荒波との共存
人間は「感情」というものを持ち、その気持ちをコントロールすることができる生物である。その「気持ち」というものにも「波」があり、どうとも感じない時もあれば、激しく揺らぐときもある。そして、時にはその気持ちが暴走し、制御不能になってしまうこともあるようだ。それが、笑いであったり怒りであったり……。何にせよ、人は「気持ちの波」と共に人生を歩んでいかなければならない訳である。小波ならまだ制御は可能であるが、大波がきた時にはどうなることやら。
人によっても許容範囲が違い、ある人にとっては小波に感じるときも、別の人にとっては大波と感じる場合もある。そのため、迂闊に自分の感覚を他人に押し付けることや、自分の感情について無理に同意を求めることは、かなり危険な行為ともいえるだろう。
この物語は、これまでの「人生」という荒波を乗り越えてきた、僕の日々の想いをつらつらと書き連ねたものである。そのため、話が飛び飛びになってしまっている部分もあるが、「それはそれ、これはこれ」として読んでいただければ幸いである。
「人を生きる」と書いて「人生」。
人として生きるとは。
生きるということはどんな意味を持つのか。
僕は一体なにを考えて生きているのだろう。なぜ、なんのために生きているのだろう。僕自身にもわからない。
支離滅裂な思いが脳内を駆け巡っている。
基本的に、僕の考えることといえば、とにかくネガティブなのである。何をどう考えても、ネガティブにしかつながらない。
それでも、頑張ってみればネガティブな考えもポジティブ思考に変換することはできる。
例えば「人混みに入っていたり、誰とも関わりを持たずに寂しく過ごしたりすることが嫌だ」という考えを、「大勢で騒いで楽しく過ごすことも、一人で静かに過ごすことも悪くない」と考えることができる。
しかし、そこまでたどり着くにも時間がかかるし、その後にまたネガティブ思考に戻ってしまうことが多々。楽しさが寂しさに、感謝が後悔に。その逆も然り。そんなことを繰り返し、僕は生きてきた。まとまりのない考えが、僕の頭を混乱に引き摺り込んでいく……。
普通の人は、どう考えて人生を歩んでいるのだろうか?
そもそも、「普通」とはなんだろう?
突然だが、ふとそんなことを思ったので考えてみた。
「あたりまえ」という「一般的」とされるものは人によって違うものだと思うのだが、結局はマジョリティが制し、マイノリティはかき消されていく。
伝え方も難しい。特にマイノリティの考えというものは。わかっているのに伝わらない。伝えようとしても理解してもらえない。そんなことが多々ある。身近なところでも、そんな場面を目の当たりにしてきた。
言葉というものは本当に難しい。メディアもそうだ。マスメディアの情報に流される世の中。僕にとってはどうでもいい情報を、周囲の人々はこだわりを持って論争している。情報源によっては内容が正反対の場合さえある。一体なにが真実で偽りなのか。本当のことは自分の目で見、耳で聞いたことのみだ。僕はそう考える。そのため、「正直言ってメディアの情報はどうでもいい」という考えになり、イコール、社会でなにが起きているのかわかっていない、無知な人間ということになってしまうのだが。僕は、それでも構わないと思っている。
しかしながら、社会に出て人と話を合わせるということは、多くの話題はマスメディアから提供されたものであり、僕が社会に出ていくにはなかなかにハードルが高い問題と言えよう。
人との会話の中で、何が正しい回答になるのか、いつも迷う。人に合わせることが、社会の中で生き易い方法だとしても、人によって正しい回答は違うから。
自分の考えを貫くことも悪くはない。だが、どこかで妥協しなければ、争いごとに発展してしまうこともしばしば。僕は争いごとは嫌いだ。だから人に合わせて、極力争いを回避しようとしている。
「正しさ」や「正義」という言葉は曖昧である。考え方は人によって違うため、「本当の答えというものは無いのでは」と僕は思う。悪があるから正義が成り立つのであって、もしかしたらその「悪」というものを「正義」と捉えている人もいるかもしれない。いや、そういう人がいるからこそ闘争が起こるのであろう。「高い」と感じるのは「低い」ところがあるから。「明るさ」を感じるのは「暗さ」があるから。相反するものがあるから比較し、区別し、まとまりが無くなる。
そんなことを考える僕も大概だ。第三者の目でしか見ていない。自分の意見が無い。だから迷う。困惑する。鬱々する。
先入観には捉われたくない。本質を見極めたい。それが理想であるが、綺麗ごとでもあろう。時には流れに身を任せることも必要なときもある。でなければ、この世の中を生きていけないから。多数派に意見を合わせないと、まとまるものもまとまらない。
そもそも、僕の第三者的観点というのは、自分の身を守るために身に付けたスキルである。自分を良い姿であるように見せたい。周囲の人々に嫌われたくない。そんな思いを抱いているからこそ自分の思想を主張することなく、誰かの味方になるわけでもなく、中間でいることを保とうとする。いわゆる「傍観者」であり、「卑怯者」ということになるのかもしれないが。
だが、決めるときは決めなければならない。割り切って向き合い、前へ進まなければならないときもある。誰しも、そんな時を体験したことはあるのではなかろうか。また、気づかずにそんな時を過ごしてきた人もいるかもしれない。そんな人たちを、僕は「すごいなぁ」と思う。僕は物事をそう簡単に割り切れるタイプではないし、何かしらあれば引き摺ってしまうタイプだから。うらやましいを通り越して妬ましく思ってしまうときだってある。別に、皆に好かれようなんて思っちゃいない。ただ、出来る限り多くの人に嫌われたくないだけ。平穏な生活を手にしたいだけなのだ。しかし、それすらも叶わない。「人生」とは喜怒哀楽は元より、苦難、困難を乗り越えていかなければならない。僕はそれらから逃げていた。そして、今まさに、そのツケが回ってきたのである。
昔は無難に送ってきた学生生活。といっても何年前の話だか。
流れに流され生活してきた結果、社会に上手く適応できず、苦痛を感じながらの社会人生活を過ごすことになってしまった。自分の意思が無く、周りに振り回され続け、今ではフリーターという身。自業自得である。やりたいことも将来設計も無く、ただただ「今」という時間を過ごしているだけ。周囲のちょっとした言葉でさえビクビクしながら聞き、頭の中がこんがらがってしまう。なんて情けない姿を晒しているのだろう。
自分の考えていることと、自ら行なっていることが矛盾していることもよくあることだ。本当は違うことをしたいのに、他の人達の行動に合わせなければ自分が責められる。それが怖くて僕は常日頃、我慢をしながら生きている。自分だけではない。他の人もそうだ。多くの人は多数派に合わせて日々を過ごしている。顔には出さないけれど、きっと他の人達も我慢をして日々を過ごしているのだろう。きっと皆、ストレスを抱えながら生活しているのだ。器用な人は、嫌なことすら上手く乗り越えて過ごしてきている。僕はそういう人が、心底羨ましく思う。
人は規範に沿って、手本をもとに行動する。人は集団から外れることを嫌がる。だが、中には根拠があっても無くても、なにかを貫き通していける人がいる。しかも、それを他人には押し付けない。僕はそんな人に憧れる。口先だけでもいい。声に出して言えることからすでに「すごい」と思わされる。
「周囲とは違ったことをしたい」。「規範に倣う生き方はしたくない」。……などと思ってはいても、結局のところは集団からはみ出さないようにしている自分に嫌気が差す。思想は自由だ。だが、思っていることとやっていることが矛盾していることが気に食わない。そんな自分に腹が立つ。なぜ、自分がやりたいと思っていることを行動に移すことができないのか。
孤立するのが怖いから?人に嫌われたくないから?
