会遇
アドスと出会って数日、俺は休養の時間を貰っていた。傷は治してもらったが、精神的な疲労もあるだろうというのが、バロフの言葉だった。報告の際に聞いてみたが、アドスはやっぱり元々土の塊だったらしい。魔引きをしていたらアドスそのものが消えていたかもしれない。結果的に、自分としては最善の選択となった訳だ。
それにしても何というか、休暇を貰ったはいいけれど、やっぱり、なんというか……
「……暇だなあ」
自由な時間を貰ったはいいが、なにもやることがない。宿の手伝いをすると言っても、休まなきゃだめよと言ってさせてもらえないし。武器屋にいっても冷やかしなら結構ですよって追い返されるし。稽古を付けてもらおうと思ったけど、モナムさんはいないし、黒騎士もいないし、そもそもバロフもいない。シルベオラさんはいたけど、私はそういうのは出来ないんですって断られたし。
そもそも自分のいた世界と違ってここは娯楽に乏しい。いやまあ、魔王達の戦国時代って考えたらそれはそうなんだけど。本もない、カラオケ等のアミューズメント施設もない、インターネットもない。一生懸命に目標に向けて走る内は気にならなかったが、暇を出されると何をしていいのやら。こうなると自分のいた世界が如何に恵まれていたのかがよく分かる。……ちょっと恋しくなってきた。思えばあれからもう数か月経つのか。父さん、母さん、元気かなぁ。友達は、どうしてるかな。
「……駄目だ、体を動かそう」
ぼーっとしてたら感傷に浸ってしまう。体を動かして気を紛らわそう。そう思って俺は水の魔王がいるであろう、西の方に歩き出した。思い立って数十分、町の離れまで到着する。別に魔王の所に行こうとは思っていない。なんとなく感じる事は出来ないかなと、まあ様子見とも言えないくらいの気晴らしだ。準備も何もしていない。なんなら剣もない。本当にただの散歩に過ぎない気晴らしだ。
「……あれ?」
そろそろ引き返そうかという時に、前方に奇妙な光景を見た。というのも、スライム達がこっちに来ているのだ。一匹二匹ではない。数十匹の大群でこっちに来ている。なんだ? 彼らがこっちに来るなんて今までなかったのに。様子もどこか切羽詰まったような雰囲気を感じる。敵かと思ったがそれらしき影は見当たらない。一体どうしたんだと考えるうちに、彼らは俺の元までたどり着いた。
「な、何? どうしたんだよ?」
スライム達は俺の元に来るなり一斉に俺の背中を押し始めた。水の魔王のいる方向であろう方角に行けと言わんばかりにタックルをしてくる。なんでこんなことをしているんだ?
「その子達がそうするのは、理由あってのことよ」
知らない声。背後から聞こえる、初めて聞く声。その声を聴いた瞬間、俺は死んだと思った。一瞬で俺の全身が青ざた。心臓はどうせ死ぬからと、血液の循環を止めた。肺はもう手遅れだと、酸素の要求を止めた。脳はもう諦めようと、生命活動の一切を止めた。その場に倒れることすら忘れて、俺は直立不動のままに死を甘んじて受け入れていた。
「私の威を感じられる程度には鍛えてあるのね」
何故その声が聞こえたのかは分からない。耳はもう聞くことを止めていたのに。
「許してあげる。息を吹き返しなさい」
その言葉を皮切りに、俺の全身は一斉に生きる事を再開した。
「けはっ!?」
死体と化していた体に再び命が巡る。背後の人物からの許可を得て、今度はこれでもかと体が生に対して活動的になる。しかし、血色が戻り体調もある程度持ち直しても、とても自分から後ろを振り向く気にはなれなかった。
「こちらを向きなさい。それとも、私に貴方の正面まで歩けと言うつもり?」
最速。いやもう自分でも驚く程に、恐ろしく速い動作で振り向いた。そんな生意気を言おうものなら地獄を与える、今の言葉の後にはそう続いていた筈だ。
振り向いた先にいた人は、今の威圧からは考えられないような見た目をしていた。光を放つような銀の長いツインテールに、宝石のような赤い双眸。可愛らしくも整った顔立ちは気品を感じさせる。服装は黒を基調にところどころ白の装飾をあしらった、いわゆるゴシックファッション。頭の上には猫の耳、良く見ればしっぽも見える。日よけなのだろうか、赤黒い傘を優雅にさしている。いかにも可愛いと思わせる要素が詰め込まれた外見。にも関わらず、その少女を見ていると深い闇に包まれたような、えも言えない恐怖が際限なく体を蝕む。そもそも視覚は可愛らしい少女として見えてはいるが、どうしても恐怖という概念そのものが形を持っているようにしか見えない。人間がこうして相対することなどおこがましい行為であると、本能がそう告げている。一体何者なんだ、この人は。いや、そもそも人なのだろうか。
「それにしても貴方、随分と無防備ね。その調子だと命はいくつ必要かしら」
柔らかい物腰で語る少女。不思議な魅力のあるその声を聴いていると、頭を優しく撫でられているようにも思えるし、心臓を爪でなぞられているようにも錯覚する。なんとも、可愛らしく、美しく、恐ろしい。
「ふふ、そんなに怯える必要もないわ。安らかになさい、ほら……」
優しい言葉をかけながら彼女は指を伸ばす。指が俺に触れた時、それは俺が死ぬ時だ。彼女の伸ばす腕は、俺の死へのカウントダウンだ。緩やかだが、確実に死は近づいている。冷や汗すら流れない程の恐怖は、生きた心地などとうに忘れさせた。そしてついにその指が触れそうになった瞬間、今度は聞き覚えのある、低い声が聞こえた。
「姫様」
その声と共にカウントダウンは動きを止めた。短い一言だが、それでもよくわかった。初めての魔引きを共にしてくれた、低く反響する頼りがいのある声。その主は……
「黒騎士さん!」
こんなにも誰かの来訪をありがたく思ったことはない。助けてくれ黒騎士さん! その姫様とやらをどうにかして……姫様? 誰が?
