プロローグ
「魔王?」
煙たい部屋、吸い殻の山、食べ残しの皿、見るからに汚いテーブルだ。俺は腕を組み、さらには足をも組んで、その言葉を繰り返した。
「魔王?」
「だからそうだって、メイフェン」
俺の名前を堂々と呼ぶこいつは、まさに俺にこんな態度を取らせた張本人だ。
こいつの名前はアルダ、店主が入念に拭いた机上をこんなに汚しやがったクソ女だ。
アルダは俺と同じ姿勢をとった。両手を組み、やがて足元を見ては同じように組み始める。
「君になら三千ゴールドの報酬で受けさせてやれる。破格の額だと思った方がいい。じゃなければ、君の傭兵経験もそれまでの出来事だったってことだよ」
「ふざけんな、いつから俺はお前の所有物になった」
周りの視線が集まる。両手を机に叩きつけ、牙を剥き出しにする。それでもこいつは怯えなかったが。
ハッキリいって、俺がアルダに逆らっていい自信はない。こいつの苗字はワーンドーラ。一族は代々、偉大なワーンドーラシンジケートを引き継いできた。
つまり俺は、そこの雇われ兵ってワケだ。
「君には苗字すらない。それに、自分が臆病であることも十分自覚しているはずだ。そうじゃないのかい」
アルダは眉一つ動かさなかった。確かに、俺のような身分の低い者に苗字などない。名前は名誉であって、全ての者に与えられた権利ではないからだ。
気付けば俺は、席に戻っていた──そして、こいつの笑顔に頷いてしまった。
「魔王ってそもそも誰も勝てないはずだ」
「そうとも言えるし、そうでないとも言えるよ」
「どういうことなんだ」
アルダは頬杖をして、こちらを見つめる。
「魔王は勇者一族の仇。長年、勇者の血筋はこの問題について多くの悲劇と謎に見舞われてきた」
「そんなことは知ってる。重要なのは」
「君さ」
アルダは口を挟んで答えた。
それに俺は口を開けてだんまりとしてしまった。一体、こいつは何を言っているんだ。
「俺?」
「そうだよ、君」
沈黙の後、俺は前のめりになる。
「俺に何ができる?ただの雇われ兵だ。戦争経験すら無いんだぞ」
「それはそうとして、もっと重要なことがあるんだ」
アルダは俺の耳元に吐息が触れそうな距離で囁く。
「勇者は愚か者なんだよ」
アルダの顔を見つめた。まるで、悪魔のようじゃないか。こんな表情は初めてだ。俺は思わずアルダから離れる。
「なんだって?正気なのか」
何かを企んでいて、不審と欺瞞に満ちている。これは危ないサインだ。
「アルダ、俺は悪いが却下する」
「何故だ、メイフェン。まだ話の途中だぞ」
「面倒事が嫌いなんだ」
再び席を立とうとすると、アルダは呆れた顔をして小袋を取り出し、机の上に置いて見せた。
小袋というには、あまりにもどっさりし過ぎている具合だが、これはやられてしまったな。
「まだ話を聞くならこれをやろう」
「な、なんだよそれ、騙されないぞ」
「君を騙すつもりなんて少しもないね」
アルダは淡々と答える。俺は自分のヒゲを触り、整った触り心地を覚えて安心する。
色々と不思議は残るが、アルダは言葉を続けた。
「勇者の血筋はラズドラ家の一族だ。最近は長男が暗殺されたと、こんな情報が舞踏会で流れてきてね」
「つまりお前は勇者に不信感を持っているのか」
「そうさ、勇者は伝統というくだらないルールに沿って魔王を倒しに行かなければならない。ただ私は、その意義を塗り替えたいだけなのさ」
こいつの言ってることは概ね正しい。ただそんなことより、数ある選択肢から俺を選んだ理由が謎過ぎる。
「じゃあ尚更なんで俺なんだ。実戦経験がある傭兵なんて他にいくらでもいるだろ?」
「もちろん、いくつか派遣はしたさ。ただし、彼らがどうなったかは重要じゃない。次のチャンスが君に回ってきたんだ。当然、断ることはできないだろう」
俺は手元を見ようとしたが、何もなかった。アルダは最初から、俺にこの話が通ることを分かっていた。
「もう一度聞くよ、傭兵メイフェン。君は魔王討伐計画に賛同するか、しないか、どっちなんだい」
アルダの問いに、声が吃ってしまう。
「分かったよ」
顔は俯き、背は曲がっている。それでも俺は、最後に顔を上げて言った。
「魔王をやっつけてくる」




