葬送の花、めざめのうた その2
食べた林檎の芯を振ってみせれば、男は「芯は食べないのか」と訊いてきた。
「固くて食べられません」と答えると、「それなら某が食べられる事もないな」とようやくリリアが彼をぱくりとやらないと納得したらしい。
用心深いというか、小心者というか。
兎にも角にも、安心を得た男はコート然の衣服につけた楽器をじゃらじゃら鳴らしながら、外見に似つかわしくない速さでリリアのいる柩まで簡単に登ってくる。
近くで見ると尚更大きく感じる長身痩躯に少しばかりリリアが怯んだのなら、手にしたままの芯がひょいっと男に取り上げられ、何の躊躇いもなしにぱくっと大きな口の中に放り込まれていった。
自失刹那、林檎の芯まで喰らう異形だろうと異性、関節キスに等しい行為を正確に捉えたリリアは、かっと頬を朱に染めるが、我関せずの男はそんな彼女を軽々横抱きにした。
手伝って欲しいと願い出たものの、支えて貰うぐらいのつもりでいたため、思わぬ扱いにリリアの身体が若干の強張りをみせる。
けれどもそれすら気に掛けない男の胸へ、自然と寄り添う頭が弾力のある硬さを覚えたなら、リリアは別の思考に気をやっていく。
――単に恥ずかしい状況から逃避したかっただけかもしれないが。
登ってきた時同様、いとも容易く降りてみせた男は、リリアをすぐには解放せず、花を蹴散らしながら先程まで自分が座っていた椅子へ移動、彼女をそこに座らせた。
林檎を投げられた際、リリアは見事にキャッチしてみせたのに、男は未だ彼女は目が悪いと勘違いしているらしい。
ここで待っていろと言わんばかりに、意外とつるつるした手の平でリリアの頭を撫でた男は、振り返ると確認する素振りで「にゃあ」とか細く零した。
「柩の中身は空っぽ。祭壇も必要ない。早速片付けなければ」
(……やはりあれは柩でしたか)
他者の口から改めて知った事柄に、それなりにショックを受けたリリアは、男の動きを追うようにして椅子の背を横に後ろを見やった。
視点が変わり広がる景色は、それ自体が発光しているような白い窓を背景とした、祭壇の形に組み上げられた円卓と椅子の陰。
最上に頂く柩に花はもう降っていなかったが、白と黒のコントラストは荘厳な雰囲気をリリアに与えてきた。
誰がこれを設置したのか、考えるまでもなく片付けると言いテキパキ実行している男だろうが、だとするとリリアを柩に寝かせたのも彼という事になる。
詳しい事情を聞きたいものの、何かをしながら訊く話ではないため、リリアは運ばれた時に浮かんだ疑惑を男に尋ねた。
「あの、改めてお尋ねするのも変な話ですけど……あなたは男性、ですよね?」
容姿が自分と異なる以上、声が低くても大きくても力があっても胸がなくても、彼だと思っていたら女だった、というのは在り得る話。
もしも性別を間違っていたら、そう思うリリアに対し、柩を背負って降りて来た彼はあっさり頷いた。
「にゃ。聞いての通り、某は男声だ」
(……あら? 何かしら意味が食い違っている気がしないでもありませんが)
聞き方が悪かったのかもしれないと思いつつ、どちらにせよ男なのだと判明して、間違っていなかった事にほっとするリリア。
しかし床に柩を立てた男は、中の花を落としながら続けて言った。
「……たぶん」
「……たぶん? ご自身ではお判りにならないのですか?」
「にゃー。某が物心ついた時、死ぬ間際の同族が言っていた。お前が女なら我が種はまだ救われたものを、と。どうも某以外の同族は皆死んでしまっていたらしく、以来、男女という差は理解できても明確な区別が某にはつけられない。付け加えて言うなら、死んだ同族は某と似た身体をしていた。奴さんも男だったんだと某は思った」
「そう、でしたか……」
けろっとした口調で語られる重い話に、何と言っていいものか分からないリリアは口を閉ざした。
「奴さん」という表現を正しく三人称で理解した彼女は、反面未だにソレガシという名前だと認識している男の淡々とした様子に少しだけ目を伏せた。
幼くして自分一人だけが生き残る――それはリリアの生い立ちと似て非なるものだった。
天涯孤独と言って良い身の上だが、彼女の傍には母の知人である女がいて、彼女の周りには常に必要以上に関わる事はなくとも同族の他者がいる。
