彼女の経緯 その2
最初の一撃を避けられたのは奇跡としか言い様がなかった。
横合いから突進してきたソレを前方に飛び込むことでどうにか回避、無事でいられたリリアだが、同時に次はないとも思う。
自然、死を恐れて生を望む身体は必死に走り出し、反面で恐ろしく冷ややかな一部分がちらりと背後を振り返った。
鈍いランプの明かりを頼りにソレの正体を探り、判った事といえば、激突の衝撃からソレが未だ回復出来ていない様子と、
(……大きい。低く見積もってもわたしの四倍近く、ですかね)
奥行きはあまり測れなかったが、視線を前に戻したリリアの目測にほぼ間違いはないだろう。
(そしてたぶんあれは、四つ足の獣。それも図鑑で見るような大型の草食動物とは違う……)
脳裏に再生されるのは前方に飛び込む直前、視界の端が捉えた大まかな形。
獲物を押さえようと伸ばされた前足の鋭い爪、大きく開かれたあぎとから生える漆黒の牙。
(近いのはイヌ科かネコ科……どちらにせよ、肉食獣でしょうね)
もう一度、自分の予測を確認するため、再び荒くなりつつある呼吸を横へ向けたリリア。
――だったのだが。
(不味いっ!)
ゆらり、ランプに形作られた四つ足の陰影が立ち上がり、そしてそのままこちら目掛けて走ろうとする動きで巨体が軽く沈み。
「ひっ」
最中、現れたソレの目と合い、襲い来る混乱と恐怖からリリアの身体は走るのを止めて半身をそちらへやった。
ランプとは明らかに違う光を放つ、何重もの虹彩を持った、頭部の真ん中を縦に裂く一つ目。
最初の攻撃を避けられた、ソレの存在に気づけた光明――だが。
「っ!!」
一気に距離を詰めて頭から突っ込んでくるソレに対し、リリアの身体は咄嗟に、今度は丁度通り掛っていた横の通路へ飛び込んだ。
強張った足が着地を怠り左肩を強く打つ。
生じる痛みにかまける暇なくすぐさま仰向けになれば前方、壁と本棚の側面のランプを受けて、初動の勢いのまま通り過ぎるその巨躯、その輪郭は。
(……知らない。知るわけない! こんな……こんな化け物なんか…………)
こちらを一瞥もせず、風のように本棚の間を去っていったソレは、リリアの常識から悉く外れた存在であった。
信じられないくらい大きな体躯に一つ目は勿論の事、折れ曲がった黒い耳の先端は炎の如き揺らめきを帯び、胸から下に続くやはり黒い身体は大小様々な蛇の尻尾を何本も密集させて蠢いていた。
だというのに存在感は全くと言って良いほどなく、無論、ソレ特有のニオイや鳴き声も嗅覚や聴覚には引っ掛からない。
その他の五感に得られるモノがあるとするのなら、走るソレが起こした風と、圧倒的な視覚への暴力だけだ。
「ど、して、此処にあんなモノが……? 百歩譲って、いいえ、あんな化け物がいるくらいですもの、此処がわたしの知る世界ではないのは歴然……いいえ、いいえ! 知らない世界という認識は、あんなのが生活圏に居て欲しくないだけです。……けれど、それにしたって此処は図書館のはずでしょう? 何故、あのような生物が……」
口にしたのはどれも、落ち着きを失くした思考そのままの言葉。
しかして声に出す事で次第に衝撃を和らげるのに成功したリリアは、今頃になって痛む肩に気づくと、これを押さえてゆっくりとその場に立った。
「……考えても埒がありません。暇もありません。折角拾った命です。……いつまで持つかは分かりませんが」
あの化け物が向かったのはリリアが目指していた方角。
それでも当面、目標とすべきは同じ方向であるため、本棚をいくつかずらした通路を用いて歩いていく。
今のところリリアが知る化け物の攻撃方法は、直進による体当たりのみ。
当たれば一発でぺしゃんこだが、単純明快な攻撃ゆえに備えておくのは容易かろう。
待ち構えられていれば話は別、逃げられはしないものの、本棚をジグザグ縫うようにして歩けばその確率はぐんと低くなる……はずだ。
なんとも頼りない可能性にかけて行かねばならぬ身、自然と肩を押さえる右手に力が込められたなら、硬質を感じてリリアの視線がそちらへ落とされた。
肩を離れた手の中、握り締められた分厚い眼鏡が其処にはあり。
「ああ、眼鏡ですか……そういえば鞄、いつの間にか落としていましたね。本当に大事なのはあちらなのに、どうしてわたしはこれを握り締めてここまで――」
来たのでしょう、という自嘲は最後まで吐き出されなかった。
ランプの光、あるいは天井の闇を映すだけの眼鏡に、先程回避したばかりの一つ目を捉えたばかりに。
