マダムと侯爵様 その3
プリマの家出の原因は、イディリアが約束を破ったからではなく、その穴埋めとしてプレゼントを贈った事、それ自体にあった。
口ではどれだけ否定しようとも、彼女には侯爵夫人としての自覚が既に芽生えていた。
だから夫であるイディリアが仕事の都合上、致し方なく約束を破ったとしても、恨んだりするつもりは最初からなかった。
残念がる気持ちは確かにありはしたものの、それとてただの感傷に過ぎない――なのに。
当の夫は、プリマのご機嫌を取りに掛かったのだ。
それもお菓子やおもちゃといった、子ども騙しの方法で。
しかしイディリアにはそれが分からなかった。
業を煮やしたプリマに指摘されるまで、それが恥に繋がるとは思ってもみなかったのだ。
今は亡き前妻との約束を破った際には、彼女自身がプレゼントを要求し、叶える事で機嫌を直していたのだから。
そんな過去を語り、「済まなかった」と大きな身体をしゅんと丸めてイディリアが謝ったなら、今度は激昂していたプリマの方が「大人げなかったですわ」と項垂れてしまう。
これをフォローするようにイディリアが「大人げなくて当然だ、お前はまだ子ども」と言ったか言わないかぐらいで、近づいた口にプリマがポットの中身を直で投入。
悲鳴も上げられずに蹲る夫へふんっと鼻を鳴らしては、リリアに向かって優雅に一礼してみせた。
「それではリリア様、今回はこれにて失礼させて頂きますわね。紅茶、ご馳走様でした。御機嫌よう」
言って、必要もないのに日傘を差したプリマが本棚に向かって歩き出せば、逞しい体躯には似つかわしくない貧相な、言葉を失くした声を上げてイディリアが追う。
何処へ行くのかと焦る様子を日傘の陰から一瞥したプリマは、再度背を向けると嘆息混じりに告げた。
「屋敷に帰りますの。だってそうしないと貴方、今もって辞去の礼も出来ないほど酷い有様なんですもの」
「うごっ」
プリマに言われてリリアを振り返ったイディリアは、まだ熱いらしい口を両手で覆い隠したまま、慌ただしい礼をする。
立ち上がって彼らを見送っていたリリアが静かに礼を返したなら、もう一度頭を下げたイディリアは意気揚々にプリマの後に続く。
「あたくしのせいで貴方の行動に支障を来たすなど、あってはならない事ですわ。皆にも迷惑が掛かりますし、それに何よりも――――ぅきゅんっ!」
追いつけばプリマをそのまま担いだイディリア。
話を中断させられたプリマはポカポカその頭を叩くが、未だに上手く喋れない舌を内包するイディリアの顔は、そんな彼女をただ愛おしげに見つめていた。
娘の成長を喜ぶような、恋人に向けるモノでは絶対にない、父性溢れる眼差しで。
「…………」
プリマとイディリア、騒がしい夫婦をただ黙って見送ったリリアは、その姿が本棚の暗がりに完全に溶け込んでから、ゆっくりと席についた。
物憂げなセレストブルーの瞳が揺れたなら、テーブルに肘を付いた手の甲が額に寄せられ陰を作る。
まるで、一人になった事を嘆くようにも見える陰だが、原因はイディリアの畏まった言葉遣いにあった。
あの時、それを止めるよう告げたリリアに対し、イディリアは「その様な無礼な真似は出来ません」と即座に拒否を示した。
次いでプリマの態度を「馴れ馴れしい」と評すると、リリアに許しを請うても来た。
幼いゆえに、と。
その言葉が引き金となって、プリマとイディリアの話は冒頭に移るのだが、リリアの心は一線を置きたがる虎の侯爵の言葉に囚われたまま。
「魔道書、だから」
通常、魔法にはどの世界においても詠唱が必要だという。
もし何かを創造する魔法なら、詠唱も通常の倍以上かかり、他にも色々と準備をしなくてはならない――らしい。
そんな手間をあらゆる面で省いてみせた魔道書の力。
たとえ創造したのが普通のティーセットだったとしても、畏怖すべきだとイディリアは敬語を使う事で言外に告げていた。
すなわち、魔道書は彼らにとって、脅威でしかないのだと。
――この身は変わっても、自分が自分である事に変わりはない。
そう思っていたリリアにとって、イディリアの引いた線は、どこまでも冷たい痛みをもたらす。
