水界の魔王
「はーっ……はーっ……」
息も絶え絶えになった相手に、ゆっくりと歩み寄る。もう武器を持つ必要も、魔力を込めておく必要もないだろう。完全に無防備の状態の俺は、静かに水界の魔王の傍で片膝を付いた。
「……見事だな」
「見事なもんか。お前が俺達を仕留める、そのチャンスは数えきれない程にあった。それなのにお前はトドメを刺さずに俺達に対峙した、負ける気でだ。むしろみんなには戦いの指導を、俺に至っては魔力を分けてまで強くなるように指導した。なんなんだ、何が目的なんだ」
荒れた息が整うまで待つ。相手もそれを察して、静かに、呼吸を整えて行く。そしてリズムが穏やかになった時、彼は言葉を紡ぎ始めた。
「……初めて見えた時の事を覚えているか」
「リマトさんの村での事か」
「そうだ。あの時に語った、泰平の世を築く、平和な世界を生み出す。それが当方の目的だ」
「それがどうして、俺達を鍛える事になるんだ」
「お前達に託す。平和な世を、未来を作り上げる事を、お前達に託す為だ」
「……なぜ自分でそれをしようとしないんだ。お前の実力なら、まだ諦める必要もなかったんじゃないのか」
「…………今話したのは、当方の目的。ここからは私自身の目的を話そう」
平和な世を築くのは、水界の魔王とその仲間達による願い。自身の願いは別のところにあるという事。
「私の願いは、狂ってしまった、堕ちてしまった皆を、元に戻す事だった。毒の魔王を、コルドクト=ドートに。雷の魔王を、バスルター=ウェルバーに。五の従者達は眼を覚まさせる。それが私の目的だった」
「それは、お前の水界の魔力を分ければ、出来たんじゃないのか」
「出来なかった。堕王を完全に操るには、水界の魔力の完璧な習熟が必要だ。皆はそこに至れなかった。真髄に辿り着けたのは、私だけだった」
「…………」
「そこで眼を付けたのが、強化の魔力。自身の魔力を他人に付与するその魔力ならば、完全な状態の水界の魔力の付与を、堕王を操る術を皆が手に入れる事が出来るのではと、そう考えたのだ」
「リマトさんなら、事情を話せば協力してくれたかも知れないだろ! 彼を知っていたなら、それが分かっていた筈だろ!」
「それを思いつかぬ程に、私はどうしようもなく堕ちていたのだ。堕王に飲まれた訳でも無く、誰かに諭された訳でも無い。もはや奪うという選択肢しか思いつかない程に、私はどうしようもなく堕ち切っていたのだ」
自らを嘲るような、皮肉めいた笑みを見せる水界の魔王。そこまで、どうしようもない程に彼自身追い詰められていたのか。心通わせた親しき友人達が堕ちて飲まれていく光景を、傍でどうしようもなく見ている事しか出来ない。地獄のような苦しみを長らく味わったのだろう。自分が痛めつけられるよりも、彼にとってはその方が何倍も苦しかったのだろう。
「風炎の魔王よ、私の、当方の魔力を受け取ってくれ。この力で、この世界に平和をもたらしてくれ。私達のような者が、もう生まれぬように」
弱り切った声色。餓死寸前の人が僅かな水を求めるような、心の底からの懇願。だが、それを受ける訳にはいかない。
水界の魔王は今、自らに宿った魔力でどうにか生き長らえている状態だ。この魔力を全て奪ったとなれば、彼はそのまま命を落とすだろう。それでは駄目だ、彼の贖罪には相応しくない。
「駄目だ。お前は生きて、俺達と一緒に来るんだ。生きて人を助けて、お前が殺めた人以上の人を救うんだ。それがお前に出来る贖罪だ」
懐からポーションを取り出し、水界の魔王の傍に持っていく。だが無理矢理飲ませはしない。ここで無理矢理飲ませても、その後の彼が命を絶たないとは限らない。水界の魔王自身が、ここで生きる意思を示さなければいけないんだ。
水界の魔王は、ゆっくりと首を振った。俺の提案を受け入れる事は出来ない。弱弱しくも、確固たる意志を持った返答だった。
「私は地獄に落ちねばならない。先に逝った友と共に、罰を受けなくてはいけないんだ」
そうか。生きる支えが、彼にはもうないんだ。平和な世界を作るという目標は本心だろう。だがそれは、彼らの目標。水界の魔王自身のものではない。きっと何を言ったとしても、彼は生きる気力を取り戻す事はないだろう。俺は、水界の魔王の生きる支えにはなれない。
「…………分かった。なら、お前達の罪、俺が背負ってやる。お前達の魔力を受け取って、お前達が犯した罪を全部背負って、世界を平和にしてやる。だからお前達は、安心して地獄で苦しんでろ」
「……ふふ。底抜けのお人好しだな」
「ただし、お前の墓は作ってやらない。弔いもしてやらない。お前の最後を知るのは俺達だけだ。他の誰も知らない。それが俺からの罰だ」
「十分だ。お前が覚えていてくれるのなら」
そっと手を、水界の魔王の胸元に添える。既に魔力の核を身近に感じる。彼が手放す意思を、しっかりと込めている証拠なのだろう。
「風炎の魔王よ、最後に一つ尋ねたい」
「……なんだ」
「私達とお前は、出会う形が違えば、時代が違えば、友として、共に歩む事が出来ただろうか」
「……圦埼 柳埜」
「それは……お前の名か」
「そうだ。風炎の魔王なんて、そんなよそよそしい呼び方をするなよ、友達なんだから」
彼の顔が綻ぶ。涙が一筋、ゆっくりと頬を伝った。
「お前の名前も教えてくれ、そうじゃないと不公平だ」
「……遼 朋義」
「……良い響きだな、朋義」
「柳埜こそ、良い名だ」
魔力を手に集中させる。別れの時だ。
「ありがとう、柳埜」
「ありがとう、朋義」
彼らの魔力を、ゆっくりと受け取る。三つの魔力はまるで最初からそうあるべきだったと言うように、俺の体へと馴染んでいく。
その傍ら、遼 朋義は息を引き取った。まるで眠るような、安らかな顔だった。
「……甘い対応ね」
「やっぱり、そうかな」
「でも、それが貴方の良いところ。私は誇りに思うわ」
「ありがと、リル」
他の三人も、だれも文句は言わなかった。モルバは多少不満げな顔をしていたが、それでも否定はしなかった。
友の亡骸を持ち帰り、墓を作らないと。そう思っていた時、辺りの空間が歪み始めた。朋義が言っていた、自らが死んだ時、氷の魔王が現れる。それがこの事象か。
歪んだ空間が次第に冷気を吐く。徐々に氷の塊が姿を見せる。そうして遂には、何もなかった場所に、氷の魔王を閉じ込めた、あの氷塊が露わになった。
「オオ……」
「なんと……美しい……」
「すげぇなこりゃ、てかさっぶ!」
まだ見ていなかった三人は、揃って感嘆の声を呟いた。初めて見る人には確かにこの光景は素晴らしい物に見えるだろう。それほどまでに美しい。だが俺は見とれる訳にはいかない。これまでの戦いの本当の目的、氷の魔王を、リルフィリアの姉を助け出すという悲願を果たさねばならないのだから。




