キャッツアイ・ウイットネス ~怪奇捜査探偵ホンドアウル~
テムズ川を望めるオープンカフェ。その一角の席に座り、新聞と紅茶を嗜んでいたホンドアウル卿のそばに、一匹の黒猫がおもむろに近づいてきた。黒猫は後ろ脚のバネを使ってテーブルに跳び乗ると、
「よお」
ホンドアウル卿に向かって声を掛けた。卿はといえば、黒猫の顔を一瞥しただけで、すぐに視線を新聞紙上に落としてしまう。
「なんだい、つれないじゃないか、ホンドアウル」
黒猫はテーブルの上に丸くなった。卿は、猫から遠ざけるように、カップの載ったソーサーの位置をずらすと、
「いいのですか。こんなところで声を出して」
目は新聞から離さないまま言った。黒猫は大きな双眸を動かして周囲を窺う。平日の昼間ということもあり、カフェに客の姿はまばらだったが、
「じゃあ、目立たないように、と」
黒猫は立ち上がって、ぴょんと跳ねると、新聞を持った卿の腕を飛び越え、丸くなる場所をテーブルから彼の膝の上に移した。
「いったい、何用です? ケット・シーがこんな真っ昼間から」
卿は別段嫌がる様子もなく、だが視線は記事を追ったまま、自分の膝の上に座る妖精猫に声を掛けた。
「おいおい、俺っちには『ウーサー・アーサー』っていう立派な名前があるんだぜ。あんたが俺っちのことを『ケット・シー』って呼ぶってことは、俺っちがあんたのことを『人間』って呼ぶようなもんだぜ。俺はお前のことを友達だと思ってるのによ、寂しいじゃねえか」
「用件は何です」
やれやれ、とばかりにひとつ嘆息してから、ケット・シーのウーサー・アーサーは、
「見たんだよ」
「何をです?」
「お、ちょうどいい」とウーサーは、卿が読んでいる新聞紙上の一部に、かさりと音を立てて触れ、「これこれ。この犯人を見ちまったんだって」
ウーサーの肉球が示した記事の見出しは、こう書かれていた。〈人気作家、自宅で惨殺さる〉
〈人気ホラー作家のベン・ゲイルさんが自宅で殺害された。死体の第一発見者は担当編集者。ゲイルさんは編集部で打合せが入っていたが、約束の時刻になっても姿を見せず、携帯電話にも応答しなかった。このことを不審に思った編集者はゲイルさんの自宅を訪れ、居間で血を流し床に倒れているゲイルさんを発見した。通報を受けて警察と救急が駆けつけたが、すでにゲイルさんは死亡していた。死亡推定時刻は前日の未明と見られている〉
「犯人は、現場の近くに住んでる、ミルナーって男さ」
「犯行現場を見たのですか?」
「正確には犯行の直後を、だな。殺された作家の家の前は、俺っちの散歩コースなんだ。で、夜の散歩途中、殺された作家先生の家の玄関から、そのミルナーが出てくるところをまさに目撃しちまったのよ」
「それだけで犯人と決めつけるのは乱暴ではありませんか?」
「あいつ、血がべっとりと付いたナイフを持ってたんだぜ。俺っちは時計なんて見ないけど、作家先生が殺されたのも夜中のことだったんだろ。間違いないって。ミルナーの部屋を調べてみな。その凶器のナイフが見つかるはずだ。あと、野郎の服にも被害者の血が付いてるだろうな。最近の技術で誰の血かまで特定できるんだろ? DHAってやつで」
「DNAです」
「そうそう、それ。人間の科学力ってのはたいしたもんだね」
「ウーサーさん。どうしてそのことを私に教えてくれるのです」
「俺っちが警察に行くわけにゃいかないだろ。喋る猫出現って、こっちがとっ捕まっちまう」
「それだけですか?」
「どういうことだよ」
「普段、人間に無関心のあなたが、人間同士の犯罪事件に首を突っ込むなど、珍しいなと思ったもので」
「猫ってのは気まぐれなのよ。さて」ウーサーは卿の膝の上から石畳に飛び降りると、「じゃあ、よろしく頼んだぜ、ホンドアウル」