ふいに視線が動けばテーブルの上、結局一口も口を付けられなかった、イディリアのために出したティーカップがそこに在った。
「確かに、怖いかもしれませんね。わたしは自分で創造したモノも、こんな風に簡単に消し去ってしまえるのですから」
自分とエニグマ以外の茶器がないテーブルを思い描いて瞬けば、プリマとイディリアのいた形跡が視界から完全になくなった。
口にした通りの結果を受け、リリアがぼんやり考えてしまったのは、ティーカップと同じように消失する、誰かの事。
「っ!」
それは決して特定の人物を思ったモノではなかったが、対象を人と考えた自分にリリアは恐怖した。
席を蹴って立ち上がれば、自分が起こした椅子の倒れる音に慄き、たたらを踏んだ靴音にも身を竦めて蹲る。
「ぃやっ……怖い、怖いっ! どうして? わたしは、わたしでいてはいけないのですか? どうしてわたしは、わたしのままなのです?」
帰るはずだった世界を失い、身体を失い――心まで失えというのなら、どうして最初から魔道書ではなかったのか。
どうしてこの記憶は存在するのか。
あまりに強過ぎる力を真に自覚した時、少女が思ったのはそんな事。
自己があるから苦しいのだと、耳を塞ぎ、目を塞ぎ、歯を食いしばっては声を殺し。
魔道書に意思なんかいらない、そう心で叫ぶ――
直前。
「! な、何、この怪音波……?」
閉ざしたはずの聴覚に、耳障りな旋律が響く。
**********
生まれたばかりのその命は 何も知らない
届く声が何たるか
映す物が何たるか
触る形が何たるか
嗅ぎ取る匂いも 含む味も その命は何も知らない
だからこれから知るのだろう
届く声がいかにあまいかを
映す物がいかに優しいかを
触る形がいかに慈しむかを
薫る香りの柔らかさを 口内を満たす幸福を
生まれたばかりのその命は 何も知らない
ゆえに
これから知るのだ
知りたいと思う全てを
知りたいと願う思いを
そうして形作られたその命 其の名は
――誰も 知らない
自らが 告げぬ限り
**********
くらくら眩暈を引き起こすその音を頼りに、リリアが目を開け首を巡らせたなら、倒れた椅子の向こうに座るコート然の赤と黒の衣を纏った男が一人。
手には弦を振るわせる楽器があり、爬虫類を髣髴とさせる長く大きな口は、楽しそうに音を作り上げていた。
そう、音。
音楽とはお世辞にも言えない大騒音が、爪弾く旋律を掻き消して、リリアの頭を直に震わせている。
「え、にぐ、まっ」
聞くに堪えない音を止めるよう手を伸ばすリリア。
それはまるで、死に行く者が最期に望むモノへと縋る様にも似ていたが、呼ばれたエニグマはそんなリリアを尻目に口を閉ざすと、ベローンと弦を撫でて鳴らした。
どうやら曲終わりだったらしい。
助かった、そう思うと同時に、リリアは音程の狂いに平衡感覚を失った頭を抱えた。
最初にエニグマの歌を聴いた時は、実感はなくとも永い眠りの中だったためか、ここまでのダメージは受けなかった。
それでも、彼が物凄い音痴だった事をリリアは覚えている。
(い、一回目よりも、少しくらい慣れているはずの二回目の方が辛いなんて……)
魔道書の一生というモノが、どれくらいの永さなのかはさっぱりだが、それでもリリアは一生、彼の歌には慣れない気がする。
そうしてたっぷり余韻に苦しんだ後、ふらつきながらもリリアがゆっくり立ち上がれば、迎えるグラスグリーンの鼻面が小さな息をついた。
「プリマ、帰ったのだな。もう少しからかいたかったのに、残念だ」
「え、ええ。イディリアさん、という方がいらして」
「そうか。では……りりあはどうしてそうしているデス?」
楽器を裾に取り付けつつ尋ねるエニグマ。
リリアはまさかそんな質問が来るとは思っていなかったために、一歩よろけるように退き、かさり、何かを踏む音を後ろに聞いた。
見やればエニグマのシルバーグレイの髪を彩る花と同じ花が、ちらほら床に散らばっていた。
リリアと、エニグマの間にも。
「あ……」
今になって知覚した花の存在に惑い、花のない床を求めてリリアが踊るように足を運べば、テーブルに頬杖をついたエニグマが、つまらなさそうにその様子を見る。