しかも話の内容から推察するに、彼は同族の男を自分の手で弔ったのだろう。
そうでなければ同族の身体を己と見比べる事など出来はしまい。
独りになっただけでも辛かろうに、目の当たりにした同族の死はやがて来る自分の死にも直結したはずだ。
考えれば考えるほど、鬱々とした気分に陥るリリア。
分類したなら自分は決していい人に納まらないと知っていても、彼の過去に哀しみ感じてしまった。
けれどもリリアは唐突に思い至ってしまう。
死んでしまった同族の身を清めて弔う、その方法には何の異論もないが、柩に入れられていた自分はどうなのだろうか、と。
こうして生きているのだからまさか……、そんな風にリリアが冷や汗を流した矢先。
「そういえばお前さんは女だな」
「なっ!? 何故それを!!?」
タイミングの良さに思わず上擦った声が出てしまった。
過敏な反応を不審がるでもなく、柩を本来の位置に倒した男はつと指を差した。
黒い爪が向けられている線上、自分の身体をリリアが両腕で庇うように抱いたなら、
「本にお前さんと似た種族の事が書いてあった。女はある時期になると胸が出っ張り、男は最初から股間が出っ張っていると」
「あ、ああ……そういう…………」
過剰な反応をしてしまった自分が恥ずかしい。
そもそも種族が違うなら、男にとって自分の容姿などさして問題にはならないはずだ。
馬鹿な想像を働かせてしまったと、頭痛を堪えるように片手で顔半分を覆い隠す。
穴があったら入りたい気分だ、とは先程まで柩に入っていた身で考えはしないものの。
だがしかし、男はそんなリリアに追い討ちを掛けるが如く、こんな事をのたまった。
「ああ、そうか。お前さんが女なら某は同族を復興できるのか」
「は?」
「此処の本には男と女は番うものと書いてあった。そして子を授かるとも。どうだ? これも何かの縁だ。某と番ってみないか?」
「んなっ!?」
祭壇を片付ける手は休ませず、モノの拍子か弾みのように異形の男は提案してきた。
十四ともなれば色々と世の成り立ちを知る、そうでなくとも図書館を愛用してきたリリアは、男の言葉を寸分違える事なく理解すると羞恥に顔を赤らめていく。
平然とした男を前にして混乱した頭は、目を回すと遠回しに変な事を口走った。
「え、えとですね、子を授かるには同族と番う必要がありまして、他種族では上手くいったりは」
「世には合いの子という言葉もあるぞ? これも本に書いてあった。不自然だとも書いてあったが、試してみる価値はあると某は思う」
「う……」
自分とは異なる種族相手にも関わらず、熱くなる頬を責めたいリリア。
男はやはり、世間話の延長といった具合で、円卓と椅子で出来た祭壇を分解しながら事無げに続けた。
「しかし、本には男が女を抱くと女の腹に子が宿ると書いてあったのだが……それらしき様子はない」
「……は?」
一体いつの間にそういう話になったのか判らずリリアが目を丸くしたなら、ここに来てぴたりと手を止めた男が彼女へ首を傾げてみせた。
「運ぶだけではなく、ちゃんとそういう気持ちで抱っこしないと駄目なのか」
「…………」
(えぇぇ……ちょ、ちょっと待ってください? 何か話が物凄ぉ~くズレ始めたような)
思ってもみなかった告白続きにリリアが悩む頭を抱えると、驚く間もない速さで移動してきた男がひょいっと椅子ごと座る彼女を腕の中に納めた。
「……やっぱり駄目か。それとも椅子があるから不味いのか?」
言って猫の子を掴む要領でリリアの首根っこを捕らえた男は、固まったままの彼女をすっぽり抱きすくめる。
次いで椅子に彼女を戻したなら、遠慮なくリリアの腹を撫でた。
「うひゃあっ!?」
これにはさすがに反応したリリア。
椅子を蹴って立ち上がっては、解体途中の祭壇の陰まで逃げていった。
荘厳さはほとんど残っていないそこを盾とし、男に向かって叫ぶ。
「こ、断りもなく人のお腹を撫でるなんて! い、いえ! その前に抱きしめたりだとかもしては――あ、あの?」
恥ずかしさに引っくり返った声を上げたリリアだったが、最初の時と同じように椅子の陰に隠れる男を認めて戸惑った。
驚いて逃げたのが不味かったと言われれば反論の余地もあるだろうに、リリアに向けられた目隠しは別の事を口にする。
