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憔悴している男

「雨が降りそうだね」

 羽生(はぶ)未明(みめい)は会社の屋上に立ち、半分飲み残したコーヒーの缶を手に持ったまま、独り言を言いながら街中の車を見下ろしている。

 どんよりとした雲が蓋のように、この空を覆っていく。万事が口を閉ざされてしまったみたいに、静かに動いている。

 車がきちんと並んでいて、ときおりライトが点滅していたが、その静けさに順応したように、密やかに去っていく。


 このような薄気味悪い天気では、羽生の気持ちも当然よくない。太陽光不足で、松果体から分泌したメラトニンが増えたことより気分が落ち込んだという理論を思い出し、首を横に振った。


「羽生先生!」パラリーガルの福地(ふくち)玲子(れいこ)が急いで屋上にやってきた。

「どうしたの?こんなに急いで」

「今すぐ部長室へおこしください。加茂(かしげ)部長がお呼びです」

「ええ……えっ? ? ?」

 羽生の口から出てきた「ええ」という言葉が「えっ」に変わってしまった。

 加茂部長?あの伝説の加茂部長なのか?と羽生が思わず叫んだ。

 まさかあの加茂部長に呼び出されるとは思ってもみなかった。同じ刑事部に所属されているが、羽生がこの法律事務所に入ってから、この加茂という男と話した回数は片手で数えられるようになった。しかも職場の伝説によると、加茂部長はいつも仏頂面で、周りの植物を一切枯らせるオーラの持ち主である。

