閑話
「そういえば」
「にゃ?」
まだ中身の入っているティーカップを皿に置いたリリアは、彼女の声にティーカップを置いたエニグマへ首を傾げた。
「色々あってそのまま流してしまいましたが、プリマさんやイディリアさんがお住いの世界とは、どのようなところなのでしょうか? お二人の容姿には、わたしが住んでいた世界の四つ足の獣の部位が見受けられましたので、そういう種族が暮らしているというのは判りました。でも、わたしやエニグマの容姿は珍しいのでしょう? 何か基準があるのですか? それに魔法もすんなり受け入れていましたし」
「そうか、りりあの世界には魔法は存在しなかったのだな。その割には上手く使えていたような気もするが」
「それはたぶん、本体である魔道書のお陰ですね。あとは、魔法の存在しない世界ではありましたが、魔法という力への認識は書物等にありましたから。そもそも存在しないとは言っても、わたしは世界の全てを知っていた訳ではありませんので、本当のところはどうだったのか判らないのですけれども。現に今、こうして別の世界にはある話でしょう? まあ、確かめるつもりもありませんが」
紅茶を飲む事で一旦話を区切ったリリア。
自分の話よりもエニグマの話を聞きたいと、カップを置きがてら、ギザギザしたシルバーグレイの髪が垂れる、不可思議な紋様の布を見つめて促す。
彼曰く、よく視えるという布に覆われた目は、しっかりリリアを捉えて頷いた。
「そうだな。とりあえず、プリマたちの世界では魔法は一般的デス。知識を得る事で魔法の幅が広がるから、若い者より老いた者、貧しき者より富める者の方が魔法の腕は上デス。プリマたちを例に上げるならば、プリマはあれでも魔法の腕前は中の上、イディリアは最上位に近いデス。尤も、魔法の感覚という点においては、プリマの方が上だ。だからアレは本能的に敵味方を分けられるデス」
「イディリアさんは、プリマさんが幼いからわたしを怖れない、と仰っていましたが?」
「にゃー。否定はしない。だが、イディリアの怖れはアレ自身が言う通り、後天的なモノでしかないデス。魔法を何たるか知るがゆえの恐怖。だから、プリマが将来においても今の感覚を維持していたなら、りりあを怖れる事はないデス。安心していい」
「…………」
イディリアの言葉をまだ引き摺っていると知られ、気恥ずかしさを隠すようにティーカップに口をつける。
そんなリリアの行動を余所に、自身も紅茶を一口含んだエニグマは、軽く息をつくともう一つの疑問に答え始めた。
「プリマたちの世界の住人の基準は、えにぐまの知るところではない。そもそも、その質問は自分の世界が基準となっているからこそ、出てくる問いだろう?」
「言われてみれば、そうかもしれません」
「にゃ。だがしかし、りりあとえにぐまの容姿が珍しいのは確かだ。プリマたちの世界には、りりあのような耳や鼻の形をした者はいないし、えにぐまのような肌を持つ者もいない。だからこそえにぐまは姿を変える必要があるデス。とっても面倒臭いデス」
本当に面倒臭いのだろう、エニグマの首が億劫そうにやれやれと横へ振られた。
と、ここで、リリアの中に新たな疑問が生まれた。
「姿を変える……それならば何故、イディリアさんに似た姿へ?」
「にゃ? イディリアにでも聞いたのか? それともプリマか。……まあ、どちらにせよ、それは間違いデス。えにぐまはその世界に一番馴染みそうな姿になっただけ。それがたまたまイディリアの一族に似ていただけデス」
「一番馴染む姿……? つかぬ事をお聞きしますが、容姿の美醜は」
「にゃ。関係ないデス。美醜は指定なしデス」
「ということはつまり」
(エニグマは、花竜の中では、そこそこの美人さん?)
