脳内彼女との決別
「……まぁそういうことだから。今までありがとう」
俺がそう言うと、今まで俯いていた彼女が急に顔を上げた。その大きな瞳は涙で濡れていて、いつも俺だけに向けられていた笑顔はどこにもない。
「ヒロ君は私より……その子の方が良いの?」
「うん、マキちゃんの方が良い」
俺は一切の躊躇なく言いきる。
その瞬間、彼女の目からとめどなく涙が流れ出した。
「どうして! 私の何がダメだったの?あんな女より私の方がずっとヒロ君の事を理解してるのに! ヒロ君を愛してるのに! どうして!」
彼女はヒステリックに叫び、俺に詰め寄る。
「そりゃお前……」
俺は彼女の怒りに燃えている美しい顔を見てため息を吐いた。
「妄想の彼女じゃリアルな女に太刀打ちできるはずないんだよ。いくらお前が綺麗で俺の事を愛しててもさ」
彼女は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐにもとの般若のような表情に戻って俺を睨み付けた。
「リアルな女のどこが良いのよ! あいつらはワガママで自分の事しか考えてない最悪な生き物だって、ヒロ君言ってたじゃない!」
「それはあれだよ……酸っぱい葡萄だ。手に入らないものをいくら眺めていたって仕方がないだろ?」
苦笑いを顔中に広げながら言い訳がましくそう呟く。自分の事ながら、負け惜しみも良いとこだ。
でも、そんな生活ももう終わり。とうとうこんな俺にも彼女ができた!
友達も少ない上に、妄想の彼女とイチャイチャしているような気持ち悪い男だったが、これからはもう違う。髪型だって変えたし、性格も明るくなった。
過去の自分と決別するためにはあと一つ……妄想の彼女に別れを告げるだけだ。
「頼む、もう俺の前に現れないでくれ」
「どうしてよ!私はその辺の脳内彼女とは訳が違うんだよ? しっかりヒロ君の目に見えているし、ヒロ君に……ほら」
彼女は俺の手を握り、潤んだ眼で上目遣いに俺を見つめる。
「触ることだってできる」
俺は千切れかけた理性をなんとかつなぎ止め、彼女から眼を反らした。
落ち着け俺、この作戦を仕掛けられるのは何度めだ? もう大丈夫だろう、耐性もついたはず……
俺は必死で彼女の手を振り払い、気合いを入れるため、自らにビンタをかました。
「ちょっ……ヒロ君大丈夫?」
「とっ、とにかくダメだ!」
俺は声を張り上げ、彼女を威嚇するように歯を見せた。
「もう分かってるだろう? お前とは――」
「ヒロ君がリアルな彼女を欲しいなら……私は2番目でも良いよ?」
突然の彼女の言葉に、俺は2センチばかり飛び上がった。
「な、な……なに言ってるんだよ!そんなの無理だよ!」
「大丈夫、今だって上手く二重生活を送れているじゃない!」
彼女の明るい笑顔を見て、俺はげんなりした。
「今だってってお前、マキちゃんとのデートの時にいきなり現れて邪魔しだすじゃないか……」
「それは……」
彼女は恥ずかしそうに俯き、真っ赤な顔を手で覆い隠した。
「ヒロ君が他の女の子と楽しそうにしてるの見ると……つい……」
……さすが妄想の彼女。俺のツボをしっかり押さえている。
彼女を抱き締めたくなる衝動を必死になって押さえながら俺は口を開いた。
「お前は確かに可愛い。俺の求めていることを完璧にこなすし、俺の理想の彼女だ」
「ヒロ君……」
甘い囁き声が耳をくすぐる。
俺はできるだけ彼女の顔を見ないようにしながら続けた。
「でもな、いつまでもリアルな女から目をそらしてちゃダメなんだよ。このままじゃ俺は社会不適合者だ。結婚だって出来ないし、子供だって生めない。何より、虚しすぎる」
彼女は俺の「虚しすぎる」という言葉に、ビクリと体を震わせた
「虚しすぎる……?」
「そうだ。結局お前は存在していない。全部俺の妄想なんだから」
その時、不意に彼女の顔に影が差した。
今まで見たことのない彼女の表情に、俺は息を飲む。
「ヒロ君……私、ずっとヒロ君の頭のなかにいるでしょう? だからね、分かるの。ヒロ君が見てるこのベットも、この机も、全部脳で認識しているの。あなたが痛いと思うのだって、単なる電気的な刺激が脳に伝わって感覚が生じているだけ。ほら」
パチン
彼女が指を鳴らす。
「痛ッ……!?」
途端に鈍器で殴られたような酷い痛みが俺の頭を襲った。
「つまり、外界は関係ない。大切なのは脳内なの。意識してないでしょうけど、ヒロ君は私に脳内をコントロールする権限の多くを与えているのよ。今も私はヒロ君の視覚を操って姿を作ってるし、聴覚を操って声を届けてる」
「なんだよそれ……訳わかんねぇよ」
俺は頭を抱えこんで小さく首を振った。
彼女は俺の戸惑いなんか意に介さない様子で続ける。
「私はヒロ君の五感、記憶、感情……いいえ、ヒロ君そのものを操る事ができる。とはいっても、私はヒロ君と愛し合えるだけで幸せだから、そんなことはしなかった。でも、仕方ないよね……」
「仕方ないってなんだよ! や、やめろ」
「ごめんねヒロ君、すぐに終わるからね」
パチン
彼女が指をならす。
腕の感覚がなくなった。
「なんだよコレ……なにしたんだよ!」
ぐったりと垂れ下がった腕をなんとか動かそうとがむしゃらにもがくも、腕が動く気配はない。
「大丈夫、怖がらないで」
パチンパチンパチン――
彼女は何度も何度も指をならした。
そのたびに体の自由が奪われていく。
「止めろ! 何するんだ!」
「大丈夫、大丈夫だからね、ヒロ君……」
パチン
とうとう聴覚が奪われ、俺は何も分からなくなった。
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柔らかい草が俺の頬を撫でる。暖かい日の光が俺を優しく包み込んでいた。
「――ここは?」
「ヒロ君、起きちゃったの?」
上の方から聞きなれた声がする。
俺はもぞもぞと体を動かし、空を仰いだ。
「うふふ、ヒロ君ヨダレ出てるよ」
見ると、世界一可愛い俺の彼女が満面の笑みで俺の顔を覗き込んでいた。
「おっと……」
口元を手で拭いながら体を起こす。
なんだかすごく幸せだった。でも、何故なんだろう。小さな違和感が腹の底で胡座をかいている。
「どうしたのヒロ君、変な顔して?」
「いや……なんでもないよ。どうせ大したことじゃないし」
「そう。じゃあヒロ君、あっちへ行きましょうよ! あっちにすごく楽しいものがあるのよ」
「楽しいもの?」
「そう! うーんと……あっ、レストラン! そう、レストランよ。ヒロ君お腹すいたでしょう?」
彼女にそう指摘されると、なんだか急にお腹がすいてきた。俺は正直に頷き、彼女に差し出された手を取って立ち上がる。
俺たちは目を合わせて微笑み合うと、一斉に草原を走り出した。