第八話
アイリスが帰宅すると、ナデシコがわかりやすく不貞腐れて、机に突っ伏していた。
「えっと、あの、はかせとお話ししたんですよね」
「まあな」
ナデシコは「行きたいなら行くがいいさ」と言った。言ったが、その表情は全く納得していない様子だ。納得はしていないが、それでも、仕方ないと諦めている。投げやりな態度とも言う。機嫌は随分悪そうだ。
「どうせボクの言うことなんざ誰も聞かんのだ」
「そんな」
「カヒトの肉体も完全に把握できていないボクじゃあダメってわけだ。クソ、必要ないものとして設計図から切り捨てられた知識を必死に求めているような半端者の医者じゃあ理論武装したガーベラの口八丁には敵わん」
「えっ、そうだったんですか」
そんな話は初めて聞いた。何でもアイリスに教えてくれていたナデシコに、そんな欠落があるなどと。ナデシコはアイリスのほうへ視線を向けて、苦虫を噛み潰したような――とでもいうのか、渋い顔をした。
「ボクが生まれた頃には既に失われた医療、医学の知識も多かったし、元より必要とされない知識は搭載されない。根絶した病気の対策法より優先して記憶のメモリを割くべきことがあるってな。そのせいで今苦労してる。もっと古いタイプの医者も作っておくべきだったのに。所詮ボクらは作られたモノでしかないってわけさ」
どうしても必要があればエーテルツリーに保存された記録を引き出せばよい。日常的に求められない知識は引き出し方さえ知っておけばそれ自体を知らなくともよい。ナデシコが作られた当時は、そういう考えが主流だったのだ。問題は、アイリスが生まれた頃の寒波によってエーテルツリーが損傷し、引き出せる記録が大幅に縮小されてしまったことだ。そのせいで必要になった知識が得られない状態が続いている。
「でも、遺跡にはアクセスできる古い資料もあるかもしれません」
「……自分で手の届く範囲にない資料に何の価値がある」
「わ、わたしが取ってきます!」
アイリスが言うと、ナデシコはいっそう目つきを悪くした。
「遺跡がどんなところかも知らないのに、本当にできるつもりなのか。本当にそんなものが残っているかだってわからないのに、よくもそんなことを言えるな。知らない場所へ足を踏み入れるのにも怯えている子供が、よくも吠えられたもんだ」
少女めいた小さな体とは裏腹に、ナデシコの声を震わせた言葉には確かな圧があった。しかし、アイリスも全くの考えなしで言っているのではない。簡単には引き下がれない。
「そ、それは……怖い、ですけど。行ってみないとわからないことだらけですけど、でも――何もないとも言い切れないはずです。もし見つけられたら、持って帰ってこれたら、新しい何かがわかるかもしれないんです。ナデシコさんだって、ずっとそれを探していたじゃないですか」
「怖がる子供を差し出してまで欲しいとは言っていない!」
「怖くたって価値があることです。諦めるなら一歩踏み出した後だって遅くないでしょう!」
「そうやって帰ってこなかったやつが何人いると思ってる!」
ダン、と勢いよく拳が机を叩く。
「運よく戻ってこれても、手の施しようがないほど傷ついて死んでいったやつだって沢山いるんだ。アイリスだって、そうだった……」
アイリス。そう呼んだ声は、目の前のアイリスを呼ぶものではなかった。
ナデシコにとってのアイリスは二人いる。今のアイリスと、既に亡くなった先代のアイリスだ。アイリス自身は詳しくは知らないが、聞くところによれば、顔も体形もよく似ていたようだ。ナデシコのもとへ幼い自分を連れ込んだカヒトであり、そうして、その成長を見ることなく死んでいった。
「わたしは、前のアイリスとは違います」
たとえ、ナデシコの知る先代と自分がどれだけ似ていたとしても。
ナデシコの目にはアイリスの姿が映っている。彼にとって自分がどう見えているのかは、本当のところはわからない。だが、これだけは言っておかなければならない。
