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一:慶応三年十月某日(前)

 慶応三年(西暦一八六七年、以下西暦省略)十月某日。土佐城下・高知の町は京から届いた報せに大きく揺れていた。

 去る十月十三日、幕府の呼び掛けに応じ二条城へ出仕してきた大名達を前に、時の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は「大政を奉還する」と宣言したのだ。これまでは国家元首の帝に代わり将軍・幕府が国の(まつりごと)を担ってきたが、慶喜はこの権利を帝へ返上しようというのである。徳川幕府が開かれてから、いや、武家勢力が国の統治を行うようになった鎌倉幕府が開かれて以来、約七百年に渡り続いてきた体系が根底から引っ繰り返ろうとしていた。将軍を頂点にして国全体の政は幕府が、地方の政は藩が治める制度が常識として備わっていた全ての人々を驚愕させる大事件で、その衝撃は計り知れなかった。

 大政奉還の報せは程なくして高知まで伝わってきた。高知城には土佐藩第十六代当主の山内豊範(とよのり)が居たが、実権は先代当主で“四賢候(しけんこう)”の一人に挙げられる山内容堂(ようどう)が握っており、豊範はお飾りに過ぎなかった。その容堂は現在京にあり、大政奉還の報せが高知に届くと特に武士階級の間で動揺が広がった。

 武士の世がなくなる怖さ、今まで以上に先行きが不透明になる不安、明日からどう過ごせばいいか分からない困惑……様々な感情が城下に渦巻いていた。その影響は乙女が暮らす坂本家にも及んだ。

 坂本家は豪商才谷屋の分家で、郷士(ごうし)下士(かし))の身分ながら裕福な家だった。坂本家の当主である長兄・“権平”直方(なおかた)は難しい顔をしたまま固まり、高松順蔵に嫁いでいた長姉・千鶴も実家を訪れたものの茫然としていた(次姉の栄は病により既に他界)。

 一方で、三女の乙女はというと――自室に籠もり、一人浮き浮きとした表情をしていた。

 乙女という名は、本名ではない。本来の名は“(とめ)”だが、名の前に“お”と付けた上で“乙女”と()てたのである。男勝りな性格で並の男にも勝るとも劣らない強さから一部で“仁王”と女性に付けるには少々可哀想な綽名(あだな)で呼ばれていたのもあり、少しでも女らしくなってほしい願いも込めて“乙女”にした……と推察される。

(――やった。本当にやったな、龍馬)

 四つ下の弟に、乙女は心の中で(たた)える。乙女にとって、“龍馬”直柔(なおなり)はただの弟ではなかった。

 母・(こう)は龍馬を生んで暫くすると床に臥せるようになり、乙女が十四歳の時に死去。他の姉達は既に嫁いでいたことから、乙女が母代わりとなってまだ幼い龍馬を育てた。当時の龍馬は気弱で泣き虫、おまけに夜尿症(やにょうしょう)もあり、近所の子ども達からいじめられていた。そんな龍馬を乙女は自ら剣術を叩き込み、夜中には(かわや)へ連れて行くなど、一人前の武士になれるように厳しく育てた。

 その結果、龍馬は夜尿症を克服するなど徐々に自信をつけ、乙女に鍛えられた剣術もめきめきと上達し、十七歳になると江戸へ剣術修行に行く事を許されるまで腕を上げた。身長も六尺(約一八二センチメートル)と非常に大柄に成長したのと龍馬自身に剣術の才能があったのもあるが、乙女が心を鬼にして厳しく接していなければ才能が開花していたか分からなかった。龍馬はこの剣術修行から大きく羽ばたいていく事となる。

 そこまで振り返った乙女は、文机の前に座ると文箱(ふばこ)を開く。文箱に収められていたのは、沢山の手紙。

 龍馬は筆まめな性格で、時々手紙を送ってくれた。この当時、江戸と大坂で手紙を送る際に一番安くても三十文掛かるが、江戸と高知となるともっと高くなる。流石に頻繁にとはいかなかったが、数ヶ月に一度の割合で送ってきた。その内容は北辰一刀流の小千葉道場での出来事や江戸での暮らし、さらに女性関係まで多岐に(わた)った。身内贔屓(びいき)かも知れないが、龍馬は意外とモテるのだ。普通なら隠しておきたい恋愛事を明かしたのも、それだけ龍馬が乙女を信頼している裏返しとも言える。