停止一瞬、急ぎ振り返り見上げたリリアは、前方へやり過ごしたはずの化け物と同じ姿を後方の、それも本棚の上に見つけては「ははっ」と小さく笑った。
「嘘、でしょう? 幾ら速いといっても、まだそこまで時間なんか経っていないのに……後方から? あんなのが何匹もいる、と?――しかもっ!」
否定したい現実の積み重ねに、本棚の上から化け物が跳躍しても動けなかったリリアは、大きさの割に重みのない巨体の下へ押し倒されて組み敷かれ。
「ち、地上を行くなら行くで、移動手段はそれだけにして下さいよっ。ほ、本棚の上なんてそんな、猫みたいに立体的に動かなくてもいいじゃありませんか……!」
下方、身体を固定するよう這わされていく蛇の感触にリリアは不快を抱く事も出来ず、笑みに麻痺した顔が近づく一つ目と牙、生温かな吐息を為す口を迎えた。
ぐりっ、と両肩に添えられた前足の内の一方が踏み躙れば、狙ったとは思えなくとも打ち付けた肩に増す痛み。
「く、あっ……」
滲む涙に苦悶を浮べてリリアが仰け反れば、上向いた喉を柔らかな舌がねとりと舐め上げた。
肌の味を確かめるに似てその実、皮膚の下に脈打つ血潮、肉の弾力を確かめる風体で。
(冗談、キツイですって……)
どうもこの化け物、猪突猛進な先程の個体とは違い、獲物を甚振る趣味があるようだ。
歯を食いしばったリリアが涙を浮かべながら睨みつければ、これをせせら笑う動きで化け物の一つ目が彼女の眼前まで寄ってきた。
死を目前にした獲物の感情を肴にする、そんな素振りにリリアは。
「こンの悪趣味!!」
痛がる様子を参考にした化け物が左肩へ重点を置いたためか、抜けやすくなっていた右手を振り上げると、握り締めていた眼鏡を思いっきり、目の前の一つ目に突き立てた。
存在感の薄い化け物だが効果はあったらしい。
これにより目を閉じた化け物が怯めば、乗じてリリアの身体に蠢いていた蛇の尻尾が緩んだ。
「ぅ、あ……くうっ! 気持ち悪いじゃないですか、変態!!」
極度の恐怖体験から心身ともに解放を得たリリアが、それまで分からなかった怖気の走る触感に一度だけ化け物を蹴った。
反動で身体を引っ繰り返しては、絡みつく感触を消すように服を払いながら立ち上がり、勢い良く駆け出していく。
思わぬところで役に立った眼鏡は、依然として化け物の目に刺さったまま。
逃げるなら今だと、それでもふと思い立ち背後を確認したリリア。
「んなっ……! ひ、一つ目じゃないとか、本当にもう、完全な化け物でしょうっ!?」
セレストブルーの瞳に映る、同じ身体に宿った、潰れた目と同じ形の無数の眼。
そのどれもが一様にリリアの姿を捉えたなら、熱い視線を遮るように近くの本棚を左に折れた。
側面に取り付けられたランプを二つ三つ過ぎたところで、何かが本棚を叩く音を後ろに聞く。
逃げに専念すれば良いところを肩越しに見やったリリア、数多の眼を爛々と輝かせた化け物が、獣の前足を限りなく人間に近づけた手で本棚を支えとして掴む姿を目撃する。
もう一方の手が押さえるのは、眼鏡に潰されたあの一つ目。
相変わらず存在感がない化け物ではあるものの、人間を髣髴とさせる恨みがましいこの雰囲気は何だろう。
思わず湧き起こる罪悪感と同情の念に、いやいやあのままでは死んでいましたから私、と心の中で首と手を振ったリリアは、本腰を入れた逃げを再開するために前方へと視線を移した。
と、前方にランプとは違う一つの光。
「……ん? しかも何だか近づいているよう、なあっ!?」
考えるより先に、このままではぶつかると判断した身体が側面から本棚の前へ躍り出れば、その身体を追ってきた巨大な手がリリアの髪を撫でた。
拍子で解れたリボンの無残な姿を横に散らせたリリアは、危うく人の手を持つ化け物に殺されかけたのだと知って息を引き攣らせた。
ついでにクロムイエローの長い髪を払うように振り向いたなら、そんなリリアへ更なる追い討ちをかけようとしていた化け物が、横合いから突っ込んできた同じ化け物に追突される場面を目の当たりにする。
衝撃音は聞こえなかったが、吹き飛ばされた化け物と勢いを殺せない化け物の、通路を擦れる音は果てしなく続き。
「え、えっと…………ら、ラッキー……?」
動きを見るに猪突猛進のあの化け物は、最初に出くわした奴と見て間違いない……が。
「……真っ直ぐ行ってから、左に折れてまた真っ直ぐ行って、それからまた左に折れるかして真っ直ぐ突き進んで」