「りりあ、えにぐまはだんまりは嫌いだと言ったデス。りりあはえにぐまを好きと言いながら、嫌いな事をするのか?」
「い、いえ、そういうわけでは――――きゃっ!」
エニグマへの返事に気をやった途端、死角で踏んでしまった花に足を取られ、リリアはそのまま尻餅をついてしまう。
「いたた……」
見事に打った箇所を擦ったなら、エニグマから呆れたような溜息が零れた。
「りりあ。淑女はそんなはしたない格好しないデス」
「え……きゃあっ!?」
赤茶のチェック柄のスカートが、際どいところまで捲くれているのを認めたリリアは涙ぐみ、顔を赤らめながらも手早くスカートを直していく。
完全に足を覆い隠し、けれども羞恥から立ち上がる事も出来ずにいれば、そんなリリアを嘲笑う風体でエニグマがぽつりと言った。
「まあ、バッチリ視てしまったから、某には無意味な恥じらいだが」
「っ…………」
しゅ~っと頭から煙を出しそうなくらい赤くなったリリアは、スカートの腿を両手で強く握り締めた。
スカート下の守りはそこまで薄くないつもりなのだが、どの道、見られたのは隠す前提の下着である。
穴があったら入りたい。
しかして図書館の床に穴はなく、エニグマが埋葬の代わりに作った祭壇の上の柩も、二度目に此処へ来た時にはなくなってしまっていた。
(だ、大体、エニグマもエニグマです! そこはそれ、視なかったと言って下さったら……どちらにしても変わりはありませんね)
逆に言われない方が嫌かもしれなかった。
あまりの恥さらしっぷりに、リリアは黄昏た瞳を横へ追いやる。
自分の不注意でエニグマにスカートの中を視せてしまったという現実から、目を逸らすように。
エニグマの歌を聞く前に抱いていた恐怖さえ、羞恥の前では薄れていくばかり。
だがエニグマは、そんなリリアを知ってか知らずか、彼女の中に消え去ろうとしていた恐怖を再度問い掛けてきた。
「りりあ。それで結局、どうしてそんなところで蹲っていたデス? 勿論、えにぐまが聞いているのは、スカートの中が視える前の話デス」
「そ、れは……」
強調された「スカートの中」には頬を染めながらも、抱いた恐怖を探る言葉にリリアの顔が強張る。
イディリアとの会話、それ自体を語る事に躊躇いはない。
けれどそれを語った後のエニグマの反応が怖い。
爬虫類の肌と顔を持つ長身痩躯の異形は、対峙するだけなら相応の威圧感を有するものの、どこか抜けた面をリリアに見せ続けてきた。
だからリリアは思うのだ。
その抜けた面ゆえに、エニグマはこれまで、自分を怖れなかったのではないだろうか。
魔道書に意思が付与している――本当の意味でそれを、イディリアのように理解したなら。
(エニグマは……エニグマもやはり、怖れるのでしょうか? わたしを――)
だとするなら、怖かった。
いっそ、何も答えないリリアに愛想を尽かして、この図書館から去ってくれた方が良いと思えるほどに。
「りりあ、答えるデス」
しかし沈黙を嫌うエニグマは急かすばかりで、呆れもせずに居座り続けている。
対するリリアといえば、そんなエニグマを無視する事も出来ずに立ち上がると、まごつく口を億劫そうに開いて応えた。
エニグマの望む通り。
「怖い、のです。魔道書の力が。何でも出来るこの力が。とても強い力だから……他の人にも怖れられてしまうから。わたしは、わたしなのに、誰もわたしをわたしとして見てくれなくなるから」
「……イディリアか。あの若造め、余計な事を。しかし…………りりあ」
「はい」
「こっちに来るデス」
頬杖を付く手とは逆の手の平が上を仰ぎ、上下に振られてリリアを招く。
天を指す黒い爪に一瞬だけ怯んだリリアは、おずおずといった調子でエニグマの傍まで歩みを進めた。
そうして、その手に自分の手を重ねようとし、この動きを遮るようににゅっと伸びたエニグマの手の平は、今にも泣きそうなリリアの頬を柔らかく包み込み撫でていく。
「え、エニグマ?」
愛玩動物を可愛がるに似た仕草に、強張っていたリリアの目が丸くなれば、解れていたクロムイエローの髪の一筋へ指を滑らせたエニグマが、小馬鹿にしたような息を零した。
