戦う理由
あの恐怖の出来事から数日後。俺はアンさんの宿を手伝っている。今はゲネラルさんのところに食料品の買い出しに向かっている最中だ。
宿に送り届けられたその後、俺は全身の自由を奪う程の恐怖と、粘着質に残り続ける吐き気に必死に耐えながら、一日を布団の中で過ごした。蒼白の顔面からよだれを垂らし続ける俺を、アンさんが献身的に介抱してくれたらしい。そのおかげで翌日には座れるようにまで回復した。しかし少しの物音で怯える程に俺は憶病になっていた。怖がらせまいと細心の注意を払っていた彼女の気遣いが、心に痛かった。
その翌日、気付けば俺はバロフの城にいた。そこでようやく、俺が何故生きているのかの説明を受けた。
あの日の朝、バロフが渡したブレスレットには魔法が掛けられていたらしい。予め場所と時間を指定してブレスレットに魔法を施す。ブレスレットの装着者が死んだ時、死んだ瞬間までの記憶を持ったまま、無傷の状態で指定時刻まで戻る。ぼんやりとした思考の中、要はセーブポイントだと理解した。俺が戻ったのはバロフの城。時刻はバロフとの朝食の数分後だったらしい。
だが効果は一度きり。作るのも労力や希少な部材が必要らしく、もう他にはないとバロフは言う。そんな貴重なものを何故渡したのかと俺は尋ねた。
「お前に、敵意と殺意による恐怖を教える為だ」
眼を丸くする俺に魔王は容赦なく続ける。
「お前の国にはそういうものがほとんどない。少なくとも殺される恐怖など疎遠な物だろう。それがこの世界には当たり前のように転がっている、当然のように牙を剝く。数々の魔王を相手取るとなれば尚のことだ。お前が今飛び込もうとしているのはそういう世界だ」
あの絶望の記憶が、そこらに転がっている。なんとなくここはのんびりとした世界だと、俺は勝手にそう思い込んでいた。
「お前は優しい。異世界に勝手に呼び出した俺の頼みをお前は引き受けてくれた。だがこの役目は命じられたから、ではどんなに上手くいっても限界が来る。リュウヤ、お前が自分の意志で引き受けなければ、あの恐怖に打ち勝つ事は出来ない」
優しく諭すようなバロフの言葉は、俺の頭を強く重く揺さぶった。
「すぐに出せる結論ではないのは理解している。考えが纏まってから俺に報告するといい。もし諦めると言うなら、この町の好きな空き家を与える。安全な仕事も与える。その選択を取ったとしても、誰もお前を責めはしない」
その言葉を最後に、気付けば俺は宿の自室にいた。軽い放心状態だったところを、アンさんに揺すられたのを覚えている。
それから更に数日経ち、今に至っている。手伝いは俺の方から申し出た。気にせず療養に専念してと断られたが、気分転換になると押し切った。
ゲネラルさんに会うのはあの日以来だ。余計な心配は掛けたくないが、以前のように自然に接する事が出来るだろうか。なるべく自然に、何事もなかったかのように。顔はちゃんと笑えるだろうか。引きつったりしていないだろうか。以前の自分が思い出せない。
「リュウヤ様?」
驚き声の方を見た。雑貨屋の窓から顔をだしたゲネラルさんが、少し心配そうな顔で俺を見ている。ぼーっとしていた、何時の間にやら店を通り過ぎるところだった。
「ぁ、ゲネラルさん。お久しぶりです」
笑いながら店の方に向かう。彼の驚いたような悲しんだような顔が、妙に瞳に焼き付いた。
「今日はこれを、お願いします」
アンさんから頼まれた食品のメモを渡す。少々お待ちくださいと、ゲネラルさんは店内を探し始めた。
「お待たせしました、どうぞ」
「ありがとうございます」
料金はアンさんが定期的に支払っているらしい。俺はただ、渡された食材達をポーチに入れて持ち帰る、それだけだ。特にそれ以上言う事なく、軽い会釈をし、店を出ようとした。
「リュウヤ様」
出る直前、呼び止めるように声を掛けられた。振り向いたが、ゲネラルさん自身、次に何を言おうか迷っている様子だった。
「ぁ、あの、ゲネラルさん」
「はい」
「なんでゲネラルさんは、魔引きに協力してくれるんですか?」
「……少しでも、この世界を平和にする為です」
快活なゲネラルさんらしくない、弱弱しい声色。言葉を慎重に選んでいるようにも見えた。暫く彼は俺を見て、ゆっくり語り始めた。
「私はとある町で商人をしておりました。妻を貰い、息子を授かり、幸せだった、日々でした。しかし、魔王達の争いに、町は飲まれました。妻は裂かれ、息子は……息子は、私の腕の中で、動かなくなりました」
視線を外したり、出そうとした言葉を引っ込めたり、らしくない事の連続だ。誰が見ても辛いのだと分かってしまう。聞くべきではなかった。
「ゲネラルさ……」
発言を手で制止された、止めるなと釘を刺された。
