マダムと侯爵様 その2
紅茶一杯がカラになる頃、「お菓子が欲しいですね」とぽつり呟いたのはプリマ。
リリアも賛同を示し、紅茶を出した要領で頭の中にクッキーを思い浮かべた。
すると卓上に漂う甘い香り。
これに、ひとり言を聞かれたのだと知ってプリマが頬を染めたなら、リリアは「わたしも食べたいと思っていましたから」と微笑んだ。
しばし流れる、和やかな雰囲気。
――をぶち壊す手が、現れたばかりのクッキーに忍び寄る。
「え、エニグマ?」
リリアが気付いた時には既に遅く、クッキー皿を両手で掴んだエニグマは、それをそのまま、大きく開けた自分の口に流し込んでしまう。
カラになった皿と紙のシートがぽいっと捨てられたなら、爬虫類の長い口に響くボリボリという音。
あまりの暴挙にリリアは勿論の事、プリマでさえも目を丸くして固まれば、喉を詰まらせずにごっくんと飲み込むエニグマ。
そうして少しは得意気にするかと思いきや。
「う……」
「エニグマ!?」
口の両側を手で押さえたエニグマは、何も言わずに席を立つと、一目散に本棚の方へ駆け出してしまった。
閲覧スペースの天井で待機していたわんこが一つ、その後を音もなく追うのに合わせて、リリアも彼の後を追いかけるべく立ち上がる――と。
「リリア様、お止しになって」
「で、ですが」
「あの男がいないだけで、貴方が何をそんなに不安がるのか。皆目検討も着きませんが、すぐに戻ってきますわ。全く、イイ齢して。一気にあれだけ食べたらどうなるのか、どうして判らないのかしら?」
「……あ、ああ。なるほど。そういう事でしたか」
思い出したのは、一食林檎二個で充分だというエニグマの食事量。
林檎の芯も含まれる分、容量はそれなりに入りそうだが、シート共々宙に消え去った皿には、約三人分のクッキーが山を作っていたのである。
しかもリリアが創造したのは、林檎と違って水分のほぼない、サクサククッキー。
紅茶のお供を考えた結果だった。
「エニグマ……大丈夫ですかね?」
「自業自得ですわ。けれど……クッキーはしばらく要りませんわね」
去ったエニグマの状態を体現するように、うぷっと小さく呻いたプリマが、辛そうに口を押さえた。
その点はリリアも同調できるため、苦笑を浮べてから、静かに瞳を閉じる。
するとテーブルの上に、今度はショートケーキを乗せた皿が二つ現れた。
「まあ。リリア様、頂いても?」
「ええ、どうぞ。お口に合うかは判りませんが」
ケーキの出現で直前の不幸を帳消しにした二人はフォークを手に取ると、エニグマの生還を待たずに、リリアはスポンジ部分、プリマは頭頂部の苺をそれぞれ口に入れる。
「……美味しい」
ややこってりした甘さだが、紅茶で渋くなっていた味覚には丁度良い。
「苺も美味しいですわ」
苺についていた生クリームを口の端につけたプリマもそう言うと、目をキラキラ輝かせながら、スポンジへとフォークを進ませていく。
大人びた言動の多い彼女だったが、こうしているとやはり普通の子ども。
ぱくぱくもぐもぐ、楽しそうに食べていく度、増えていく口周りの汚れさえ可愛く見える。
そんなプリマへ微笑んだリリアは、自分のケーキを攻略しながら、他愛のない問いをかけていく。
「そういえば、苺、という名で通じるのですね」
「ええ。通じますわ。というよりも、リリア様と此処だから、でしょうけれど」
「わたし、と、此処?」
「はい。別の世界の者同士、普通は言葉などほとんど通用しません。しかしリリア様は名高き魔道書ですから、どのような言語にも精通されています。此処は、知識を得る図書館ですから、言葉には不自由しない仕組みになっていますの。――と、侯爵様が仰っていましたわ」
”侯爵様”と口にした時だけ、プリマの声のトーンが下がった。
ケーキを運ぶフォークの動きもぎこちなくなれば、何となく彼女の気持ちが判ったような気がした。
(何があったのかは判りませんが……プリマさん、そろそろホームシックになられたのでは?)
