第二十一話
はるか天空より彼方から、エーテルツリーを目指していた人工衛星が降ってくる。果たして標的を変える命令が上手くいったのか、確かめる術はもうなかった。ただ待つだけしかできない。
イキシオリリオンとバンクシアの二人からは、改めてエーテルツリーに通信が入っていた。遺跡の中で待機するという宣言だった。ついでに探索を進めるのかもしれない。効率的であることは確かだ。
居住区にいるカヒトたちも、これ以上できることはない。エーテルツリーでできることはやりきった。あとは、何かしら問題が起きた場合、ソフトウェアではなくハードウェアに直接干渉しなければならないというだけだ。例えば、予想よりネオネバーランドに近い場所に衛星が落ちそうな時は、その衝撃に耐えられるように魔法で壁を作るなり、安全度の高い場所に避難するなり、衛星自体を撃ち落としたり――そういったことだ。それが可能なことかどうかはやってみなければわからないが。計算しているほどの時間も残っていない。
アイリスは空を見上げた。陽が暮れてゆく。月が空の王になる。徐々に濃紺に染まっていく天上に、ちらちらと光って見える何かがあった――いつもの空にはない星。あれが、人工衛星だろうか。光って見えるということは燃えているのだ。大気圏に入ったようだ。
「あれか。意外と目視できるものなんだな」
「オダマキさん」
「星を空に浮かべる、か。旧文明の科学というのも魔法と大差がなかったようだ」
ネオネバーランドの浜辺に座って空を見上げていたアイリスは、声をかけられてようやく近づいてきたオダマキに気がついた。
ナデシコはもう「あとはどうにでもなれ」と言って引き篭もってしまった。ガーベラはエーテルツリーを使って人工衛星を観測し、墜落地点の計測をしながらその時を待っている。記録に残しておきたいらしい。
手持ち無沙汰なアイリスは健康状態に問題がないことを確認されたのち、自由行動で良いと言われてここへ来た。空がよく見える場所だ。オダマキも同じようなものなのだろう。他に今すぐやれるようなことがない。
「上手くツリーと離れられてよかった」
「そう、ですね。皆さんのおかげです」
「きみを失うのは惜しい。大事な……仲間だ」
「面と向かって言われるとなんだか照れますね」
「端的な事実。……ツリーの中で何が起きていた?」
オダマキは、アイリスの隣に腰かけた。何らかのトラブルが起きていたことは悟っていて、それをガーベラに聞くよりアイリスに聞くほうが的確だと判断したのだろう。同じように繋がっていたはずのオダマキだけが何事もなく切断できて、アイリスにトラブルが起きたことについて気にかかっているというわけだ。靴に問題があったからかもしれない、と気に病んでいる。
「なんと言ったらいいのかわかりません。わからない、けど……前の、アイリスと会いました」
「……前のアイリスは死んだはずだ」
「でも、いたんです」
詳しいことはわからない。形だけの抜け殻だったかもしれない。けれど確かに、エーテルツリーの中に入りこんだ時にアイリスを導いたのは、先代の彼だった。
「いたんです、本当に、彼が」
「……驚いただけ、だ。信じる。アイリスが俺に嘘をつく理由がない」
その辺りの理屈ははかせに聞くのがいいかもしれない、とオダマキは言った。今は人工衛星の観測に夢中だから、後で聞いてみるべきか。勿論、無事に済んだら、という枕詞がつくけれど。
「ツリーと深く繋がるというのは……どんな感じなんだ?」
「そう、ですね。泳いでいるのか、溺れているのか、自分では区別がつきませんでした。不思議な感覚でした」
「そこで、彼と会ったのか」
オダマキは相変わらず感情の見えにくい顔をしていたが、肩が少し揺れていた。どうもアイリスの話が面白いようだ。感情が体のほうに出ているらしい。
「はい。彼が、わたしと波長が似ていると……いえ、大事なことは、きっとそんなことではなくて、それも大事なんですけど、ええと」
「ゆっくりでいい。言いにくいことなら言わなくても」
「いえ……言えないようなことは、話していない、と思います。少なくとも、靴が悪かったなんてことはありませんでした。きっと不運……あるいは幸運かもしれませんが、偶然の出来事だったんです」
アイリスの魔法の才を解き放った靴が、悪であるはずがない。靴がなければツリーと繋がることすらままならなかった。カヒトの危機に、何もできずに立ち尽くすところだったのだ。少なくとも仲間の手助けはできた。だからオダマキが気にするようなことはないのだ。本当に。
アイリス自身、自分が経験したことをまだ上手く呑み込めていない。死にかけたことはわかる。恐らく、運が悪ければそのままエーテルツリーに分解されてしまっただろう。それが、魂も肉体も無事なままに戻ってこられたのは、先代とナデシコたちのおかげだ。尤も、ツリーと深く共鳴してしまったのも、先代の影響であるようだが――そのおかげで、本来知り得ないことを知った。それが呑み込めていない。
「ふむ。俺の専門ではないから何かしらの判断というのはできないが……そういうこともあるんだな。わからないではない。彼なら強かに生き延びていてもおかしくない、と思ってしまう。死んだ彼をエーテルツリーに返すところを俺も見ているのに」
「あの状態を生きている、と言っていいのかはわかりませんけど……」
