堕王
風の魔王と名乗るようになって早数年、無駄に永らえた命も終わりが来たかと覚悟したが、落命の時は待てども訪れず。何事かと顔を上げれば、バロフの使いは自らを痛めつけている。加えて、瞳にあの鋭さが、凶暴さが、まったく見て取れない。初めての邂逅、あの日と変わらぬ優しさを秘めた瞳に戻っている。完全に飲まれたと思ったが、あの状態から自我を取り戻したとでも言うのか?
「ぐっ……いってぇ……」
息が、ままならない。いくらなんでも、強く叩き過ぎた。骨、多分なんかの骨が折れてる、胸の辺りの、なんだ、名前が出てこない。でもこの痛み方、多分骨が折れた痛み方だ。どうする、痛みが思考の邪魔をする。動け、まずはポーションを、飲め。
腕を動かすだけで激痛が走る。急げ、急いでくれ、邪魔しないでくれ。どうにかこうにか、痛みを押し殺しながらポーションを手に取り、飲み干す。途端に力が溢れる、意識がはっきりとする。さっきまでの衝動はもうない。相手を問答無用で殺しにかかるような、あの恐ろしい衝動は、もう感じない。まだ胸は痛む、流石に骨折は治らないか。でも問題ない、まだ戦う気力は溢れている。
そう言えば風の魔王はどうなった? 痛みが和らいだお陰で視界は明瞭になっている。視線を向ければ、相手がどうなっているかはすぐに把握出来た。
無傷。まったくもっての無傷。火で焼けた服を覗けば、出会った時と何ら変わらない健康体に戻っているじゃないか。自信に溢れる立ち振る舞い、見る者を射竦める視線。見るも無残に焼け焦げた筈の両腕は、火傷の跡など微塵も残していない。袖こそ焼失してはいるが、そのせいで傷一つない事実が如実になっている。なんで? 自分がやった事の記憶はしっかりと残っている、のにこの現実。なんでだ? 今までのは幻だったのか?
混乱に陥るも、何かないかと相手を観察する。すると風の魔王が一つの瓶を持っている事に気が付いた。中身は半分程減っている、色は緑色、少し粘性の高い液体であるのが伺える。ああ、ポーションか。そりゃそうだ。どこかで勘違いをしていた、魔王はポーションの類など持っていないと。そんな訳ない。回復手段の一つや二つ、持っているのが当たり前だ。
頭の中で妙に納得したのは良いが、この状況を打破する術が見当たらない。手負いの俺と、無傷の魔王。もうポーションも残り一つ、爆弾は三つはあるが、果たして通用するのだろうか。何か手はないか、必死に頭を回転させる俺に対して、制限時間を突き付けるように魔王は歩み寄る。
「くそっ! ファイ、あ?」
苦し紛れの攻撃を繰り出そうとする俺の元に、緩やかな放物線を描く何かが飛んで来た。あまりにもゆっくりと敵意なく飛んでくるものだから、思わず魔法の発動を止めて受け取った。瓶。緑の液体の入った、風の魔王がさっきまで持っていたあの瓶だ。
「ランクAポーションだ、飲むといい。まだ痛むのではないか?」
確かに痛む。今はまだ気持ちが高ぶっているけど、平静に戻ったら凄まじく痛いんだろう。そんな傷もランクAなら治るのだろうか……って、敵から貰ったもの飲んだらダメだろ!