規範から抜け出そうとする自分。周りに合わせて普通であろうとする自分。一体どちらが本当の自分なのだろうか。自分の進みたい道というのはどれなのか。……正直、どれでもいい。考えることに疲れてしまった。
それならば、社会という枠組みの中で平凡に、安全に生きていけばいいじゃないか。周りの真似をして行動していけばいい。真似は悪いことじゃない。人は幼い頃から真似をして生きてきたのだから。周りと同じなら、ちょっと変なことをしても咎められることはないし、むしろ褒められることさえある。周りに合わせていれば、危機に晒されることもない。しかし、なぜだろう。合わせていれば安定していられるのに、合わせたくないと思ってしまうのは。枠の中に留まっていれば安心していられるのに、抜け出したいと思ってしまうのは。何かが物足りない。そんなふうに思ってしまう。時々、虚無感を埋めるために、我が身を困難や苦痛に晒してでも飛び出したくなる衝動に駆られる。
誰かが言っていた。「皆と同じじゃ、つまらないじゃん」と。
先は見えない。でも、だからこそ期待が膨らむこともある。だからこそ不安に駆られるときもある。ここまでくると、あとはもう「思い方次第」のような気もした。後戻りはできない。これまでの失敗や挫折、反省……。振り返ることも大切かもしれないけれど、それらに縛られるだけはもうやめよう。反省も失敗も、今後に活かすことが大事。今は、これから先のことを考えていくことが先決である。
時は流れる。日々変わる。人も変わるし自分も変わる。今しかできないこともあるが、将来のプランニングも大切だ。優先順位も人それぞれ。自分と同じ人なんていない。同じ日も来ない。ずっと同じである物も無い。退化や進化を繰り返す。そんな世の中で、自分はどう生きていくのか。そして、どう終わりたいのか。「生」を授かれば「死」もまた待っている。自分の生きた証を残していくことも、消したい過去を出来る範囲で消していくことも、人生の作り方は人それぞれ。それぞれに何かしらの違いがある。理解し難いところもあるだろうが、だからこそ深く、面白い。一人として、また一つとして同じものは無い。
様々な人達と関わることができている「今」という時間に、そして、僕と関わってくれている皆に感謝したい気持ちだ。
そんな気持ちを持ちつつ様々な人達と関わってきたこれまでの中で、なんとなく引っ掛かる事柄があった。僕が考え過ぎなだけなのかもしれないけれど。
信頼と裏切り。恩と仇。これらは紙一重だと思うこともあった。
人のためにやったと思っていたこであっても、その人にとっては「大きなお世話」であったり、迷惑に思われたりすることもある。「恩を仇で返す」もそういった擦れ違いから起こる事象なのかもしれない。それから、感謝していることを「恩」として心に刻んでいても、それが大きな重圧になることもある。「それはそれ、これはこれ」と割り切らないと、「恩があるから」と引け目となってしまい、言いたいことも言えなくなってしまうことだってあるかもしれない。人それぞれが、自分自身の考えを持つということは悪いことではないが、人によっては理解に苦しむ言動をする人もいる。僕の考えとは、まったく違った考えを持つ人もいるということがわかった瞬間があった。
また、人との関わりという話からは少し話が離れてしまうが、前述した「生」と「死」について思うことがある。僕にとって、「生を授かること」と「死を受け入れること」というのは、永遠の課題ともいえる問題なのだ。
僕は、「生前」と「死後」について考えることが度々ある。「生前」は「生きる前」と書くのに、意味としては「死ぬ前」「生きている間」ということなのである。「生まれる前、と書くのだから、この世に生を受ける前のことなのではないだろうか」などと、言葉の意味を細かく考えてしまう。そして、「死後」は「死んだ後」というそのままの意味だが、死後の世界というものは一体どうなっているのだろうか。以前、友人とそのことについて話し合ったことがあった。死んでしまったら、意識はどうなる? いわゆる幽体離脱のようなことになるのか、それとも、ぱっと意識が無くなってしまうのか。はたまた、天国か地獄か三途の川か。それとも、お花畑が広がっているのか。もしくは、気づいたら別の生き物となって産まれているのか……。友人と、そんなに考えても仕方のないことを延々と話し合っていたこともあった。
その友人とは、他のことについても深く話し合っていたこともある。物事を根本から考えることが好きだった者同士だったからだろう。地球はどうやってできたのか。また、なぜ丸い形をしていて海という大量の水が生成されたのか、などなど。くだらない話からどんどん真面目な話になっていき、再びどうということもない会話に戻る。そんな会話が楽しく感じていた日々もあったなぁと、ふと思い出した。
そんな他愛も無い会話をしていた時期だったろうか。人が、そして特に自分が無性に嫌だと感じることが多くなったのは。本当は嫌いになんてなりたくもないのに。
話は変わり、少し前の話になる。
突然だが、自分がおかしくなってしまったのではないかと思い始めた時期があった。
愛想笑いは出来るし、会話も相手に合わせることができる。しかし、心から笑うことができなくなっていた。そして、自分の考えをはっきりと相手に伝えることも……。ついには、相手の目を、顔を見ることができないときがあったり、笑うと気持ち悪くなったりするようになってしまっていたのである。相手に合わせていると鳥肌が立つことも多々。
人と一緒にいると落ち着かないし、離れると疲れがどっと出たり、寂しさを感じたりした。また、長い時間一人で過ごしていると、どうでもいいことを考えすぎて頭の中がグルグル回って気持ち悪くなる。
そんな生活が続いて、頭がおかしくなりそうになっていたので、とりあえず病院に行ってみることにした。
診断結果。
僕は、「躁うつ病」というものになっていたらしい。
楽しいときはとことんはしゃぐが、いざ急に一人になったり気持的に凹んだりすると、とことん落ち込んでしまう。気分のアップダウンが激しいのが、この「躁うつ病」の特徴だという。
病院の先生は、「うつ病だと思われづらい、うつ病」だと言っていた。
確かに、「僕、うつ病らしいんですよ」と言っても、「そんなに明るいのに?」などと言われ、なかなか信じてもらえなかった。
そして、厄介なのが「気分転換」だ。
「気分転換にパーっと遊ぼうよ」なんて言われて、楽しく遊んだとしても、気持ちが上がれば上がった分、その後にドーンと落ち込んでしまうのである。そのため、極力、気分の上がり下がりが激しくならないよう、活動を控えめにするように努めてみたが、それはそれで落ち着かないというか考え事(妄想?)が酷くなる一方だった。気持ちのコントロールをしようにも、どうしたらいいかわからないでいたのだが、とりあえず、気を紛らわすため、そのとき思ったことをノートに書いてみたり、体に負担がかからない程度の遊びをしたり、いろいろと試してみた。上手くいかないことも多かったけれど、何事もチャレンジだと思って、いろんなことに挑戦した。そう簡単には解決しないのだけれど。
ちなみに、ネガティブ思考をポジティブ思考に変換するようにも務めてみた。
幸せはこぼれ落ちてゆく。
まるで砂利のように。
小石は不幸、砂は幸せ。
出来事や言動というふるいにかけられ、
砂はこぼれ落ち、小石は残る。
嫌な思い出ばかりが記憶に残るように、
小石という不幸だけが残っていく。
けれど、
小石も削れば砂になる。
こぼれ落ちた幸せは積み重なり、
それが幸せの記憶として残るのだ。
不幸も幸せに変わるということを期待して書いたポエム。
けれども、「変わる」ということが怖い。視点が変わること。自分が変わること。環境が変わること。……それでも僕を受け入れてくれる人がいるのか、自分が自分を受け入れることができるのか。
どうなるかはわからない。
やってみなくちゃわからないことは多くある。まだまだ広い、知らない世界が。
その世界に触れてみて、やってみて、いろんな思いを拾っていこう。その中に、自分でも未だ気づいていない、何かはわからないけれど求めているものがあるかもしれない。……正直怖い。何かに気づいて、その結果、自分が傷つくかもしれないし、守っていたものを投げ出さなければならないかもしれないし……。何かを得るために、何かを捨てなければならない。そんなことになったら、僕は一体どうするのだろう。
自分らしくあるために、自分の意志をしっかりと持っていきたい。
規格外? そんなの関係ない。枠を越えてでも、僕は僕らしくありたい。……なんて、キレイゴトを呟いてみる。
さておき。
人の温かさを知ることも多くある反面、冷たさを感じることもあった。
社会という、一人一人が目立たないような組織の成り立ち。悪目立ちではないが、ちょっと目につくと、なにかとちょっかいを出されてしまうことも。気分の良いいじり方もあれば、不快な対応をされることもある。
それから、仕事に関して特に感じることは、統一感。仕事上、仕方のないことではあると思う。ただ、もう少し個性を尊重し、一人一人を大切にしてもらえればなぁ……、なんて欲張ってみる。まぁ、上の立場に立つ人からすれば、平等に全員へ目を行き渡らせることというのは非常に難しいこととは思うけれど。
そして、人を蹴落としてでも生きていかなければならないサバイバル感。これこそ人間の本質が垣間見られる瞬間。現代では、「みんなが平等に」などと騒がれているけれど、実際のところはそうでなかったり、中には人の優しさに付け込む性質の悪い人間がいたりすることも否めない。
人間も社会も、関わってみないとわからないところが怖い。そんなに怯えてばかりいても仕方ないんだが。
ここからの話は、僕の具体的な生活スタイルについて。
フリーターから心機一転。僕は、とある会社に入社した。
様々な失敗を繰り返してきたけれど、大概の人はそうなのだろう。人はその経験を糧に成長してゆく。「失敗は成功の元」。失敗して、なぜそうなってしまったのかを考える。そして、次はそれを繰り返さないように気をつける。……僕にはそれができていない。失敗したことを悔やみ、次へ活かすことなく、同じ失敗をくりかえしている。自分でもわかっているんだ。考えてもいる。成功へと導くためにはどうしたら良いのか。しかし、考えとは裏腹に行動が伴っていない。理由は簡単。「怖い」。この一言に尽きる。
また同じ過ちを繰り返してしまったらどうしよう。成功へと繋がる道が見つからない。
考えに考え、結局のところ、行動に移せなくなってしまう。やってみなくちゃわからないのに。自分の行ないの責任を他人のせいにしてしまったり、自分の行動に自信が持てずに行動に移せなかったり、なんやかんやで考えるだけで終わってしまう。
頭だけが動いている。体は動いていない。「行動するとロクな目に遭わないから」と、自分の行動に自信が持てず、動き出すことが億劫になっていた。その結果が「うつ病」だ。それもまた、悩みのタネである。「うつ病なんて言い訳をついて、逃げているだけ」なんて思われていやしないだろうか。「躁うつ病」だからこその明るいときの自分だけで判断されて、気持ちが沈んでいるときには「機嫌が悪い」とか「無愛想」なんて思われているんじゃないか。……などなど、悪い方向へばかり考えてしまう。
自分でも、「僕は一体誰なんだ?」と自問してみたり、体調の悪いときでも「頑張らなくちゃ」と無理をしたり……。結果、さらに体調が悪くなって深みにはまり、悪循環になっていく。頭もおかしくなりそうだ。
そんな生活をしていたら、夜も眠れなくなっていた。
病院の先生からは、精神安定剤と睡眠導入剤を処方してもらっている。月一でもらいに行くのも億劫だが(あまり人目につきたくないので)、その薬が無ければ安心して眠れないので仕方なく通っているようなものである。
人前に出ると疲れる。無駄に明るく振る舞い、気を遣い……、帰り際にはへろへろだ。慣れもあるのかもしれないが、それだけではない気がしていた。
長期間勤めていた会社も、最終的には辞めてしまった。会社に向かう途中で吐き気や頭痛を催したり、仕事中にも気分が悪くなってしまうことがあったりしたからだ。そのため「これ以上会社に迷惑をかけたくない」と、自ら退社を志願した。
会社を辞めても、なかなか気分は良くならなかった。睡眠導入剤とは別に、睡眠薬を処方してもらうようになったのだが、それを飲まないと安心して眠りにつくことができない。それはなぜか。悪夢のせいだ。
いくら体が疲れていて、眠くなったとしても、薬を飲まないと悪夢にうなされて短時間で目が覚めてしまうし、疲れがとれた気がしない。寝た気がしない。疲れが増す一方である。
人間は、ノンレム睡眠とレム睡眠が一定のリズムで繰り返されることによって、脳と体の疲れがとれるという。ノンレム睡眠というのは、肉体は活動しているが脳が眠っている状態のこと。レム睡眠というのは、肉体は眠っているが、脳が起きている状態のことである。
