安らかならざる眠り その2
星の瞬き 月の光
迎える夜には 夢が招く
今日はどんな一日でしたか?
楽しかった?
嬉しかった?
それとも、哀しかった?
どんな日であれ 感じた心は
きっと疲れてしまった事でしょう
だから さあさ
お眠りなさい
星は囁く 眠りの刻を
月は導く 静寂の入江
夢は輝く 貴方と共に
目覚めは遠く 闇は深く
眠れ眠れ 愛しい児
安らかなる眠りを 私は捧ごう
目を閉じて
眠るように 祈りながら
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天井から大判の図書が並ぶ本棚の上まで、緩やかなカーブを描く曇りガラス。
そこから滲む白い柔らかな光に照らされた図書館の一角では、現在、クロムイエローの頭に氷嚢を乗せた少女が、うんうん唸りながら、幾つかある円卓に肩から上を投げ出していた。
あらゆる世界の本を網羅した、それ自体が一つの世界である図書館の館長とは、到底思えぬ姿である。
と言っても、彼女自身が館長、引いては魔道書になってしまったのだと知ったのは、つい昨日の事。
それまで彼女――リリアは、特にこれと言った芸もない、単なる人間の少女に過ぎなかったのだから、一目見て館長と判るような雰囲気を持てと言われても、土台無理な話であろう。
様々なモノを図書館内に創り出せるようになった今でも、己の身や立場が変わってしまった事に対して、完全に納得など出来ていないのだから。
昼夜問わず同じ景色を見せる館内にあって、昨日という尺が出来るサイクルを未だ引き摺るなら、尚更に。
「く……ぁ…………ううぅ………………」
リリアは突っ伏した状態で、何度目になるか判らない、意味のない呻き声を上げた。
脳を直で揺さ振るような怪音波を浴びせられたのだから、無理もないだろう。
もし、未だこの身がヒトであったなら、既に命はなかったとさえ言える……かもしれない。
途切れ途切れになる意識の合間で、そんな事を考えたリリアは、魔道書で良かったと思う反面、魔道書でなかったら、とも思った。
ヒトから精神を移し取った、強い力を秘めし魔道書が彼女の本体でなければ、擬態でしかないはずの身体に、ヒトのサイクルが見事に再現される事もなかった。
そしてその結果――必要となる睡眠時間を慮ったエニグマが、子守歌を披露する事もなかったはずだ。
「ぁぐっ……うぐぅぅ…………」
円卓の上に爪を立て眦に涙を浮かべたリリアは、苦悶に喘ぎながらも、昨日の経緯を思い出していく。
昨日、別の世界からの来訪者を迎え、そして見送った後に襲ってきた強烈な眠気。
花竜という別の世界の種でありながら、今のところ図書館から出て行く気のないエニグマは、これを魔道書のせいだと説明する。
彼の魔道書が、人間だった精神を保つために、人間の中に息づく生活サイクルを再現したせいだと。
だから眠れ、と言われても、椅子と円卓しかない、人間とは姿形が違っても男だというエニグマのいる空間で、眠りに興じる事は出来なかった。
本体がヒトを撲殺できるような分厚い本であっても、魔道書になったショックから知らない内にかなりの時間を経過していたとしても、リリアの精神は十四歳の少女のままなのだ。
ゆえに、意識していると勘繰られては面倒だとエニグマ云々を抜いて、椅子と円卓しかないから眠れない旨を伝えたなら、思いの外、彼は理解を示してくれた。
そして、それならイイ物があると言い、赤と黒のコートの陰からエニグマが出してくれたのは――
一度、リリアを納めた事のある白い柩。
花竜は儀のための道具なら、何でも自由に後ろから取り出せる。
そんな事を誇らしげに語るエニグマに対し、顔を一気に青褪めさせたリリアは、全身全霊で即座に拒否した。
不可抗力で入ってしまった過去があるとはいえ、柩とは元来、死者を弔うために存在している。
無機物でも、死んだ憶えのないリリアには、相容れない代物だった。
第一、これではエニグマを遠ざける事は出来ないだろう。
リリアの嫌がりように、からかいを自分の専売特許と豪語するエニグマは、喜ぶでもなく渋々柩を背後に戻した。
りりあは我が侭デス、と不満を漏らすところを見るに、どうやら柩を出したのは彼なりの親切心だったらしい。
――からかいだったらまだ救われたものを。
あからさまにがっかりした様子のエニグマを前にして、言いたくなった言葉をぐっと堪えたリリアは、こうなったら仕方がないと、先程故意に隠した事を口にした。
エニグマがいると眠りにくい、と。
リリアの直球を受けたエニグマは、きょとんとした様子でしばし間を置くと、納得の合図に握った拳を広げた手の平にぽんっと落とす。
りりあは誰かがいると眠れないのだな、と少々の曲解をしつつ。
しかし言われてみれば、ここは曲がりなりにも図書館。
どこで眠ろうとも、誰も来ないとは言い切れない。
ではどうすれば良いか、悩むリリアを余所に、不可思議な紋様を描く布の奥で楽しそうな雰囲気を作ったエニグマは、彼女へ良い案があると告げてきた。
図書館の中にリリアの寝室を作れば良い、という。
かといって、図書館の中に一室増やす行為は、他の世界に直せば島を一つ創るに等しく、魔道書になったばかりのリリアでは、かなりの労力を要してしまう。
だから、とエニグマが続いて提案したのは、図書館を案内した際に立ち寄った、外と見紛う閲覧スペースの一角に小屋を建てる、というものだった。
そうして眠気を抱えたまま移動したリリアは、出入り口からは見えない場所に小さなログハウスを創り、エニグマと別れた後でようやく眠りについたのだ――
が。
「……ふ、ぅ。ど、どうにか耐え切りました」
親切という名の地獄から無事生還を果たしたリリアは、億劫そうに氷嚢を避けると、水音をさせるそれをたぷたぷ弛ませながら、仰々しい溜息をついた。
「エニグマ……やはり彼は、気づいていないのでしょうね」
少しでも思い出せば、まだツキツキ痛むこめかみ。
リリアは眉を顰めつつも、エニグマが歌った子守歌を思い、泣きたい気分に陥ってしまった。
「あの、破壊力満点の音痴っぷり……誰が教えると言ったら、わたししかいないような気もしますが」
視界も霞み歪む、絶望的な旋律の只中にあって、それでも認めてしまったエニグマの歌う姿は、歌が大好きだという思いに満ち溢れていた。
しかも今回は、リリアに心地良い眠りを提供しようという、思いやりまである始末。
死人が出るのでは!? と怖れてしまうほどあなたは音痴です、などリリアに言えるだろうか。
たとえ子守歌で悶え苦しむ様を眠りについたと勘違いし、それと同時に襲われた眠気でリリアのベッドをほぼ占拠、今もそこで眠っているのだとしても。
「言えない……言えません。わたしには、無理です」
今にも息絶えそうな細い声で、青褪めた顔で、リリアは己の不甲斐なさを呪った。