刹那的御主人 その2
尻尾と同じチャコールグレイの、鱗肌で形成された足。
先には鋭く白い爪を携えているものの、床を打ち鳴らすのは裸足の軽い音。
くるぶしから甲にかけて包帯状の布が巻いてあり、これが彼にとって靴の役割を果たしているようだ。
かといって、小柄な身体を包む服には、靴のような野性味はなく、純白の衣や縁を彩りながら伸びる蒼の刺繍は、法衣のように厳かな雰囲気を醸し出している。
そんな刹那の御主人を見つめるリリアは、中でも一番目を引く頭に視線を釘付けにした。
エニグマによく似た、しかし、彼よりももっと、リリアの知る幻想生物に近いその姿は、紛れもなく――
むにっ。
「ほへ?」
ぺたぺた近寄る刹那の御主人に合わせ、リリアが徐々に顔を下へ向けたなら、何の前触れもなく突かれた頬。
突然の事にリリアの動きが止まっても、刹那の御主人は構わず、何度もその頬を押していく。
幾つもの白い角を持つ、少々丸みを帯びた竜の頭の下、やわらかい紫色の瞳をキラキラ輝かせながら。
「おお、凄いぞ、刹那! この自動人形、すっごく柔らかい! うわー、いいなー、欲しいなー! どこの製品だろう? 僕のお小遣いで買えるかな?」
「あ、あの?」
ひとしきり頬に触れた後で、リリアの背後に回った刹那の御主人は、戸惑う彼女を余所に、これまた唐突に、スカートを捲ろうとしてきた。
「きゃあっ!?」
さすがにこれは黙認できず、リリアが抵抗しようとしたところ、それよりも先に刹那の御主人が、横からの打撃を受けて本棚に激突した。
「え……え? ええ? せ、刹那、さん?」
二度ほど上がる鈍い音に、リリアの目がこれをもたらした刹那を認めたなら、それまで守っていたはずの対象を、どこに隠し持っていたのか、太い棍棒で叩いた彼女は、清々しいほどの無表情でこちらに首を傾げた。
『館長、平気?』
「は、はい。わたしは……でも、それより刹那さんの御主人が」
『御主人、今之駄目。悪漢然。土羅群失格』
「? どらぐん?」
それまで辛うじて理解できていた刹那の言葉だが、聞きなれない単語の出現に、リリアは答えを求めるように反芻した。
すると返ってきたのは刹那からではなく、あれだけの衝撃を受けてなお、ビクともしない本棚の下で、よろよろ起き上がった、彼女の御主人。
「ドラグーン、だ。刹那、また勝手に字を当てたな?――ってて。てか、お前、僕の自動人形のくせして、何で僕を攻撃するんだよ!」
オーキッドの瞳にたっぷり涙を浮かべ、刹那の御主人が少年の甲高い声で叫べば、これを涼しい顔で受けた刹那が、嫌味ったらしく姿勢を正して頭を垂れた。
『御主人之言分、御尤。刹那、猛省。併、彼女、非自動人形。彼女、此処之館長』
「え? 館長? ここってそんなのいたのか?」
「そんなの、ですか」
「あっ! ええと、その、なんだ。……悪かったな、勘違いして」
リリアの声に慌てて謝罪を伸べた刹那の御主人だが、その言い方はどこか偉ぶって聞こえる。
身なりが身なりであるため、昨日訪れたプリマたちと同様の貴族なのかとリリアが勘繰れば、そんな御主人に近づいた刹那が、今度はグーで彼の頭をぱしりと叩いた。
「ぃたっ! 何をする、刹那!」
『御主人、無礼之極。変態行為、重罪。謝罪、誠実第一』
「へ、変態!? 失敬な! そ、それは確かに、女の子にする事ではなかったかもしれないが……。でも、僕は知らなかったんだぞ!? 自動人形だと思ったから、製造番号を調べようと思って」
『館長、御主人之非礼之数々之許、刹那、願出』
しどろもどろになる御主人を無視して、頭を下げる刹那。
この様子にいじけた素振りで顔を背けた御主人は、口の先で文句をブチブチ呟く。
決して正しいとは言えない主従関係を前にしたリリアは、先程まで御主人に突かれていた頬を掻きかき、小さく首を振った。
