【エピローグ】
あおいの目の手術が終わってから二週間が経っていた。三日前に梅雨入り宣言が出されたと言うのに、晴れ渡る空には眩しい太陽が輝いていた。
看護士が、あおいの病室の白いカーテンを閉じて、刺激的な光を遮った。
「それじゃあ、ゆっくりと目を開けて」
あおいの顔から包帯を取り去った医師は優しい声で言った。
あおいは怖かった。
この瞑った目を開けても尚、相変わらず何時もの暗闇が広がっているのではないかと。そんな恐怖に包まれた。
開けようとする瞼に自然と力が入って、上と下の瞼が別れを惜しんでいる。
「あおい。大丈夫よ」
隣にいる母親が、優しく言った。
「うん……」
わかってる。大丈夫。もしダメでも、今まで通りの事じゃない。今までだって、ずっと暗闇で生きてきたじゃない。
あおいは自分にそう言い聞かせて、ゆっくりと目を開けた。
真っ白だった。
視界の全てが白い輝きに満たされていて、あおいはその刺さるような刺激に思わず目を細めた。
白い世界に何かが浮かんだ。
黒い影が次第に輪郭を整えていった。
それは、あおいの顔を覗き込む母親の顔だった。
そうか、真っ白だったのは、眩しかったんだ。あれが、眩しさだったんだ。
あおいは細めた瞳で、次第に浮び上る色とりどり、と言っても病室内は白色が多いが、それでも今まで真っ暗な世界で暮らしていた彼女にとっては、最高にカラフルな世界が広がっていた。
「どう? あおい」
真正面で、母親が不安げな笑みを浮かべていた。
「お母さん…… ずいぶん老けたね」
翌日、あおいが外へ出たいと言うと、医師からサングラスを渡されて了解を受けた。まだ、太陽の光を直接その目に浴びる事は出来ないのだ。
母親が付き添って、彼女は病院から外へ出た。
「目が見えるって、歩くのが楽チンでいいね」
あおいは母に笑って見せた。
スイスイと歩く娘の姿を見た母親の方が、涙で景色が朧になっていて、歩き難かったほどだ。
自然光の陽の下は、サングラス越しでも眩しい明かりに満ちていた。あおいは、花壇に咲いている色とりどりの花を、心行くまでじっくりと眺めるのだった。
もちろん、サングラスを掛けた今のあおいには、肉眼の鮮やかさまでは感じない。それでも建物の隅に咲いているタンポポさえ、彼女には鮮やかに見える。
早くサングラスを外したい。そう思いながら、何度もサングラスのフレームに手を伸ばしては、高揚する気持ちを抑えるのだった。
中庭を通って表までゆっくりと歩いて来た時、病院の敷地の入り口に、一頭の大きな動物が四本足で佇んでいるのを、あおいは見つけた。
精悍な顔付きで、じっと澄ましてこちらを見つめているそれは、初夏の熱い陽光に照らされて背中が薄っすらと銀色に輝き、右眼はヒスイのように青く左眼はエメラルドのような瑠璃色に輝いていた。
それはありふれた雑踏には決して呑みこまれる事の無い、孤高の姿。
「あら、大きな犬。何処の犬かしら」
母親も、それを目に止めて言った。
「あれ犬?」
あおいが、訊き返すと母親は
「そうよ。たぶん、シベリアン・ハスキーね。きれいな眼だわ」
あおいは、犬と言えば小さい頃に近所の柴犬を霞んだ視界の中で一度見たきりだった。
「アレが犬……シベリアン・ハスキー……」
いいえ、アレはソラだわ。
あおいは言葉には出さなかった。
「ありがとう、ソラ」
大きな犬は、あおいを覗いながらゆっくりと向きを変えると、光に満ちた景色の中に軽やかに、そして静かに消えて行った。
END
最後までお付き合いいただき有難う御座いました。
ソラの過去を描いた、『ソラ』の旅〜青雲編〜が新たにスタートします。再び、読んでいただけたら幸いです。