第二十話
エーテルツリーが足に巻きついて倒れたままのアイリスを、ナデシコが慌てて診る。意識がない。声をかけても反応がない。既にガーベラがエーテルツリーと切り離すよう操作しているが、上手く命令が反映されていないようだった。アイリスは動かないままだ。
「これは……」
「おっかしいな。なんかツリーにエラーでも起きた?」
同時にツリーと繋がっていたオダマキは問題なく切り離しが完了している。アイリスだけが、エーテルツリーと繋がったまま、戻ってこられないでいる。
「エーテルツリーと深く共鳴してるんだ。このままだとアイリスがエーテルツリーの存在に上書きされかねん。ツリーの一部になってしまうぞ」
「つまり、早く切り離さないとまずい?」
オダマキが言った。ナデシコは口を開こうとして、それ以上言葉が出てこなかった。
沈黙は充分な返答ではあった。誰だって緊急事態だということは理解できる。エーテルツリーの機能の大部分が失われたまま、それが更なるエラーを吐き出している。そのせいでアイリスが危険に晒されている。
「でも、強引にやるとそれはそれで危ないんじゃないの? 神秘ってのは概念の上書きみたいなもんだけど、途中でぶっちぎったらそのまま壊れるってこともあるわけだろう。一刻も早くったって……」
「……可能な限り処置はするとも。そのためのボクだ、そのための、そうでなくちゃボクがいる意味があるものかよ」
エーテルツリーは旧時代の人間と妖精が手を取り合って作り上げた演算装置である。妖精の神秘を、機械的に制御できるようにしたもの。曖昧な概念でしかなかった妖精の魔法に法則を与えた道具。それが、機械の制御を外れて神秘が暴走している状態だ。エーテルツリーの存在が、アイリスを飲み込もうとしている。
彼の足に巻きついたツリーの根は、魔力によって見た目以上に強くアイリスを掴んでいる。神経の内側まで食い荒らすように。分け与えていたものでは枯渇していたツリーには到底足りなかったということかもしれない。ツリーに意思があるというわけではなく、有機的な生命としての部分が自己保存のためにそう動いたと見るのが適切だろうか。見た目にはわかりにくいが、アイリスという存在を構成する魔力の外殻――肉体ではなく、魂の一部――が溶け始めている。
ツリー自体の問題もあるが、オダマキがアイリスの持つ魔法の力を扱いやすくするために靴を調整した。それが悪い方向に影響している。魔法を使えるようになってそれほど経っていないアイリスには、適切な調整ができていなかった可能性が高い。
すう、と息を深く吸う。ナデシコは目の前の症状への対処法を知っている。それこそ生まれた時から。神秘の異常によって身体的な問題が起きた場合に対応するための医者だ。
「オダマキ!」
「うん」
「アイリスとツリーの魔力的な繋がりをボクの医療魔法で絶つ。その時靴の処理を頼む。アイリスの足に万が一があっては困るからな」
「承った。問題ない、靴は俺の責任だ。やれる」
「私は何か手伝うことあるかい?」
「ツリーのシステムを一旦落とす必要がある。ツリーに問題が起きないかガーベラが見ていてくれ」
「はいよー。それくらいならお安い御用。あ、でもあまり長時間になるとツリーも枯れかねないからマジ急いで。アイリスも失えないが、ツリーが枯れたら今度こそ我々全員詰みだ!」
「すぐ終わるとも。トラブルがなければ」
ナデシコは助手たちの準備ができたことを確認して、自らの両足のかかとを擦った。足を通じて湧き出したナデシコの魔力が結界を作り出し、ツリーの根が巻きつくアイリスを隔離する。この中においては、流れるものは全てナデシコの支配下に置かれる。停止させられたエーテルツリーの根は魔力をせき止められたことで、アイリスとの結びつきを弱くしていた。
「これなら引き剥がせるな。オダマキ、靴の処理を」
「ああ、すぐに」
オダマキの魔法は、物質の加工に特化している。ツリーの束縛が弱くなっているうちに、アイリスの靴を調整する。魔力の通る道を細くすることによって、完全にツリーとの魔力による接続を切断する。
それからは、ナデシコが物理的な結びつきを切った。巻きついた根は太く重かったが、結界の中であればナデシコの身体能力にも多少融通が利く。バンクシアのようなわかりやすい怪力にはなれないが、調整をしやすいのがナデシコの強みだ。
エーテルツリーから解き放たれたアイリスは、しかしまた別の問題が発生していた。ツリーと繋がっていたときは曲がりなりにもできていたはずの呼吸が止まっている。胸も腹も動いていない。先程よりも死に近づいている。
「オダマキ、心臓マッサージを頼む! ガーベラ、ツリーを起動しろ。今までツリーに流れていた魔力を引っ張ってきて蘇生に使う!」