僕の場合は、安定剤や睡眠薬を飲まないとレム睡眠が続き、現実であるかのような夢を見てしまうのである。しかも、多くは悪い夢だ。誰かと喧嘩したり、人や怪物に殺されてしまう夢だったり……。汗だくで目が覚める。
例えば、殺人ゲームに参加する夢や、巨大生物に喰われる夢。はたまた。病院で一人、寂しく時を過ごす夢など。幸せな夢を見ることなんて一割にも満たない。
例えば……。
人を殺す夢を見た。まず手始めに二、三人。刃物で切りつけ、首や胴体を切断。次に、別の人達を何人か刃物で突き刺して殺していた。
なぜ、夢の中の自分は、そんなことをしたのかわからない。
夢の中の僕は、酷く怯えていた。周りの人達がみんな敵に見えた。きっと、自分を守るために人を殺していたのだろう。正当防衛ともいえる。自分を殺そうとしている人から身を守るため、殺される前に殺す。そんな夢だった。
そして、人を殺してしまった後、どうしていいかわからなくなっていた。家には帰れない。外を出歩くこともできない。警察に自首したら、今後の生活に影響が出る。
考えに考え、迷っているうちに目が覚めた。
なぜ、こんな夢ばかり見てしまっていたのだろう。
しばらくして、僕は新たに別の会社へ入社した。
気分的に落ち着いているわけではないが、お金が無ければ生活することもままならないから。
そこでも僕は、出来る限り良い人間を演じていた。だが、心の中では最低人間が出来上がっていた。口には出さないけれど、とにかく罵詈雑言の嵐。「現場に関わってないヤツが、現場のことに口出しするんじゃねぇ」とか、上司に対しても「現場で動いてるヤツが一番わかってんだよ! 上の立場だからって現場にチャチャ入れんじゃねぇ! いろいろ言いたいことがあるんだったら、現場を長い期間やってから言えってんだ」などといったことを思っていて、内心は穏やかではないけれども、淡々と仕事をこなしている風に振る舞っていたのである。苛立ちは激しく、酷い心の荒れ様だった。……周りの人に言えもしないけど。
特に興味の湧いてくるような業務内容ではなかったが、それでも真面目に働いていた。なのに、怒られるわ、矛盾したことを言われるわ、褒められもしないわ……。むしろ、自分は悪くない(はずな)のに、自分ばかりが謝っていたように思う。
僕には、仕事運が無いのか? と思うこともあった。
けれど、仲間には助けられ、それなりに人間関係には恵まれていた。しかし、正直なところ、「欲を言えば、もう少し運があれば……」などと考えていたこともある。やりがいのある仕事、もしくは心の許せる仲間。そんなものがあれば、もっと長い間続けることができ、自分の居場所を見出せたのかもしれない。
……つまるところ、僕はまた仕事を辞めてしまったのだ。
だが、幸せだった。良い経験ができた。そう思うことにしている。
人との関わり方、仕事のスキル、様々な考え方……。いろいろと学ぶことができた。これからもまだまだ学ぶことは沢山あるだろう。それらを吸収して、より大きな人間になりたい。
しかし、時には言い訳もしてしまう。「だけど……」、「でも……」、「だって……」など。こういった否定(反論?)的な言葉は、必要以上には使わないようにしている。考え方は人それぞれだし、人間の潜在能力というのはわからないから。もしかしたら、本人も気がついていない、とんでもない才能を持っているかもしれない。そういった、人の未知数な能力や自分とは違った考え方も、僕は尊重したい。それも自分のためになったり、人生の学びに繋がったりするだろう。少なくとも、僕はそう考えている。
そう考えつつ現実を見ると、社会というものは残酷なものであると感じる。年齢、性別、学歴、……。表面上の事柄のみで、その人を判断しようとする。実際に、面と向かって話してみなくちゃわからないこともあるんじゃないか? 即戦力になりうる存在が欲しいといって、他のことをおざなりにしているんじゃないか?
最初から上手く出来る人なんて、そうそういるものではない。人に教えてもらって、いろいろと経験して、失敗もして、……そして出来るようになっていく。「慣れ」という力も、「コツを掴む」力も、みんながみんな、同じというわけではない。その人に何かが足りないのであれば、別の何かで補うこともできるかもしれない。
コツコツと地道な作業を得意(好き)とする人もいれば、人とのコミュニケーションが上手い人もいるだろう。できないことがあるのなら、別のなにかで補うように努めてみてはどうだろう。
短期間で、しかも一部分だけを見て、人を判断するような人間にはなりたくないし、そういった視点で物事を考えている会社に勤めたいとも思わない。パッと見ただけの決めつけは嫌だから。これも、僕のキレイゴトである。
時々、誰も信じられなくなるときがある。
誰かを信じても、最終的には裏切られてしまうのでないかという猜疑心からだ。ちょっとしたコミュニケーションの不具合からも、そう感じてしまう。寂しくて、苦しくて、意味もなく不安になって。だから、いろんな人との交流を図ってみる。……そして結局、虚しくなって終わる。
人は人。自分の思い描いているように上手くいくことなんてないことは理解していたつもりだ。人間だから。機械のようにマニュアル通りじゃないんだから。予測なんてできない。
ところで、「信じる」って何を信じるの? あの人ならこうしてくれる、こうなってくれる、そう言ってくれる、助けてくれる……。それは「信じる」じゃなくて「期待する」ってことじゃないのだろうか。相手を「信じる」ということに、過剰に期待したら、相手にとってはたまったもんじゃないだろう。信じた側も、「裏切られた」という気持ちが一層強く表れてしまうだけである。
じゃあ最初から、人を信じなければいい。極論である。そうすれば、「裏切られた」という感覚も「信じた自分が馬鹿だった」と、人のせいにしなくて済む。
ちなみに、「信じる」という言葉の意味だが、①少しの疑いも持たずに、そのことが本当のことだと思うこと。②自分の考えや判断が確実であると思う(確信する)こと。③相手のことや人柄に偽りがないないと思う。信用する。信頼する。④信仰する。信心する。
……ということらしいのだが、要するに「自分は間違っていないぞ」と思いつつ、人や神様頼みということになる。
それから「期待」という言葉の意味は、「望ましい状態や結果をあてにして、その実現を心待ちにすること」らしい。(※電子辞書で調べてみた)
それらを考えると、「信じる」ということは人任せであり、「期待する」ということは時間任せということになる。どちらにせよ。自分が能動的に動くわけではなく、受動的であると言えよう。
僕は、「信じる」や「期待する」などといった言葉はあまり好きではない。結局は「責任逃れ」ということになってしまうからだ。それならば、誰も信じず、何も期待しない方が、気が楽になる。すべて自分のせいにすればいいのだから。
しかしながら、社会という枠組みの中にいては、そうも言っていられない。誰かを信用し、誰か(もしくは何か)に期待しなければ生きていけない。人間、社会、自然、……。それらの中で僕等は生きている。かといって、すべてにおいて頼りきる、信じきる訳でもなかった。時には疑い、時には信じ。そんな僕は、極力人のせいにしないようにして、自分がいけなかったんだと思うようにしていた。
そんな癖が身についてしまっていた昔の自分は、恐怖心と自己嫌悪でいっぱいだった(今もさして変わらないかもしれないけど)。それは、物事をネガティブにしか考えられなかった時期。失敗したときに「次も同じ過ちを繰り返してしまうかもしれない」とか「どうせ自分はロクな働きもできない」だとか考えてしまっていて、「次はこんな失敗はしない」とか「原因を追究して次に活かす」というポジティブな考え方ができなかった。
そんな時期の僕はというと……。何も考えることができないでいた。
考えることから逃げていた、と言ってもいい。「今、自分は何をすればいいのか」、「この後の自分はどうなってしまうのか」……。考えることは元より、動く気力さえ無くなっていた。かといって、動かずにいるわけにもいかない。今後の生活がかかっているのだから。
だが、メンタルが豆腐並みの崩れやすさである今の自分は、本当に人が怖くて、ちゃんと会社で働くことができるのか、社会に適応していくことができるのか……、怖くて怖くて仕方がなかった。
例え、原因が自分にあったとわかったとしても、怒られたり注意されたりしたときに、それを受け入れることができるのか。そういうことを考えていたら、どんどん気分が重くなっていった。
外へ出ることは、精神的にキツいし、ツラいし、なんか嫌だ。
もっと嫌なことは、「味方についてくれる人や慰めてくれる人がいなかったらどうしよう」ということである。「世の中そんなに甘くない」と言うが、正直な気持ち、「そんな世の中、こっちから願い下げだ。そんな世界にいたくない」という感じだった。
はっきり言おう。僕は自分に甘いのだ。褒められて伸びるタイプだ、とでも言っておこうか。むしろ、怒られっぱなしで伸びる人なんているのだろうか? 怒られて伸びるような、負けず嫌いなタイプの人でも、さすがに少しは褒めてもらいたいのでは? なんて考えてしまう。別に僕が褒めても何にもならないかもしれないけれど。
そんな世の中、自分の身を預けられるような、頼れる、優しい人達が身近にいたら、どれだけ心強いか。
それこそ、その会社に行って、人と付き合い、心を許し合える相手がいるのかどうか、長い時間を共に過ごしてみなければわからない。もしかしたら、逆に、気の合わない人ばかりかもしれないし、誰も助けてくれない職場だったりするかもしれない。
そう考えると、やっぱり怖い。
こんなことを思いたくはないけれど、「なんで自分ばかり、こんな目に遭うんだろう」と考えてしまう。人それぞれ、度合いは違えど嫌なことも辛いことも経験してきて今を生きている。みんなそれぞれ苦労して、大変な思いをしてきていることだろう。それでもやはり、自分のことが可愛い(可哀想だ)と思うのだろうか。自分ばかり大変な目に遭っているような気がしてならない。
そもそも人は、なぜ生きているのだろうか。
生物的に考えて、「子孫繁栄のため」と言ってしまえばそこまでだが。
みんなは今、何をしているのだろうか。そしてこれから、何を成し遂げようとしているのだろうか。友人に問いかけると「そこまで深く考えて生きてないよ」と、あっさり投げ返されてしまった。
今の僕にはわからない。目標も何もあったもんじゃないし、将来のことだって、これから見つけることができるのかどうかも不安なところである。
人間は、子どもも大人も同じようなものだ。好奇心の塊である。だが、大人になるにつれて、物事を「知らない」ことが「恥」であるかのように、好奇心を抑えつけてしまっているように思う。知ることは大切だ。物事をより深く探求していけば、人生もきっと楽しくなるはず。……そう思いたい。でなければ、「僕の人生は一体なんだったんだ」という後悔のみで終わってしまいそうな気がする。
……そう思う今日この頃であった。
未だにフリーターの自分が見るような夢ではないかもしれないが、それは突然やってきた。
夢の中の僕はサラリーマンだった。
誰かに訴えかけている。誰に? それもわからない。伝えようとしている内容は、「公私混同はするな」ということだった。
仕事なら仕事。私生活なら私生活。人間関係をわきまえろ。
ということを言いたかったらしい。私生活なら、関わりたくない人とは極力関わらなければいいし、仲の良い友達と遊ぶのも自由だ。しかし、仕事となれば話は別である。他人同士の集まり。つまるところ、好きな人もいれば嫌いな人もいるということ。苦手な人とも一緒に仕事をこなしていかなければならない。社会人の人間関係というものは学生時代とは違って、好きな者同士だけでずっと一緒にいることはできない。苦手な人との付き合いがあってこそ、仕事が成り立つのである。
上司と仲が良ければ仕事が評価され、仲が悪いと文句ばかり言われるような会社なんてクソくらえだ。上司からの誘いを断れば悪評が立ち、かといってベッタリとくっついていようものなら、それはそれで「良く思われようとしている」と思われる。上司の言うことは絶対(聞いて当たり前)なんてことも、どうかと思う。仕事の出来栄えと人間的に好き嫌いというものは切り離してなんぼのものではないのか。まぁ、態度が悪いことは当人が悪いのだろうが。
とにかく、得意不得意があっても切り替えてこなせ、ということを夢の中の僕は思っていたようだ。上司だろうが部下だろうが、仕事について言いたいことを言い合えるような信頼関係を持った環境じゃなきゃ、会社は成長していくことはないだろう。
……と考えていたところで、はっと目が覚めた。
というか、僕には会社云々の前に考えることがあるだろう?
