小さな訪問者 その1
リリアとエニグマ。
これまでこの二人しか言葉を発さなかった図書館の中に、新しく響いた第三の声。
臆せず堂々と玄関ホールに足を踏み入れたその人物は、扉の閉まる音にふんっと荒い鼻息をつくと短い階段を登り、チョコレート色のくりくりした瞳をカウンター前にいる、リリアとエニグマに向けてきた。
「……あら? 先客がいらしたのですね。それなのにあたくしったら。お騒がせして申し訳ございません」
「あ、いえ」
立ち止まり、急にしおらしく下げられた頭に、軽く手を上げて答えたのはリリア。
セレストブルーの瞳を瞬かせた彼女は、薄青を基調としたフリル満載のドレスを纏い、同色のレース仕立ての日傘を差す相手の姿をまじまじと眺めた。
ブラウンの垂れ耳にハニーイエローの長い髪。
地肌は髪と同じ色の毛に覆われているが、短く刈り込まれているため、少しばかり色が薄く見える。
リリアより長めの鼻先ではあるものの、一番近いと思われる犬の顔にしては中途半端に短かい。
声の質は幼い少女のソプラノで、観葉植物を横にした身長も彼女の齢を7~8歳くらいだと告げていた。
あくまでそれは、リリアの感覚を基準とした話だが。
兎にも角にも、頭を下げた少女は差していた日傘を折り畳むと、爬虫類の皮膚を持つエニグマより判りやすい微笑みを象る。
「お初にお目にかかりますわ。あたくし、プリマ・エナ・ルディアータ・レ・デ・ソルシエーテ・スフェラムリアドル=コォーライム・デュフォ・レマーニャルフレミアデルテと申します。以後、お見知りおきを」
そうしてスカートを広げた少女は、上品な仕草で礼の形を取った。
彼女の名前を追うだけで一杯一杯になっていたリリアは、この礼に対して慌てて頭を垂れる。
「わ、わたしの名は――」
「りりあだ」
名乗ろうとした声に被さる、エニグマの声。
自分の名前が魔道書の真の名に直結する事を思い出したリリアは、己の軽率な行動にはっとして口を押さえた。
エニグマにはそれなりの覚悟を決めて教えた名は、手にした者のどんな願いでも叶える魔道書の力を、リリア自身が名を教えた相手に貸してしまう事になるのだ。
新しい世界を創造する事も破壊する事も出来る魔道書の力は、おいそれと他者に与えて良いものではない。
けれども少女はその様子も含め、名乗りに被さったエニグマの声さえ気にせず、リリアへと首を傾げた。
「リリア様、ですか? 名字は」
「あ、その、わたしに名字はありませんので」
「そう、でしたか。これはまた、不躾に申し訳ございません」
「いえ、そんな」
どこまでも礼儀正しく接しようとする少女の姿勢に、名字があるのは貴族だけという認識の下、リリアが更に恐縮して首と手をぶんぶん振ったなら、そんな彼女の隣にいたエニグマがふっと小さく息を吐き出した。
「りりあ、わんこも受け取ったデス。さっさと行くデス」
「え?」
振り返り見上げれば、エニグマの指に絡みつく、光る綿毛の茎部分。
そういえば、と先程から自分の指にも何かが絡みついている感触を追いそちらを見やったリリアは、握手をした影の代わりに在る綿毛を認めて目を見開いた。
「影が、わんこ?」
「少し違うがそうデス。影はベルを鳴らした相手の情報、わんこはその情報を元に作られる道案内デス。図書館は広いから、回る時にはわんこが必要になる。まあ、りりあはその内、わんこがなくとも平気になるだろうが……兎も角、わんこを入手したなら、ここに用はないデス。とっとと行くデス」
「わわっ、エニグマ?」
リリアの肩に両手を置いた背後のエニグマが、ぎゅうぎゅう前に押してくる。
逆らうつもりはないものの、長ったらしい名前の少女を無視する様子に戸惑う足が、鈍い動きを示していた。
けれどもエニグマの力には敵わず、少女を横に後ろにと移動した矢先。
「お待ちなさい。あたくしを無視するとは何事ですの、エニグマ」
「え、お知り合い?」
少女から名前を呼ばれたエニグマ。
振り返ろうとするリリアを手に若干力を込めて留めた彼は、後方の死角で、小馬鹿にした声を少女に向けた。
「人違いデス。えにぐまはお前さんみたいなちんちくりん知らないデス」
「ちんちくりん……」
「ん、まあっ!」
少女の憤慨する声が聞こえたなら、更にエニグマは楽しそうに続けた。