そう言って、最後は猫らしく「にゃー」と鳴くと、悠然とロンドンの街中に消えていった。
妖精猫の姿が雑踏に紛れて見えなくなると、ホンドアウル卿は再び事件記事に目を落とした。
〈ベン・ゲイルさんは、首筋頸動脈を切り裂かれたことによる失血死が死因と見られている。なお、犯行時刻が深夜であることから、目撃者の情報を得ることも難しいと見られており……〉
数日後の深夜。ホンドアウル卿は待ち合わせ場所である裏路地に立っていた。
「いよう」
音もなく近づいてきた黒猫が卿に言葉を掛けた。「どうも」と返したホンドアウルと視線の高さを少しでも近づけるためか、黒猫、ケット・シーのウーサー・アーサーはゴミ箱の上に、ひょいと跳び乗った。
「どうだい、首尾は。ニュースとかを見る限りじゃ、まだミルナーは逮捕されていないみたいだが? まさか、証拠が見つからなかったとか?」
「いえ……家宅捜索で、彼の部屋の下駄箱の中から血まみれのナイフが見つかりました。DNA鑑定の結果、血液は殺されたベン・ゲイル氏のものと断定されました。さらに、押収した衣服の一部からも同様の血痕が見つかっています。彼のアリバイも不透明です。被害者の死亡推定時刻、彼は部屋で寝ていたと言いますが、なにぶんひとり暮らしなもので、証人がいません」
「なら決まりじゃねえか。どうして逮捕しない?」
「被害者との繋がりが一切見えてこないのです。つまり、動機がない」
「おいおい、動機なき殺人なんて、最近の人間界じゃ日常茶飯事だろ。そこをこだわるかね」
「現在のところ、私が待ったをかけて、少しの間だけ捜査は止めていただいています」
「はあー、相変わらず謎の権力を持ってるね、あんたは。警視庁を動かしちまうなんて。いや、正確には動かしたんじゃなくて、止めたのか」黒猫は、くすくすと笑うと、「で、俺っちを呼び出した要件はなんだい?」
「ウーサーさん、あなたですね、犯人は」
単刀直入に言われた卿からの言葉をウーサーは、まだ若干笑みの残る顔で受け止めた。大きな双眸には、彼を見下ろすホンドアウルの姿が映っている。
「ははっ。天下のホンドアウル卿も焼きが回ったね。どうして俺っちが人間を殺さなきゃならんのよ。俺たち妖精猫は自由気ままに生きる。人間のいざこざに首を突っ込んだりしないもんなんだぜ」
「ええ。ですから不思議なのです。何があったというのですか、ウーサーさん」
「おい、ホンドアウル」ウーサーは、先ほどよりは明らかに鋭さを増した目で卿を睨み、「俺っちが犯人だって言い張るなら、理由を聞かせてもらおうじゃねえか」
「私は、警察の知り合いに頼んで現場の状況を教えてもらいました。ゲイル氏の死亡推定時刻は深夜零時。死因は頸動脈を切断されたことによる失血死。死体に動かされた形跡はなく、死体のあった居間はおびただしい量の血液に染まっていました」
「想像したくないね」
「致命傷となったものの他に外傷はないため、犯人は一撃で氏を葬ったものと思われます」
「それが?」
「調べによると、死亡時刻、居間の明りは点いていなかったそうです」
「……どうしてそんなことが分かる? 目撃者はいないはずだ」
「電灯のスイッチがオフの状態のまま、その上から飛び散った血液が付着していたのです。スイッチには、指はもちろん、何かしらで押された形跡は一切なかったそうです。部屋の明りが点いたオンの状態で血液が付着し、犯行後にスイッチをオフにしたのでないことは明白です。つまり、犯行時、現場はほぼ暗闇だった。そんな状況で犯人は一撃で被害者の頸動脈を切り裂いています。人間業ではありません」
「懐中電灯を用意してたのかもしれねえじゃねえか。もしくは、あれ。ほら、夜でも辺りが真昼のように見えるようになる、眼鏡のお化けみたいなやつを付けてたのかも」
「暗視ゴーグルのことですか」
「そうそう、それ」