「……バンクシアやイキシオリリオンに迷惑をかけるんじゃないぞ」
アイリスの宣言を聞いて、ナデシコはすっかり呆れ果ててしまったのか、それとも怒り続けることが疲れたのか、静かに席を立ち、自分の寝床へ向かってしまった。
その背を見送って、アイリスは、溜息をつく。
「どうしてこう、わたしって上手くできないんでしょう……」
最近はナデシコの機嫌を損ねてばかりいる。本当は喧嘩をしたいわけではない。ただ彼の役に立てるカヒトになりたいと、そう思っていただけだというのに、伝えることすらままならない。気が急いているのかもしれない。
「少し、頭を冷やしますか……」
外へ出て風に当たれば、気持ちが落ち着くだろう。これから遺跡の攻略へ行くため準備を進めなければならないのに、冷静さを失っていてはいけない。
アイリスがその場から離れた後、寝床に潜ったナデシコは、まだ眠気も感じていなかったが、無理矢理に横になって瞼を閉じた。
「ああ、クソ、どうしてボクは上手くやれないんだ……」
ナデシコが似たようなことを呟いていたのを、アイリスは知らない。
◆◆◆
すっかり陽が落ちて、空を照らすのは月と星だけになっていた。二階の窓から体を出して、屋根の上に行くと、その星がよく見える。煩くならないように注意深く、落ちないよう膝をついて這いながら、ちょうどいいところへ上る。
「ナデシコさんには心配かけてばっかりだわ」
それもこれも、全てはアイリスが未熟であるためだ。これがイキシオリリオンのように強く、あるいはバンクシアのように場慣れした一人前であったなら、そう不安がらせることもないだろうに。
ふと、足音、らしきものが聞こえることに気がついた。はっきりそうだと言い切れるわけでもないが、とにかく、動くものが近づいてきているような気配だ。一体何が、と警戒していると、屋根の下から見慣れた花が顔を出した。
「やあ。とおわッ」
「お、オダマキさん!? なんてところから生えてきてるんです!」
バランスを崩して落ちそうになるオダマキに慌てて手を伸ばし、上まで引き上げる。当のオダマキは「助かった」と呑気にいつもと同じ調子で礼を言ってきた。
どうやら壁と屋根を伝って下から上がってきたらしい。いくらカヒトの中では体格が良いほうとはいえ、なかなかに無茶な話である。
「しーっ、だぞ。しーっ。ナッちゃんに気付かれる」
「今更しーも何もあります……?」
いくら足音に気を付けているつもりだとしても、音が出ている時点でかなり家の中には響くものだ。しかも転落しかけて大声を出している時点で今更だ。
とはいえナデシコも疲れているのかあえて口を出してくる様子もなく、どうやら屋根の上の騒ぎは無視することに決めたらしい。彼は出てこなかった。
ひとまず改めて落ちにくい場所まで移動して、二人で並んで腰かける。夜とはいえ星明かりは充分な光量があり、顔を突き合わせて話すには全く差し支えない。
「靴の調整は良いんですか?」
「休憩もそれなりに必要だ」
「はあ」
「風が涼やかでちょうどいい。光は昼より少ないが、夜も好きになれそうだ」
疲れたので作業を中断してきた、ということだろうか。気晴らしの散歩であればわざわざアイリスたちの家を訪ねる理由はないはずだが、それを問おうとすると、オダマキは逆に「怖くはないか」と訪ねてきた。
「怖い、って……えっと、遺跡の……鉄蛇ですか?」
「怖いなら逃げてもいいと俺は思う。魔法を使うための靴を作っておいて言うことではないのかもしれないが……」
オダマキは、僅かに眉を顰めた。カヒト同士の話し合いでは積極的に賛成はせずとも反対もしないという意見であったオダマキだが、彼なりに、葛藤するところはあったらしい。