「眼が悪いなんて嘘だ! 眼の悪い者があんな俊敏に動ける訳がない! 某騙された!」
「眼の悪い者が俊敏って……あなたも似たような者でしょうに」
「某の眼は悪くない! よく視えるだけ! だから布で隠している! でもお前さんは騙した!」
「よく視える……というのは判りかねますが。騙すも何も、私は一度だって自分の眼が悪いなんて言ってませんよ?」
「そんなことな……………………………………………………くもない。にゃー」
「ほら。あなたが勝手に言ったんじゃありませんか」
「にゃあ」
指摘したならすっとぼけに走った男。
長い鼻先まで横に向ければ、はっとした様子でリリアに食って掛かってきた。
「いや! 誤解されるような事をした! 眼鏡、眼鏡掛けてた!」
「あれは……言うなれば覆面です。わたしの顔は、わたしの同族にとって良く見えるらしいので」
「にゃ? 良く見えるのは良いのではないか?」
「あなたの先程の言を借りるなら、良く見えるから隠していたのです。今はほら、あなたにとってわたしの美醜は意味がないでしょう? だから晒しているだけで」
化け物に刺してしまったせいでないから掛けていないだけ、とは言わず。
もしも今の言葉に嘘があるというのなら、そこだけ。
すると男は、赤と黒を基調とした服とそこに取り付けられた楽器、ギザギザしたシルバーグレイの髪を揺らしながらリリアのところへやって来た。
最初の怯えまくった様子とは違い、ある程度リリアに対しての免疫が出来たらしい。
それを喜んで良いやら悪いやら、リリアが決めかねている隙に男は傍らにしゃがみ、黒い爪を携えたグラスグリーンの指が彼女の顎を少しだけ上向かせた。
軽い動きで左右を向かされたなら、小さく唸って男が頷く。
「意味がなくもない。お前さんはとっても可愛らしい」
「っ!?」
それは極々普通の感想であった。
特別な気持ちを一切省いた、贔屓めも何もない、率直な感想。
しかし、どれだけ優れた容姿をしていようとも、言う割に自分の顔の良し悪しがいまいち判別出来ないリリアは、面と向かって初めて言われた感想を前に言葉を失くして赤面した。
「にゃー。確かに眼鏡はお前さんにとっての覆面のようだ。……でも、子どもは駄目。にゃー、子作りは難しい」
「! あ、あのすみません」
しみじみ語る男の手を取ったリリア。
「にゃ?」
「その、申し訳ないのですがあまりそういう事を連呼されるのは宜しくないかと」
「そういう事……子作り?」
「そう、そうです、それです! 男性にとってどうなのかは判りかねますが、女性にとってはとてもデリケートなお話なのです」
「……にゃあ。判った。以後気をつける。男と女ではモノの受け取り方が違うとも書いてあったからな。それに男女がきちんと判っていない某では、もっと判りにくいと思う」
デリケートの理由をもっと突っ込んで訊いてくると思っていたが、同族の復興を口にした割に、男は随分とあっさり引いた。
やはり、彼にとっては世間話程度の感覚だったらしい。
リリアが掴んでいた手を離せば、立ち上がり――かけ。
「きゃっ!?」
何の言葉もなしに彼女を抱き上げた。
「片付けの途中だった。此処に居たら危ないから持っていく」
「お、お構いなく」
「いや構う。お前さん、本体は物凄く固いくせに擬態はとても柔らかくてイイ匂いがする。洗い立ての縫いぐるみみたいで抱っこがクセになりそうだ」
「く、クセ!?――というか本体? 擬態とは? しかも縫いぐるみ……」
どんどん人間離れしていく単語の連続にくらくらと眩暈を覚えるリリア。
男から告げられた「可愛らしい」も、考えてみれば犬猫に対して人間が思う事と変わりないのではないか、とまで思い。
すると椅子まで移動した男はリリアを席に下ろしつつ、付け加えてこんな事を告げくる。
「ああ、そうか。その姿ですっかり失念していたが、お前さん無機物だから、男女も種族も関係なく、有機物の子どもは出来ないな…………あ」
「え……?」
男の言葉にリリアの眼が見開かれた。
これに対して男は「注意を受けたばかりなのに、子作りの話をして申し訳ない」と謝罪するが、今リリアが重要としているのはそこではなかった。
「無機物って……わたしは人間で、有機物のはずでは」