「私も飲んだ物だ、毒など入っていない。死んだも同然の状況に晒され、それでもまだ負けを認めぬほど私は醜くない」
敵意はない、と言っているが、その言葉を鵜呑みにしても良いのだろうか……恐る恐る、一口付けてみる。少量が口内に流れた瞬間、口が弾けたかと思った。それ程に強烈な回復力を感じる、これならどんな傷も治ってしまいそうだ。だが本当に大丈夫か? なんて疑問を抱いている内に、体はもうそれを飲み干してしまっていた。
痛みが、胸だけでなく体のありとあらゆる痛みが引いた。しかも引いたでは済まない程の力が漲っている。いまなら擦り傷程度を負ったとしても、瞬く間に傷が消えるだろう。ランクが一つ上がっただけでこんなにも差が出るのか、驚きだ。
「まあ、座ってくれ。話がしたい」
そう言って魔王は指を鳴らす。すると傍に二つ、魔力で象られた椅子が現れた。風の魔力を感じるそれは薄い緑色をしている。座っても大丈夫なのかと疑っていると、風の魔王はさっさと席に着く。一応座る前に手で押さえてみると、柔らかい羽毛のような弾力を感じた、上質なソファーが脳裏に浮かぶ。
「おっ……と」
勇気を出して腰を降ろしてみると、問題なく座ることが出来た。しかし正体が風の魔力であるという事を知っているせいか、違和感が頭から離れるのは時間が掛かりそうだ。
「まずは名乗ろう。風の魔王改め、バストル=ベアレスだ。バロフの使いよ、今一度名を聞かせて欲しい」
「……圦埼 柳埜です」
「イリサキ=リュウヤか。リュウヤ、今さっきの自分がどういう状況にあったか、知っているか?」
「いや……なにがなんだか。今でこそ異変を自覚出来ますが、最中はなにもおかしく感じませんでした。元から自分がああだったと思えるくらいに……」
「魔力を従える際に、怒りを糧にしたか?」
「そうです。分かるんですか?」
「ああなるのは怒りを糧にした時のみだ。あの状態、俗には堕王と呼ばれている。戦闘力の全面的な強化と、凶暴性のある性格への変化が特徴だ」
「堕王……ですか」
王に成るではなく、王に堕ちる、か。やっぱりよくはない現象という事らしい。
「我々が持つこの魔力の元の所有者、先代魔王は激しい怒りを持っていたとされる。それが起因かは定かではないが、怒りで従えると先のリュウヤのようになってしまう」
従えるのに怒りは使うな。そう言っていたのはこういう事だったのか。町のみんなの反応というか、視線の険しさをやけに気に留めていたのも、これが原因ということなのだろうか。
「堕王になっても自覚症状はなく、故に元に戻る事はまずない。少なくとも、私はそういった事例を聞いた事がない」
「戻ることは無い……じゃあ、お、俺も?」
「いや、そこが驚くべき点だ。リュウヤ、君は元に戻っている。どういう訳か、自力で堕王を抜け出しているんだ」
元に戻っている。そうは言われても、自分ではどうも実感がない。いつまたああなってしまうか、その恐怖の方が勝っている。いやでも、ああなる事を恐怖出来るって事は、元に戻っている事の証になる……のか? ちょっとこんがらがってきた。
「強い精神力か、それともなにかがきっかけになったか……すまないが私も詳しい事は分からない。何せ初めての事例だからな」
「強い精神力は分からないですが……きっかけは、心当たりがあります」
「よかったら聞かせてくれ」
「貴方の首を落とそうとした時、殺そうとした時です。俺は、その、殺しだとか争いだとか、そういうのがない場所から来たんです。だから、殺してしまう事に抵抗のない自分に酷く違和感を覚えて……」
「争いのない場所?」
首を傾げるバストルに自分の出自、この世界に来た経緯を話した。俺が元居た世界についても、なるべく分かり易く話をした。
「異世界の住人だったのか。噂には聞いた事があるが、会ったのは初めてだ」
「え? 俺以外にもいるんですか?」
「あくまでも噂だ。頭の片隅にしまっておいてくれ」
それよりも、とバストルは言葉を繋げる。