「それから生き残った者達で、戦火の被害者を保護する町の噂を頼りに、各地を転々としました。そうして辿り着いたのがこの町なのです。結局、辿り着いたのは私一人だけでしたが」
一人。生き残ったのはゲネラルさん一人だなんて、俺の経験など及びもしない。
「この町の者達のほとんどが、そういう境遇を抱えております。誰もが、魔王達の恐ろしさを知っております。命が奪われる恐ろしさを、痛い程に、知っております。失礼ながら、リュウヤ様に何があったかは耳に入れました。リュウヤ様、誰も貴方を、責めたりは致しません」
ゲネラルさんの言葉に返事を返す事も出来ず、頷くことすら出来ずに、俺は店を出た。身に染みる、痛い、とても痛い優しさだった。
放心状態とも言える足取りで俺は歩き続ける。宿に帰る事が目的の俺は、何故か武器屋の前に立っていた。
ここに来てどうしたいんだろうか。無意識の行動に立ち尽くす。ぼやっと立つ俺の気配に気づいたのか、中からウェンさんが顔を出した。
「とりあえず……入りますか? お茶でも出しますよ」
はい、と小さく返事をして、俺は店に入った。
「どうぞ、熱いですよ」
示された椅子に座り、差し出されたお茶を受け取る。いつか飲んだ、ほうじ茶に似た香りがした。
ウェンさんはカウンターの方で、同じようにお茶を飲んでいる。切り出すべき言葉が見えてこない。
「聞きましたよリュウヤさん。あなたがそんな事になった理由」
切り出したのはウェンさんだった。
「風の魔王に挑みに行って何も出来ず無残に殺された。仕組みはよく分からないですが、生き返ったあなたは、その時の恐怖に怯え続けている」
怯え続けている、返す言葉もない。事実今思い出しただけでも体が震え始めている。
「安心しましたよ、私は」
……安心した? 何に?
「普通の人だったんだなぁと。何せ数々の魔王を倒して周る役目を与えられた人ですよ? 化け物が来ると思うじゃないですか。リュウヤさんが人の姿をした怪物で、ちょっとでも機嫌を損ねたら首を折られるんじゃないかと気が気じゃなかったですよ」
そんな風に思われていたとは考えもしなかった。
「普通の人が挑めばそうなりますよ。無理もないというか、その失敗をとやかく言うのは野暮というか。とにかく今は療養して下さい」
ずず、とお茶を飲むウェンさん。言葉の節々から気遣いを感じる。
「ウェンさんは、どうしてこの町に? なんで魔引きの手伝いをしてくれるんですか?」
「保護されたので来ました。魔引きは単にお金が貰えるからですよ。お金を貰えるなら別に誰でもいいです」
あっけらかんと答えたウェンさんは、そのままの調子で言葉を繋げる。
「私が物心ついた時には一人でした、家族も何もないたった一人でした。あるのはそこらに転がった武器だけでしたね。それを使って魔物を殺したり、人から奪ったり。よくある……リュウヤさんの世界にはないんでしたっけ。まあ、そんな感じですよ」
価値観が違う故の軽い口調なのか、それとも彼特有の物なのか。俺には分からない。
「そんな調子で生きてたら黒騎士様に保護されました。ちょうどリュウヤさんくらいの年でしたね。子供がそんな眼をするなと言われましたよ」
ペラペラと話す軽さと相反するように、その背景が重苦しいのは想像に難くない。彼の幼少期は、俺の想像の及ばない凄惨な出来事に塗れていてんだろう。
「正直私リュウヤさんより強いですよ。火の魔力を加味しても私の圧勝です。そんな私でも魔引きは嫌です絶対やりません。適合してないからとかじゃなくて単純に怖いんですよ。魔王に挑みに行くとか正気じゃないです。あなたもそうでしょう。あなたがやる必要はないんですよ」
大口を開けて、最後の一滴まで残さず飲み干すウェンさん。少しも無駄にしないという仕草が、彼の幼少期の過酷さを語っていた。
彼の店を出て、ようやく俺は宿に戻った。時間が掛かった俺にアンさんが心配そうに駆け寄る。寄り道の事を話したら彼女は胸をなでおろす。俺の様子を見て何かを感じ取ったのか、彼女は無言で俺を抱きしめた。
ちょっと休むと言って俺は自室に戻り、ベットに倒れ込んだ。
飄々とした雰囲気で話すウェンさんだが、彼の言葉には優しさが溢れていた。俺とは正反対の幼少期を過ごした彼の言葉には、重みがあった。
ゲネラルさんは俺を責めないと言っていた。だが、彼の本当の言葉は、最初の言葉にあったと思う。
少しでも世界を平和にする為。
きっと、俺に期待をしていたんだろう。世界を平和に導く救世主の役目を、期待していたんだろう。その思いを押し殺して、挫折しても責めないと言ってくれた。身を切る思いの気遣いの言葉だったと、理解した。
自分が考えるよりも遥かに、魔引きの役目は重い。自分にそんなものが背負えるのだろうか。天井を仰ぎ自問したが、答えは出なかった。