ただの思い出話ならば問題はなかった。
しかし今プリマが語ったのは、この図書館での出来事。
その時の思い出はきっと、悪いモノではなかったはずだ。
少なくとも、帰りたいと思えるくらいには、良い事はあって。
けれどその事を指摘する程、リリアは野暮ではない。
言えば最後、プリマは意地でも否定し、帰る事を拒むだろう――本心はどうであれ。
だから今のリリアに出来る事は、会話を続ける事、それだけである。
「どんな言語でも、ですか。でもわたし、先程から普通にお喋りしているだけなのですが?」
引き続き質問を重ねたなら、少しだけ明るさを取り戻したプリマが頷いた。
「そう。その普通が、もう普通ではないのです。今し方、図書館内では言葉に不自由しないと申しましたが、それでも完璧ではありませんの。二重音声、とでも表せば良いのでしょうか。話せばどうしても、その者の言語が微かに重なってしまうのです。あたくしの場合ですと、今回のエニグマの語りが正にそれでした。……あの男、あたくしの世界の言葉を話せるくせに、相変わらず配慮がありませんわ」
「ええっと、つまり?」
「ああ、申し訳ございません。話が脱線してしまいましたわね。ええ、つまりは、それなのにリリア様の語るお言葉は実にスムーズに聞こえている、という事です。リリア様はリリア様の世界の言語を使われているのでしょうが、あたくしにはあたくしの世界の言語として、綺麗に通じているのですわ」
「はあ。何と申しますか、便利ですね」
「はい、とても。さすがは魔道書、といったところでしょうか」
しみじみ感心するプリマに対し、当のリリアは返答に迷う。
望んだ身の上ではない、それなのに、そうなって良かったという風に言われると、どうして良いのか判らなくなる。
プリマの感想に何も言えなくなったリリアは、別の話題を探すように視線を彷徨わせた。
そうして至ったのは、未だ戻って来ていないエニグマの事。
「そういえばプリマさん、さっきエニグマの事、イイ齢って仰っていましたけど」
「ああ、あれですか? まあ、実際の齢は知らないのですけれども。あれは初めて会った時、侯爵様に古い友人だと紹介されたからですわ。ちなみにエニグマの擬態した姿の紹介では、ご自分の親戚だと仰っていましたが」
「親戚……侯爵様に似ていらっしゃったのですか、エニグマの擬態は」
親子ほども離れているプリマの夫の侯爵様。
その人をして古い友人だと紹介されたエニグマの齢は、考えるのも怖いので早々に話題を打ち切り、違う話題を掘り下げていく。
しかし何より気になっていた話題であったのもまた事実。
(エニグマにふぇろもん……ああ、駄目です。どう足掻いてもどうにもなりません)
自分の想像力の限界にあえなく挫折したリリアは、プリマの返答を待ちつつ、残りのケーキを平らげる。
対し、最後の一口を咀嚼したプリマは、口周りの白いクリームもそのままに、紅茶を一口上品に飲むと、昔を懐かしむ風体でカップの中へ視線を投じた。
「そう、ですわねぇ。似ている、といえば、似ていたかもしれません。けれど……侯爵様よりは華奢でしたね。侯爵様より軟派な優男風でしたし」
(華奢、は何となく判りますが。軟派な優男風って……)
益々判らなくなってきたと内心で頭を抱えるリリアに気づかず、紅茶も飲み終えたプリマがカップを下ろしながら溜息を吐き出した。
「侯爵様も、黙っていれば格好良いのに」
「…………?」
前提でエニグマの擬態が格好良いと評されている事よりも、プリマの呟きが気になったリリアは首を傾げた。
(黙っていれば、とは? お喋りな方なのでしょうか?)
とはいえ、どの道プリマが先に言っていた通り、嫌っていないのは確か。
そろそろ潮時かもしれないと、プリマの家出に勝手に見切りをつけたリリアは、残っていた紅茶をこくりと飲み干し。
「っプ、リマあああああああああああああああああああああああああああああああ――!!」
「っ!!?」
息をつくかつかないかのところで、木霊する大絶叫。
咆哮を思わせる突然のそれに、リリアの身体がビクッと震えたなら、何がと確認する前にプリマの身体が横から掻っ攫われていった。
「きゃうんっ」
彼女も対処し切れなかったのだろう、されるがまま担がれては、自分を抱く腕の主を見下ろして目を真ん丸く見開いた。
「ど、どうして貴方――」
「すまない。悪かった。御免よ。申し訳ない。許しておくれ。確かに今回は俺の不手際だった。お前との約束を破ってしまった。だが、何が気に入らなかった、何がいけなかった? くまのぬいぐるみか、お人形か、それともドレスか、アクセサリーか? あれらは次の穴埋めの時まで、お前を退屈させないようにと思って用意したのに、それを受け取った後でお前がいなくなってしまったと聞いて焦ったぞ? 何故だ、プリマ――と、ああ。口周りこんなに汚して。駄目じゃないか。ほらちゃんと拭いて」
「むーむむむむっ!」
プリマの声を潰し、一方的に謝罪と家出の原因を問うた人物は、生クリームに気づくとハンカチを取り出し、慣れた手つきで彼女の口周りを拭いていく。
程なく解放された口が、綺麗になったのを確認すると、破顔のていで満足そうにゴールドの瞳を和ませる人物。
対するプリマの方と言えば、驚きから一変、不機嫌そのものの表情を浮かべており。
「うむ。いつもの可愛いプリマに戻ったな」
「……言いたい事は、それだけですの?」
「ふひょ。こひゃ、ふりゅあ。ひえはやへなひゃひ、ひえは」
小さな手が人物のヒゲをむんずと掴むと、縦横無尽に引っ張り回していく。
これを追って手を伸ばす人物は、それでもプリマを降ろす事なく、脱力するような声を上げ続けていた。
(ええっと……会話内容から推察するに、この方が?)