このフリーター生活から脱却するために、今まで何をしてきた?
己に問う。
自分は今、何をしているのか。それは何の為? 誰の為?
答え……。アルバイトをしながら仕事探しをしつつ、自分のしたいことをしている。もちろん自分の為に、だ。「誰かの為」なんて、自分がしっかりしていないのに、「誰かの為に活動している」なんて言ったら偽善以外の何物でもない。
それは、しなくてはいけないことなのか。しなくてもいいものなのか。ただ単に、したいことなのか。
……しなくてはならないことは仕事だ。フリーターでもお金を稼ぐことはできている。……正社員の給料には程遠いが。しなくてもいいことは趣味の方。趣味でお金が稼げれば、それに越した事はない。むしろ万々歳だ。ただ単にしたいことは、遊ぶこと。ただ、これもお金が必要になってくる。
しなくてはいけないことをしなかったら生きていけないのか。
……それはそうだろう。なにをするにもお金は必要だ。食費、電気代、水道料金、ガス代、諸々……。
そこまでして、なぜ生きたいのか。
……それは自分にもわからない。思いつくのは、親とか友達とか誰かが悲しむからとかぐらいだろうか。自分自身としては、今現在生きている意味をわかっていない。友人に軽い気持ちで聞いてみたら、「人生を楽しむため」だと言っていたが、僕自身には人生を謳歌する才能はないように思う。
なぜ、この世に生まれてきたのか。
……そんなこと知るか。こっちが聞きたいぐらいだ。「生まれたい」と思って生まれてきたわけじゃない。
何をすればいいのか。
……とりあえず、仕事探しでしょ。
何をしたいのか。
……特にこれといったものは無い。恋人を作ろうとも思わないし、子どもが欲しいとも思っていない。強いて言うなら「金持ちになって遊び回りたい」ってとこか。だから、ちゃんとした仕事を探すか、宝クジでも当てるか、……。どうしたらお金持ちになれるのかね?
結論。
せっかく自分がこの世に存在しているのなら、この世の中で楽しく生きようじゃなか。自分のやりたいように動けばいい。楽しみを見つける旅に出るのもいいだろう。先のことを考えて動けなくなったら、楽しいことも楽しめなくなってしまう。しかし、何かをするときにはなんらかのリスクは伴う。それを考えた上で行動していけばいいんじゃないか? 考え過ぎもどうかと思うけれど。だって、何をするにも考え過ぎで畏れていたら、なんにもできやしないんだから。
話は変わるが(ここまでの文章でもちょいちょい話が飛んでいるが)、ここからは僕が日頃思っていることを話そう。取り留めもない話だ。何の関連性もなく、ただ、ふと思ったことを文章にしただけのこと。
自分は自分。他人は他人である。どんなに仲の良い友達だって、恋人になった人だって、親でさえ、結局のところは「他人」=「他の人」である。それはそうだ。血は繋がっていたとしても、その人は自分じゃないんだから。
そんな他人でも、「あぁ。僕って信用されていないんだなぁ」と感じるときは寂しくなる。悲しくもなるし、憤りすら感じることも。
信用を得るには多大なる時間と関係性を必要とする。逆に、ちょっとしたことで信用は崩れ去る。それならいっそ、最初から信用しなければいいんだ。信用してくれている人には失礼だろうけれど。
それでも、信頼関係無くして、社会にはいられない。今ここで生活できているのも信用があってこそなんだ。矛盾していることは承知の上でこんなことを言っている。面倒くさくて、人から逃げた自分がこんなことを今更ながら言っている。まったくもって恥ずかしい。
稀に、幸せな夢を見る。
最近で言うと、大金持ちになった夢だった。
なんでも手に入る。家も高級車も買えるし、家には家政婦やら執事まで。僕は仕事もしないで遊び回っていた。
目が覚めて気づいたけれど、これは本当に幸せと言えるのだろうか? こんな生活が続いていたら、感覚が麻痺してしまうような気がする。幸せが幸せだと思えなくなってしまうのではないだろうか。辛いことがあるからこそ、些細なことでも幸せに感じるし、達成感もある。マンネリ化したら、それこそ本当の幸せというものに気づかなくなってしまうだろう。
それでも人間という生き物は欲深いもので、普通に生活できていても、今以上にもっと欲しいと考えてしまうのである。少なくとも、僕はそう思ってしまう。正直、一度でいいから大金持ちになって裕福な暮らしをしたいと思っている。人間とは怖い生き物だ。
しかしながら、本当に欲しいと思っているものは、お金では手に入らない。愛情、友情、時間、若さ、……。もしそれらがお金で手に入るとしたら、偽りのものであると疑わざるを得ない。
もちろん、最低限のお金は必要だ。しかし、それ以上となると、娯楽や贅沢を通り越して、ただの無駄遣いだ。楽しく、優雅に過ごすことが悪いこととは言わないが、偏り過ぎれば大切なものを見失ってしまうのではないか。
余裕を持って過ごす、マンネリ化した生活。
ギリギリだけども過ごしがいのある生活。
……どっちも嫌かなぁ。
みんなは、そして自分自身は、どんな生活を求めているのだろう。
二兎追うものは一兎も得ず。
あれも欲しいし、これもしたい。そんなわがままを叶えることは至難の業である。何かを得るには何かを捨てなくてはならない。お金が欲しいなら時間を、時間や楽しさが欲しいのならお金を捨てる覚悟を。
「取捨選択」。
何かをしようとするならば、当然なにかしらのリスクを背負うことになる。なんと難しいことだろうか。
どちらを選ぶにせよ、正解か失敗かなどということはない。人によって価値観はそれぞれだから。
後悔しない人生を歩むことはできるのか。僕は後悔しきりだ。後悔しても仕方がないのに。これからの人生に影響を及ぼすならまだしも、後悔や反省しても仕方ないことをずるずると未だに引き摺って歩いている。
道を歩むにも、そのままの人生を惰性で歩んでいくのか、はたまた新たに険しい道を開拓して進んでいくのか。気分。流れ。その場のノリ。何かきかっけはないものか。僕は常日頃悩んでいる。今の自分に足りないもの、必要なものは何か。優先順位。消去法。自らの勘。何を頼りに進んでいけばいいのだろうか。
見極めろ。
苦しいときほど焦るな。冷静に、正確に、我慢しながら見抜く。
僕に必要なものは何か。優先すべきことは何か。後悔しない人生を歩むためには何をしたら良いのか。ぶっちゃけた話、ノリでその場を乗り切ることも有りだと考えている。
僕はなんだかんだ、自分で自分を苦しめることが好きなようだ。天性のマゾ気質とでも表現すればいいだろうか。
でも、もう十分苦しんだんじゃないか? そろそろ楽になっても良いと思うぜ?