ぽつりと声に出して言えば、奇妙な違和感を抱いて喉を押さえた。
何か酷い勘違いをしているような、気持ち悪さ。
そんなリリアへ、異形の男は不思議そうに顔を傾かせた。
事無げに、言う。
「もしかしてお前さん……自分の身体がグリモアに変わった事、気づいていなかったのか?」
「ぐりもあ……変わった……」
林檎を口にし味わい、潤っていた喉がからからに渇いていく。
知りたくない現実がすぐそこまで迫ってくる感覚に怖じ気づき、耳を塞ぎたいと思えども動かない手はそれを許さない。
知りたくなくても知らねばならないと、逆に縋るように離れかけていた男の袖を握り締めた。
指が白くなるほど握り締め、セレストブルーの瞳を揺らしながら、高い位置にあるグラスグリーンの鱗の鼻先、奥にある布に覆われた目元を凝視した。
「あの……ぐりもあ、とは何の事でしょうか?」
人間を意味する言葉ではなかったのか。
最初に男からそう言われた時、リリアはそんな風に理解していた。
それなのに、今になってみればどうしてそんな風に思い込んでいたのか判らなかった。
いや、思い込んでいたのではなく、思い込んでいたかったのかもしれない。
知らず知らず逃避に走っていた己を内に感じ、リリアの唇が小さく噛み締められていく。
布に覆われた男の眼では映る自分の顔を見る事は出来ないものの、目も当てられないほど動揺しているのは判った。
答えを待つ瞳に涙が滲んでいくのも。
そして男は答える。
リリアの心情を無視する風体で、丸ごと包み込むように。
「グリモアは魔道書。この図書館にしか納められていない、唯一無二の書。手にした者のどんな願いでも叶える全知全能の至宝。その性質ゆえに神の書とも呼ばれ、また禁断の書とも呼ばれている。そして……今はお前さんの身体でもある」
差し伸べられた手は重ねるためではなく、ただリリアを示していた。
語られゆく存在が紛れもない彼女自身である事を。
「わたしの身体が、唯一無二の書……本?」
俄かには信じられない話。
けれども人間である事を訝しんでいた心は、すんなりこれを受け入れる。
「でも、それではこの姿は?」
反面、否定したいと思っているのは、人間の形を取るこの身体。
古今東西、本と呼ばれるモノの形は数あれど、場合によっては一定量の知識を詰め込んだ人間をして本と評する事もあれど。
リリアは――彼女の本体だという魔道書は、無機物だという。
要するに、人間――有機物ではない、と。
肯定も否定も、して欲しいと願い、して欲しくないとも思うリリア。
男はこの様子に自身からは明確な答えを語らず、伸べた手を返して彼女の頭を軽く撫でてから、謎かけのように言った。
「目を閉じて、一冊の本を思い描くといい。お前さんの呼びかけに、お前さんの身体は必ず応える」
かなりの音痴を披露したくせに、男の低い声は染み入る温かさを持ち合わせていた。
リリア自身がどんな結果に終わろうとも、彼は何も変わらないのだと感じた。
この短期間、それも自分とは似ても似つかない姿形の相手なのに、理解に苦しむ信頼感が生まれていた。
それはもしかすると、極限状態で意識を失ったせいかもしれない。
ひよこの刷り込み宜しく、目覚めて初めて目にしたのが彼だったからかもしれない。
目覚めた時、独りではなくて良かった、近くに居たのが彼で良かった。
リリアは初めて、そんな風に思い、感じて。
「…………」
腹を決め、男の言葉通り目を閉じた。
描く一冊の本に細かな指定はなかったものの、それがどんな形状をしているのかは判る。
意識を失う直前に見たから、ではなく。
内側から、じわりと滲むように現れてきたために。
自然と男の袖を離した手が、もう一方の手と同じように手の平を上とし、座る腿に置かれた。
併せ、ずしりとした重みを受くる腕。
「…………」
その重さに耐え切れない様子でゆっくりと目を開けたリリアは。
「は……あはは…………ふふふふふふふ………………」
錆びついた赤と鈍い金、色取り取りの石が嵌め込まれた、仰々しくもゴテゴテとした装訂の本を膝上に認め。
「やっぱり無理、です」
否定を口にした割にしっかり自分の本体だと判定してしまった魔道書を前にして、椅子に腰掛けたまま器用に気絶をしてみせた。