【キーホルダー】
「ただいま」
あおいが玄関を入ると、母親がリビングから飛んで来た。
「遅かったじゃない。また、歩いて来たんでしょ」
「う、うん。どうしたの、そんなに慌てて」
母親は、自分だけやけに気持ちが高揚していた。
「あおい、ドナーが見つかったのよ」
母親は言った。
「ドナー?」
「角膜よ。角膜移植が出きるのよ」
母親は、もう居ても立ってもいられないと言う様子だった。
国内には角膜のドナーが少なく、移植の順番を待つ患者が多い。あおいが角膜移植の希望を申し出てから2年が過ぎていた。
「そう……なんだ」
あおいは、そう言って靴を脱いだ。
「なによ。気の無い返事ね。目が見えるようになるかもしれないのよ」
「かも。でしょ」
「そりゃあ、百パーセントと言うわけには……」
あおいの様子に、母親の声も幾分かトーンダウンしてしまった。
角膜の移植手術は、現代ではそう難しいものではなく成功率が九十パーセントにも及ぶ。それでも、必ず視力が回復するという保証は無いのだ。
「でも、見えるようになる確立が高いんだから」
廊下を歩き出すあおいに母親が言った。
「そりゃ、そうだけど…… 手術台に乗るのは、あたしなんだよ」
あおいは、そう言って、自分の部屋に入っていった。
確かにあおいも角膜移植を試みる気持ちはあった。しかし、いざ移植手術が決まったと言われた瞬間、その喜びよりも、言いようの無い不安が沸き起こったのだ。
目玉を切るのだ。いったいどんな風に切られるのか…… それで、もし何もならなかったら…… そう思うと、不安で仕方ないのだ。何もしなければ、何もならないのが当り前なのだから、諦めがつくというものだ。
『それは違うな』
その声に、あおいはハッとした。
「ソラ?」
あおいは思わずそう口にした。一度聞いた声は忘れない。確かに、あの時聞いた、静かによく通る優しい声。
あおいの家は二階建てだが、一階の庭に面した和室が彼女の部屋だ。絨毯を敷こうかと言う母に、あおいは畳のままがいいと言った。
畳の香りが、あおいは好きだった。
縁側伝いに廊下があって、障子の戸を開けて彼女の部屋へ入る。その障子の外、縁側の廊下に気配がした。
「ソラ? いるの?」
あおいは部屋の障子戸を開けた。
『そこで止まって』
ソラの声に、あおいはちょうど戸の敷居の所で止まった。
この前と同じ、野原の匂いがした。
「どうしてあたしの所に来るの?」
あおいはその場に座り込んで言った。
『さぁね。キミが気に入ったのかも』
「へんなの」
『僕は、変わり者なんだ』
ソラの言葉に、あおいは思わず笑い声を出した。
その時、廊下にコツンと何かを置く音がした。
『今日はこれを届けに来たんだ』
「何?」
『真っ直ぐ手を伸ばして』
あおいはソラに言われるまま、座った状態で手を前に伸ばした。
「これは……」
『この前、引っ手繰りからバッグを取り返したときに取れてしまったようだね』
あおいが手にしたモノ。それは、彼女の鞄に付いていた小さなトイプードルのキーホルダーだった。
あの事件の後、あおいはキーホルダーが無い事に気付いていたが、鞄が戻った事で諦めていた。
「ありがとう」
あおいはキーホルダーを握り締めて言った。そのキーホルダーは、父親がピアノ教室用の鞄と一緒に買ってくれたものだった。
『リングが開いてしまっているから、誰かに直してもらうといい』
ソラはそう言った後に『キミは、手術が怖いんだね』
あおいは応えなかった。
『でも、もし目が見えるようになれば、自分の目で色々なモノを見ることが出来るんだよ』
「でも、盲学校に通う友達が前に手術を受けたけど、ダメだったよ」
『だからって、あおいもダメとは限らないだろ』
「そうだけど……」
あおいは少し考えていたが
「ねぇ、目が見えるようになったら、ソラの顔も見れる?」
『さぁ、それはどうかな』
あおいは少し残念そうな表情をして
「あれ? あたし、あなたに名前を教えたっけ?」
『僕には何でもわかるのさ』
ソラは、フフッと笑って、縁側からいなくなった。
「あおい? 誰と話してたの?」
畳んだ洗濯物を抱えた母親がやって来て、尋ねながらふと目を止めると
「あら、ここ開いてたかしら」
そう言って、庭に面した廊下のガラス戸を閉めた。
「ねぇ、お父さん。これ直せる?」
その晩、あおいは仕事から帰宅した父親にキーホルダーを見せた。
「どうしたんだ」
父親は、あおいから手渡されたキーホルダーをじっと眺めて言った。
「どこかに引っ掛けたみたい。鞄から取れちゃったの」
あおいは、この前引っ手繰りに遭った事を両親に話していない。心配をかけるのもいやだったし、危ないからと言って、一人で外出できなくなるかもしれないと思ったからだ。
もちろん、ソラの事も誰にも話してはいなかった。
「そ、そうか。大丈夫。直るよ」
父親はそう言って笑うと、玄関から工具箱を持って来てペンチを取り出し、ほんの少し開いてしまったキーリングを元に戻した。
「あおい、鞄を持っておいで。付けてあげるよ」
「もう出来たの?」
「ああ。父さん器用だからな」
父親は、少し得意げに笑うと、小さな歯形のついたキーホルダーをあおいの鞄に取り付けた。




