【出逢い・2】
「どろぼう! 誰か、すみません、誰かいませんか」
そこは、バス停から少し歩いた所を住宅街の路地へ向かって入った場所で、寂れた公園と何処かの会社の寮に挟まれて人通りは無かった。
彼女が、駅前通りで腕を捕まれた時に強く拒絶していれば、行き交う誰かに助けてもらえたかも知れない。しかし、親切心を持って近づいてくる人を、強く拒絶するのは、ある意味勇気がいるのだ。
「すみません、誰かいませんか」
彼女は転んだ拍子に、自分の位置関係が全く判らなくなり、どっちに向かえば駅に戻るのか方向を見失ってしまった。
それどころか、手から落としたステッキを犯人が蹴飛ばして行ったので、周囲を確かめる術もない。
あおいは両手を前に突き出して、這うように辺りを覗った。
これは、目の見える人が、突然暗闇に呑み込まれる状況に似ている。
確かに、あおいは普段から暗闇の世界で暮らしているが、ステッキを振ることで周囲の状況を確認し、自分の立っている姿勢から進む方向を割り出し、自分の中で地図を作り出す。
しかし、自分が何処にいて、どの方角を向いているか判らない今、彼女は本当の意味で盲目だった。
「そうだ、音。駅前からそんなに離れていないはず。駅の音を……」
あおいは落ち着きを取り戻して耳を澄ました。
後ろだ。後ろから車の走る音、そして微かな電車のブレーキの音。
駅は後ろだ。
彼女はゆっくりと、四つん這いのまま身体の向きを変えた。
『あと少し、三十度くらい左を向いて』
誰かの声が聞こえた。いや、聞こえた気がしたのか。
「誰?」
さっきの男の声ではない。心地よく通る優しい声。
誰かが静かに近づく気配と共に、近くでコツンと音がした。何かを地面に置いた音。
『右手を少し伸ばして。ステッキを置いたよ』
あおいは、再び聞こえた声に従い右手をゆっくりと差し出すと、握りなれたモノがそこにはあった。
「あ、ありがとう」
あおいはそのままゆっくりと立ち上がろうとした。
『まって。バッグを取り返して来たよ。左手を伸ばして』
彼女は言われるまま、その声に従って今度は左手をそっと伸ばした。すると、彼の言葉通りバッグがある。
あおいはバッグを大事に抱えると、中に入れていた物を確認した。
『大丈夫。まだ手をつけていないはずだよ』
彼の言った通り、あおいは指先で自分の財布やピアノのレッスンに使う楽譜を確認できた。
彼女はそっと立ち上がって
「有難う御座います。あの……」
あおいは戸惑った。
気配が……
目が不自由な者は得てして他の感覚が敏感になる。気配を感じる事もその一つだ。
目の前に感じる気配。立ち上がったあおいは、それがやたらと低い位置から感じる事に気が付いた。
彼女だって背が大きい方ではないのに、その気配はあおいの腰くらいしかないのだ。そして、太陽の陽をいっぱいに浴びた野原のような匂いがした。
……子供?
いや、小さな子供の声ではなかった。
「あの……どなたか存じませんが、有難う御座います」
あおいはとりあえず、もう一度お礼を言って
「あの…… お名前は……」
少しの沈黙があった。
『僕の名前はソラ』
「ソラ…… さん?」
『もう行って』
あおいはその声に後押しされるように、ゆっくりと歩き出した。
『そう、そのまま真っ直ぐ行けば直ぐに大通りだよ。気を付けて』
その声の後に、気配が左から後ろへ動いて行った。
タタタッと言う小さくて小気味良い足音が聞こえた。