「止めたり動かしたり忙しいなあ!」
文句は言いつつも緊急事態ということはきちんと理解している。ガーベラはナデシコの指示に従って、エーテルツリーを再起動する。
カヒトは人間と妖精の混ざりものだ。両方の特徴を受け継いでいる生き物だ。ゆえに蘇生のためにも心肺を動かすだけではなく、神秘による処置が求められる。溶けだした魂を補完するため、ナデシコの魔法によって存在の定義を再構築する――魔法とはそういうものだ。魂の奥底に眠る生命の力を、祈りによって具現化し、目に見える現実に変化を引き起こす。
「オダマキ、まだ体力はもつか!」
「俺は問題ない、というか、折らないか、ちょっと心配だ……!」
「ならもうしばらくだ。骨は気にするな、たとえ砕けようがそれくらいじゃ死なん! 心臓さえ動いていれば後から治癒できる!」
「そうか、ならば遠慮なく」
「頼む!」
体格がよく体力のあるオダマキがアイリスの胸骨を一定のリズムで押しつぶしている間に、ナデシコもやるべきことをやらなければ。
再び動き始めたエーテルツリーから、エネルギーを取り出すためにナデシコが結界を使って魔力の通り道を作る。逆流が起こらないように、ナデシコ自身をスイッチにする。アイリスの肉体を巡る魔力、命の神秘を正しく機能させるため、外から治療の手を入れる。今のアイリスは、それこそエラーを起こしている状態だ。それを正常に戻す。
「ナデシコ、やれそうかい!?」
「バカ、やるんだよこういうのは!」
人工衛星が落下してくるというのが、本当に解決できたのかわからない。解決できたのかもしれない。もう不安に思うことはなくなったのかもしれない。だが、その過程で無用な犠牲を出しては論外だ。
過去に喪ったカヒトを思い出す。多くの命を取りこぼしてきたけれど、一際強く想っていた相手さえ、ナデシコは掴み取れなかった。
――またアイリスに置いていかれるのだって、論外だ。たとえそれが、一番に慈しんだ相手とは別の個体であったとしても。
「アイリス……起きろ、アイリス!」
神秘を用いた治療だ。だからこれは、決して不可能ではない。旧時代の人間たちが理屈を捏ねても説明できなかった結果を生み出すことこそが魔法だ。
エーテルツリーから正しく命の神秘を受けとり、アイリスの目がかっと開く。それと同時に、激しく咳き込んだ。
「ごふ、ぐ……か、は……!」
「アイリス!」
魔法によって失いかけた命を、改めて一度作り直したようなものだ。光を求める緑の髪を乱しながら、アイリスは止まっていた肺に空気を取り込もうと、大きく息を吸い込む。
「はあーっ……はーっ……ごふ、ッ、う……」
体を震わせるアイリスの背を、オダマキがさすっている。ガーベラも不安げに見守る中、ナデシコは彼を診るため一歩前に出た。
白い頬はいつもよりも青白い。けれどそこには確かに生命の鼓動がある。頭の花も萎れることなく、きちんと咲いている。髪での光合成も上手くいっているようだ。
彼の細い手首を取る。子供のような体型のナデシコから見ても細いその腕だが、しかし脈拍はしっかりと確認できた。少しずつ呼吸も平常どおりに戻っていく。胸を震わせながら肺は正しく機能し、彼の体に酸素を巡らせていく。
「アイリス、具合は」
「わ……わた、し」
声をかけると、アイリスの目線がしばし彷徨ったのち、ナデシコを見た。その眼差しは、若く煌めきに満ちている。
「戻って、これました……?」
「声は出るな。息はできてる。肺も心臓もちゃんと動いている……意識も保っていられる。光合成もできている、うん、生きている……」
一つひとつ、彼の生を確かめる。アイリスは困惑しながらも、素直にナデシコに従っていた。少女めいた細い体だが、間違いなく、生き残った。
彼に抱き着くと頭を押し付けるような状態になってしまう。だが、顔が見えないので、今はそれでいい。
「ナデシコさん、あの……泣いて、いるんですか……?」
「……バカ、これはちょっと……雨が降っているだけだ」
「ナッちゃんほんとそういうところだよ。そんなんだから私に口喧嘩で勝てないんだよ。そういうところがマジナッちゃん~」
「うるさいバカタレナッちゃんじゃなくてナデシコさんだわからずやのガーベラ野郎」
「あれえ思った以上に言葉のナイフが鋭いゾ」
ガーベラの揶揄はどうでもいい。ただ、慈しむべき子供が生き延びた、ただそれだけを噛み締めておきたい。
ふと、自分たちのほうに影が差した。今いるカヒトで背が高いのは一人だけだ。
「オダマキさん」
「うん。……頑張ったな」
「……はい!」
アイリスが笑っている気配がする。だが、今は不格好だという自覚があったので、ナデシコは顔を上げられなかった。