そして途中で左にリリアを見つけ、また真っ直ぐこちらへ向かってきたのだろう。
仲間(仮)の姿も見ずに。
指差し確認で一直線移動の化け物の動きを想像したリリアは、なんとも間の抜けた行動に少しだけ頭痛を覚えた。
対峙すれば即死を匂わせる相手、恐怖心は未だ持ち合わせてるものの、真面目に怯える自分が可哀相で仕方ない。
幾ら化け物でも、あんなのに殺されては末代までの恥な気がしてきた。
まあ、ここで死んでしまったら、その末代さえリリア止まりで終わってしまうのだが。
「兎に角、今の内にさっさと逃げ…………………………られない!?」
身を翻して先へ進もうとした矢先、前方から数多の目が下に一つの目を従えてやって来た。
どうやら接触した事で仲間割れもせず、獲物を一にする関係から結託したらしい。
一頭分にしてもリリアでは物足りないだろうに、それほどまでに飢えているのか、はたまた数多の目を出現させた化け物の恨みを一つ目も一緒になって晴らそうというのか。
にしても、えらく遠くからのご登場、一つ目にしては遅い動きである。
推測するに、距離が遠いのはリリアの移動を予測し余裕を持ったためであり、動きの悪さは背中に数多の目を乗せているせいだろう。
もっと言えばそれはすなわち、騎手を得た事で一つ目にいらん知恵が付いてしまった事を意味していた。
何せ先程より遅いとはいえ、一つ目の俊足は今もリリアより早く出来ているのだから。
悠長に分析している場合ではないと、もう一度身を翻したリリアは走り出し、すぐさま角を右に折れた。
棚の側面を三つほど過ぎってまた右に折れ、足を止めて息も止め、棚にへばりつきながら重くなった分よく響く一つ目の足音に耳を傾ける。
逃げてきた三つ向こう、リリアの後を追って曲がる音を聞き、分析の正しさに舌打ちをしたくなってきた。
これを唇を噛む事でやり過ごしたなら、今度は棚伝いに側面へと回った。
薄くとも影を作るランプの下で影を消し、更に息を詰めたなら反対の側面を通る足音。
動く時を見誤ってはならない。
一つ目、もしくは数多の目の化け物だけならば今動いても問題ないだろうが、騎乗している分、相手の視界は広くなってしまっている。
そんな中で不用意に動いたなら、確実に見つかってしまう。
(……彼らがこちらに来てしまえば、この警戒も無駄ですが)
化け物たちが今いる通路を右に折れてしまえば、逃げ場のないリリアの居場所はすぐに判明する。
相手の行動に左右される未来を嘆きつつ、過ぎ去るよう祈る瞳が静かに閉じられた。
心音が煩く鳴り響く闇の中で、リリアを探す足取りが次第に遠くなっていく。
ともすれば自分の気が遠くなっていくような錯覚にリリアは急いで目を開くと、確かに違う方向へ進んでいく音を聞いた。
ほっと安堵の息を零しつつも、警戒はしたまま、化け物たちとは逆の方角へと一歩を踏み出した。
顔だけ化け物たちの進行方向へ逸らした状態で。
「……え?」
すると足下、何か柔らかいモノを踏んでしまったリリア。
まさかあの足音は陽動だったのかと、慌てて前方へ視線を巡らせるがそこには何もいなかった。
けれども感触は未だ足裏にしっかりとした弾力を主張しており。
次いでぱくっと何か温かいモノに足が包まれた。
痛みはないが湿ったソレに頬が引き攣り、下降した視線が今度こそその正体を認めた。
「…………………………何ですか、コレ?」
認めたはいいが、よく判らない。
判っているのは感触通り、化け物たちとよく似た黒い真ん丸のボールに、リリアの右足が爪先から足首まで包まれている事のみ。
試しに足を持ち上げてみれば、靴の装飾とでもいうように付いてくる真ん丸。
縦に振っても横に振っても、ぐるぐる足先を回しても、ボールはくっ付いたまま。
「…………………………えいっ」
痺れを切らしたリリアは、可愛らしい掛け声を一つ。
しかしてその行動は自分のダメージも考えない荒々しさで、背にしていた本棚の側面をボールごと蹴りつけるという代物であった。
ボールが衝撃を吸収してくれたらしく、ダメージもなく音も立てずに済んだリリアは、ついでに件の真ん丸も目論み通り取れて万々歳――とはいかず。
「……この、物凄く申し訳ない気分は何でしょうね」
蹴りつけた足を側面から離した瞬間、どさりと形を崩して落ちたボールに嫌な気分を味わった。
ついついしゃがんで経過を見守っていれば、元の丸さを取り戻したボールが独りでに回り。
ワン!