「ナッちゃんの言うことも俺はわかる。遺跡は危険だ。わざわざ危険なところに向かっていくよりは、穏やかに終わりを待つほうが苦痛は少ないかもしれない。今からでも、はかせに言えば……」
オダマキが語る途中で、アイリスはすっと立ち上がった。そのまま、彼の言葉を無視して、屋根を蹴って飛び降りる。
「アイリス!」
当然重力に従って落下するアイリスを、オダマキが慌てて見下ろす。その瞬間、強い風が吹いた――アイリスの、魔法である。
「わっぷ」
屋根から跳んだアイリスは、そのまま地面に大の字で落ちる。着地は綺麗にはできなかったが、魔法はきちんと発動した。少し地面に顔をぶつけてしまったが、その程度は大した問題ではない。
服についた砂を払いながら立ち上がり、屋根の上のオダマキに微笑みかける。
「えへ、ほら見てください! 怪我ひとつナシですよ!」
靴を通じた魔法の制御。風の力で体を浮かせることにより、衝撃を和らげた。
「わたし、まだ魔法は下手ですけど……でも、これくらいのことは、できるようになりました。今!」
「なんて無茶を……失敗していたら骨折していた」
「やってみたらできました!」
結果論ではあるが、どうせそれくらいは遺跡攻略のために求められることだ。やってみたらできた。ならば全く、問題はないのだ。
そのまま、かかとで地面を蹴る。体の魔力を靴から外へ。世界にほんの僅か、干渉する――ふわりと風が吹き、アイリスの体を屋根の上まで持ち上げる。
「アイリス、きみは……」
「イキシオリリオンお兄さまやバンクシアさんのお手伝いが上手にできるかはわかりません、けど……高いところから落ちても平気です。重いものが飛んできても風で避けてしまいます。だって、素敵な靴を履かせてもらいました」
念願だった、魔法を使えるようにしてくれた、アイリスのための靴。そのおかげで、アイリスは魔法に目覚めた。そしてアイリスが魔法を使えるようになったからこそ、ガーベラは遺跡攻略を選択肢として真剣に考えるようになった。
「上手くいったら、わたしたちも、眠りについた先輩たちも、きっと良い方向にいくはずです。だから挑戦するんです。それに……ちゃんとできたら、ナデシコさんにも認めてもらえると思うんです」
「ナッちゃんはきみを大事にしてる」
「それは、わかってます。ずっと一緒に暮らしてきたので」
それこそ、アイリスが物事の区別をつけられるようになるずっと前から、ナデシコはアイリスの傍にいた。通常のカヒトのように成長した体も当たり前の知識も持たない子供だったアイリスを導いてくれたのは、ナデシコだ。
「でも、私は心配をかけてばかり。一人前って、思ってもらえてないんです。だから応援してもらえてない。でも、ちゃんと仕事をやり遂げられたら、心配いりませんって胸を張って言える。そういうの……おかしい、ですか?」
不純な動機と言われても仕方のないことではある。ナデシコに恩を返したい気持ちは確かにある。カヒトの仲間のために役に立ちたいとも思う。その根底にあるのは、結局アイリスがコンプレックスを克服したいだけのことだ。
オダマキはそれを否定しなかった。
「おかしくは、ない。志があるのは良いことだ。俺も好きで靴を作ってる」
「はい! それに、オダマキさんのためにも、わたし、靴に負けないかっこいいカヒトにならないといけないので!」
「お、おお、そう……か……」
「ですから待っててくださいね」
遺跡を攻略し、靴に恥じない、胸を張って歩ける一人前のカヒトになってみせる。本当の意味で、この靴を履きこなせるように。オダマキの言うところの志を語ると、彼は手で顔を覆って俯いた。
「わ、わたし変なこと言いました?」
オダマキはほんの少しだけ指に隙間を作って、目線だけをアイリスにくれた。
「期待、している」
「……はい!」
手指の間から見えたオダマキの目は、とても優しいものに見えた。もしかすれば、それはアイリスの気のせいかもしれなかったが。