「あら、どうしたの黒騎士。元気そうでなによりね」
「どうしたのではありません姫様。お戯れが過ぎます」
……知り合い? というか、姫様? バロフの仲間な感じ?
「ふふ、少しからかっただけよ。何もしてないわ」
「死んだらどうするんですか」
「今ので死ぬようなら、どの道よ」
事態がに見込めないが、少女の姿から感じていた悍ましき気配はもう消えていた。見ればスライム達は姫様とやらを囲んで跳ねている。スライムに異常に好かれていたあの黒騎士が来たのにも関わらずだ。
「イリサキ……リュウヤだったかしら」
「え、あ、はい!」
「私はプリフィチカ=デフィルネル。魔王バロフの右腕にして、魔王バロフを超える者よ」
穏やかな口調で自己紹介をする少女。魔王バロフを超える者、その尊大とも言える物言いを穏やか且つ優雅な声色を崩さず言ってのける。当然の事実を淡々と述べるような言い回しだが、確かにそうだと納得させる程の説得力があった。
「貴方は私の脅威を感じつつ、即死を免れた。それなりに鍛錬を積まないとそうはいかないわ、誉めてあげる」
「あ、ありがとうございます……」
「もし脅威を感じないようであれば、すぐに殺したわ。命拾いしたことを喜びなさい」
「ひっ」
「姫様」
怯える俺、咎める黒騎士、クスクスと笑う姫様。もうやだ、心が悲鳴を挙げている。
「ちょっと暇が出来たから様子を見に来たけど、まあなんとかなりそうね」
……及第点を貰えた、という事なのだろうか。
「さ、もういいわ、早く行きなさい。この子達が急かしているのだから、ここで油を売ってる暇なんてないわよ」
「姫様のせいで行けなったのに姫様が言うんですか」
「お黙り黒騎士」
俺もちょっとそれは言いたかった。言ったら死ぬとは思うけど。
「じゃ、じゃあ、ちょっと準備してきます」
そう言って準備をしに戻ろうと思った矢先、姫様はおもむろに俺の頬に手を添えた。その動作に全身が死を連想し強張る。
「この子達は賢いの。それはもう貴方も分かっている筈よ。貴方が準備も何もしていない事はこの子達も分かってる。分かった上で、わざわざここまで来て、貴方に行けと言っているの」
「な、なんで」
「それは貴方が自分の眼で確かめる事よ。まあ、そうね。今行かないと貴方は後悔する、それだけは教えてあげる」
「わ、わかりました」
「全力で行くのよ」
「は、はいぃ!」
言われるがまま、返事と同時に振り向き俺は走り始めた。風の魔力を纏わせ、自分でも驚く程の全力疾走を行う。気を付けろよ、去り際に黒騎士さんがそう言ってくれたのが聞こえた。
全力疾走して程なくたった頃、雨が降り始めた。しとしとと、まるで涙のように、悲しげな雨だ。これは水の魔王の影響なのだろうか。
雨が降り始めて尚走り続けているといくつかの人影らしきものが見えた。半透明の、雫のような色をした精霊達。水の精霊で間違いないだろう。しかしどうしたのか、オロオロと辺りを見回している。とても慌てた様子で何かを探しているように見える。
違和感に足を止めた俺に精霊達が気付く。そしてすぐさまこちらに向かってきた。剣も何もないが、魔纏だけの格闘で行けるだろうか。なんて迎撃の思考を巡らせていた俺に対して、精霊達は驚く程に無防備に近寄って来る。まるであのスライム達のように敵意なく近寄ってくるものだから、思わず動きを止めてしまった。精霊達は腕を伸ばせば触れる程の位置にきて俺をじっと見つめる。そして一人が俺の手を掴んだ。
「キテ!」
「えっ」
精霊って喋るの? 手冷たっ。なんてバカな事を思っている内に、精霊達が俺の手を引っ張りどこかを目指していく。進行方向を見上げれば小さな山が見えた、どうやら目的地はあの山らしい。精霊達の案内から程なくして、その山の麓についた。見ればそこそこ大きな入り口の洞窟がある。案内人たちはそこを指さし入れと促してきた。ここまで来てようやく、罠なんじゃないかという疑念が頭を過る。だが罠というにはそれらしい気配はないし、姫様の言葉も引っかかるし、何より、早く行ってくれと懇願する精霊達の必死さが、その可能性を否定した。
「……誰かいるんですかー?」
精霊達の圧に負け、恐る恐る足を踏み入れる。歩く分には問題ない高さと広さ。奥が見えないが、それなりに深い洞窟なのが分かる。全体的に湿度が高い。道はまっすぐの単純な構造だが、ちょっと歩けば外の光も届かなくなった。
「……灯を付けるか」
トーチ、そう呟いて小さな火の玉を掌に作り出す。これで進むのに問題はない。気を入れ直し、歩みを再開した。その直後、視界に一つの人影が見えた。全身をフードで包んだその人物。片足だけ伸ばした体育座りで、曲げた足に上半身をもたれかけている。すると、俺の灯に気付いたのか、ゆっくりとした所作で顔を俺に向けた。
妖精かと思う程に可愛いくも美しい顔立ち、その傍ら、穢れ無い湖を思わせる澄んだ蒼の髪色。透明な深海を連想させる麗しき瞳は、いつまでも見ていたくなる。いつか宿屋ですれ違った、あの女性であることはすぐに分かった。そして二回目でもなお、彼女は俺の眼を強く惹き付けた。




