前世の推し(に似た彼)がいたのですが
カラーン―――――……。
手からゆっくりとフォークが滑り落ち、高い音を立てた。食堂に響いたその音に、朝食を食べていた父と母、そして兄が訝しそうにこちらを向く。
私は目を見開いて一点を見つめ、細かく身体を震わせた。
視線の先には従僕の黒いお仕着せを着た青年が立っている。鮮やかな赤色の髪にペリドットのような翠色の瞳。すらりと背の高い彼は、こちらの様子に驚いたようにグラスを持って固まっていた。
「あ、あ、ああ……―――アルフレッド?!」
悲鳴のような叫びをあげ、あまりの衝撃にそのまま私は意識を失ってしまった。
◇
結論を言うと、青年の名前はアルフレッドではなかった。
そもそもアルフレッドとは、私が前世でハマっていたアイドルアニメの主人公の名前だ。明るくて元気なムードメーカーで、素直な一面もあるというキャラ設定。はっきりと覚えていないが、アニメ自体はグループ結成したばかりのイケメンたちがトップアイドルを目指すとかそんな話だったはずだ。
奇しくもそんなアルフレッドとそっくりの容姿をした彼を見た瞬間、私は前世の記憶を思い出したのだ。
私の前世は日本人で、アニメが好きだった。いつ亡くなったのか詳しいことは思い出せないけれど、いつの間にかこの世界に転生したらしい。
この世界で私は、メアリ・ディレタートという名の子爵家令嬢だった。ハシバミ色の髪と目をした、この世界では平凡な容姿の少女だ。
西欧風であるが古典的で華やかな建築物が並ぶというこの世界は、ルネサンス様といえばよいだろうか。その中でディレタート家は広い領地と百余名の家事使用人を抱える貴族である。
倒れてからすぐに私は自室のベッドへ運ばれたらしい。
目覚めて一番に「アルフレッドは?!」と叫んだ私に胡乱な目を向けて、メイドのマギーは彼の紹介をしてくれた。
「お嬢様、彼はアランという名前です」
「そう。惜しかったわね」
私がアルフレッドと間違えた青年は、最近使用人として採用されたということだった。準男爵の子息で、行儀見習いのため奉公に来ているという。
そんな彼を見た私がいきなり倒れたことで、朝から我が家は大騒ぎだったらしい。
屋敷中の心配をよそに、ベッドから飛び起きるなり彼の話をし始めた私に対して、マギーの心配は彼方へ飛んでいったようだけれども。
「それよりお嬢様、ご気分の方は?」
「なんともないわ!」
「それはようございました。奥様と旦那様が心配されていましたよ」
もそもそとベッドから抜け出すと、マギーがドレスを整えてくれる。
するとすぐに両親と兄が部屋にやって来た。別のメイドが目覚めたことを知らせてくれたのだろう。両親の後ろには、青ざめた顔をしたかの従僕がこちらを窺っている。
やっぱり彼はアルフレッドに似ている。青ざめた顔をしても格好いい―――なんて、場違いな考えが頭をかすめる。
両親は体調に問題がないことを確認て安心したように息をつくと、何故倒れたのかともっともな指摘をした。
「なんだか眩暈がしてしまって。え? 従僕の顔を見て? いいえ、たまたまですわ」
しらを切ったつもりだったけれど、私は彼から目が離せなかった。
そして私が彼をずっと見つめていたことを、両親や小さい頃から傍に仕えてくれているマギーにはバレバレだったらしいと後に知ることになる。
それからしばらく経っても、私は彼を見かけるたび目で追っていた。
だって彼は格好いい。大好きだったアルフレッドにそっくりな人が近くにいるのだ。これが冷静でいられようか! 食事中に給仕のため傍に来るとそわそわするし、柔和な笑顔に思わず「尊い……」と拝みたくなるのも仕方ない。
できればアニメのように屈託のない笑顔も見てみたいが、彼は従僕としていつも澄ました顔をしている。それも良いのだけど。
しかしある日、私は見てしまった。彼が同僚と小突きあいながら無邪気に笑っている姿を。笑うとますますアルフレッドに似ている! 主人家族の前では絶対見せてくれない顔だ。使用人との壁……切ない。
「マギー、アルフレッドの笑顔って見たことある?」
自室でこっそりマギーに尋ねると、やや戸惑ったように彼女は首を傾げた。
「ああ、アランですか。使用人ホールではよく笑っているのを見ますよ。明るい方ですからね」
勝手にアルフレッドと呼んでいたが、そういえば彼の名前はアランだった。
というか、マギーはよく彼の笑顔を見ていると。
「ずるい!」
「ずるいとは、ええっと……」
「私も見たいのに!」
「ええっ?! 何をおっしゃるのです。まさか、お嬢様……」
マギーが途端に慌てだし、奥様に報告をなんてぶつぶつ言っているのは、残念ながら私の耳まで届かなかった。
翌日、午後のお茶の給仕として珍しく彼が来た。いつも給仕してくれるマギーや他のメイドは、離れたところからこそこそと見ている。まさかマギーがわざわざ彼を呼んでくれたのだろうか。
何にせよ、ゆっくりと彼を見つめられるのは至福だから。
「ねえ、アル……じゃない、アラン」
「お嬢様、良ければどうぞアルと呼んでください。呼びやすいように」
彼ははにかむように笑った。何その笑顔! それもいい! 可愛い! 笑うとますますアルフレッドに似ている。
ぽっと頬を染めて見惚れてしまった私に気づいて、彼は困ったように視線を泳がせた。しまったと私も慌てて紅茶に目を落とす。アルフレッド(に似た彼)に紅茶を淹れてもらえる日が来るとは、前世の私は夢にも思わなかっただろう。
「それではアル。良かったら、私のこともメアリと呼んでくれないかしら」
「お嬢様、それは……。私は使用人ですので」
「お父様やお兄様の前では難しいでしょうけど、私の前だけでも駄目?」
彼に視線を戻してじっと見つめると、しばらくして根負けしてくれたようだった。
「わかりました。メアリ様」
照れたように呼ばれた名前に、心の中で拍手喝采する。容姿だけではなく声までアニメとそっくりな声で名前を呼んでもらえるなんて、耳が幸せすぎる。
「ふぐぅ……好きすぎてつらい」
「はい?」
「な、何でもないわ!」
思わず漏れた言葉を誤魔化す。危ない危ない。にやけてお嬢様らしくない顔になるところだった。
火照った頬を冷まそうと両手をあてていると、アルがすいと視線をそらした。その視線を追えば、部屋の隅でメイドたちがなんだか輝いた瞳でこちらを見守っている。
……アルは格好いいから、メイドたちにも人気なのかしら?