あれは魂の残り滓だ。今を生きているアイリスたちと違って自由の利く肉体もなく、引き出せる記憶も限られていた。ナデシコのことを案じながら、エーテルツリーの中でゆっくりと溶けていくことを待つだけの亡霊だった。
「それでも彼が彼という自己を確立したままだったのなら、話を聞いてみたかったな。ナッちゃんのことを言ってたなら……やはり、彼だ。エーテルツリーを使わずにきみを作り出したようなカヒトだ」
オダマキはそう言って目を細めた。それはどこか憧れを孕むような、眩しそうな目つきだった。
「オダマキさんは、その、新しいカヒトを作ることに興味が……?」
「……そう、だな。うん。ツリーを使わずに、というのは興味深いことだ。まあ……ナッちゃん以外は、ツリーを復活させるほうが早いと思っているだろう」
実際、エーテルツリーを管理しているガーベラ、彼と付き合いの長いイキシオリリオンはツリーを重要視している。バンクシアもあるかどうかわからない手段より、直せば使えるというわかりやすい目標のあるツリーのほうが現実的と思っているだろう。ナデシコは代替手段が必要だと感じているようだが、成果は出ていない。
「そもそもツリーが正しく機能していたときは、カヒトの社会というのはある種完成形に近かった。求められて生まれてきた仲間が、その能力に合わせて役割を与えられ、仲間のために助け合って生きる。ツリーが使えなくなると崩壊してしまうという弱点を除いては、間違いなく良い社会ではあった。無駄がない繁栄だった。きみは知らないことだが、他のみんながあの頃のことを覚えている」
「そう、ですよね……」
「ツリーを使わないということは、思うままの設計ができないということだ。都合が悪いことも多かろうとも。でも本当にそんな方法があるのなら……それもきっと、良いことだ。生まれてくる子供は、望まれた役割に縛られずに自らの在り方を望めるカヒトになる。きみのように」
話しだすと熱が入ってきたのか、オダマキは秘密の宝物をこっそりと見せてくるかのように語りだした。今まさに人工衛星の落下が始まって、少しずつ燃え盛る旧文明の遺品が近づいてくるのを全く恐れていないかのように、明日が当たり前に訪れると信じているかのように、彼の目は煌めいている。
「設計されるということは、生まれてから死ぬまでの在り方を決められているようなものだ。敷かれたレールに乗っているだけでいい。何も悩む必要はない。未来に不安は一つもない――が、未来を選ぶ自由だけはない。旧文明の人間や妖精が持っていたはずの自由を、カヒトは失った。それを取り戻せるかもしれない」
人工衛星の落下地点は、上手くいっていれば、予定だったツリーへの直撃は免れて、島から離れた沖へずれる。本当に上手くいっているのか、アイリスはまだ不安が拭いきれない。仲間たちはきちんとやれることを果たしたが、自分は上手くやれていただろうかと、空に輝く光を見てどきどきする。しばらくすると、光が二つに分かれ、三つ四つと分散していく。落下すること自体に人工衛星が耐えられないようで、空中で燃え盛りながら壊れていっている。
この後どうなるのだろう。何事もなく日常に戻るのか、何かしらの影響が残るのか。けれどオダマキは一切そのような不安は見せず、ただ輝く夢を拡げている。
「俺は靴を作るのが好きだ。靴の似合う足が好きだが、果たして俺が服飾のために設計されたカヒトでなかったら、同じ想いは抱いただろうか。他の特性を持ったカヒトに生まれていたら。俺が設計されたカヒトでなかったなら、こんなことを考える必要もなかっただろう」
アイリスには、わからない。アイリスは知らない。そんな感覚を知らない。アイリスには、オダマキのように設計に組み込まれた能力はない。だからずっと、他のカヒトを眩しく思っていたけれど――その実、中にはオダマキのように、まるで正反対のことを思っている者もいた。
「きみのような自由なカヒトが、見たい」
その声色ときたら、今まで聞いた中でもいっとう柔らかく、期待に満ちて弾んでいた。手繰り寄せられるかさえわからない未来が、いつか訪れると信じきって、疑いもしない顔をして。
「あ、の。前のアイリスは、カヒトの他にも人の名残りが、あったと……」
アイリスは先代に望まれて生まれてきた。先代がエーテルツリーを使った形跡はなかった。先代はずっと行方知れずだった期間がある。先代は、何らかの人の名残りを見つけていた。
オダマキはそれを聞いて、僅かに目を見開いた、ように見えた。
「それなら」
「はい」
「やっぱり、どこかにあるんだ、方法が」
――エーテルツリーを使わずに、仲間を増やす手段が。
嬉しそうにそう呟いたオダマキの横顔は、花そのものだった。
人工衛星が隕石の如く海上に落ちる。熱で海水が蒸発して煙が立った。大きな波がネオネバーランドに押し寄せて潮を散らす。アイリスたちがいた浜辺まで水飛沫が飛んだ。
「うわっ」
「大変だ、アイリス。頭から潮を被った。枯れる前に洗い流そう」
「は、はい……こんな塩分が沢山あったら、はい、ダメですね」
オダマキがあまりにも平常時と変わらない言い方をするので、アイリスも思わずいつものように同調してしまった。他に言うことがあったはずなのに、すっかり頭から抜け落ちてしまった。
だが、恐らく大きな問題ではなかった。どうやら、ひとまず一番の危機は去ったらしい。見上げた空は、いつもと同じ星だけが輝いていた。