「お前さんが自分のドレスに足を引っ掛けてよく転ぶ事も知らないし、お茶の時間に落とした砂糖を眼で追ってバランスを崩しテーブルを引っ繰り返した事も知らない。エントランスの階段を登ろうとして一段踏み外した拍子に無理して履いた靴のヒールが折れた事も知らないな。あと、社交界デビューの日に何度も相手の足を踏んづけて病院送りにした事も知らない」
「それだけ知っていれば充分ですわっ!」
「やれやれ。だからえにぐまは知らないと言っているのに。お前さんは相変わらずそそっかしいな、プリマ」
「~~~~!!」
完全にエニグマのペースに乗せられた少女が、声にならない声を上げる。
これを涼しい顔で受け流しているだろうエニグマは、そんな彼女の反応に満足したのか、再びリリアの肩を押し始めた。
「エニグマ……もしかして今のはからかわれて?」
「フフフ。プリマの相手はいつも愉快デス。りりあもあれくらい怒れば張り合いがあるデス」
「……無理ですね」
ちらりと肩越しに振り返ったなら、エニグマを睨みつけつつ、悔しいとハンカチを噛む姿がある。
あそこまで如実に自分の感情を表せる自信のないリリアは視線を前に戻すと、本棚へ戻る視界に今一度、玄関ホールへ目を向けた。
(何処にでも繋がる場所。でもやはり、わたしの戻る世界は此処だけ、ですね)
誰に言われるでもなくそう感じたリリアは、出口を見た事で微かに現れた未練を断ち切るように、薄暗く続く本棚の通路を真っ直ぐ見つめた。
エニグマに押されるまま、一つ増えた事で更に明るくなった綿毛の光を左右に、本棚の通路を歩き続けるリリア。
今度は何処へ行くのだろうと背後を見上げれば、リリアに合わせて低い位置でふよふよ移動するわんこにより、いい感じに陰影のついた爬虫類の鼻先と遭遇。
正体は分かっていてもおどろおどろしく見える異形に、ゆっくり顔を戻してから、前方に向けて問いを発した。
「エニグマ、次は何処に?」
「本棚以外のところデス。此処にはリリアが目覚めたところや玄関ホール以外にも、光の差す部屋があるデス。その辺をざっと回るデス」
「そう、ですか。……ところでエニグマ?」
「にゃ?」
「先程から気になっているのですが、何故、何度も曲がるのでしょう? 方向が同じなら、真っ直ぐ歩いた方が楽ではありませんか?」
右に曲がったかと思えば左に曲がり、かと思えば左に曲がって右に曲がるを繰り返す。
来た道を戻る事はないが、コの字を描く動きには無駄しかない。
そんなリリアに対し、背後のエニグマが小さく息をついた。
「ひたすら真っ直ぐは迷子コースデス」
「迷子コース?」
「そうデス。……この図書館の蔵書は、ありとあらゆる世界で生まれた本デス。正確には、その本の内容だけを写し取った複製。だから皆、厚さの違いはあっても同じ種類なら、ほぼ同じ装訂をしている」
エニグマの右手が顔の横を通って本棚を示す。
これを目で追ったリリアは、どこまで行っても均一に並ぶ背表紙を認め、彼の言が正しいと知った。
(最初に来た時も、似たような背表紙ばかりと思っていましたが、そういう事だったのですね)
納得を伝えるように首肯したなら、右手を再びリリアの肩に戻したエニグマが先を続けた。
「一口に複製と言っても、ただ単に文章を写し取っただけではないデス。たとえばその本に魔力が込められていた場合、その魔力ごとそっくり複製してあるデス」
「それって……大丈夫なのですか?」
「勿論、そのままでは駄目デス。良からぬ輩が使う可能性もある。その本が生まれた世界でその本が災いを起こすなら兎も角、複製とはいえ別の世界で生まれた本が、原作が生まれた世界であっても別の世界に災いを起こすのは良くないデス」
「では、その本なら災いを起こしても良いと?」
「良い、という訳ではないデス。でもそれは、その世界の者が何とかするべき事柄であって、この図書館が負って良い事象ではない、という話デス。ちなみに本の行使が直接災いに繋がらなければ、此処の本はどれでも貸し出しできるデス」
「たとえば?」
「ある世界にとっても悪い奴がいたとする。でもソイツは病気で長くない。部下がその病気を治す本を探しに此処へ来る。結果、元気になった悪い奴がその世界を滅ぼす。これは可デス」
「……本当に、直接じゃなければ何でも良いのですね」
「そうデス。言うなれば地産地消デス」
「嫌なたとえ方しないで下さい」
「りりあがたとえろと言ったのに、りりあは我が侭デス」
「…………」
言われてみればそうかもしれない。