プリマが声高に唱えていた「フェロモン」は無視しつつも、疑惑の美人たる爬虫類の鼻面を見つめたリリアは、はたと思い至って大きく頷いた。
論より証拠、今ここでエニグマに、プリマの世界での姿になって貰えばいいのだ。
「あの、エニグマ? もし宜しければ、プリマさんの世界にいる時の姿になってみて下さったりは」
「疲れるからやだ」
「そうですか」
何となく断わられる事は判っていた。
だからリリアはあっさりと引き、対するエニグマは大きな口をもごもごさせて、納得がいかない様子をみせる。
「にゃー。何度も言うが、りりあは諦めが早すぎデス。もう少し、我を貫こうとは思わないのか?」
「嫌がる方に強要するなんて出来ません。ただの興味本位ですし、駄目なら駄目で、それで良いのです」
「……言われた方は、引きの良さに怒ったのかと思ってしまうぞ?」
「……それは気づきませんでした。申し訳ありません」
きょとんと表情を固めたリリアは、エニグマに向かって深々と頭を下げた。
「にゃあ。どうしてりりあは、そういう態度が逆に某を困らせると判らない?」
「困って、いたのですか? それは気づかずに、申し訳」
「にゃ! だから止めろと言っている! 何でもかんでも謝ればいいものではないだろうが!」
椅子が床を掻く音に合わせて立ち上がったエニグマ。
そこまで激昂する事だろうかとリリアが不思議な面持ちで見上げれば、エニグマは鼻息も荒く牙をちらつかせながら続ける。
「手当たり次第に謝られては話が続かぬだろう? それに、りりあは興味本位というが、そこまでの熱意も感じられない。どうでも良いと言われている気がしてならない」
「それは……否定出来ないですね。得られないモノに固執できるほど、明るい展望を持って過ごして来た覚えはありませんから」
甘えや我が侭とは無縁だった今までの記憶。
それら全てが当たり前だったリリアは、特に感情を浮べず淡々と自己分析を図る。
けれどもそれすら無駄だと切り捨てた彼女は、ふっと小さく口の端を持ち上げると、観念したような顔つきでエニグマを見上げた。
「ですが、そうですね。もう少し希望を持ってみても良いのかもしれません。だってエニグマ、とどのつまりは姿を変えて下さるのでしょう?」
「にゃ……そ、それとこれとは話が」
「同じ、ですよね? でなければ、エニグマが怒る必要もないでしょうし」
「にゃあ」
とどめの如くにっこり笑えば、頭を抱えたエニグマが小刻みに首を振った。
はらはら舞い散る飾りの花の中で、エニグマはやられたとでも言いたげな声を上げた。
「りりあ、りりあはやっぱり卑怯デス。意地悪デス。えにぐまはやっぱりりりあが大嫌いデス!」
「わたしは大好きですから、大丈夫ですよ、えにぐま」
「にゃー。いや、やっぱりやだ! 某はりりあの言う事を聞いたりなんか」
「してくれます。今までもお願い、叶えて下さいましたもの。ね、エニグマ?」
もう一押しとばかりに柔らかく微笑む。
すると気圧されたように一歩下がったエニグマは、ふくらはぎを椅子にぶつけて軽くよろめいた。
次いで頭を抱えたなら、大きく溜息をつく。
「判ったデス。やってやるデス。えにぐまはりりあよりずっと大人デス。お子様の言う事もたまには聞いてあげるくらい、心は広いデス」
「ありがとうございます、エニグマ。……でも、お子様、ですか。それなら今度からエニグマの事はおじさんと」
「呼ぶな!」
「……おじいさ」
「却下だ!」
「…………兄貴?」
「最終的に来る言葉がそれか?」
「では、お兄ちゃん」
「……りりあ。某で遊んでないか?」
「遊んでいるつもりはありませんが、物の本で女の子がお兄ちゃんと呼ぶと、大抵の男性は喜ぶと」
「にゃー、どんな本だ、それは。……もういい。さっさと変化してやるから見とけ」
これ以上ないくらい、疲労感たっぷりの深い息を吐き出したエニグマは、項垂れる頭を支えるように右手を目元の布へ押し当てた。
「仮初の法。奇異なる貌。なぞる彼の地。浮かぶ常。識、折々、虚言は真に、真は虚ろと変わりゆけ」
