彼女の経緯 その1
ソレに気づいた時、リリアの両足は意思を待たずに走り始めていた。
次いで前方に飛び込めば、さして間を置かず今までリリアが居た場所を通って響く轟音、伝わる震動。
橙の淡い光が滲む暗闇の中を振り返っても、散乱した本や立ち込める埃など視認出来なかったが、何かが先程まで横に眺めていた本棚へ激突したのは確かだ。
「くっ……」
至って普通の運動神経しか持ち合わせていないリリアは、咄嗟の動作で生じた痛みに顔を顰めつつ、それでも出来るだけ素早く立ち上がると脇目も振らず前方へと駆け出した。
背後のソレが態勢を立て直す前に逃げなければと焦りを滲ませながらも、一方では冷静にこんな事を思っていた。
(死ぬ、でしょうね。たぶん間違いなく。あんなモノに狙われて平々凡々のこのわたしが無事で済む筈ありません。……ああ、これがクラスの困ったさん相手なら、どんなに楽だった事でしょうか)
走馬灯のように駆け巡る在りし日の思い出――というか、つい先日の事を走る脳裏に浮かべたリリア。
汗だくの割に落ち着いた溜息を一つ、荒い呼吸の合間に吐き出した。
風光明媚な田舎よりは人通りが多いものの、都会というには華やかさに欠ける、とある町。
ほとんどの施設が一軒ずつで済んでしまうその中に、リリアの通う学校はあった。
建物自体は一つでも学習内容は十二あるクラスでそれぞれ違い、理解力に応じて一クラスずつ上がっていき、乗じて学習量が一気に増えるクラスも二段階存在する。
そんなクラスを境にして建物の内部は三つに分かれており、リリアがつい先日移動したのは一段階目を経たもう一つ上のクラスである2-9。
大体十四、五歳前後の少年少女たちが所属するクラスで、リリアの齢も丁度十四を数えていた。
クラスの進み具合を見ればリリアの有する知識量は極々普通であると言えよう。
けれどもその顔はお洒落に神経を尖らせる同年代からしてみれば、地味の一言に尽きる。
明るく綺麗なクロムイエローの長い髪は、がっちりとした二つの三つ編みに固められており、化粧っ気のない顔の半分近くは、四角い黒の極太フレームの分厚い眼鏡に覆われている。
着ている服とて味気ない赤茶のスカーフに同色のチェック柄のスカート、白いブラウスに茶色いブーツで、幼さの残る輪郭がなければ行かず後家扱いされそうな雰囲気を醸し出していた。
きっとどこかのパーティに出席でもしたなら、壁の花になれる事間違いなしだろう――と誰もが思う少女。
それが周囲に置けるリリアの評価の全てであり、リリアも望んでその評価を受け入れていた。
だが、どこにでもお節介というか、自分の美意識を押し付ける者はいるもので。
「貴方、リリアさんと仰るのよね?」
リリアがクラスを移動して間もなく、休み時間にそう言って近づいてきたのは少々キツい性格を思わせる顔立ちの少女。
「ええ。まあ、はい。そうですけれど……」
今し方自己紹介を終えたばかりだというのにわざわざ名前を訪ねてくる相手へ、眼鏡の奥で眉を寄せたリリアは内心、面倒臭い方に捕まりましたと吐息を零す。
金髪碧眼、見るからにキラキラした自信に満ち溢れている者ほど、リリアにとって好ましくない言動をしてくると今までの経験からよく知っていたために。
案の定、後にアンジェリカと名前が判明する少女は、自己紹介もなく親切心溢れる表情をコロリ嘲笑混じりに変えると、続いてこんな事を言って来た。
「そんな格好ではお友達も出来ないでしょうから、私のグループにいらっしゃいな。何だったら、ボーイフレンドの一人か二人、見繕って差し上げても良くってよ?」
「…………」
(参りましたね。この方……想像以上に面倒臭い上に鬱陶しい上に、とんでもないくらいの困ったさんですよ)
リリアが分厚いレンズ越しに冷めた視線を向ければ、これをどう歪めて受け取ったのか、アンジェリカは同年代にしては豊満なバストを強調するように胸を逸らすと、自信満々に微笑んでみせた。
完全に自分に酔っ払った彼女の目には、他者への蔑みだけが残されており。
「結構です」
「……はい?」
こういう手合いはさっさと切るに限る。
そう決断を下したリリアは、もう一度、今度はしっかりとこのおめでたい頭に届くよう噛み砕いて告げた。
「ご遠慮申し上げます。ご指摘の通りわたしにはお友達と呼べる奇特な方はいたためしがありませんけれど、それを格好のせいに出来るほど明るい性格はしておりませんので、あなたのグループとやらに入っても双方にとって碌な事にならないと思われます。ついでに付け加えさせて頂くなら、異性の恋人も今のところ必要性を感じておりません。ご配慮は痛み入りますが、またの機会にして頂けるととても助かります」
簡潔に要約すれば「構わないで下さい」と言ったところだろう。
これを馬鹿丁寧な長台詞で包んだリリアに対し、アンジェリカは数秒の時間を要してから何かに気づいた様子で、みるみる内に怒りで顔を染め上げていった。
「ああ、そうですか! またの機会ですって!? そんな機会、二度とあるわけありませんわ!! 全く、人の親切を踏み躙るばかりか馬鹿にして」
(馬鹿にした覚えはありませんけど。ただ、面倒臭い相手だと思われるように長く語ってみただけで)
激昂するアンジェリカを見つめながら、心の中だけで応じてみせるリリア。
何事か続けるアンジェリカの声を聞く素振りで、別の事に思考を巡らせていく。
(機会がないのは願ったり叶ったり、在り難い話ですが……それにしても親切とは、この方のどの辺りを指しての言葉なのでしょうか?)