心の中で、そう囁く自分もいる。
判断が下されるのを待っている自分もいる。
もう考えるのは辛いだろ? 流れに身を任せちゃいなよ。
楽になれ。諦めろ。仕方ないよ。
いろんな自分がいる。
言い訳? 建前? なんでもいい。僕を突き動かしてくれるものが現れることを期待している。いや、違うな。期待っていうのは「待っている」だけなんだ。自分で動かなければ意味が無い。
様々な自問自答を繰り返し、僕は今日も過ごしている。
どこにいても独りなんだよなぁ…、と思うことが多々ある。
こうやって考え事をしているときなんかは特に。
いや。大勢の中にいても、なぜか孤独を感じている。決して、自ら独りになろうしているわけじゃない。避けられているわけでも、孤立しているわけでもない。なのになぜ、こんなにも寂しく感じているのだろう。
自分自身で、心の中に壁を作っているからかもしれない。
みんなと一緒に楽しく笑顔でいても、心は寂しさを感じている。
たまには心から笑えている日もある。……と、思いたい。実際のところ、僕自身にもわかってはいない。
いつも怖さや不安を感じている。「こんな僕でも、居ていい場所ってありますか?」と、心の中で誰かに問いかけている。僕が必要とされる居場所があるとするのなら、最上級の喜びを感じることだろう。
独りは怖い。でも誰かに干渉して嫌われたり疎外感を感じたりするぐらいなら、独りでいるのも悪くない。ちょっと寂しいけど。独りでも平気だと思ってしまうようになるのもどうかとは思うが、それは精神的な話。本当は独りじゃないのだから。よく考えてみれば、周囲には人が沢山いる。大体、自分一人だけで生きている訳じゃないのだ。誰かしらと関わりを持って生きていることは確かである。
だが、周りの目が気になる。自分はどう思われているのか、と。そんなことに動じないぐらい強くなりたい。独りだと感じても、誰かの心無い言葉で傷つけられたとしても。
こんなネガティブ思考だから、いつまで経ってもフリーター生活から脱却できないのかもしれない。だって、アルバイトなら許される部分もあるし、正社員みたいに長く会社にいて、より多くの人と長い時間付き合わなくても済むから。要するに、逃げているのだ。社会に立ち向かっていける強さが、僕には無い。
それに、バイトを掛け持ちすることによって楽しいとさえ感じてしまう自分がいる。深い関係を築かなくて済むし、浅く広く、いろんな人を見ることができる。人間観察は好きだ。第三者として、自分以外の人間関係を見ることが。
「僕はフリーター王になる!」なんて考えたこともあった。フリーターの中の王。つまり、様々なアルバイトを極めるということである。
しかし、掛け持ちしているとはいえ、生活はなかなかに苦しいものである(当たり前か)。社会保険やら確定申告やらなんやら……。いろいろ面倒くさい。
利点もある。時間に融通が利くとか、いろんな仕事を経験できることとか。世の中には、いろんな職業があって、いろんな人がいて、同じところなんて一つも無い。この世の業種、職種をすべて制覇してやろうか、なんて思った。……が、現実を見ないといけないな。まずは定職に就くことを目標としなければ。
なぜだか、ふと、束の間の幸せを感じることがある。それも、なんの前触れもなく、急にだ。
今ここに自分が存在しているということ。家族や友人がいるということ。食べ物があって、それをお腹いっぱいに食べることができるときがあるということ。運動をしたり仕事をしたり、体を動かすことができるということ。
当たり前だと思って生活しているこの日常が、どれだけ大切なものなのかを改めて考えるときがある。
しかし、この日常が、明日にはどうなっているかわからない。急に何かが起こることは無いとは言い切れないから。だから、今日を、今という時間を大切にしたい。
事故に遭ったり、災害に見舞われたり、病気になってしまったり……。誰が、いつ、どこで、どんなことになるのかなんて、想像できない。いや、想像したくもない。
自分の事ならまだいい。他の人の不幸を目の当たりにするのは嫌だ。なにも決まったわけではないけれど、ネガティブ思考の僕にとっては現実逃避したい衝動に駆られる。躁うつ病だからか情緒不安定だからかは知らないが、時々そんなことを考えては涙が止まらなくなってしまうことがある。明け方には、目が赤く、腫れぼったくなっていることもしばしば。
今現在の自分の置かれている状況が幸せなのかどうかはさておき、僕が今、生きていられることに感謝を。そんな感謝の気持ちを込めて、お世話になっている人達に尽くしていきたいと思っている(具体的にどうとかはわからないけれど)。感謝の気持ちの表現もひとそれぞれ。僕は僕なりの感謝の気持ちを表していこう。
前述した「感謝の気持ち」から一変。「現実」を見なくてはならないときがある。いくら感謝の気持ちを伝えようとしても、自分の状況次第では感謝どころか迷惑をかけてしまうことも有り得る。それでも、目を逸らしてはいけない。現実を受け止めろ。自分の状況、身近な環境、社会情勢……。自分にはどうしようもできないこともある。だが、見て見ぬふりはしたくない。どうにもならないことであっても、考えることはできる。
そうして考えてみたら、何かできることもあるかもしれない。何か得るものもあるかもしれない。
人任せにする。言い訳をする。嘘をつく。口だけで何もしない。
そんなふうに、逃げてばかりいるのは嫌だ。でも、「これだけやったんだからもういいだろう」と妥協してしまう自分もいる。本当にどうしようもないんだ。どうしたらいいんだ?
……そんなときこそ、人に頼ればいい。相談するでも協力してもらうでも、グチをこぼすでもいい。そうしたら、なにかしらのヒントが出てくるかもしれない。根本を見極めることが困難でも、なにかできることがあるはず。リアルから逃げるな。
出会いがあれば別れもある。生があれば死もある。それもリアルだ。逃げるな。目を背けるな。「一体、何を言い出すんだ」と言われそうだが、いつ何が起こるかわからないことは事実である。どんな人も、自分自身も。ならば皆に、そして自分に願おう。健闘を祈る。上手くやっていけよ。体に気をつけて。幸せに。
共に頑張っていこうじゃあないか。
場所は違っていても、同じ「今」を生きている。それは確かなことだ。
それぞれ、次から次へと新しい道を切り開いていく。道は違えど、遠い未来に向かって生きていく。今、それぞれの人生を歩んでいる。
同じ物なんて、なに一つ無い。
人もそう。同じ人なんて誰一人としていない。
これまでの僕のアルバイトや仕事の経験から思ったことである。コンビニや飲食店、ホームセンター、……などなど。すべて同じ物を取り扱っているわけではないし、レジの操作すら全然違う。不思議だ。会計ひとつでも、お金をいただくことには変わりないのに、お店によっては方法が全然違う。バーコードスキャン。タッチパネルの操作。値札を見ての手打ち……。
用意してある物も違ったり、方法が違ったり、いろいろと興味が湧いてくる。それを通り越して、感動すら覚える。こういった方法を考えた人ってすごいなぁ、なんて。僕はちょっと変なのかもしれない。友人には呆れられるように「普通の人と視点がずれてる」と言われる。まぁ、それはそれとして褒め言葉ということで受け取っておこう。
人も物もみんな違う。そういった「違い」を発見すると嬉しくなる。「みんな同じようにやらなきゃいけない」という、同じだということに安心感を覚えていた義務教育の頃とは違って(もう何年前の話だか)、逆に「個性を尊重する」社会を垣間見ることによって(会社によっては厳しい統一がなされているところもあるだろう)、「あぁ。何も、他と同じじゃなくていいんだ」という安心感が、僕の中に芽生えた。失敗しても(本当はしちゃいけないけれど)、「人間だから失敗もあるだろう」と、なんだか急に視野が広くなった気がする。僕自身も含め「みんな、人間なんだなぁ……」なんて感傷に浸ることもあった。
……って、センチメンタルになっている場合じゃない。なにかしら行動しなくては。定職に就くために。
考えているばかりで行動が伴わない。また、行動しているけれど、それがなかなか実を結ばないこともある。
と、言い訳はさておき。
友人でサーフィンを始めた人がいる(ネットサーフィンではなく、海でやるスポーツの方のサーフィン)。山の中の田舎に住んでいる僕にとっては衝撃だった。海……。それは、いくつもの山を越え、長い旅路の後に到着する場である。それから運動するなんて、僕には信じられない。そもそも、僕にとっての「海」というのは遊んだりスポーツをしたりする場ではなく、見るための場なのだ。
そんな友人だが、サーフィンについては雑誌を見たり、インターネットで検索したりして、「海のスポーツとしては、他のことよりも金銭的に安く済む」という理由で始めたらしい。
なんという思いつき。なんという行動力。「思い立ったが吉日」ではないが、その行動力には感服せざるを得ない。「即行動」ということも、なかなかできたことではない。
じゃあ僕は何がしたいのだろうか。行動しようにも目的が無ければ動くことも出来ない。当面の目標は「今まで行くことのなかったところ(ちょっと遠めの場所)へ出向く、ということである。小さい目標かもしれないけれど、ちっぽけなことも大事。基本は「小さなことから始めよう」である(自論)。
人生を楽しく過ごす。そのためには、時間やお金、健康的な肉体が必要だ。やりがいのあるもの。それは、趣味でも本職でも構わない。もしくは、その「やりがい」を探すことが楽しみとなるのかもしれない。
とある夜。不思議なことを考えていた。
自力。……「じりき」。また、「じりょく」とも呼んでいいだろう。
それは、自分の力。炊事や洗濯など、生活する力。お金を稼ぐために仕事をする力。楽しむ力。人に話をしたり話を聞いたりする力。行動する力。
つまりは「生きる力」のこと。それが人生において必要なスキルだと思っている。人に頼ってばかりでは生きていけない。かといって、一人きりで生きていけるわけでもない。
物を売り買いし、必要なものを用意し、仕事なら仕事で、やり方を教えてもらいながらこなしていき、他者とコミュニケーションをとりながら生活していく。これらは、一人では決してできないことだ。むしろ、ほとんどの場で誰かしらと関わっている。人は一人では生きていけない。
しかしながら、生活の基本は自分一人で決めていかなければならない。家族やパートナー、友達……。様々な人が支えてくれる中、最終的に決めるのは自分自身である。誰が、いつ、どうなるかなんて誰にもわからない。そして、もし誰かに頼りっぱなしになっていたとして、いざというときに困るのは自分である。そうなってしまう前に、自力を高め、困難を乗り切るための力を養っていかなければ。今、当たり前のように生活しているそのスタイルは、何かが起きたとき、簡単に崩れ去る。生活スタイルを保つために必要な力を養うのは、今からでも遅くない。
なぜ、こんなことを考えていたのかはわからないが、なんだか少し不安に思う夜であった。
そんなことを考えていた翌日。
友人とファミレスで食事をすることになり、先に着いた僕は店の前で友人を待っていた。すると、店の外に設置してあった灰皿の前でタバコを吸っているおじさんと目が合った。無視して待っていようかと思ったが、なんとなく話しかけたくなって、その人に話しかけた。
「最近、喫煙者って肩身が狭くて困りますね」
なんて。
その店は全席禁煙で、店の中ではタバコが吸えないのである。
急に話しかけられたからか、おじさんは少し驚いたような顔をしてこちらを見た。それから会話が始まった。
「そうだなぁ。タバコを吸わない人にはわからないかもしれんが、ずーっとタバコを吸わないでいるのは大変だよ」
一期一会。まったく知らないおじさんに、ふと話しかけていた自分を不思議に思った。身構えるでもなく、勇気を振り絞るわけでもなく、「折角の機会なんだから、ちょっとだけでも話しかけてみよう」と自然と言葉が口に出ていた。
これぞ、コミュニケーション。なんと恐ろしい。自分でも笑ってしまうぐらい、会話が弾んだ。相手が良い人でよかった。