 高知を出て江戸に着いた龍馬は、程なくして世間を大いに揺るがす大事件が起きる。嘉永(かえい)六年(一八五三年)六月三日、相模(さがみ)国浦賀沖に突如四(せき)の艦船が姿を現したのだ! この艦船は亜米利加(アメリカ)のペリー提督が日本の開国を求める為に来航したのだが、二百年以上も鎖国政策を続けてきた日本の民は初めて目の当たりにする巨大な蒸気船や洋式帆船に度肝を抜かれた。この時、江戸に滞在していた龍馬も品川の沿岸警備に駆り出されている。

 安政(あんせい)元年(一八五四年)、一年間の剣術修行を終えて土佐へ帰国した龍馬は絵師の河田小龍(しょうりょう)の元を訪ねるようになった。小龍は天保(てんぽう)十二年(一八四一年)一月に高知沖へ漁に出たが漂流し、後に亜米利加の捕鯨船に保護されて渡米した中浜万次郎(ジョン万次郎)が土佐に帰ってきた時に自宅へ寄宿させ、その際に万次郎から聞いた亜米利加での話をそのまま書き記した上で自らの挿絵を入れた『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』全五巻を完成させた人物で、万次郎から話を聞いている小龍から龍馬は少しでも海外の情報について知ろうとしていた。ただ、この当時の龍馬は開国派という訳ではなく、黒船来航という衝撃的な出来事から異国への興味関心から出た行動だった。

 安政三年(一八五六年)九月、龍馬は藩から認められて再び江戸へ剣術修行に赴いた。翌安政四年(一八五七年)に一年の期間延長も許されたのもあり、小千葉道場の塾頭を任されるまでに腕を上げた。この年の九月、目的を達成した龍馬は土佐へ帰国した。

 黒船来航以降、外国人排斥を主張する攘夷(じょうい)派と諸外国と交流すべきとする開国派で意見が二分していたが、時の帝である孝明(こうめい)天皇が攘夷の意思を持っていたのもあり攘夷を叫ぶ者が優勢だった。この流れに対し、時の大老・井伊直弼(なおすけ)は自らの考えに反発する者達を弾圧。対立する派閥の大名を蟄居(ちっきょ)幽閉させ、攘夷派の志士を多数捕縛・斬首するなど、厳しく処罰した。この一連の弾圧は後に“安政の大獄”と呼ばれた。

 しかし、安政七年(一八六〇年)三月に直弼は江戸城へ出仕する際に桜田門外で殺されると、土佐でも尊王攘夷の風が吹き始める。文久(ぶんきゅう)元年(一八六一年)、上士(じょうし)武市(たけち)“半平太”瑞山(ずいざん)が自らの考えに近い者達と共に“土佐勤王党”を立ち上げ、龍馬もこれに加わった。(こころざし)を同じくする者達と関わっていく中、龍馬の中で“藩”という枠に縛られずに活動したい気持ちが徐々に芽生え始めた。同志が続々と脱藩していく動きに、龍馬は自分もそうした選択を真剣に考えた。ただ、脱藩という行為は犯罪に当たり、本人が捕らえられた場合には斬首されるだけでなく残された家族にも(るい)が及ぶ可能性があった。坂本家に(とが)が及ぶのを恐れた権平は龍馬の脱藩を阻止すべく佩刀(はいとう)を取り上げ、家族や親戚に龍馬が怪しい動きをしないか警戒するよう強く求めた。武士の魂というべき刀を没収されて困っていた龍馬に手を差し伸べたのは、母代わりとして育ててきた姉の乙女だった。秘かに蔵へ忍び込んで坂本家の家宝である『肥前忠広』を拝借すると、龍馬に旅立ちの餞別(せんべつ)に渡したのである。長い間一番近くで接してきたからこそ、龍馬の気持ちを察した上で背中を押した形だった。文久二年(一八六二年)三月二十四日、龍馬は土佐から旅立った。

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