「確かにりりあは魔道書で、凄い力を持っているデス。だから怖れる者が現われるのも当然デス。何せりりあはこの図書館の館長、つまりは神にも等しい存在」
「神、なんてそんな。わたしは別に、館長なんて」
「幾らりりあが否定したところで、その事実に変わりはないデス。りりあは望む望まざるとに関わらず魔道書ゆえに館長、そしてこの図書館における唯一無二の神」
「…………」
館長という責任を要求されるような職すら認めたくないのに、重ねて告げられた神という単語は、リリアの理解を遥かに超えていた。
同時に、イディリアの畏怖がどういう類のモノだったのか、その単語で痛いくらいに思い知る。
誰人もリリアを侵さない代わりに、誰人もリリアの近くにはいられない。
それは、早い独立を目指して孤立していた、人間だった頃と同じでいて、全く次元の異なる話だった。
自分が自分としているだけで他者を脅かす――人によっては優越感に浸れるのかもしれないが、リリアはこれを忌むべき事と定めて下唇を噛む。
と、そんな彼女の自傷を嫌うように、髪から離れたエニグマの人差し指が、リリアの口の線に沿ってやや強引に歯と唇の間に割って入った。
一文字に添えられた指を咥える形を取らされ、知らず落ちていた視線を上げたなら、頬杖を止めた鼻面が小さく笑むように大きな口を開けた。
「だが、絶対ではない」
え? と声を上げるために動いた舌が、ざらついた鱗の感触にビクついて引っ込む。
これを見計らったように指を除いたエニグマは、小鳥を止まらせるに似た形を取ったまま、その手を己の方へと引き寄せた。
「普通は良くない、嬉しくない事。でも、りりあにとっては良い事かもしれない」
謎かけのような言葉を口にし、やけにゆっくりと指へ向かって舌を垂らすエニグマ。
「何を――――っ!? エニグマ、止めて!!」
察したリリアは短い制止を叫んだものの、エニグマの舌先は構わず、僅かに濡れていた部分を舐めてみせた。
それが意味するところを正しく理解し顔を赤くしたリリアは、殺しきれなかった勢いで、関節的にだろうとも破廉恥な真似をした異形の男の胸倉を掴んだ。
けれども当のエニグマはどこ吹く風で、すっかり冷めてしまったであろう自身の紅茶を器用に煽る。
手遅れだと告げるかのように。
「にゃあ。りりあの紅茶は美味しいデス」
「止めてください、含みのあるような言い方は!」
「にゃ? 含みはあるデス。ような、ではないデス」
「!」
思わぬエニグマの言に真っ赤になった顔が固まったなら、不可思議な紋様を描く目元の布がリリアに向けられた。
「どうデス? 判ったか、りりあ」
「な、にが……」
「にゃ。判らなかったか? えにぐまはりりあが止めてと言っても止めなかった。それはりりあが絶対ではない証だ」
「え……? 普通は、止められるのですか?」
「言ったはずだ。りりあは神だと。この図書館の中でなら、どんな制限も相手に掛けられる事が可能デス。……とはいえ、よくよく思い返してみれば、先程からりりあが制限を口にする相手はえにぐまだけだな。これでは証にならないデス。失敗したデス」
口調だけは残念そうに、顔は楽しそうに笑わせたまま、背後から回された手がリリアの頭を肩口へと寄せる。
エニグマのやりたい事がさっぱり判らないリリアは、握り締めた赤と黒の衣を離す事も忘れ、結わえられた髪越しに撫でられる動きにつられて頬を擦り付けるばかり。
「だが、逆ならどうデス? りりあはさっきからえにぐまの望みを叶えているデス」
「? だってそれは、エニグマが魔道書を手にした者だからでは」
「そう。それだ、それ! だからりりあは神に等しくとも、絶対にはならないし、なれない。何故ならりりあは既に、えにぐまの所有物」
「……はい?」
「にゃ? 何を不思議がっているデス。手にした者が所有者を表しているのは判り切った事デス」
「しょ、所有ってわたしは!」
物ではない、と言おうとして自分の本体が魔道書である事を思い出したリリア。
勢いに乗って顔を上げたは良いものの、続く言葉が見当たらずに動きが止まってしまえば、これを宥めるように頭を撫でていた手が背中をぽんぽん叩き始めた。