「あまりお気になさらないで下さい。そちらの事情は、大体判りましたので。とはいえ、お聞きしたい事があるのですが……お時間、頂けますか?」
「おお、許すか。うん、良い心がけだ。だが、僕にはお前と話している時間は――」
『受諾』
「刹那!? お、お前また、この僕を無視して話を勝手に」
『館長、場所移動依頼。御主人之騒音、刹那、飽々』
「お、おま、お前ぇ~っっ!!?」
使用人姿の刹那に軽くあしらわれた御主人。
言葉にならない激昂をして後、刹那へ殴り掛かろうとするのだが、頭を押さえつけられてはリーチの差で腕が彼女に届かない。
それでも必死に拳を振り回す、だからこそ微笑ましい御主人の姿に、リリアは何とか笑いを堪えつつ、閲覧スペースを指差した。
「で、では、あちらで宜しいでしょうか?」
『受諾』
「僕は良くない!」
攻撃を諦めた御主人が頭に乗せられた刹那の手を払った。
その直前でひらりと避けた刹那は、無表情ながら冷ややかな露草の眼差しを御主人に向ける。
『御主人、我侭駄目。否、御主人別行動、刹那、推奨』
「なっ!? ぼ、僕に、この僕に、一人でこんな薄暗いところを行けというのか!? お前は僕の護衛でもあるのに!?」
悲鳴に近い声音で叫ぶ御主人の眼には、心細さと裏切られたという悲しみが浮かぶ。
これを認めたリリアは自分の提案が、ここまで彼を傷つけてしまったのかと思ったのだが、対する刹那はあくまで冷淡だった。
『肯。御主人、巣立之時。達者願』
「くっ! こ、この野郎!』
『否。刹那之身体、今、女性体。此之阿魔、訂正要求』
「ああ、もう! すぐそうやって挙げ足を取るんだ、お前って奴は! いいよ、もう! 僕も行ってやるから!」
『不必要。御主人、即刻退去命令』
御主人の足がリリアの指した方向に一歩踏み出せば、別方向を指差した刹那が言い捨てる。
これに動きを止めた御主人、髪を乱す要領で角の根元を掻くと、刹那に向かって勢い良く指を突きつけた。
「ぐあーっ! もうっ、本当にっ、主人を主人と思わない奴だよな、お前は! 何でこの僕が、自分の自動人形に命令されて、いなくならなきゃならないんだ! いいか、意地でもついて行くぞ、僕は! 止めても無駄だからな!」
『……御勝手』
へっと笑うように刹那が吐き捨てたなら、チャコールグレイの尻尾を怒りにピンと立たせた御主人が、再度、閲覧スペースに向かって歩き始めた。
このやり取りをただただ見ていたリリアは、突き放すような事を言っていた割に、そんな御主人を見守る刹那の隣に移動した。
「……もしかして刹那さん、わざと、ですか?」
『御主人、取扱簡単、単純過。刹那、涙物也』
溜息をつくように首を軽く振った刹那は、リリアを見やると目の下を盛り上がらせた。
不自然ながら初めて見る笑みを象ったそれに、少しだけ目を見張ったリリアは、微笑み返すと「そうですか」と小さく頷き。
「あ、そうでした。刹那さんの御主人、あなたのお名前は?」
彼の従者ではない以上、御主人と呼ぶのも妙な気がして問うたなら、忌々しそうに振り返った彼が答えるより早く、隣にいた刹那がさらっと答えた。
『御主人之名、裸婦絵慰撫』
「は?」
「~~~~っ!! せーつーなー? 何でお前、僕の名前に当てる字だけ、妙にいかがわしい響きにするんだよ! 館長、違うからな! 僕の名前はラフェイブ! ドラグーンのラフェイブだ!」
『一族史上、最弱無能之御主人也』
「がああああああああああああああああああああああああああっっ!!……もおやだ、コイツ」
どこまでいっても、御主人と呼ばれる割に刹那から敬われる気配のないラフェイブに、徐々に慣れて来たリリアは、そんな彼らの関係を微笑ましいと眺めていた。