【出逢い・1】
これは児童文庫を意識して書いた作品の為、ストーリーはきわめてかんたん明快です。ただ、楽しんでいただければ幸いです。
目の前に広がるのは果てしない暗闇。
そこには一欠けらの光もなく、何かの影もない。歩いても走っても、陽の光の下に立とうとも、その闇から逃れる事はできない。
何処までも続くあまりにも澄み切った暗闇。そこが、彼女の生きる世界なのだ。
西條あおいは、白いステッキを左右に振りながら歩いていた。
別に彼女は楽しんでそのステッキを振っているわけではない。それが、彼女の目なのだ。
自分の足元より前方に出して左右に振るそのステッキに何かがぶつかれば、そこには何か障害物が在ると言う事だ。だから、ちょうど自分の身体の幅にステッキを振る。そうやって、不意に躓く危険を防ぐのだ。
そう、彼女は目が見えない。
先天性の病気、つまり、生まれた時から彼女は目に障害を持っていた。
あおいは三歳までは僅かに目が見えていた。ただ、角膜の異常によってかなり重度の弱視で、彼女の目に映る全ての景色は朧に、絵の具を滲ませたようにぼやけていた。それは、両親の顔も同じだった。
三歳を過ぎた頃、微かに見えていた視力も次第に衰えて、五歳になる頃には完全に光を失ってしまった。
それでもあおいは持前の明るさで、全てを乗り切ってきた。
彼女はまだ十四歳だが、通常の健康な人の数十倍の苦悩を経験してきた。
小学校に入学したあおいは、最初は特別学級に入れられた。近くに盲学校も無く、地元の小学校が受け入れてはくれたものの、通常の児童と一緒には授業が受けられないと判断された為だ。
確かにノートを取る事はできないが、その分彼女の記憶力は優れていた。
小学校に通いながら、あおいは点字の勉強をした。3年生になる頃には、点字の教科書なら普通に読めるようになり、彼女の学力を認識した教師の働きかけによって、あおいは普通学級で勉強ができるようになった。
確かに体育の授業は出来ないし、運動会も学芸会も参加する事は出来ない。父兄の間では、彼女が健常者と一緒に勉強するのは酷なのではないかと言う声さえあった。
しかし、あおいは、自分をそんな風には思っていない。
ただ、目が見えないだけ。それだけだ。
それ以外の身体的機能は普通の人と変わり無いから、出来るだけ自分の事は自分でやる。どうしても、出来ない時、誰かに手を借りる。
何時頃からそう思えるようになったのかは、あおい自身忘れてしまったが、それが彼女の考えだった。
空は限りなく青く突き抜けて広がり、白い雲がゆっくりと目には見えない速さで動いていた。太陽は光の輪を発して、暖かな陽射しが注いでいる。
あおいは、太陽の匂いを感じながら、降り注ぐ光を体感していた。
青い空も、白い雲も見えないけれど、それだけで今日の清々しい天気を感じる事が出来た。
彼女はバスに揺られて、駅裏にあるピアノ教室に週二回通っている。小さな教室だが、盲人用のレッスンを行っているのは近くではそこだけなのだ。
ステッキを軽く降って、周囲にそれが当たる感触から進む方向を定めていく。
バスの降車口のステップを慎重に踏んでから地面に足を着く。
もう、何度もやっている事だから、彼女にとっては何でも無い事だ。
しかし、もし普通に目の見える人が、いきなり目を瞑って同じ事に挑んだとしても、おそらくバスの降車口に辿り着く事さえ出来ないだろう。
「手をお貸ししましょうか」
バス停から少し歩いた所で、男の人の声が彼女の右後方から聞こえた。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
あおいは丁重に断って、歩きなれた道を前に進んだ。
その直後、いきなり右腕を捕まれてギクリとした。
「いいから、いいから。連れて行ってあげますよ」
さっきの男だった。
「いえ、大丈夫です。すみません、手を離してください」
あおいはそう言って、捕まれた腕に力を込めた。
「大丈夫ですよ。さぁ、こちらへ」
男はゆっくりと右側へ、彼女を導いた。盲目の彼女には気付かれないと思ったのだろうか。 しかしそれが、進もうとしている方角でない事は、彼女には直ぐに判った。
「すいません。何処に?あたしは真っ直ぐ行きたいんです」
「大丈夫ですよ」
男はそればっかりだ。
そんなに年のいった声では無い。高校生?いやもう少し上だろうか。
彼女はそんな事を考えながら、自分の身体が先ほどから九十度は転回した事を悟った。駅前通りを走る車の音が次第に遠ざかっていく。
「ちょっと、離してください」
あおいは身の危険を感じて、力強く男の手を振り払った。
その瞬間、あおいの持っていたバックが強く引っ張られて、反対に身体は強く押された。
「きゃあ」
彼女は地面に勢いよく転がってしまった。
「ちょっと……」
バックを持っていかれた……