反省の意味も兼ねて口を閉ざしたなら、その沈黙をどう思ったのか、エニグマの手が固くもないリリアの肩を突然揉み出した。
「……ふっ。え、エニグマ、くすぐったいです」
「ふむ」
身を捩ると止まった手に続き、些かほっとしたような吐息が纏め上げた髪を掠めた。
これがどういう意味なのか思い当たったリリアは、肩を掴んだままの手にそっと己の手を置いた。
「別に怒ってはいませんよ」
「……怒るのは構わないデス。でもだんまりは嫌いデス。りりあは判ってないデス」
「そうですか。今度から気をつけますね」
「にゃあ」
頭に軽く乗せられる、長い鼻面の顎の感触。
決して重くはならないそれに小さく笑ったリリアは肩から手を降ろすと、話の最中にも進む前方を見やった。
「それで? その話が迷子コースとどう繋がるのですか?」
「にゃ。なのでそういう本を使わせないためにいるのが、影デス。影は相手の情報デス。その望みが有害と判断されれば、影と握手してもわんこは現れない仕組みになっているデス」
「……ああ、なるほど。それで迷子コース、ですか」
話の途中で理解したリリアに対し、その頭から顎を除けたエニグマは、それでも先を続けて言った。
「そうデス。わんこが使えない者で諦められない者は、自力で本を探しに行こうとするデス。そしてその大半がまず真っ直ぐを目指す。だから図書館はそういう連中を迷子にするデス。ちなみに今と同じ動きでカクカク曲がっても、正しい道順じゃないとやっぱり迷子になる。この動きはショートカットも兼ねているからな」
「ショートカット?」
リリアが首を傾げれば、ぴたりと足を止めたエニグマ。
どうしたのだろうと眉根を寄せたなら、横からにゅっと長い鼻面が現れた。
「りりあ、そこの本の背表紙を見てみるデス」
くいっと顎が指し示したのは、本棚の側面を歩いていたリリアの右斜め前方にある本棚。
曲がらなければ取れないそれに目を凝らしたリリアは、ふと思い立って横にあるエニグマの顔を見つめた。
「本の背表紙って、どれを?」
「どれでもいいデス。ただ、何段目の何冊目か、場所をしっかり憶えとくデス」
「はあ」
言われるがままリリアが記憶したのは、目線の高さにある六段目の、仕切り板から五冊目の本。
リリアの知らない言葉で書かれた背表紙だったが、魔道書のお陰か読む事は出来た。
その名も”法の限界と可能性”。
何とも堅苦しい題名である。
もし、この図書館にある本を全て読み終えたとして、リリアが手に取る事はまずないだろう。
彼女が脇目も振らずに勉強していたのは必要だったからであって、こういう本を読みたかった、この本が示唆するであろう職に就きたかった訳ではないのだ。
「憶えたか?」
「ええ」
とはいえ、憶えるのにこれほど適した本はあるまい。
エニグマの問い掛けにリリアが頷けば、顔を引いた彼は、歩みを再開させるべく肩を押し始める。
これに倣い、同じように歩き始めたなら、角を曲がってすぐ、立ち止まったエニグマの顔がまた横にやってきた。
「ではりりあ、もう一回見てみるデス」
「はあ――――ぶっ!?」
気のない返事で記憶の中にある本の位置をもう一度眺めたりリア。
けれども盛大に噴出しては、みるみる内に顔を真っ赤に染め上げていく。
「な、なななななあっ!?」
思わず指を差して段数と並びを確認しては、場所に間違いはないと知り、余計に混乱してしまった。
そんなリリアの様子に、指された場所を見たエニグマが問題の背表紙を読み上げていく。
「じつろく・ひるさがりのじょーじ、あるひとづまの――」
「エニグマっ! こんなの読み上げてはいけません!」
大急ぎでエニグマの大きな口を両手で閉じさせたリリアは、そのままの状態で数歩進むと、離した手を両頬に当てて項垂れる。
「ど、どうして題名が変わって? しかもよりにもよってあんなのに」
「りりあ、りりあ」
「……はい?」
げっそりした顔で未だ横にある鼻面の先、紋様の描かれた目隠しを見つめたなら、何やら楽しそうな様子でエニグマが問うてきた。
「じょーじって何だ?」
「うぅ……知りません。答えたくありませんっ」
「じゃあ、そこの題名は?」
「そこ?…………………………げぇ」
ついと指差されてそちらを見やったリリアは、並ぶ題名に目を走らせて低く呻いた。
顔色が悪くなるような声を上げつつも、肝心の頬は紅潮するばかり。