短く一声、そう鳴いた。
いや、そう鳴いたようにリリアには見えた。
黒いボールの三分の一に現れた横の亀裂が、実際に聞こえる声なしに、そう鳴いたのだと。
「くっ!」
思うが早いか、リリアはボール然の生き物に手を伸ばすと、痛む左肩をおして両腕でそれを胸に抱いた。
次に立ち上がっては背後、進むべき方角へと音も気にせず走り出す。
その視界の端に、ボール然の仲間の声なき声を聞きつけてであろう、一時はやり過ごせたはずの、二対の化け物の向かってくる姿を捉えながら。
「ああもう、一難去ってまた一難ですか!? わたしが一体、何をしたと仰るのでしょうかっ!!?」
隠れる必要が無くなった分、苛立つ心のまま叫ぶ。
腕の中の黒い物体を見て、とりあえずコレを蹴ったのが悪かったのだと思い。
リリアの胸中を知る由もないボール然が、ぱくっと今度は右腕を食んできたなら、しゃぶりつく様を内で感じ鳥肌が立った。
「――って、そーいえばどうしてわたし、この変な生き物抱いて逃げているのでしょう? どう考えたってあちらの陣営でしょうにっ!」
言うなり、食まれた右腕をぶんぶん振り回して走るリリア。
足の時同様離れないボール然を受け、増してパニック状態に陥ったなら、薄暗い前方が真っ黒な影に覆われたのを視認、後ろを見やった。
その原因、眼前に迫る一つ目と数多の目の光があれば「ひぃっ」と喉が鳴り。
「もうっ、いやああああああああああああああっっ!!」
刹那、何故か緩んだボール然の食む力も知らず、肩の痛みも忘れたリリアは左手で柔らかな球体を掴むと、振り向き様に一投。
命中したものの威力はさほど望めず、元より期待していなかった身体はバランスを取って前傾姿勢を維持。
そのまま視線を前に戻すと。
「ぎゃあぅっ!?」
続くはずだった本棚と本棚の間がいきなり黒に埋め尽くされていた。
あまりの事に悲鳴が詰まれば、みっちり壁のように重なった多数の黒がボール然と同じようにぐるりと回り、鳴く変わりに縦に生じた亀裂が開かれて、背後の連中と同じ目玉が光り出した。
「ふぅっ……!」
壮絶な光景を目の当たりにし、滲む涙に走る方向を右へと切り替える。
最早リリアには、冷静に紡げる思考は欠片も存在しなかった。
在ればきっと、気づけたはずである。
化け物たちの動きが、今彼女が走る通路を境にしてぴたりと止まってしまった事に。
誰も、追って来てはいない事に。
ゆえにリリアは横の通路を走り切り、壁を見つけては背後を探ろうとして、くるり反転。
「え……?」
ようやく知った追跡者のいない逃走劇に、余波で後ろを数歩歩いた背中が本棚をとんっと叩いたなら。
本棚の上、不安定な位置に置いてあった、荘厳な装訂が施された分厚い本が今。
その硬そうな角を下に向けて勢い良く落っこち。
「ぐげっ」
丁度真下にいたリリアの脳天へ見事に沈んだ。
火花散る視界、眩む痛みの中、ひき潰された蛙の如き声を発したリリアは、意識を失う直前に自身を襲った凶器を目撃。
(一生懸命逃げたのに……結末がこれって酷すぎません?)
末期を予感したリリアの内なる問い掛けに対し、応える者は誰もいない――