「りりあはりりあデス。だが、怖れられる魔道書でもあるデス。しかし、えにぐまは己の所有物を怖れない。――これを踏まえてりりあ、りりあは自分を怖れる必要なんかないデス。館長だろうが神だろうが、所有物だろうが、前提としてあるのはりりあがりりあであるという事だけ。怖れる者があるのは仕方ない、だからといって、親切にも相手の怖れる己になる必要もない。無論、それに怯える事も。……だがもし、りりあがそれでも怖れるというのなら、その対象にはえにぐまも含まれなくてはいけないデス」
「エニグマを?」
「そうデス。えにぐまはりりあの所有者であり、支配者。絶対の存在」
「随分と物々しいですね」
「にゃ。でもどうデス? 何だったら、えにぐまを嫌いになるところから始めるか?」
「……判りました」
楽しげに自分を嫌う事を勧めたエニグマに、リリアは神妙な面持ちで頷いた。
次いで彼女が行ったことといえば――服を離した手を彼の背中に回す事。
途端、エニグマの肩が見るからにがっかりと落ち込んでしまう。
「にゃー。りりあ、りりあはえにぐまを」
「嫌いになんてなりません。寧ろ今までよりももっと好きになりました。魔道書でもわたしでいていいと、そう言って下さるあなたが」
「……物扱いは嫌だろうに」
「勿論嫌です。でもそれが判るあなたは、本当の意味でわたしを物扱いしたりしません。ですから」
「にゃあっ! もういいデス! 判ったデス! 皆まで言うな! えにぐまはりりあが大っ嫌いデス!!」
続く言葉を遮るように立ち上がったエニグマは、片腕で支えていたリリアを離すと、閉ざした口をもごもご動かす。
結局、エニグマは何もかも知っていてリリアの傍にいたのだと知り、取り越し苦労の恐怖に笑いながら、見上げなければ見えない顔を眺めた。
すると、それはそれで別の疑問がリリアの中に生まれる。
「という事は、エニグマは魔道書の所有者だから、わたしと普通に接して――わわっ」
「違うデス」
エニグマの大きな手が、リリアの額に手首の付け根を押し当て、その頭をわし掴む。
リリアが両手で鱗の生えた手を押さえれば、これを嫌うように身体ごと頭が前後に振られていく。
「りりあはつまらない事を考えるのが本当に好きだな。えにぐまは所有者になる前から、りりあとは普通に接してきたデス。所有者に為ったのも、りりあが勝手にやった事デス。それなのにその言い草は心外、とっても不愉快デス」
「ご、御免なさい」
揺さ振られながらも謝ったなら、パッと離される頭。
よろける腕を取られて見上げると、言葉通り、エニグマが不機嫌な顔をしていた。
「あ、あの、その……御免なさい」
彼の様子に何か言うべきだと思ったリリアだったが、出てきたのは同じ謝罪だけ。
「もういいデス。以後、気をつけるデス」
「は、はい」
腕を組み、どこか偉そうに頷いたエニグマは、立った席に戻ると鋭く黒い爪でテーブルの上をコツコツ叩いた。
「仕切り直しデス。りりあ、お茶」
「あ、はい。お菓子は」
「……今のえにぐまにそれを聞くのか?」
何のために彼が席を立っていたのかを思い出したリリア。
「……そうですね。大丈夫、ですか?」
「にゃ。そこそこ」
「そう、ですか。……次からは気をつけて下さいね?」
「善処する」
端的ながら真剣な返事を受け、同じやり取りをしたばかりだと気づいたなら、リリアは困ったように笑い、エニグマと自分のための紅茶を注ぐ。
(以後、と、次から。少なくともエニグマは、まだ、此処にいて下さるみたいですね)
そんな事を思いつつ、言えばこれもつまらない事だとエニグマに怒られそうで、代わりに小さく息をつく。
独りではないという、安堵の息を。
これにて「館長案内」は一先ず終了です。
図書館内の大雑把な説明がメインのはずでしたが、プリマの登場を挟んだ事で随分話数が多くなりました。
次は少なくなる予定です。
一話一話も長文の気がしますので、今より短くなります。
と、なると、話数が多くなる可能性も。
支離滅裂…
ともあれ、ここまでお読み頂きまして、ありがとうございます。
次回は閑話を一つ挟んだ後で、図書館の命名がメインになります。
楽しんで貰えたら嬉しいです。