アンジェリカの齢は少なく見積もってもリリアより一つ上。
かといって敬われるところが特になく、誘いの言葉にしても上品染みた口調の割には品がない。
(地味を理由にその方のグループへ誘われる事はままあっても、男性を紹介すると言われたのは初めてです。しかも一人か二人などと。どれだけ色欲が強いと思われているのでしょう)
勘違いも甚だしいと眼鏡の奥で不愉快に寄せられる眉根。
しかしはたと思い直しては、やはり表には出さず胸内でぽんっとひらめきの手を打った。
次いで改めて、飽きもせず怒りを雄弁に述べているアンジェリカを見つめると、それと分からないくらい小さく頷いてみせた。
(なるほど。つまりこの方の基準はご自身であり、ボーイフレンドの数も最低一人か二人いるのが普通、というわけですか)
それなら納得できる。
「――ちょっと! 私の話、聞いていまして!?」
今頃になってリリアの意識が余所に向けられていると察したアンジェリカが机を叩けば、乗じてゆっさと振れる豊かな胸元。
納得するに至る証拠の品をついついリリアは目で追ってしまったが、眼鏡のお陰で当のアンジェリカはそんなことなど露知らず。
「ふんっ! もういいですわ!」
そんな言葉を吐き捨てて、「私のグループ」と表した少女たちの集団の輪の中へと帰って行ってしまった。
けれどもリリアは経験則から知っていた。
もういいと断言する輩ほど、後々無駄に構って来ると。
しかもその構い方というのは大抵決まっており。
早い話がその日からリリアの周りで、いじめらしき現象が起こり始めるのである。
まず最初に行われたのは徹底した無視。
次に始まる明らかにリリアを対象とした嘲笑。
その次は通りすがりに足を引っ掛けるといった軽い嫌がらせ。
典型的なエスカレート形式で進みつつあるいじめの初期段階に対し、リリアが行った事は……特になかった。
そもそもリリアにはクライスメイトに話しかける必要もなかったし、笑い声にしても気にしなければ問題はなかった。
勉強するのに邪魔なだけで。
ただし、物理的な事に関してだけは容赦なく抵抗をさせて頂いた。
引っ掛けようとする足があるならこれ見よがしに踏みつけ、難癖を付ける前に全力で謝罪。
勿論、クラス内などという閉鎖的な場所は選ばない。
物を隠される心配が生じたなら自分から隠しておき、そうでなければ常に持ち歩くよう注意しておく。
続いて起こる黒板等を用いた中傷紛いの攻撃には、完全な無視を決め込んだ。
何せリリアが守らなければならないのは自分の身体と勉強道具だけで、精神面まで嫌がらせにかまけている余裕はないのだ。
傷ついている暇があるなら一日でも早く上のクラスに進み、卒業年齢に達する前までには全科目を網羅しておく必要があった。
でなければ学校を卒業して後の生活の幅が狭くなるばかりなのだから。
物心つかない内に両親を亡くしたリリアは現在、母と交流があったという女の下に身を寄せていた。
特に優遇された事も不遇だった憶えもなかったが、女は時々思い出したかのように「何処か遠くへ行きたい」と言い、リリアはその度漠然と考えたモノである。
自分が自立すれば、離れれば、いなくなれば、彼女は好きなところに行けるのだ、と。
だからこそリリアはここまで育ててくれた女に報いるためにも、彼女のいないところでもしっかり自立出来るよう、周りがどうあれ躍起になって勉強を続けていく。
孤立すら、好都合だという風体で。
やがて訪れる、大した反応を示さないリリアへの飽き。
元々アンジェリカの難癖で始まった行為のため、アンジェリカ自身が飽きれば付随していただけの連中も、思いの外あっさり手を引いた。
足を踏まれた者とて元を正せば自業自得、しかもリリア自身に公衆の面前で謝罪されているため、足を理由に手を出そうものなら十中八九、狭量だとからかわれるのがオチだろう。
場合によってはリリアの無反応を生意気だと取る輩もいるかもしれないが、このクラスの連中にはアンジェリカも含めてそこまでの考えなしはいなかった、というところか。
だからと手の平を返してリリアへ親しくしようとする者もおらず。
