美人と子どもと人形と その1
彼が目を覚ました時、目の前には白い世界が広がっていた。
「……にゃ?」
寝起きのあまり良くない彼は、見慣れない世界に埋もれつつ、首を傾げた。
何故、自分はこの世界にいるのか。
何故、自分は眠っていたのか。
何故、ここには――
「りりあ……」
呼べば思い出す、眠る直前までいた少女の像。
のったりとした動きで、うつぶせの身体を起こした彼は、赤と黒のコートに括りつけた楽器が起こす音に顔を顰めながら、辺りをゆっくり見渡した。
丸太を何本も重ねた、眠るためだけの部屋。
床を散らす淡い色彩の花々は、今も彼のギザギザしたシルバーグレイの髪から零れ落ちている。
そこまでは、眠る前と同じ光景だった。
唯一つ違うのは、眠る前にはなかった出入り口が、今はあるということ。
「起きて、出て行ったのか。……起こせばいいものを」
互いに干渉し合うような関係ではないものの、何も言わずにいなくなられては面白くない。
不可解な紋様が描かれた布の奥で、じと目になった彼は、グラスグリーンの鱗手をそこに翳した。
「真実の視界。明瞭なる視野。今ひと時、解く識。広がる光。影は色濃く。淡くたゆとうは流れゆく時。戻らぬ日。還れぬ非。ただ視つめしは某が両の目――開眼」
彼の言葉に合わせ、緩やかに明滅した紋様が、終わりと共に布から消えた。
すると、しゅるり、軽い音を立てて布自体が落ちた。
まるで役目を終えたかのように。
彼はそんな布を翳していた手に取ると、久々の肉眼にゆっくりと目を細めた。
閉ざすことで、初めて他と同じ視野を持つことが出来る彼の肉眼は、酷く不可思議な視点を持っていた。
両の目から見える範囲以外にも、自身の姿をあらゆる角度から視られる視点。
通常では感知できない魔力のうねりを捉える視点。
障害物の向こうを視られる視点。
そして――
「ああ。あの閲覧スペースにいるのか。りりあはあそこが好きだな……ん? 他に誰かいるのか?」
目的の少女の像を捉えた彼は、その近くに別の像があるのを同時に視た。
途端、視点は少女の像の両目へと移り、彼女の前に在る像を彼の目に報せてくる。
「ドラグーンの子どもか。にゃー。これはからかいがいがありそうだ」
彼は子どもが好きだった。
特に、小さな子どもが。
何せ小さな子どもは、彼が好むからかいに引っ掛かりやすいのだ。
そうと決まれば、早速ベッドの外へ、鈍色の鎧に覆われた足を出す。
と、ここにはいない声が頭の中に響いてきた。
”花竜とドラグーン……似てはいますけど、やはり違う種族なのでしょうね。そういえばエニグマ、まだ寝ているのでしょうか?”
「…………」
よく視える彼の目には、様々な場所を視通せる他に、相手の心を否応なく視てしまう能力がある。
幼くして同族を全て失ってしまった彼は、この能力のお陰で、様々な危機を回避してきたものだが、同時にこの能力のせいで、知りたくもない心を幾つも視てきた。
表では笑顔を貼り付けておきながら、裏では悪し様に罵り、僻みに向かう心。
悲哀に同調し、同情を口にしながら、無様だと高笑いして見下す心。
しかし――。
「……にゃあ。布を忘れていたな」
ベッドに置き忘れ掛けた布を手にした彼は、それを自身の目元に押し当てた。
それだけで、特別な言葉を必要とせず、彼の目が再び布に覆われた。
力を取り戻した体で、消えていた紋様が布に宿れば、常人と同じ視点となった彼は小さく息をつく。
「りりあは……本当にりりあなのだな」
他者が聞けば首を捻る呟き。
だが、今ここに居るのは彼だけ。
自身の呟きに少しだけ苦笑を零した彼は立ち上がると、心持ち早足で部屋を出て行った。
向かう場所は勿論、離れても彼を思う、少女の像の下。
**********
そもそも、ラフェイブがリリアのいた閲覧スペースを目指したのは、彼の腹具合の問題であった。
刹那曰く『御主人之食意地、最悪』だそうで。
「あの、ラフェイブさん? そんなに急いで食べなくても、良いのですよ?」
「ふぁふぃふぉふゅう! ふぁふぇふぁふぇふふぉふぃふぃふぁふぇふぇふぉふぁふぁふぃふぉ!!」
『……御主人、言語不明。刹那、明瞭切願』
サロン風の閲覧スペースへと招いたラフェイブは、リリアの食べかけのサンドイッチを見るなり、同じものを要求してきた。
何でも本を探している内に、とてつもなく腹が減ってきたのだという。
想像するだけで創造出来る魔道書にとって、彼の要求を叶えるのは至極簡単なこと。
このため、リリアはすぐさま隣のテーブルに多量のサンドイッチを出した――までは良かったものの。
(さて、どうしましょう? どのような世界の言語でも理解出来る魔道書とはいえ、発音が明確でなければ聞き取れないようですし)
様々な世界の本で形成されているこの図書館には、いかなる言語でも翻訳される、とても便利な機能がついていた。