そんなこんなで話し込んでいると、友人が「お待たせー」と言いながら駆け寄ってきた。僕はおじさんに「ごゆっくり」と笑顔で言って、友人と店の中へ入っていった。「知り合い?」と聞かれたが、「いや、まったく知らない人」と返答。すると、「すごいねー。全然知らない人となんか話せないよ」と友人は言ったが、それは本当にすごいことなのだろうか。僕は自然と言葉が出てきただけなので無意識だったが、なんとなーく話したくなって話しかけただけなのに。
もしかしたら、僕は寂しがり屋で、誰でもいいから相手をしてほしかっただけなのかもしれない。
話は大きく変わる。
ここからは少し、学業の話をしよう。
義務教育というのは中学校卒業までであり、高校に入ることは義務ではない。それなのに、ほぼ全員(と言っていいくらい)が、高校に進学している。そもそも、中学校での勉強でさえ「これって社会に出てから必要なの?」と思ってしまう授業もあった(僕だけだろうか?)。高校でもそう思うことは多々あった。数学で言えば、「√(ルート)ってなに? これ、仕事するときに使うものなの?」とか思う、可愛げの無い生徒だった。歴史も、好きならまだしも、好きでもないのに暗記させられ、テストで採点され、勉学に関しては苦痛を感じる日々だった記憶が残っている。
「将来は~になりたい」と思うのであれば、高校なんかすっ飛ばして、そのことを専門に勉強する学校に行けばいいと思うのだ。だって、意味もなく学校に行ってたって、お金の無駄なだけじゃないか。
ちなみに僕はというと、本当は中学校を卒業したら、すぐに働きたかった。自分の家が裕福ではないことはわかっていたから。それでも、「せめて高校ぐらいは卒業しろ」と親がうるさく言うので、仕方なく、進学校ではない高校に進学した。
どうやら、就職するにあたって、最終学歴というものはかなり重視されるものらしい。そんな言葉に乗せられて、うっかり、大学にまで進学してしまった。特に、やりたいと思うことも無かったのに。強いて言うなら、スポーツ関係のことでもやりたいと思っていた。だから、ついつい後先考えずに進学してしまったのであろう。ちなみに、高校も大学も推薦入学である。
大学での講義は、ためになったのやらならなかったのやら……。僕は、特にやりがいというものを感じずに過ごしていた。周りの人達は楽しそうに通っていたようだったが、僕にとっては正直なところ、「時間の無駄」としか言いようのない生活だったように思う。そのため、大学一年の頃からずっと、「大学を辞めたい」と親に言っていたのだが、「せっかく進学できたんだから、せめて卒業だけはしろ」と、毎年毎年そんなことの言い合いだった。
おかげで今では、金銭的に大ピンチ。
在学中にアルバイトもしていたが、奨学金も借りていたので、それらの返済に追われている。さらには、大学で交友関係も広くなったため、結婚式やらなんやらに呼ばれることも。嬉しいけれど、正直なところ、金銭的にかなりきつい。短期間で何回も呼ばれるときもあったが、その時期の御祝儀貧乏っぷりったら……。
こんなことになるんだったら、大学へ行かずに働いていた方がよっぽど自分のためになっていたと思う。でも、最終的に判断したのは自分自身なんだから、文句があるなら自分に向けて言うべきだろう。あの時の自分に向かって。
なんだろう……。この嬉しさと苦しさが入り混じった感情は。どう表現したらいいのか、僕にもわからない。それでも、大学卒業まで漕ぎ着けたことには、なんらかの価値はあったのだろう。様々な収穫があった……、はず。自信は無いが。
緊張しいの僕が大学に受かったのは、楽しんでやっていたからだと思っている。まぁ、ダメ元で受けたため、開き直って試験を受けていた部分もあるが、周囲を見渡す余裕まで出ていたのは大したものだ。と、自分を褒めてみる。
特に、面接での出来事が大きな要因となっていたのだろう。面接は、集団面接という方式だったのだが、「~について、みんなで話し合ってみてください」と、若干投げやり気味な面接官の言葉に、皆、なにかを考え込んでいる様子だった。仕切る人(進行役)もいない場。グループの誰一人として、第一歩を踏み出す人がいなかったので、僕が一番に手を挙げ、考えも無しに語ってみた。「僕は~だと思っているのですが、みなさんはどう考えていますか?」なんて、皆への振りを付け足して。すると、一斉に手が挙がった。それから僕は、ふんふんと頷きながらの傍観者でいた。
中学校の最初の頃や高校の推薦入学のときもそうだったのだが、僕はどうも「沈黙」という時間に耐えられないらしい。別に、普段がおしゃべりというわけでもないのだが、沈黙が続くと「あぁ、面倒くさい」と、早く次へ進めたくなって、やりたくないことも自らやってしまうことが多々あった。
中学の最初なんて、学級長を決めるのが立候補制だった。確かに、入学したてで、クラスメイトのことなんて知る由も無かったのだから推薦しようにもできない。だからといって、立候補だなんて……。ハードルが高過ぎやしませんか? と思った。ここは先生が、「とりあえずの学級長ということで……」とかなんとか言って、指名する場じゃないのか? なんて思っていたのだが、立候補の挙手待ちが、とにかく長かった。その間の沈黙の気まずさったら……。
そこで、まんまと引っ掛かってしまったのが僕だ。「もうこの沈黙に耐えられない!」と、気がつくと自ら手を挙げていたのだ。自分でも驚いたし、不安だったし、その後も緊張は続いていた。僕は単細胞なのか? 言葉よりも先に体が動いてしまう性質の持ち主のようだ。
高校の推薦試験の面接もかなり緊張した。
だが、なんとなく楽しかった。人と話すことが。
別に友達がいなくて話し相手がいないからとか、そういう理由じゃない。ただ単に、知らない人と話すことが楽しい、というか興味深いのである。人間観察が好きな僕は、「この人は、どういう性格の持ち主なんだろう」とか色々と分析しながら話をする節がある。そのためか、面接の最中も「この先生は怖そうだけど、実は優しいのでは? ツンデレか?」とか、「あの先生はまったく質問してきてくれないけれど、どういう立場の人なんだろう?」なんて、面接の質問内容とは関係ないことも考えつつ、面接に臨んでいた。我ながら、変なところで器用である。
そんな器用さを持った僕だが(自分で言うのも恥ずかしいが)、大学に進学して、自分の思っていたものとは違った学生生活をしなければならないハメになってしまった。しかし、講義も単位が取れる程度に、それなりに真面目に出席していた。
「大学を辞めたい」と何度言っても「せっかく受かったんだから、せめて卒業だけはしておけ。最終学歴が大学なら、就職も有利になるぞ」という親の言葉を聞き流しながら、ダラダラと大学生活を続けていた。あぁ。もうホント、時間とお金の無駄だった……。と、今では後悔しきりである。いまさら自分の意思を持っていなかったことに反省しても遅いのだけれど。
そんな僕が大学生活で充実させていたのは、サークル活動とアルバイトである。
高校の時も部活動を掛け持ちしていたが、大学の時にもサークルを掛け持ちしていた。まぁ、それも最初の頃だけ。後々、一つに絞ることにした。
それから、アルバイトはいろんな業種、職種のものをやってみた。その頃からだろうか。様々な仕事に興味を持つようになっていたのは。もっともっと、いろんな物事を知りたい、見たい、聞きたい。
そんな行動をしていたから、未だにフリーターなのかもしれない。僕自身の性格にも原因があるのだろうが。この自分の性質を活かせる仕事は無いものか。
大学三年の終わり頃から、周りのみんなは就職活動に勤しんでいた。会社の合同セミナーに行ってみたり、実際にその会社に面接に行ったり。人によっては公務員試験のための勉強を前からやっていたなんて人もいた。かくいう自分はというと……。何もしていなかった。
四年生になると、周囲から「いくつ内定もらった?」とか、就職の話が飛び交うようになっていた。僕はそれらの話についていけず、相も変わらずサークル活動とアルバイトと、単位の取得に精を出していた。あとは卒業論文か。
結局のところ、自分は他の人とは違う道を歩んでいた。
そりゃあ勿論、人それぞれ道は違うと思う。でも僕は、それらからあまりにも逸脱し過ぎていた。
普通の人とは違う、困難な道を自ら歩んできてしまったのである。「途中で気付けよ」と昔の自分に言いたい。でも、中にはそんな人もいるだろう。普通とは違う、ちょっと変わった道を歩んでいく人が。ここで言う「普通」とは、大勢の人がしていることを言う。つまり、過半数で言えば、多数派の方のことである。普通や当たり前。それらは多数派によって決められてしまう。少数派に至っては、「すごい」もしくは、「変わっている」とか「間違っている」という目で見られてしまう。僕は後者だ。「間違っている」とは思わないけれど、考え方が「変わっている」ということは、薄々ではあるが自覚していた。「おかしい」とか「馬鹿なの?」とか、普通に悪口であろう言葉を浴びせかけられるが、それらは僕にとって褒め言葉である。なにせ、「人と違う」ということなのだから。「普通」では満足できない自分が「普通じゃない」という表現をされると、なんだか嬉しく思うのだ。これぞ「変態」の真骨頂。でも、実はデリケート。こんな自分は、「面倒くさい変態人間」と表現するのが妥当だろう。
はてさて。
そんな自分には一体どんな仕事が向いているのだろうか。
在学中、「社会人」というものがまったくもって想像のつかなかった僕は、大学卒業までほとんど就職活動をしなかった。
結果。大学を無事に卒業したにも関わらず、無職とフリーターを繰り返していた。正社員になった時期もあったが、わずかな期間であった。
向き不向き。好き嫌い。
いろいろ参考になる理由はあっても、結局のところは人間関係である。それは、入社してみなくてはわからない。もし、勤め先が苦手な分野で、自分には向いていないと思ってしまうことがあっても、人間関係が良好であれば、その仕事を続けていくことができるかもしれない。まぁ、好きな仕事なら、それはそれで続けていくことができるかもしれないけれど。上司や仕事仲間と気が合わなければ(嫌われてしまっていたら)、ストレスの沼にはまってしまい、僕だったら、その仕事を続けていくことはできないだろう。
それこそ運だ。就職もギャンブルの一種と、僕は考える。
様々な会社の面接を受け、不採用となってもまた次がある。「面接は楽しい」と感じていた僕だからこそ、不採用になっても「また新たな楽しみができた」と考えることもできたのだろう。「知らない人と話ができるチャンスができた」と。正直、相手によっては「めんどくさい人だなぁ」なんて思ってしまうこともあったけれど、それもまた人間観察の対象となり、一興となる。
ポジティブタイムにはそんな考えが、頭の中を駆け巡っていた。
それが、ネガティブタイムに突入すると、とてつもなく大変なことに。
とにかく葛藤する。自分の中の善と悪が。
普通に、何も考えずに生活していれば、感情に振り回されることなく生活していくことができる。だけど、僕は考えてしまう。愛想笑いを振り撒きながら、相手を見下し、罵倒し、優越感に浸っている。本当はそんなこと思いたくもないのに。相手のことを尊重し、敬いたいのに。
どちらも自分。人を尊く思う自分も、人を拒絶している自分も。
額? 眉間? とにかくそのあたりがムズムズするときがある。そんなときに考えていることが本当の自分なのではないかと思う。また、本心とは逆の態度をとっている時や矛盾が生じている話をしている時などは、全身の毛が逆立つような悪寒がし、鳥肌が立つ。素直でいれないときほど、そんな状態に見舞われる。
一体どこに「本当の自分」がいるのだろう。いや、すべてが本当の自分なのだろう。時々、自分がわからなくなる。今、どんな表情をしていて、どんな気持ちでいるのか。
自分探しの旅に出たくなることも多々。しかし、そんなことで本当の自分が見つかるのだとしたら、とっくの昔に気づいていて、ここには「今の自分」は存在していないだろう。
単純な生活でもいい。特別なイベントなんていらない。何も考えることなく、平穏無事に過ごすことができるのならそれでいい。それだけで満足だ。
だけど、どうしても考えてしまう。人間とは、何かを考えずにはいられない生き物なのだろうか?