相変わらず一定の距離を置く状態ではあるものの、積極的な嫌がらせを受けなくて良くなった分、回避に割く時間も必要がなくなり、リリアの勉学は見違えるほどはかどっていった。
嫌がらせを受けていた最中は警戒してあまり近づかなかった閉鎖空間にも入れるようになり、しばらく利用していなかった学校近くの図書館の扉も、この先に何か待ち構えているのではないかという想像も躊躇も要らずに、簡単に開ける事が出来た。
リリアにとってはそれが何より嬉しく、この時になって初めて嫌がらせが終わって良かったと心の底から彼女は思ったのである。
――入館の折に閉めた扉の音が、今生との別れの鐘代わりだったとは夢にも思わずに。
今のクラスに上がる前までしつこいくらいに通っていた図書館は、言うなればリリアの領域そのもの。
頭の記憶以上に身体が蔵書の位置を覚えていたため、久々であるにも関わらず、リリアは真っ直ぐ目的の本棚を目指して歩いて行く。
ここでもし、彼女が少しでも視野をずらし広げていたなら、もっと早く異変に気づけただろう。
静かである事が基本の図書館とはいえ、就業時間までまだあるというのに何の音もしないカウンター、誰の影もない読書スペース。
学校終わりの時間帯、夕焼けの色が差し込むはずの窓やステンドグラスの、常夜灯にしても明るい白い光を帯びた陰。
けれども逸る心はリリアから注意力というものを奪い去っており、彼女が何か可笑しいと思い始めたのは、意気揚々と歩いてかなり経った時の事。
それすら久方ぶりの訪問のせいにしては、疑問符に幾度となく首を傾げつつ更に進んで行き。
「……え、と? この図書館、こんなに広かったでしょうか」
ようやく立ち止まったのは、足下を照らす光が棚に備え付けられた薄暗いランプの明かりのみになった時だった。
この時になって初めてまともに前方を見やったリリアは、以降も続くランプの光と本棚の陰、大人三人が並んで歩ける本棚と本棚の間の通路の暗がりの深さを知り、ひくり、口角を引き攣らせた。
「な、何故に? もしや図書館の企画で騙し絵などを展示しているのでは……」
異様な光景を前にして、常識で考えたモノを口にする。
決して、勉強の合間の気分転換に読んでいた、幻想小説を眼前の現実に重ねたりはしない。
かといって騙し絵案に現実味があるのかと問われたなら、リリアとて非常に疑わしいとは思っていた。
思ってはいたが……他に通用する常識が思いつかなかったのだから仕方がないだろう。
それでも苦し紛れに考え続けたならば、ここは夢の中、というメルヘンチックでも割とマシな方向性を見出す事が出来るかもしれない。
――未だかつて、ここまでクリアな夢を見た事はないものの。
兎にも角にもリリアは自身の仮説を証明するため、騙し絵を求めて歩みを再開させた。
左右に物言わぬ本の背表紙を従え、本棚の終わりと始まりを三回ほど経験。
「……ま、真ん中って長いですよね! 目指すならやはりここは端の方が利口でしょう」
足を止め、無駄に大きな独り言を言ってのけたリリアは、自らの妙な理屈へ頷きつつ、次の本棚の境を左に折れて進んでいく。
今度は左右に、ランプと暗がりを交互に流しながら。
最初は普通の速度だったのが、横にも長い通路に顔が強張り始めて徐々に早くなり、沸き起こる不安と恐怖を抑え込むべく引き結ばれた唇が無理矢理笑みを浮べたなら、肩が不自然に揺れ始めて完全な早足となる。
やがて覚える口の乾きは舌をもごもご動かして誤魔化し、手提げ鞄は両腕を振る事がないよう強く胸の前で抱き締められた。
あくまでここはリリアの住む町の図書館であり、走るほどの広さはなく、煩くして良い場所ではない――そう呪文のように自分に言い聞かせる。
得体の知れない場所に迷い込んでしまったという可能性は、全面的に排除し否定し、欠片でさえもその存在を許さずに。
最終的に前のめりになって歩く自分の姿も無視したリリアは、前方の暗がりばかりを睨んでいた目に違う景色を見つけ、眼鏡の奥を喜びに輝かせた。
「ほ、ら。壁……が、在る……では、ありません、か……」
限界に近づいている乱れた呼吸も、通り過ぎてきた本棚の側面とランプの数も、勘違いだと言わんばかりにリリアの足は壁を求めて速度を増していく。
だが、どれだけリリアが否定してみたところで疲労は本物。