「わ……これは」
エニグマの言葉に呼応し、彼を中心に風が起こる。
魔法が発動しているのだと、初めて見る現象にリリアが自然と答えを見出したなら、小さく切った後でエニグマが続けた。
「変化」
「!」
外へ広がり流れていた風が、一気にエニグマへと収縮していく。
引き摺られそうな思いにかられたリリアは、座る椅子にしがみ付くとぎゅっと目を閉じた。
――と。
「……某は見とけと言ったはずだがな」
「あっ! す、すみません、エニグ……ま?」
不機嫌な異形の男の声を受け、目を開けたリリアがそちらを見たなら、思わず疑問符が語尾についてしまった。
それもそのはず、先程までの爬虫類の姿はどこへやら、そこにはシルバーグレイの毛並みが美しい、猫に似た頭部を持つ姿があったのだから。
目元を覆う布と、赤と黒の着衣がなければ、たぶん、誰にも正体が判らないであろう彼の人は、リリアのこの様子に腕を組むと、ふんっと面白くなさそうに黒い鼻を鳴らした。
「えにぐ、ま? ではない。正真正銘、えにぐまだ」
「た、確かに声はエニグマです。違和感ないのが、また妙な気分ですが」
言いつつ席を立ったリリア、馴染みのない容姿におっかなびっくり近づいては、恐る恐る聞いてみた。
「さ、触ってみても?」
返事の代わりに、どっかり椅子へ腰を降ろすエニグマ。
横柄な態度を崩さない背丈は爬虫類時よりも小さいが、それでもリリアから見て長身である事に変わりはない。
だからこそリリアが触りやすいように座ったと察せられた動作に、幾らか安堵を感じてしまう。
疑っているわけではないのだが、ここまで違う容姿を前にすると、どうしても竦む部分があるのだ。
(でも、こんな風に接するのはエニグマくらい、ですよね?)
誰に確認するでもなく、心の中で呟いたリリアは、とりあえず両の手を伸ばしてみた。
どこよりも気になる、ぴんっと張ったその両耳へ。
触れた途端、ビクッと過敏に反応した耳は、しかしてそれだけで動きを止め、リリアの指圧を受け入れる。
降りた手の平が毛並みに隠れた頬を撫でれば、擽ったそうにヒゲがひくひくと動いた。
「幻、ではなく、本当に、本物なのですね」
「当然だ。魔力にしても、プリマたちの世界と同じ流れを宿している。でなければ、姿を変えているなどすぐに気取られてしまうからな」
「そう、ですか……それにしても」
手を離して数歩後退し、改めてエニグマの現在の姿を見たリリアは。
「……ふぷっ」
「にゃ?」
両手を口元に当てると同時に、エニグマへ背中を向ける。
小刻みに揺れる肩に不信感を抱いたのだろう、座ったまま伸ばされたエニグマの手が、リリアの腹に回って身体をぐいっと引き寄せた。
小脇に抱えられるようにして、背中がエニグマの身体を叩けば、拍子に外れた両手が腹に置かれた彼の手を掴み、解放された口が笑い声を上げる。
「ふ、ふくっ、ぅふふふっ! え、エニグマ、エニグマが! た、確かに、確かにプリマさんの仰る通り、色っぽい! あの、エニグマがっ! は、あははははっ! だ、だめ、笑い死んでしまいそうです!!」
「にゃー? 笑ったぐらいで死んだりはしないぞ? というか、色っぽいのは面白いのか?」
「ち、違っ、違います! エニグマだから、面白くてっ、ぷ、ふふふふふふっ」
「にゃー。りりあの笑いのツボは良く判らん」
爬虫類の時には全く感じられなかった、色香を含む気だるげな雰囲気のエニグマの様子を受け、ここぞとばかりに笑い苦しむリリア。
対してエニグマは、姿を変えただけで笑われる理由が判らず、目元の布を怪訝に寄せるのみ。
示すところは、最初からエニグマはこの雰囲気を持ち合わせていた、という事で。
「ぐうっ……け、けほっ。ううぅ、だめ、笑い過ぎて吐きそう……ふふふっ」
「りりあ、りりあは吐いても何も出ないぞ。笑うのを止めた方が早い」
言いつつ背中を労わる手つきで擦ってくるエニグマに、リリアは何とか笑いを止めようとして――
幾度となく、挫折を繰り返していく。
その8で良いのではないかと思いつつも。
以上、閑話でした。