◇
ある日、どこか神妙な顔でマギーは父が呼んでいると告げに来た。
「どうしたの? その顔。何かあったの?」
「いえ、きっと良いお話ですよ」
「良いお話にしては……いえ、お父様に聞くわ」
案内されて応接室に入れば、そこには父だけではなくアルがいた。いつものお仕着せとは違い、紺色の上衣を着ている。二人とも緊張した面持ちで、正装のアルも格好いい……なんて呑気に考えている場合ではなさそうだ。
重々しく――ゆっくりと父が口を開く。
「メアリ。彼に名前で呼んでほしいと言ったそうだな?」
なんでそれを知っているの?!
もしかして、この呼び出しは「貴族令嬢たるもの使用人とも節度のある関係を!」みたいなお叱りだろうか。そう考えて血の気が引くが、父は構わず言葉を続ける。
「それほど彼を好いているのなら仕方ない。彼との婚約を許そう」
傍にきたアルが私の手をとり跪く。真剣な表情に気圧される。そんな顔も凛々しくて素敵―――いや、だからそんな場合ではない!
今、父は何と言った?
「お嬢様、私と結婚して頂けますか」
「え?」
「―――えっ?」
数分、いや数秒だったかもしれない。部屋は静まり返ったままだった。
最初に動いたのは父だ。固まった私の様子に、どこか焦ったように肩を叩かれる。
「どうした? はは、驚きすぎてしまったのかな?」
「えっと、あの、けっこん……結婚? 私が……アルと?」
「ええ、お嬢様」
結婚。その意味を理解した瞬間、私はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。断られるとは思っていなかったのか、父とアルの顔が真っ青になる。
「メアリ、君は彼に想いを寄せていたのでは?」
「あのね、私はヒロインになりたいのではないの。どちらかというと壁になって、ひっそりあなたを眺めて愛でたいの!」
「壁?!」
壁が駄目なら天井でも空気でもいい。
私なんかがアルの隣に立てるわけないでしょー! アルは皆のアイドルなのだ。話ができるだけでも恐れ多いのだ。遠くから応援し、そして時には崇めたい対象。
「私はアルの幸せを願ってるわ!」
混乱して支離滅裂な捨て台詞を叫びながら、私は部屋から逃走した。
「お嬢様、お待ちください!」
逃げた先は私室だった。いつの間にか追いついてきたアルはするりと部屋に入り込み、ぎゅっと手を握られる。慌てて手を振りほどこうとしたが、逆に力が強まっただけだった。
アルに手を握られているという状況だけでも舞い上がってしまうから止めてほしい。
「お嬢様は……私ではなく、私に似た、アルフレッドという男を好いているのですか」
彼はこちらの顔色を窺うように、眉尻を下げて情けない顔をしている。そんな顔も好き……いやいや。
「お許しください。ずっと私を見つめてくれるお嬢様の様子を見て、自惚れていたのです」
ずっと見つめていたのがバレていた。確かに、ついガン見していた。
「謝らないで! むしろ、私がごめんなさい。ひっそりと見ているつもりだったのだけど……。あと別に、アルフレッドという人が好きなわけでもないの」
アルフレッドは二次元の人なので。悲しいかな恋愛対象にはならない。
そう言うと、彼の顔がぱっと明るくなる。
その笑顔に罪悪感が刺激された。もごもごと口ごもりながらも、なんとか言い訳を絞り出す。
「ただ、あなたを初めて見た時から素敵だと思っていて、笑顔も見たいなと思って……。仕事をしている時も格好いいけれど、ちょっと照れた顔も可愛いでしょ? アルが近くにいると嬉しいけど、嬉しすぎて冷静になれなくなるというか」
「メアリ様」
「ひえっ」
名前を呼ばれて飛び上がった。以前に名前を呼んでほしいとは言ったけれど、今呼ばれると破壊力が違う。
「それは、私に恋をしてくださっているのと違うのですか?」
「恋?」
「もし私に好意を持ってくださっているのであれば、あなたの気持ちを頂けませんか」
キャラを愛でる気持ちは恋とは違う。違うのだけど……本当に? たしかに“アルフレッド”はひっそり愛でたいキャラだけれど、“アラン”は近くにいると嬉しい。近くにいたい。
似ているけれど全く違う気持ちに気づいて、私は顔が熱くなった。鏡を見なくても赤くなっているのがわかる。
真っ赤になった私を見て彼の表情も優しくなる。使用人としての澄ました顔とも同僚と笑いあう時の顔も違う。アニメのアルフレッドだってこんな表情をしていたのは見たことがない。
初めて見たその蕩けそうなほど甘い表情に――――私は崩れるように座り込んだ。