「ミルナーさんの部屋からは、そういった機器は発見されませんでした」
「処分したのかもしれねえだろ」
「一番肝心の凶器は残しているのに?」
「……」
「加えてですね。犯行現場に犯人のものらしき足跡が一切みつからないのです。あれだけの出血量です。血の付いた犯人の足跡がひとつもないというのは、どう考えてもおかしい。まるで、血痕のない狭いスペースを器用に跳びはねながら、現場を去ったかのような」
「……」
「さらには、ウーサーさん、あなたの証言です」
「な、何かおかしなことを言ったか……?」
「あなたがミルナーさんを犯人だと思ったのは、血の付いたナイフを持っていたからだということでしたね」
「あ、ああ……」
「先ほどの問題と同じです。被害者があれだけの出血をしたのであれば、犯人は必ず多量の返り血を浴びているはずなのです。それなのに、ウーサーさん、あなたはミルナーさんが犯人だと思った理由として、血の付いたナイフを持っていたから、と証言しました。返り血のことなど、何も口にしなかった」
「家の中で着替えたのかもしれねえじゃねえか……」
「着替えたあとの衣服は?」
「だから、処分したんだって」
「同じことの繰り返しになります。なのに、どうして――」
「肝心要の凶器は後生大事に持っていたのか、って言いてえんだろ」
「……はい。凶器はゲイル氏の家にあったものです。犯人が用意したものではないのですから、指紋を拭き取って現場に放置していくのが最善のはずです。その凶器の柄から、ごく小さなものですが奇妙な傷跡も見つかりました。鋭い針で刺したような跡です。まるで、牙のある口に咥えて使用したかのような」
「はあ……」ウーサーは、鋭い歯の並んだ口を大きく開けて嘆息すると、「そうだよ。俺っちがあのミルナーってやつに罪を被せようとして、こっそりと下駄箱の中に入れておいたんだ。服に付いていた血もそうだよ。俺っちが身体をなすりつけたんだ。蹴っ飛ばされる前に、素早くな」
黒猫もホンドアウル卿も黙り、裏路地には、しばし闇とともに静寂だけが流れた。
「被害者の家を捜索していて」卿が口を開く。「少女用の衣服や、アクセサリーなどが発見されました。ゲイル氏は未婚で、親類や知り合いにも小さな女の子はいないはずなのですが」
「そこまで見つかりゃ、あとは早いな。お前も知ってるだろ、過去三年に渡って、この町で小さな女の子が三人行方不明になっている」
「その犯人が……」
「ああ、あの変態作家野郎なのさ。俺っちは見たぜ、あのおっさんが、言葉巧みに女の子に声を掛けて連れていくのを」
「それで、義憤に駆られて殺害したのですか? 人間に干渉しないケット・シーとしては珍しい行動ですね」
「こっちが干渉しなくても、人間にほうは俺たちを放っておかないのよ。理由もなく蹴っ飛ばしてくるようなやつもいれば、かわいい猫さん、なんて言って無邪気な顔して寄ってきて、頭やら顎やら、やたら撫で回してくるのもいる」
「前者がミルナー、そして、後者が……」
「俺たち妖精猫だって、憎からず思う人間はいるんだぜ……」
ウーサーは空を見上げた。星ひとつない、彼の身体と同じ、漆黒のインクを流し込んだような夜空だった。
「……ホンドアウル、俺っちを殺すかい? 人間に仇成す魔物を狩るのも、お前の仕事だろ?」
「難しいでしょうね、この闇夜の中で黒猫の相手をするというのは。逃げられたら、まず間違いなく見失ってしまいます」
ウーサーは少しだけ笑みを浮かべると、
「ふん、せいせいするぜ。こんなゴミゴミした街も、気安く体を撫で回してくるガキも、大嫌いだったんだ」ゴミ箱から飛び降りて、「あばよ、人間。もう二度と会うこともないだろうぜ」
そう言い残すと、足音も立てずに路地の向こうに走り去り、そして、夜の闇に溶けた。