対し、益々上機嫌になったエニグマは、舌なめずりをするように別の質問を仕掛けてくる。
「りりあ、りりあ。大人と子どものおもちゃの違いって何だ?」
「エニグマ……知ってて言っているでしょう?」
赤い顔のままじとりと睨みつけると、エニグマは悪びれもせずに口の端を上げて笑った。
「男女の違いが判らずとも、えにぐまは大人だからな。その点、りりあは女としての身体を持っているがまだまだだ。照れが入るからには知識はあるようだが、こういうのを青い果じ――」
「それ以上言うなら、エニグマとはもう口を聞きません!」
「にゃ!? それは困る!」
愉悦混じりだったエニグマが、一転して困惑を映す。
更にリリアがぷいっと顔を背けたなら、異形の男は焦りを見せ始めた。
「り、りりあ、りりあ? えにぐまはからかっただけで」
「そういうからかいは犯罪です。後ろから刺されても文句は言えませんよ?」
「後ろから刺されてもえにぐまは平気だ。でも、りりあがそこまで嫌がるならもうしない」
「……約束出来ますか?」
「約束する、約束するデス」
顔の横で何度も首を縦に振るエニグマ。
ここまで必死にされると、段々こちらが悪い事をしているように思えて来るから不思議だ。
からかわれていたのはわたし、そう自分に言い聞かせつつも、結局申し訳ない気分が抜けなかったリリアは、宥めるようにエニグマの手に触れた。
「では、この話はここまで」
「許してくれるのか? もう怒っていないか?」
「ええ。……でもとりあえず、ここからは移動したいですね」
「判った。移動するデス」
あからさまな安堵の息をついたエニグマは、リリアの訴えを簡単に受け入れると、彼女の肩を押して前に進んでいく。
自分の何がここまでエニグマの感情を左右しているのか、さっぱり判らないリリアは、それでも遠退くいかがわしい背表紙にほっとする。
双方、しばらく本棚の通路を黙々歩いて行けば、ふと思い出したようにリリアが尋ねた。
「あの、エニグマ?」
「にゃ?」
「それでその……先程の背表紙はつまり、ショートカットした、という事なのでしょうか?」
変化後の背表紙の内容が内容なだけに、すっかり失念していたものの、リリアの意識をそこへ向けさせたのは、前後の話を思い出すにショートカットについてだったはず。
これを受け、リリアの背後で頷いた気配のエニグマは、黒い爪先を本棚と通路の境へ向けた。
「薄暗い照明と同じ配置の本棚は、ショートカットできる場所を特定させないためデス。余程目が良くなければ、この空間の歪みは判らない仕組みデス」
「ということは、よく視えるエニグマには判るのですか?」
リリアの体感にして気を失う少し前、実際の経過時間にして遥か昔に落とした眼鏡。
その結果生じた勘違いに際し、自身の目元を覆う布についてエニグマは、よく視えてしまうから覆っているのだと言っていた。
目隠しをしても見えるらしい視え方とはどういうものなのか、さっぱり理解出来ないリリアだが、こういう事ではないだろうかと指摘すれば、エニグマは思いのほかあっさり肯定した。
「判るデス。でも、ショートカットの位置は時々変わるので、判ってもわんこがいないと目的地はさっぱりデス」
「位置が変わる?」
「そうデス。ショートカットには出現条件があるデス。何処其処を手順通り通らなければいけない、という。そしてえにぐまのように視える者もいるため、その手順は定期的に変わっているデス」
「なるほど。万全の態勢ですね」
「……まあ、それでもその手の本を持っていってしまう者はいるがな」
「…………」
感心した途端にぼそりと付け加えられた言葉。
何も言えなくなってしまったリリアは、エニグマの嫌う沈黙を保つが、それを気にする前に彼の指は次に曲がる方向を指差した。
リリアの目がそちらを追えば、見える景色は暗がりではなく、白い光が滲む通路。
痛めるほどの強さはなくとも、眩む経験から自然とリリアの目が細められたなら、その横でエニグマが小さく囁く。
「数ある読書スペースの内の一つデス。見た通り――」
柔らかな光に怯えなくても良いと知った瞳が通路の先を映せば、そこにはサロン風の読書スペース同様大判の絵本が収納された本棚があり、
「小さな子ども用デス。まあ、この図書館の利用者には、あまりいない年齢層ではあるが」
エニグマの言う通り、大きな室内にはいかにも子どもが喜びそうな、カラフルな遊具が設けられていた。