三年(一八六三年)三月二十日付で乙女に宛てた手紙の中で海舟の事を『日本第一の人物』と激賞しており、龍馬が如何(いか)に心酔していたかが窺い知れる。この後、龍馬は神戸に開設される『海軍操練所』の準備に奔走し、自らも操練所で操船術を学んでいくこととなる。

 同年五月十七日付で乙女に宛てた手紙の中で、当時の龍馬はこう(つづ)っている。

『(前略)この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人となり、殊の外かわいがられ(そうろう)(中略)すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン』

 文中で“エヘン”と記しているのが、得意満面に胸を張っている龍馬の姿を容易に想像が出来る。龍馬の人間性をよく表している点だと思う。

 勝の下で充実した日々を送っている龍馬とは対照的に、地元・土佐や日本国内の情勢は決して穏やかとは言えなかった。土佐藩では開国派の参政・吉田東洋が文久二年四月八日に何者かによって暗殺され、その後は藩内で急速に勢力を伸ばしつつあった土佐勤王党が実権を掌握した。だが、安政の大獄で科せられた謹慎が解けた山内容堂は自らが頼みとしていた東洋暗殺の下手人探しから尊王攘夷を掲げる過激な思想を持つ勤王党の締め付けに乗り出した。また、全国的に攘夷の機運が高まる中で孝明天皇や攘夷派の公卿達の圧力もあり、幕府は遂に文久三年五月十日に攘夷決行を各藩に通達。これを受け、尊王攘夷の色が濃い長州藩が馬関(ばかん)(現在の下関)の海峡を通過する外国籍の船に攻撃を開始したのだ! 朝廷の圧力に屈する形で攘夷決行を命じたものの、幕府としては諸外国との外交関係に亀裂が入るのを恐れて実際に決行する事を望んではいなかった。幕府の意向に反する形で行われた長州藩の蛮行に、被害を受けた外国船の修理を幕府が請け負うという相反する対応をとった。この弱腰な対応について龍馬は大いに嘆き、同年六月二十九日付で乙女に宛てた手紙の中で『(前略)右申所(もうすところ)姦吏(かんり)を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候』と記している。

 龍馬の脱藩の罪は海舟から容堂へ不問とするよう働きかけ、文久三年二月に許された。ただ、翌文久四年(一八六四年)二月に土佐への帰国命令が出たが、勝の元で働きたい龍馬はこれを無視。結果、二度目の脱藩となった。

 元治(げんじ)元年(一八六四年、二月二十日に改元)五月二十一日、それまで私塾扱いだった神戸海軍操練所が正式に開所されたが、同年六月五日の池田屋事件で操練所の塾生が含まれていたり七月十九日に勃発した禁門の変で朝敵となった長州藩の元藩士が塾生に名を連ねているなど、幕府の施設ながら倒幕派の志士が多く在籍していた。この事を重く捉えた幕府上層部は、十月二十二日に操練所の責任者である海舟を江戸へ召喚する命令を出し、十一月十日に海舟の軍艦奉行を解任した。幕府内で最も海防を重要視していた海舟の失脚により操練所は後ろ盾を失い、元治二年(一八六五年)三月十二日に操練所は閉鎖に追い込まれた。