鞄を落としても気づけなかった手が壁を触る頃には、全身汗だく、ふらふらの姿がそこには在り。
「ちょ……きゅうけい…………しましょ」
折角触れた手を離したリリア、代わりに背中を預けるとその場にずりずり座り込んでしまった。
酸欠で朦朧とする頭を壁に擦り付け、首を逸らして喉を晒し、暗いだけの天井に荒い息を何度もつく。
眼鏡に張り付く前髪を除けるため分厚いレンズを取り払い、髪をかき上げながら今まで歩いていた棚とランプに挟まれて続く道を眺めた。
「……眼鏡のせい、では、なさそう、ですね」
眼鏡越しよりもくっきり見える視界だが、映る景色には新たな発見はなかった。
そう、何を隠そうリリアの視力は本来、野暮ったい眼鏡を必要としないくらい良い。
ついでに言ってしまえばその顔立ちも、地味で通すには難しい代物だった。
崩れてしまった二つの三つ編みを解し、代わりに後ろへ一つに纏めて縛ったなら、薄暗い中でもはっきり映し出されるその美貌。
穏やかに整えられた眉毛、長い睫毛に縁取られたセレストブルーの大きな瞳。
トラブルが見受けられない肌はマシュマロのように滑らかで柔らかく、形の良い朱唇は果実のように瑞々しい。
鼻筋の通った輪郭にそれらがバランス良く配置されたなら、いつもの服装も一気に地味から脱却、変えた髪形も相まって理知的でいて優しい印象を与えてくる。
もしもこの場に隠されていたリリアの容姿を総評する者がいれば、私情混じりにこう言うに違いない。
食べちゃいたいくらい可愛い――と。
リリア自身、そんな自分の外見をよく知っていた。
彼女が四歳の時に眼鏡を勧めてきた、共に暮らす女から、洗脳かと疑ってしまうくらい散々言われていたために。
曰く、あんた可愛いからコレ付けとかないと、間違いなく犯罪に巻き込まれちゃうわよ、と。
しかし今、どれだけ周囲を見渡しても彼女の他に人の気配は在らず、涼しくなった目元を遠慮なく袖で拭ったリリアは逆に思ってしまった。
(この際、犯罪者でも構いませんから現れて下さらないでしょうか?)
勿論、リリアの住む町の出身者限定で。
そうすればまだリリアには希望が残されている。
ここは確かに現実で、自分は異様だろうが町の図書館で迷子になっただけだ、という。
まあ、相手が本当に犯罪者なら、死に物狂いで逃げる必要はあるが。
仕様もない妄想を働かせて気を紛らわせるくらい、体力と精神力を回復させたリリアは、そんな諸々の妄想を払うように首を振ると、疲れの名残を見せる身体をふらつかせながら壁を支えにして立ち上がった。
逆の手に持つ眼鏡を握り締めながら、もう一度辺りに視線を巡らせる。
(壁には辿り着きましたが……見た目にはあまり代わりがありませんね。どこまでいっても見えるのは本棚とランプ、先の分からない暗闇だけですし。一旦戻るにしても元の道を行けるかは不明。混乱していたとはいえ横に逸れたのは失敗でしたね)
見知らぬ場所への緊張から高鳴る胸に喉を鳴らし、眼鏡ごと手を胸の上に置いては壁を背にした右、通常であれば出入り口に抜けられる方向を裸眼に捕らえた。
(残された手段はここを真っ直ぐ進む事のみ。抜けられない可能性も、認めたくはありませんが、この可笑しな空間では在り得るでしょう。それでも)
こんなところで立ち止まってはいられない。
「……行きましょう」
誰かに告げるように、自分に告げた。
ともすれば冷静になった分、怯みそうになる心を鼓舞する。
壁についていた手を押して離し、一人立つ身で深呼吸を一つ。
前を捉えた顔を引き締め、出口を求めて一歩を踏み出す。
不安ばかりが募る足取りは重く、変わり映えしない光景の連続はリリアの力を悪戯に摩耗させていく。
だが機械的な動きでも進めば着実に、今までより前には移動出来ているはずだ。
本棚ばかりを流してきたが、邪魔な眼鏡を取っ払って見やすくなった視界には、本の背表紙の違いがはっきりと見えていた。
進んできた道を思えば膨大量の本ではあるものの、一つとして同じ本がないのは出口を求めるリリアにとって心強い。
無尽蔵でも、やはり終わりはあるのだと分かって。
だが――
ある本棚まで通り掛かったその時、ソレは前触れもなくリリアを襲ってきた。