ここからは、少しポジティブタイム。
苦しみや痛み、怒りさえも「生きる糧」としよう。
すべての経験が、これからを生きる糧となる。これまでの経験を生かすも殺すも自分次第。
甘い汁、苦い汁……、いろんな汁をすすって生きてきた。他を蹴落としてきたこともあった。この世は単純。弱肉強食。……僕はどっちだ? どちらでもいい。生きていくことができるなら。でも、わがままを言えば「中間」でいたい。誰かを傷つけることなく、自分が傷つくこともなく。そんな過ごし方が理想だ。
しかし、そんな「振り」をしたところで「本物」になれるわけではない。ならば、「自分」という本物になろう。他の誰でもないオリジナルに。
皆それぞれ、これまでに味わってきたことは千差万別。決して、誰かが誰かと同じになることはできない。真似はできても、どこかが違う。真似をしたところで、それはそれで「真似をする自分」というオリジナルなのである。まぁ、それも悪くない。
打って変わって、ネガティブタイム。
「この世に無駄な物事なんて何一つ無い」というが、逆に考えると、「この世に存在する、ありとあらゆる物事が無駄なのだ」とも言える。
そもそも「人生」という、生きることそのものが無駄なのだ。
勉強したこと、学んだこと、などなど……。何かに活かすことができただろうか。仮に「できた」ということでさえ「無駄のために活かした」ことであると言えよう。だって、人生そのものが「無駄」なのだから。
成功も失敗も、良いことも悪いことも、何をしたって、すべては無に帰する。
有るようで無いような。無いようで有るような。そもそも、元はすべて無かったところから始まった。
有っても無くても、同じ無駄ならば、何をしても変わらない。足掻いたところで価値があるとも思えない。だって、元はすべてが「無」だったんだから。
命もそうだろう?
無かったものから創り上げられ、そしてまた無になる。
ならばなぜ人は生きている? ただ苦しいだけじゃないか。
なんのために人間は存在している? 地球にとって害となる人間が存在している意味はなんなんだ?
……そんな、考えたってどうしようもない、ただ気分が暗くなってしまうだけのことを考えることもしばしば。
ネガティブ人間の本領発揮である。
僕は、昔からこんな感じだった。
ポジティブとネガティブが入り乱れ、なんだかもうわけがわからなくなって……。自傷行為を繰り返しては、誰かに構ってもらいたくて。でも、誰にも気づかれないようにひっそりと泣いていたり、自己主張を控えていたり。僕自身、自分のことがわからなくなっていた。
今でも似たようなところがある。人は、変わるようでなかなか変わらない。昔から持っていたものを、そう簡単に手放すことはできない。
それが極端に表れたときがあった。
自殺行為である。
自傷行為が収まったと思っていたのだが、「収まっていた」というよりかは「我慢していた」と、今になって思う。その我慢が一気に放出されてしまった。
人間に限らず、生き物というものは、なかなかにしぶといものだ。いとも簡単に命を落とすこともあるが、そう簡単に「死」に辿り着くことができないときもある。運や覚悟の問題もあるのだろう。
僕は運が良かったのか、覚悟が足りなかったのか、幸いにも命を落とすことはなかった。幸い? まぁ、周りの人達が安心してくれたのだから、「幸い」ということになるのだろう。自分的には、幸か不幸か不明な点ではあるのだが。
何がきっかけで糸が切れてしまうかわからない。そんな恐怖と闘いながら、ギリギリのところで生きてきた。しかし、ふと気が緩んだ瞬間、僕は暗闇に呑み込まれていた。
うろ覚えなのだが、一瞬、自分の意識が自分の肉体から離れていったような感覚に見舞われた。体は動いているが意識が無い、「もぬけの殻」という瞬間だったと言ってもいい。それは、仕事中のことだ。
そしてその後、家に帰り、ボーっとしたまま、自分の部屋の片づけを始めた。死の直前の身辺整理を。
片づけている最中に、正気を取り戻して思い留まることができれば良かったのだが、行動が改まることはなかった。
夜中。
抗うつ剤や睡眠導入剤、睡眠薬などの薬をお酒とともに大量に飲み干し、床が汚れないように布団などを重ねたものの上に座り、包丁を手にした。その包丁で、自分の腹を横一文字に切り裂く。痛みは感じたが、それ以上に、脳内を駆け巡る何かが体を支配していたのか、ドクンドクンと脈打つ振動しか伝わってこない。そして、意識も無くならない。だが、「このままでいれば、出血多量で死に至ることだろう」と、それを期待し、時を待った。
朝。
血が流れ出ていたが、痛みもあり、意識がある……。つまりは生きているということを確認した。まだボーっとしたままだったが、自然と体は動き、服を着替えて自分一人で病院へ向かった。
そして、そのまま緊急入院することになったのである。
自分は何をしているのか、何がしたいのか、さっぱりわからなかった。無駄に心配と迷惑をかけ、無駄にお金と時間を使い、本当に無駄なことしかしていない。こんなことのために生きていたいんじゃない。だから自殺を図ったのに、なんて間抜けな有様だ。
もう辞めよう、こんなこと。
僕は死ぬことを諦めた。
……だからといって、じゃあなんのために生きるのかと問われても困ったもので、振り出しに戻ってしまう。
まぁ、諦めて生きていくしかないだろう。生きているのなら仕方がない。生まれてきてしまったのだから、退屈でも、傷ついて辛くなっても……。生を授かった以上、這ってでも生きていくしかないのだ。
入院中に散々考えた。
深く考え込むな。
今、自分が出来ることだけやってみろ。
力を抜いて、平凡な生き方をしていくのも悪くない。
思い切って、やり切ることもいいだろう。
果報は寝て待て。
自分のリズムで生活していく継続を。
継続は力なり。
今を楽しめ!
明日も楽しめ!
「期待」とは、「期を待つ」ということ。
でも、待っているだけじゃあ何も始まらない。
……ん? 「果報は寝て待て」と矛盾してるって?
まぁ、そんな些細なことは気にするな。
始まらなければ変えることもできない。
だから人は動く。
たとえ誰かに裏切られたとしても。
人生というゲームを謳歌せよ!