 操練所の閉鎖で行き場を失った形の龍馬だったが、“捨てる神あれば拾う神あり”の(ことわざ)がある通り、新たな支援者が現れた。薩摩藩である。

 薩摩藩は先代の島津斉彬(なりあきら)の代に藩政改革を推し進め、赤字体質からの脱却に成功させ諸藩に先駆けて近代化に尽力した。斉彬は安政五年(一八五八年)七月に急逝したが、その跡を継いだ久光(ひさみつ)(当主の座は久光の子・茂久(もちひさ)が継いだが、実権は久光が握った)も斉彬の路線を継承した。しかし、文久二年八月二十一日に江戸から京へ向かう途上の相模国生麦村で偶然遭遇した数名の英吉利(イギリス)人を殺傷する事件を起こしたのをきっかけに、翌文久三年七月には英吉利艦隊が鹿児島湾に攻め込む“薩英戦争”に発展した。この戦闘で薩摩方は英吉利方の艦船一隻を大破・二隻を中破させたが、薩摩方は砲台や弾薬庫に相当な被害を出しただけでなく鹿児島城下の約一割を焼失する大損害を(こうむ)った。結果的に痛み分けとなったものの、薩摩藩内に『攘夷は非現実的』『海防、特に蒸気船や洋式帆船の重要性』をまざまざと痛感させられることとなった。

 また、島津斉彬は“四賢候”の一人にも名を連ねるなど幕府内で影響力を持つようになり、それは久光の代になっても変わらなかった。文久三年八月十八日に過激な攘夷派公卿とそれに関わりが深かった長州藩を朝廷から追放した『八月十八日の政変』では、親藩で京都守護職の会津藩・松平容保(かたもり)と共に薩摩藩は主導的役割を果たし、禁門の変やその後に行われた第一次長州征討では幕府軍の主力として長州藩と戦っている。

 龍馬は薩摩藩や長崎の商人の支援を受け、慶応元年(一八六五年、四月七日に改元)閏五月に操練所の一部の元塾生達と一緒に“亀山社中”を長崎で設立。社中とは組合や結社などの意味で、亀山社中はこの当時日本ではまだ稀少だった蒸気船や洋式帆船の操船術を活かして商業活動を展開していこうとしていた。言わば日本初の商社となった訳だが、こうした背景には坂本家が元は豪商の家系で幼少期から商いの現場や船の荷揚げなどの光景を龍馬自身が目にしていた事が大きく作用した……と考えるのが自然だろう。

 慶応元年九月九日付で乙女と乳母のおやべに宛てた手紙には新たに設立した亀山社中について沢山書かれていた……訳ではなかった。社中についても少し触れられていたが、大半は最近気になっている“おりょう”という女性について記されていた。おりょうの人となりや逸話などを事細かに書かれており、龍馬がその女性についてどれだけ気に掛けているかが窺える。

 この頃、龍馬は秘かに壮大な計画の実現に奔走していた――薩摩藩と長州藩の同盟締結である。

 薩摩藩は先述した通り、斉彬の代から急速に近代化を推進させ、影響力が低下してきた幕府を支える有力勢力である。一方の長州藩は現当主の毛利敬親(たかちか)(元治元年八月までは慶親(よしちか))の藩政改革と吉田松陰を始めとした有能な志士を多数輩出しており、薩摩藩に匹敵する程の実力を有していた。ただ、この両藩の間には埋めがたい溝が広がっていた。文久三年の『八月十八日の政変』から禁門の変、第一次長州征討と薩摩藩は先頭に立って長州藩に刃[やいば]を向けてきた。長州藩からすれば薩摩藩は(かたき)も同然、恨み骨髄に徹する心境だ。幕府は倒幕派の志士を未だ多く抱える長州藩を滅ぼしたい考えだったが、龍馬はこの国の将来を担うであろう優秀な人材の宝庫である長州藩を潰すのは国益にならないと思い、何とか薩摩藩と手を結んでもらうべく元土佐藩士の中岡“慎太郎”道正と共に尽力していくこととなる。

 長州藩は幕府から海外の商人との取引を禁じられていたが、龍馬の発案もあり薩摩藩名義で海外製の最新鋭の武器や蒸気軍艦の購入に成功。長崎から長州までの輸送は亀山社中が引き受けた。その返礼として、薩摩で不作となっていた米を長州から送っている。こうしたやりとりの積み重ねで(わだかま)りは少しずつ氷解していき、両者の実力者である西郷“吉之助”隆盛と桂“小五郎”孝允(たかよし)の会談までこぎつけた。慶応二年(一八六六年)一月二十二日、薩摩藩の重役である小松“帯刀(たてわき)清廉(きよかど)の京都屋敷にて、龍馬が立会人となり西郷と桂の間で六ヶ条の条文が結ばれ、晴れて“薩長同盟”と呼ばれる関係が成立した。