そして本体が魔道書であるリリアには、図書館よりももっと正確な翻訳機能が備わっている――らしい。
本人は普通に喋り、普通に聞いているため、あまり実感はない。
とはいえ、今のラフェイブ相手では、便利で正確な翻訳機能も全く意味を為さなかった。
リリアは食べることに一生懸命な彼から、そんな彼を無表情に冷たく見つめる刹那へ視線を移すと、元々座っていた椅子を引きつつ、立ったまま脇に控える彼女へ同席を促した。
「刹那さん、こちらに座りませんか?」
『館長之御心、感謝感激雨霰。併、刹那、嘔吐股故、同席不要』
「お、おうと、また?」
『亜ー……』
リリアが聞きなれない単語に戸惑えば、露草の瞳をぐるりと泳がせた刹那がコクリ頷いた。
『刹那之事。意味、自動之人形。非他者操作。動作、己之頭使用』
「つまり、自分で考えて動く人形……ヒトではない、という事ですか?」
噛み砕き噛み砕き、自分の言葉でリリアが尋ねる。
これに頷いた刹那は、続いて首を横に傾けた。
『人? 館長、人既知?』
「ええ、それはまあ……あら? ということは刹那さん、わたしがヒトではないと知って?」
刹那が人型であるために、ヒトという種を口にしたリリアは、それが通じたことよりも、自身がヒトではないと察せられたことに驚いた。
全知全能の至宝とも称される魔道書が作り出した擬態――リリアの身体は、だからこそ、ヒトとほぼ同じ構造をしているのだが、刹那にはこの違いが判るらしい。
問いかけに頷いた刹那は、リリアへ手だけで座るよう示すと、従う動きを見届けた後でもう一度頷いた。
『館長之構造、人酷似。併、館長之気配、非人。否、非有機物。刹那之気配、略同等。併、非自動人形』
「ええ、その通りです。尤も、ヒトではあったのですが」
『……成程。刹那、納得。元人之館長故之飲食、受諾』
どうやら刹那は、飲食するリリアに疑問を抱いていたようだ。
言われて知った彼女の疑問に、ぎこちなく愛想笑いを返したなら、逡巡した様子の刹那がおもむろに白いエプロン脱ぎ始めた。
次いで、現れた紺色のワンピースの前ボタンを外していく。
「え……あの、刹那、さん?」
突然始まった脱衣の姿に、リリアがおろおろしても、刹那は我関せず。
自らを人形と言った通り、ヒトとは違う、つるつるした硬質な肌を晒した刹那は、胸の間へ指を向けると、スイッチを押す動作で一点を押した。
するとそこを中心として、宙に描かれる複雑な円形の図式。
蒼く光るソレは、時計の秒針を彷彿とさせる動きで、外と内の円を逆方向に回していく。
「綺麗……」
リリアが覗く肌よりも図式に心を奪われたなら、これに気づいた刹那は近づき、彼女の目線が図式に合うよう屈んでみせた。
『此、王徒又之動力式。有機物之心、同等。但、源、非食物摂取。王徒又之源、御主人之魔力如何』
「ええと、要するに、刹那さんがこうして動いているのは、ラフェイブさんの魔力のお陰?」
『概、是。但、先述之通、御主人、一族史上最弱。併、刹那有能故、補助術具必要』
服を直しつつ、刹那が指差したのは、未だサンドイッチにがっつくラフェイブの姿。
先程対峙した時には気づかなかったが、白い角の前にある耳や首、腕等に、金を基調とした装飾品があった。
あれが刹那言うところの『補助術具』なのだろう。
(とはいえ、話題がわたしの飲食を経て、自分の動力源を明かすところまで来るとは、刹那さんは律儀な方なのですね)
突拍子の無さはあっても、会話を進んでしてくれるのはありがたかった。
多少聞き取りにくいところはあるものの、求めていた会話が成り立っていることに、リリアの顔が自然と綻ぶ。
と、そんなリリアを刹那が呼んだ。
『館長』
「はい――あ、エニグマ」
『絵似……?』
改めて刹那に向き直ろうとしたリリアは、その前に見知った姿を彼女の後ろに見つけ、立ち上がった。
そしてそのまま駆け寄っては、赤と黒のコート前で止まり、
「おはようございます、エニグマ」
「おはようデス、りりあ。でも、次からは一緒に起こすデス」
「え……ええ、まあ、はい」
(一緒に起こすも何も、わたしはアレですっかり目が覚めてしまったのですが)
クロムイエローの頭に伸ばされる、グラスグリーンの手を受けたリリアは、曖昧な返事をして若干目を逸らすと、その先にいる二人を留め、エニグマへと視線を戻した。
「そうそう、エニグマ! 実は今、図書館のお客様がいらしてて」
「お客?」
まだ寝ぼけているのか、頭から頬へと撫でる手を伸ばしたエニグマが、のっそりした動きでリリアの後ろを見やった。
くすぐったい手には首を竦めつつも、されるがままのリリアは後ろを振り向き――
「ふぁんふぉう、ふぁふぃ――ぶぁふぁっ!?」
「ら、ラフェイブさん!?」
同じようにこちらを振り向いたラフェイブが、頬張っていたサンドイッチを噴き出したなら、リリアは慌ててそちらへ駆け寄っていった。