「君が行う魔引きとはなんだ?」
「増え過ぎた魔王を減らす事。そうする事で、争いを無くすのが目的です」
「そのために君は魔王に戦いを挑んでいるのか……」
俺の返答に不思議そうに視線を返すバストル。少しの間を置いて、彼は俺に尋ねた。
「何故君は魔王と戦う? 争いのない世界から正反対の場所に呼び出されて、魔王という存在に身一つで向かって行く。私ならそんな事はしない、呼び出されたことに怒り、戦いを拒否し、静かに暮らすだろう。君もそうするべきじゃないのか? そうしたいんじゃないのか?」
「……確かにそうしたいです。でも、魔王同士の戦いで苦しむ人がいる。その世界を自分が変えられるというのなら、俺は変えたい。そう思っただけです」
「……君にはこの世界に血縁者がいるのか? いないだろう? それどころか旧知の友人、果ては知り合いすらいない。赤の他人だらけだ。それでもか?」
「その赤の他人である俺に、町の皆さんは良くしてくれました。それだけで十分です」
俺の返答に対して、興味深そうな視線を返すバストル。ちょっとだけその瞳が、輝いているように見えた。
「異世界人とはこうも価値観が違うのか……それともリュウヤ、君が特別優しいのか?」
「それは……どうですかね。俺なんかより優しい人はいくらでもいますよ」
「ハハハハハ! 君よりもお人よしがいくらでもか! 争いがない訳だ!」
厳密には争いがない訳ではないが……そんな事をわざわざ話す必要もないだろう。
「いや、すまない。悪気はないんだ」
「いえ、大丈夫でですよ」
「しかし、なるほど。争いを無くすのには君の様な強さが必要だ。確かに適材適所だな」
そういうと、彼はゆっくりと立ち上がる。
「先の戦いの記憶はあるのか?」
「はい、残ってます」
「では私の風の魔力が、君の火の魔力と相性が良い事は知っているだろう」
「そうですね」
「なら話は早い。無事に適合し、私の力が少しでもリュウヤの旅に役立つ事を願っているよ」
そう言うと、彼は右手をゆっくり振り上げた。手刀の形に整えられたそれには、魔纏を巡らせてあるのが分かる。やがて右手が停止したのは、首よりも少し上、そしてやや後方。頭を少し前に突き出し、首を伸ばすようにしている。ここまで来てようやく、彼が何をしようとしているのかが分かった。分かりはしたが、つい反応が遅れてしまった。だって、まさかそんな事をするだなんて、考えもしなかったから。
「やめろぉっ!」
咄嗟に盾に魔纏を施し、彼の手刀を止めにかかる。だが遅れたせいで、斬首の刃は三分の一程食い込んでしまっている。
「グ、ゴプッ……」
「ああ、ああ!」
手刀を首から抜いたが、血が止まらない。映画のように噴き出る事はなく、ただ緩やかに血がドロドロと零れていく。それが気味が悪い程に生々しくて、命が潰えていく事実が嫌でも手に染みる。やめろ、止まってくれ、止まってくれ。
ポーションをポーチから引っ手繰ると、狂ったように傷にかける。でも傷が塞がる気配がない、血が止まらない。血の赤にポーションの緑が混ざるばかりで、気味の悪い色合いだけが広がっていく。駄目だ、このポーションじゃ駄目だ。さっきのポーションじゃないと、この深手は癒せない。なんで飲み干したんだバカ野郎。
「さっきのポーションはもうないのか!?」
バストルは弱弱しく首を横に振る。ズタズタな首でそんな事をしたものだから、血の勢いが少し増してしまった。
「やめ……ろ……」
「死ぬ必要なんかない! なんで死のうとするんだ!?」
バストルは答えない。答える余力がないのか、答える気がないのか。分からない、なんでこんな事をしたのかが分からない。もう回復するものが、傷を癒すものがない。彼を助ける手段が、もう、俺には残されていない。
そんな時だった。女性の声が聞こえた。死にかけの男と無力な男、その空間にまったくもってふさわしくない声色だった。語尾を少し上げた、聞く者を蕩けさせるような、なんとも甘い声だった。
「お困りですかぁ?」