 悲願の同盟締結を実現させた龍馬だったが、お祝い気分に浸っている時間は短かった。締結から日付が変わった一月二十三日、龍馬が京都滞在中の定宿としていた寺田屋に、伏見奉行所の捕吏(ほり)が急襲。寺田屋で働いていたおりょうの機転で逸早(いちはや)く気付いた龍馬は護衛の三吉“慎蔵”時治と共に応戦、その後寺田屋を脱出して薩摩藩邸に逃げ込んだ。

 辛くも難を逃れた龍馬だったが、寺田屋での交戦時に左手を斬られた傷が思いの外深かったことから、おりょうを連れて薩摩で療養する運びとなった。薩摩藩邸で祝言を挙げたおりょうと一緒に、一時の休息を得た。慶応二年五月、龍馬は活動を再開。六月七日から始まった第二次長州征討では龍馬も長州方として参戦し、蒸気軍艦を操り長州勢の勝利に貢献している。この年の十二月四日付で乙女に宛てた手紙には寺田屋襲撃の話から薩摩でのおりょうとの生活、長州での戦いや世話になった西郷吉之助の事まで多岐に亘る内容が掛かれていた。特に、おりょうと一緒に登った霧島山の話では絵図入りで紹介していた。

 年が明けて、慶応三年(一八六七年)一月。龍馬は土佐藩の参政・後藤“象二郎(しょうじろう)正本(まさもと)と長崎で会談。薩摩や長州だけでなく幕府や他藩の要人・グラバーを始めとした日本国内外の商人とも繋がりがあり、蒸気船や洋式帆船の操船術も有している龍馬は土佐藩にとって非常に有益な存在だったこともあり、脱藩の罪を再び(ゆる)された。土佐藩では勤王党弾圧の後から近代化に乗り出したものの、先行する薩摩藩や長州藩と比べるとかなり遅れをとっており、龍馬を土佐藩に戻すことで挽回しようとしていた。慶応三年四月、亀山社中は土佐藩の関連団体となり、名称も“海援隊”に改めた。同じ頃、大洲(おおす)藩が所有していた蒸気船“いろは丸”を借り受けた海援隊は、四月十九日に長崎から大坂へ向けて出航したのだが、四日後の四月二十三日に事件が起きる。瀬戸内海を航行中だったいろは丸は、前方からやって来た紀州藩籍の軍艦“明光丸”と衝突。明光丸の方が圧倒的に大きかった為にいろは丸は沈没してしまったのだ。この事故に対して紀州藩は幕府に裁定を仰ごうとしたが、龍馬は日本に持ち込まれたばかりの『万国公記』を元に「非は紀州藩側にある!」と主張。最終的に紀州藩から賠償金七万両を支払わせる事で決着した。

 慶応三年六月二十四日付で乙女と乳母のおやべに宛てた手紙には、妻であるおりょうとの生活や乙女が欲しがっていた拳銃は「やめておいた方がいい」と宥めたりする内容のものだった。この時、薩長両藩で討幕の機運が高まってきたが、武力衝突による国力低下を避けたい龍馬は平和的解決策として大政奉還の案を象二郎を通じて幕府に薦めている真っ最中で、乙女にはそうした政治的な文言は殆ど書かれていなかった。

 それから龍馬から手紙は届いていなかったが……大政奉還の話が土佐まで伝わってくると『この話には土佐藩も一枚嚙んでおり、発案者の一人には坂本龍馬も含まれている』という噂も一緒に流れてきた。

(あの泣き虫だった龍馬が、こんな大きな事をするなんて……)