入院中、こんなようなことを無理やりポジティブに考えていた。なんだか恥ずかしいが、簡潔に言うとすると、「深く考えないで楽しんで生きていったらいいんじゃない? 周りの目なんか気にすんな!」ということである。
せっかく今、この時を生きているのだ。今しかできないことを存分にやってみようじゃあないか。
ゼロからのスタートどころか、マイナスからのスタートと言っても過言ではない。それなら少しずつプラスしていこう。掛け算や大きなプラスでなくてもいい。塵も積もれば山となる。「棚からぼた餅」も、まったく期待していないわけではないが、まずは基礎固めだ。荒波を鎮め、心の平穏を取り戻そう。それが、ゼロという出発点までの準備である、第一段階だ。第二段階は、そこからのスタートである。走り続けなくてもいい。歩いたり、時には止まったりしてもいい。ただ、後ろに戻ることだけはしないようにしよう。僕はもう振り返らない。人生だって、昔に戻すことなんてこと、できやしないんだから。
入院中、眠りにつくと必ずと言っていいほど夢を見た。
現実的な夢からファンタジー的なものまで様々であった。
こんな夢を見るということは、どんな心理状態にあるのだろうか。わかる方がいたら、是非とも教えてほしい。
まずは王道的なものだ。
ファンタジックな夢である。漫画やゲームが好きだったからだろう。自然の力を魔力と化して使用し、モンスターを倒していった。火、水、風、土、光、闇。僕は、六種類の力を使いこなし、仲間と共に旅をしていた。ダンジョンも攻略。地下へ進んでいくのだが、階層ごとにボスキャラのようなモンスターがいて、それらを倒しつつ、地下深くへと進んでいった。
ゲームをクリアする前に目が覚めてしまったが、なかなかに緊張感のある、わりとリアルな夢だった。あのまま進んでいっていたら、もしかしたら自分達がやられていたかもしれない。
次に見た夢では、自分の身体が不死身の肉体となっていた。
どんな傷でもすぐに治る。刀で切られようが、銃で撃たれようが、槍で心臓を突き刺されようが、何をされてもすぐに傷は治っていく。
それで物語のほうは、特に目的があるわけでは無かったのだが、とにかく僕のことを殺しにかかってきていた。僕の身体は、傷ついてもすぐに治るので、特に相手に何をするという訳ではなかった。でも、とりあえず鬱陶しかったので、人のいなさそうなところを探して歩いていた気がする。
それから、これも漫画やゲームを題材としたものだ。
漫画(ゲーム?)の中の自分は、主人公として物語を進めていった。クリアしても、途中でゲームオーバーとなってしまっても、何度もスタート地点から再開された。しかし、行動ルートはすべて別ルート。なので、出会う相手も別人だったり、難易度が違ったりしていた。
ここで少し、ジャンルの違う夢。
かなり、リアリティのある夢だった。卒業旅行で友達とハワイに行くことになり、飛行機に搭乗。そして、飛行中、なんらかのトラブルによって、飛行機は不時着した。友人とははぐれ、一人歩いていると、どこかの民族の人達に捕まる。……が、その後、なぜかその族長の娘と結婚することになった。
そして、夢がごちゃまぜになっていた。
僕はなぜか雪かきをしていた。はっと目を覚ますと、現実でも雪が降っていた。また目を閉じると、今度はコスプレ企画に参加していた。そして、そのままクイズ大会。……それらが終わったと思ったら、今度は自分が競馬に出場。ジョッキーになって馬と仲良くなったり、ライバルと競ったり……。その後はお好み焼き屋で、友人と雑談をしながらお好み焼きを食べていた。帰り道に、小さなお店(駄菓子屋か何か)があって、入ってみると小さな(親指ぐらいの大きさの)おばあちゃんがいた。
はたまた、次はダンス大会。しかも、表現ダンスときた。なんでじゃ。そして、料理バトルに突入。実在する友人も夢の中に登場していたので、おかしいとは思いつつも現実かと思ってしまった。
連日、類似した夢を見ることも。
祖父と一緒に杖をついて歩いていたり、祖母と一緒にお風呂に入っていたり。何かを話していて、その話声で目が覚めた。どうやら現実でも声が出ていたらしく、自分の声で目が覚めたようだ。ちなみに、夢に出てきた祖父も祖母もすでに亡くなっており、一瞬、あっちの世界に行ったのかと思った。
縁起でもない話。
誰の為かもわからない御霊前の袋をコンビニまで買いに行った。突然の叫び声で目が覚める。それは自分の声。また目を閉じると、まぶたが痙攣してしまっていて、なかなか寝付けなかった。眠りについたと思ったら、今度はミサイルが飛んできた。戦争が始まる。僕は殺し屋。要人殺害の依頼を受ける。そして、任務が完了したら、自ら命を絶った。
現実に起きたことのように思えてしまう、リアルすぎる夢を沢山見た。家族や友人の登場。自分が「~になった」夢。友達と遊んでいる夢やケンカした夢。その他、諸々……。九割方、最後はバッドエンドを迎えることになる夢だったのだけれども。もしくは、途中で目が覚めるという。
他にもいろんなことをしたっけか。
食べ物を食べている夢を見たと思ったら布団をかじっていたとか、気がついたら置いてあった飲み物が無くなっていて、キレイにして捨ててあったとか。記憶にない行動をしていることもあった。夢遊病、というやつなのだろうか。
とにかく、次の夢で最後(ということにしておこう。キリがない)。
僕は一人。病院にただ一人の入院患者。
入院中に僕の見舞いに来てくれていたのは、僕の恋人ただ一人だった(現実では彼女すらいないってのに)。顔は黒く、どんな人かはわからなかったし、その人も徐々に来てくれなくなった。僕は改めて自身の価値を考え始めた。そして、どんな死に方が良いだろうか、とも。
僕の見ていたテレビが、監視カメラの映像に切り替わる。カメラ越しには、どこかの部屋に閉じ込められている人達が。その人達が解放されると、殺人ゲームが始まった。ターゲットは僕。とにかく逃げた。追いつめられても何か方法はないかと考え、切り抜け逃げていた。それでも、僕を狙って追いかけてくる。追い詰められる。
……そこで、目が覚めた。何かの暗示? 例え? 何をそんなに怖がっていたのか。なぜそこまで追い詰められていたのか。なにがなんだかわからなかったが、とにかく気分は最悪。
ちなみに、退院後は処方された薬を、用量を守ってちゃんと飲んでいるうちは、あまり夢を見ることはなくなった。
フリーターという社会人生活を過ごしつつも、なんとかまともな勤め先に就職したいという願望はあった。だが、なかなか行動に移すことができないでいた。
……僕は入院生活が終わった後、傷が完治していなくても出来そうなアルバイトをしつつ、ちゃんとした仕事を探していたのである。
なかなか行動に移すことができなかったのは、「以前の二の舞になってしまうのではないか」という恐怖が脳内を支配していたからだと思う。そんな自分に、苛立ちやもどかしさを感じながら、とりあえず現状維持に努めていた。「生活できていれば、それでいい」という自分と「今後のことを考えれば、正社員になった方がいいに決まっている」という自分が、心の中でせめぎ合っていた。
しかし、そんな葛藤も恐怖心に打ち勝つことができず、先に進めないままだった。
……とにかく、怖い。
その思いが、心の奥底に深い傷となって残っていて、治る気配も無い。それでも時々考える。「なにもできない」んじゃない。本当は「なにもしたくない」んじゃないか、と。本心も見えない。そのため、自分自身でも改善の仕様がない。それとも、改善する気も無いのか?
さぁどうしたものか。
そう考え込んでいると、友人から一言。その言葉が、僕の心の傷をさらにえぐった。
「そんな不安定な生活(仕事)、いつまで続けるつもり?」
……何も言えなかった。
僕だって本当は、まっとうな職に就いて、安定した生活をしていきたい。でも、どうしたらいいか、自分でもわからない。「やってみなきゃわからない」ということはわかっている。でも、怖くて一歩が踏み出せない。人生、このままで満足できるわけがない。
わかってるんだ。
……その夜、不思議な夢を見た。
アルバイトですら、あまりシフトを入れないようにしていた自分がいた。最低限の仕事で、省エネ生活をしている僕。そんなとき、偶然にも外出先で、久しぶりに友人と出会った。その友人はちゃんとした仕事をし、結婚もしていて子どももいるという。彼女すらいない僕にとっては羨ましい限りであったが、そこから友人の説教が始まった。僕に対して、「それって、社会人としてどうなの?」とか、批判の話が多く、僕は途中で逃げ出してしまった。それからの僕は人と関わることを拒否し、ふさぎ込み、家族にも顔を見せないように逃げ回る日々を送っていた。
目が覚めると、呼吸が荒く、激しい動悸に見舞われ、酷く汗をかいていた。さらには、頭痛や吐き気まで。なんて夢だったんだ。
これまでにも、数えきれないほどの夢を見てきたが、寝起きに、こんなにも体調に影響を及ぼした夢を見たのは久しぶりである。しかも、ちゃんと薬を飲んで寝たはずなのに。
僕は焦った。
せっかく、少しずつでもいいから前進してこうと思っていた矢先の出来事に、僕は戸惑いを感じ、思考や行動は滞った。
ここで一つ、注意事項。別に、友人のせいという訳ではない。自分の心の弱さが原因なので。きっと、その友人も嫌味で言った訳ではなく、むしろ心配して発した言葉だったのだと思う。
しかしながら、その思いを受け止めきれず、僕は友人から、そして自分自身から逃げてしまった。
それからというもの、「このまま生きていて、なんの価値があるというんだ?」というネガティブ思考に、再び陥ってしまった。まったくもって成長していない。ただ一つ、以前と比べて変わったことと言えば、自殺しようという考えが無くなったこと。「死にたい」と思っても、「二度と同じ過ちを繰り返さない」という強い意志によって、今の自分はまだ生きていられる。
……あぁ。そのことと同じか。そういった強い気持ちを持つことで、考えたり、行動することができたりする訳か。
何か一つ。一つだけでいい。生きる意味、生きたいと思う動機を持つことで、考えや行動は変わっていく。逃げ出して、後退することもない。
今、一歩前に進むことができた気がする。その調子だ。
浮いたり沈んだり、気持ちの波はあるけれど、沈んだらその分、また浮き上がる。その繰り返しである。本音を言えば、波の無い、平坦な人生を歩んでいきたいところだが、誰にでも波はあるものなのだ。大きい小さいはともかく、人間としてこの世に生まれた以上、人生という名の波を上手く乗り越えていかなければならない。それこそサーフィン。何度も何度も繰り返し練習して、上手い波乗りを学んでいく。同じ波なんて一つとして無い。だが、応用はできるはず。様々な波(出来事)を体験して、経験値を上げよう。そうすれば、コツも掴めてくる。
……なかなかいいぞ。ポジティブ思考が戻ってきた。
ポジティブとネガティブ。それは、表裏一体。人によっても違うだろうが、視点をずらせば光が見えたり闇を垣間見たりする。要するに考え方次第ということ。自分自身がよくわからなくなってしまったら、口に出すでもノートに書き留めるでも、気持ちの整理をしてみるのが良いだろう。独りで悶々と、悪いこと一つだけを繰り返し考えていては前進することはできない。一つのことから派生して、新たな考えが浮上してくることも、無きにしも非ず。物事を見聞きするだけでも、見方が変わってくるものだ。注:僕の体験談。
五感すべてをフルに活用する。これ大事。あと、第六感(直感や勘)。
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る。五感の様々な経験が、第六感にも繋がり、人生という波を乗り越えていく力に変わっていく気がする。これもまた、自論であるが。
こんなポジティブ思考がずっと続くとは思っていない。それでも、……いや、だからこそ、そう考えることができるうちに、たっぷりとこの感覚を感じておこう。吸収しておこう。そして、その力を必要とするときがきたら出し惜しむことなく、溜めておいた全てのパワーを使いきる。
今の僕の頭の中はこんな感じ。
そして数時間後には、今とはまた違う自分が、違う大きさの波に乗っていることだろう。