 ぎこちなく返事し、残っていたコーヒーを飲み干したら、羽生はオフィスに戻った。


「失礼します」

 ドアを半分開けてみると、所長の加茂仁生(ひとき)と、もう一人の三十代の男がソファーに座って話し合っていた

「ちょうどいいところに」と加茂がいった。

「えっと……」


 知らない男の顔立ちは柔らかく見えて、眉宇の間に幾分か意気が溢れているが、すぐに愛想のいい微笑が溶け込んでいる。

 もう少し見ようと思っていたのに、加茂が「お前、自分で言え」と男に言って、二人から目を逸らした。

 男はソファーから立ち上がり、自己紹介を始めた。

「企業法務部の田名部(たなべ)京太郎(きょうたろう)です。よろしくお願いします」と礼儀正しくお辞儀をした。

 羽生も慌てて頭を下げた。「羽生未明です。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」

「単刀直入に申し上げますと、実は僕の友人が過失殺人の疑いで起訴されました。遠水は近火を救わずと思っていますので、刑事部の助けを求めるつもりです」

 田名部の説明を聞いていると、「だからどうして私に?刑事部には、たくさん有能な先輩がいらっしゃるはずですが」と羽生が答えた。

「俺が配属した仕事について、文句でもあるか」

 隣の加茂部長は、窓の外を見ながら、呟いたように羽生に問いかけた。

「そんなことはございません。田名部さん、続けてください」

「ええ。あいつは、僕の高校時代の同級生ですから、性格はよく知っています。家計状況が少し厳しいですが、人を殺すなんてありえませんよ。それに……」

「それに?」

「亡くなった人は、あいつの好きな女性です。彼女も僕たちの高校の同級生です。あいつに殺されたとは思えません。どうか、僕の友人を助けてください」


「そうですか。事情はわかりました。あとで必要な書類をご用意させていただきます」

「契約書類の準備を、もう福地たちに任せたから、お前は自分の仕事に専念しろ」

 加茂部長は目の前のテーブルに置いた資料を指した。

「事件に関する資料は全部ここに、すぐに接見してくれ」

「あ、はい……」

 分厚い資料を持ちながら、羽生はその場を後にした。


 羽生が去った後、田名部はガラス戸越しに遠ざかっていく羽生の姿を見つめ、さらに眉をひそめた。

「加茂先生、あの若いお嬢ちゃんに任せて、本当に大丈夫ですか?」

 加茂は腕組みをしていた。

「安心しろ。羽生先生は優秀だ。実戦経験が少し足りないだけだ」

「そんなことを言われても……」

「まだ安心していないのなら、俺も加えたらどう?」

「え?伝説の加茂先生が出馬しますか」

 加茂の表情は、一瞬柔らかく見えた。

「俺の部下が危険にさらされていないことを確認したかっただけだ」


 持ち物をまとめて、羽生はエレベーターに入った。降りようとしたとき、エレベーターのドアがまた開いた。そして、アタッシェケースを持っている加茂部長の姿が現れた。

「部長もお出かけですか」

 加茂がエレベーターに乗ってみると、羽生は尋ねた。

「一緒に接見しに行く」

「え、そうですか。でも、これはすでに私に任せていただいた事件では……」

「何か手違いがあったら困るからな」

 加茂は相変わらず無表情で羽生を見ていた。

 加茂に続いてエレベーターを出たら、気付かれないうちに羽生は首を大きく振った。

「なんで部長と一緒にやらなきゃいけないのよ~」


 拘置所の面会室に着いたら、三十代の体の細い男が薄い灰色の糸衣を着て、ふらふらと出てきた。ガラス越しに男の憔悴している顔が見えてきた。

 男は小岩(こいわ)貴志(たかし)という、高校時代の同級生であった笹川(ささがわ)美紗子(みさこ)を殺害した疑いで起訴されている。

 名刺を出し、部長がしばらく手を出す気はないと確認してから、羽生は質問を始めた。

「小岩さん……」

「美紗子はどうなったか、知ってる?」小岩は急いで尋ねた。

「それは……」

「美紗子が死んだって聞いたんだけど、本当?」

「本当です」加茂部長の声は相変わらず落ち着いていた。「小岩さんは知らないですか」

 小岩はしばらく自分の唇を噛んで言葉を整理しようとしたが、苦しい表情を浮かべながら、手のひらの中に顔を埋めた。


 加茂部長と顔を見合わせたが、彼は冷静な目つきで羽生を見ているだけだ。

「7月22日の午後、小岩さんはどちらにいらっしゃったのですか」と羽生は尋ねた。

 7月22日の午後2 ~ 4時は、笹川美紗子の死亡推定時刻である。

 小岩はようやく顔を上げたが、目が少し赤くなった。

「目黒川のあたりです」

 これは、羽生たちの望んでいた答えではない。笹川美紗子と恋人の新居は目黒川の近くで、あの有名な寄生虫館からは数百メートルだけ離れている。

「用件は」と羽生がまた聞いた。

「川沿いを散歩しただけなんです」

 明らかに嘘をついていると思うから。次の質問はどうするか迷っている。羽生はつい目で隣の加茂部長に助けを求める。

「小岩さん、笹川さんへの接近を禁止されているのではありませんか」

「どうして知ってるの」

 小岩は少し驚いたようだ。

「推測です。今は桜の季節ではないので、わざわざ目黒川に来た理由は、散歩ではない

 でしょうか。あなたは彼女に会いたかったですが、家の近くまで行ったのに、会いに行かなかった。それはなぜ?彼女への接近を禁止されていると、俺はそう思うのです」

「すごい」小声で小岩は感心した。「おっしゃる通り、ぼくは彼女に会えなかったから目黒川のほとりを歩いているだけなんだ。彼女がここを通り過ぎたとき、どんな気持ちだったか想像してみたかったです」


「つまり、小岩さんは笹川さんを殺さなかったですよね」羽生は言った。

「お前バカか」いきなりに加茂が羽生を叱った。

「もちろんやっていません!」小岩はテーブルの縁に両手をついたまま、立ちあがるようにした。


 検察側により、事件が起こった日、小岩は笹川美紗子さんへの接近禁止命令を破った。自宅に戻ろうとしたところ、小岩に強引に部屋に押し入られた。そして、小岩に殺された。

「捏造です!」話を聞いてから、小岩の情緒はますます不安定になっていく。「そんなことするがわけないじゃん」

「本当なのですか?被害者の家で、小岩さんの髪が見つかりましたよ」

 小岩は瞬きをし、目を逸らした。

「彼女に近づくのを禁止された前に、何度か行ったことがあるんです。数ヵ月前かな」


 拘置所を出て、羽生は大きくため息をついた。

「どうした」加茂が聞いた。「難しいと思うなら、諦めるか?」

「いいえ、おかしいと思ったんです。仮に数ヵ月前に行ったことがあるとしたら、落ちた髪はちゃんと保存されていたでしょうか?そして、数ヵ月前まで小岩さんはまだ禁止されていませんよね。つまり、被害者にとって、小岩さんにはさほど迷惑をかけられていなかった。でも今は禁止されている。なぜそういう展開になるのでしょうか」

「助けを呼ぶとしようか」加茂はポケットから一枚の紙を取り出し、電話番号と名前を書いて羽生に渡した。「その人が、謎を解いてくれるかもしれない」

純次(じゅんじ)は探偵事務所で働いてる。そいつは俺に借りがある。俺の部下だと言ったら、どんなことでも助けてくれるはずだ」

「かしこまりました。じゃあ行って参りますね」

「くれぐれも気をつけろよ」

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