 乙女は誇らしいと思うと同時に、感慨一入(ひとしお)だった。

 自らは安政三年(一八五六年)に医者の岡上(おかのうえ)樹庵(じゅあん)と結婚。並の男性を上回る体格に男勝りな性格の乙女を龍馬以外の家族親戚は「嫁の貰い手はいるだろうか?」と気を揉んでいたという。樹庵との間に赦太郎・菊栄の一男一女を生んだが……夫の浮気や家風の違いなどもあり夫婦仲は決して良くなく、慶応三年に離婚。乙女は実家に戻っていた。乙女は夫婦仲の悪さを龍馬に手紙で漏らしており、相当悩んでいたみたいだ。

 乙女自身「自分が男だったら……」と思った事も一度や二度で済まない。龍馬から送られてくる手紙で綴られている活躍を思えば、余計にその気持ちが強くなる。しかし、一方で龍馬だからこそ、今日(こんにち)まで飛躍を遂げたのだと捉えている自分も居た。昔ながらの仕来(しきた)りに反発を覚えながらも汲々(きゅうきゅう)と受け入れてしまっている自分に、龍馬のような大それた事は出来なかった。

 暫く感動に浸っていた乙女だったが、ふと別の事に考えが及んだ。

(これから、龍馬はどうなっていくのだろうか?)

 大政奉還の陰の立役者となった龍馬の将来について、乙女は疑問を抱いた。

 龍馬が手紙の中で紹介していた西郷吉之助や小松帯刀、後藤象二郎はこの先この国の舵取りを担っていく人物になるだろう。しかし、龍馬はそうした道に進むとは思えなかった。正確に言えば、想像がつかない。龍馬は“偉くなりたい”とか“政でこの国を動かしたい”といった欲は薄く、今回の大政奉還の献策も“戦で国力が削がれるくらいなら”という気持ちで動いたに過ぎない。それに、そうした気持ちが強いのならば、二度目の脱藩はしていないだろう。藩に求められる形で戻るよう促されたのだから、藩に戻ればそれなりの処遇はあったと思われるのだが、龍馬は安定より冒険を選んだ。中枢を上り詰めたい人間なら、まずしない選択である。

 そんな事を考えながら、乙女は龍馬から送られてきた手紙を読み返す。すると、龍馬が目指す方向性を示す文言が目に留まった。

(……蝦夷(えぞ)、か)

 幾つかの手紙の中に、“蝦夷”の可能性について好意的に述べていた。

 曰く、『蝦夷には未開の地が広大に残されている』『我が国とは異なる品々があり、交易を盛んにすれば儲かるかも知れない』『いつか蝦夷の地に行ってみたい』……まるで商人みたいな言い草である。事実、龍馬は実際に訪れた事のある北添佶摩(きつま)から蝦夷の可能性について話を聞いていたり、元治元年六月には恩師の海舟に蝦夷開拓と通商すべきと説いている。

 けれど、これこそ龍馬が本当にやりたい事なのかも知れない、と乙女は思った。

 龍馬がまだ幼い頃、乙女は龍馬を連れて才谷家や港によく連れて行った。その時の龍馬は目をキラキラと輝かせ、商船に乗ったり商いのやりとりを眺めていたりしたものだ。恐らく、龍馬の中にも商人の血が流れているのだと思う。国を動かすよりも、海に出て交易をしたい気持ちが強いのだ。だからこそ、神戸海軍操練所が閉鎖された後に亀山社中を設立し、名を海援隊に改めてからも商業活動を継続している。亀山社中の資金繰りは厳しいと乙女への手紙でも明かしていたのに海援隊でも続けたのは、やはり龍馬の意向が強く働いたと考えるのが自然だ。

 武士らしくないけれど、龍馬らしい。乙女は素直にそう思った。

 次に手紙が来たら、きっと今回の事について書いてくれるだろうな。それも、自慢気に。乙女はその手紙が届くのを、今から心待ちにしていた。


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