安らかならざる眠り その1
目を閉じたまま、もぞもぞする事、数分。
負担が掛からない程度にふかふかした布団から、少々乱れたクロムイエローの髪をにょきっと出したなら、鮮やかなセレストブルーの大きな瞳がゆっくりと開かれていく。
ぼぉっとした眼が捉えたのは、一つしかない壁のランプでは防ぎきれない、闇夜の揺らめき。
「ん……まらくらひ、れふ。もおすこひ、れむるろれふ」
寝具に半分押し付けた、ふっくらとした朱唇より紡がれる、あまり意味のない言葉。
これを合図に再び瞳が閉じられようとすれば、
「りりあ。まだ寝るのか?」
彼女の目と鼻の先に、グラスグリーンの鱗を持つ、爬虫類の鼻面が置かれた。
「ぅみゅ?……おっきなとかれぇ」
合わせて為された問い掛けに、もう一度目を開けたリリアは、ざらざらしたその肌へたおやかな手を伸ばした。
不可思議な紋様を描く布から鼻先にかけてを数度撫でつけ、単調なその動きにまたしても瞳を閉じていく。
が、次の瞬間、ぱちっと目を見開いては、驚いた様子で瞬き。
「えり、ぎゅま?」
「えにぐまは、えりぎゅま、じゃない。えにぐまデス」
「……あぁ、そうでしたそうでした。何やら家の布団にしては、寝心地が良いとは思っていましたが、ここは図書館、ですものね」
布団からのっそり上体を起したリリアは、顔に掛かる長い髪をかき上げると、未だに鼻面をベッドに沈ませ、脇では長身痩躯をコンパクトに縮ませたエニグマを見て、にっこり笑った。
「おはようございます、エニグマ」
「おはようデス、りりあ」
「それで――」
リリアの寝惚け眼がぐるりと室内を見渡す。
とろんとした瞳に映るのは、自分が使っているベッドとテーブルと椅子以外には家具のない、簡素なログハウスの内装。
所々に散乱している花は、エニグマのシルバーグレイの髪から落ちたモノだろう。
夜の景色をくりぬいた窓はあるものの、開くようには作られておらず、また、どこかへ通じる扉も室内には見当たらなかった。
リリア自身がそういう風に創造したのだから、間違いない――はずなのだが。
眠る前の記憶を手繰り寄せ、変わったところは何もないと確認した後、リリアの視線が次に見たのは半分寝具に包まれた自身の姿だ。
頼りない細さの肩紐に続く、薄い守りの白いワンピース。
覗けば発育途中の二つの丸みが、ワンピースの中にしっかりとした陰を作っている。
今一度、リリアの視線がエニグマに向けられたなら、寝具に半分埋まった大きな口が、鋭い牙をちらつかせつつ小さく傾いた。
「それで?」
「…………」
眠りから脱せない頭が、その問いを自身が発した言葉の復唱と理解するまで、数秒。
エニグマの呑気さに微笑みが若干引き攣り始めたなら、合わせてリリアの首が傾ぐ。
と同時に、肩紐の一つが腕を滑って落ちた。
「出入り口もないのに、どうやってお入りに?」
人間の形を象ってはいるが、本体は一冊の本であるリリア。
それでも精神は見た目通り年頃の少女、違う種族とはいえ男のエニグマが、共に寝室に在るのを良しとした憶えはなかった。
だからこそ、このログハウスの内装には、出入り口を作らなかったはず、なのに。
依然として寝具に顎を置いたまま、エニグマはいけしゃあしゃあと言った。
「勿論、魔道書に言って、デス。暇になった、入れろと言ったら、簡単に入れたデス」
手にした者のどんな願いでも叶える魔道書――リリアの本体。
手にした、とは魔道書の名前を魔道書自身がその者に許す事を意味しており、彼女からその名を明かされたエニグマの願いは確かに叶えてきた。
しかし、彼女の意にそぐわない願いは叶えられないはずで、それを教えてくれたのは、他でもないエニグマ自身。
だというのに、彼の願い――というか命令を叶えてしまった理由は。
(……眠っていたから、でしょうね。だから無意識に、エニグマの願いに反応してしまった)
もしもこれが他の者の所業なら、眠りの時をわざと狙ったのでは? と疑えるものの、相手がエニグマでは素でやったとしか思えない。
怒るポーズすら取れず、リリアの口から溜息が零れ落ちた。
「暇……私、寝ていましたよね?」
どちらにせよ、エニグマの暇は解消されなかっただろう。
そんな意味合いを込めて眉根を寄せれば、ようやく身を起こしたエニグマの手が伸びた。
黒く鋭い爪にリリアの落ちた肩紐を引っ掛け、元の位置まで戻した彼は、薄くとも整った格好に満足げな鼻息をつく。
「にゃー。勿論デス。りりあは寝るために此処を創ったのだから、当たり前デス」
「では、入ってきても、やはり暇だったのでは?」
「にゃ? そんな事はないデス。りりあを視ているだけでも、充分面白かったデス」
「……視てた? 眠っている私を?」
「視てたデス。眠っているりりあを」
「…………」
「…………」
エニグマの目元を隠す布と見詰め合うこと、数秒。
ぽすっとベッドに倒れたリリアは、うつ伏せになって枕に顔を埋めると、くぐもった深い息をそこでついた。
(こういう場合、どういう反応を示すのが正しいのでしょう? 怒るべきか、それとも恥ずかしがるべきか)
左目だけを横へ傾けたなら、またしても同じベッドに顎を埋めるエニグマの姿がある。
のっそり動かした左手で、「おっきなとかれぇ」と言った時のように、その鼻面を撫でてみれば、ざらざらした感触が返って来た。
(……でも、エニグマが相手では、どちらの気も失せてしまいますね)
エニグマが入れないよう出入り口を閉ざしたリリアは、実際こうなってみると、あまり気にしていない自分に気づいた。
それどころかこの平常心、こうなる事を無意識に予想していたのだろう。
(互いを知り合ってから、まだ一日も経っていないはずなのに)
そんな事を思いつつも、うとうとし始めるリリアに対し、撫でられるままだったエニグマが低い声で問うてきた。
「りりあ、おはようは? 起きるのではなかったのか?」
「ん……やっぱり、も、すこし……ねむたい、です」
心地良い低音に辛うじて開いていた眼が閉ざされたなら、静かな声音が闇の中で小さく頷く気配。
「そうか……では、某が子守歌を歌ってやろう」
重みが退き、弾むリリアのベッド。
「……………………………………………………………………え?」
左手から鱗の感触が逃げるのを追うように目を開けたリリアは、エニグマのコートに付けられた楽器が取り外される様を認め、眠気を吹き飛ばす嫌な予感に襲われた。
(エニグマの楽器の腕前――は中々ですが……子守歌?……こもり、うた。うた……エニグマ、の?)
「ひっ!? え、エニグマ! ちょっ、ストッ――!!」
エニグマの子守歌――指し示すところが何なのか、リリアが理解し制止を叫んで飛び起きた時には既に遅く。
その歌は、始まってしまう。