完全に蚊帳の外に陥ってしまったリリアは、プリマの所業に困惑するばかりの、些か情けない人物を改めて見やった。
一言で表すなら、情けない仕草とは裏腹の、密林の王者・虎。
ゴールデンイエローに黒と白で色づけされた毛並み、丸い耳。
眼光は鋭くも滲み出る雰囲気は穏やかで、表情も実際の虎とは違って人間味に溢れている。
黒い光沢のある礼服に包まれた身体は、猛々しい顔に似つかわしい鍛え上げられたモノではあるが、洗練された立ち姿はやはり、武人よりも貴族としての優美さを兼ね備えていた。
彼こそが、プリマの夫にして侯爵なのだと、リリアは思い。
(それにしても散々、親子ほど離れているとは聞いていましたが、これはどう見ても……)
ふと浮かんだのは、彼を指して親バカと評したプリマの声。
今現在、テーブルを挟んだリリアの眼前で行われているやり取りは、正にそれである。
親子ほど離れている、どころか、二人を見て親子とは思っても、夫婦だと思う者はまずいない。
そうこう感想を抱いている内に、プリマからヒゲを離して貰った侯爵は、痛む頬を擦りさすり、重厚な音色で優しく己の妻を宥めに掛かる。
「プリマ、もう帰ろう。俺は言わずもがな、屋敷の者も皆、お前の身を案じている。早く帰って、無事な姿を見せてやれ」
言いつつ、太く大きい丸みを帯びた指で、プリマの顎下を撫でる侯爵。
可愛くて仕方がないといった様子の仕草を受け、剥れていた頬を緩ませたプリマはしかし、その手を両手で掴むと乱暴に下へ放り投げた。
「プリマ」
困った子だと言わんばかりの声が侯爵から零れれば、再びチョコレートの瞳に怒りを宿したプリマが、噛み付くように叫んだ。
「い・や、ですわ! 侯爵様が判ってくださらない限り、あたくしは帰りません!」
プリマの言葉により正体の確定した侯爵は、そんな彼女へ弱りきった感情を示して、丸い耳をピクリと動かす。
「プリマ、何度言ったら判るんだ? 俺の名は侯爵様ではなく、イディリアだ。俺を侯爵というのなら、お前とて侯爵夫人だろうに」
「いぃやあっ! 夫人なんてお呼びにならないで下さいまし! 確かにあたくしは侯爵様の妻にはなりましたけれど、今のところ肩書きだけで、実質的には養女も良いところではありませんか!」
「それはそうだろう。子どものお前に酷な仕打ちは出来ん」
「当たり前です! いえ、だからこそ夫人と呼ばれる身にもなってくださいな! こんな若くして呼ばれ続けたなら、早く老け込んでしまいそうですわ!」
「お前の言い分、判らんでもないが……いや、そうではなくてだな。俺が言いたいのは、いい加減、名前で呼び合わないか?」
若いどころか幼すぎる妻に手を焼いている侯爵・イディリアに対し、ほとんど空気と化したリリアは内心で首を傾げた。
接し方は依然として親バカなのだが、どうもこのイディリアという男、プリマが言う程には彼女をただの子どもと見ていない節がある。
特に「子どものお前に…」のくだりなどは、成人した暁には異性として扱うニュアンスが込められているように感じられた。
(確かに幼女趣味ではないのでしょうけれど。所詮、庶民には庶民の、貴族には貴族の感覚がある、といったところでしょうか。元より正真正銘、違う世界のお話です。わたしに出来る事は……そういえばエニグマ、遅いですね?)
プリマとイディリアのやり取りからは、それとなく目を逸らしたリリア。
本当は移動した方が良いのだろうが、エニグマが戻ってくるというのなら、ここで待っていた方が何かと都合が良い。
かといって、空いた時間を上手く潰す方法も考えられず、ポットを傾けて新しい紅茶を注ぐ。
魔道書が創造したポットは、いつまで経ってもどれだけ注いでも、適温と嵩を保っており、仄かに立ち上る湯気からは上品な香りが漂ってくる。
これを楽しみつつ、何度飲んでも厭きの来ない紅茶を一口。
「…………?」
静かにカップを置いたところで顔を上げたなら、それまでリリアを余所に盛り上がっていた二人が、戸惑いの表情をこちらに向けていた。
「あの、何か?」
「いえ、その」
「いや、あー」
何故か夫婦揃って気まずそうな顔で互いを見合い、もう一度こちらを見ては、プリマを元の席に戻したイディリアが、別のテーブルから椅子を持ち寄り妻の隣に腰を下ろした。
リリアはそんな二人の様子に首を傾げるばかりだったが、エニグマが不在の席にカップが置いたままなのを認めると、イディリアの前には何もない状況が不自然に思え、新たに彼の分のカップを創造する。
次いで紅茶を注ぎ、「どうぞ」と勧めた。
これに目を丸くしたイディリアは、「どうも」と礼を口にしながらも、どういう訳だか紅茶ではなく、カップと皿をまじまじ観察し始めた。
「あの?」
さっきから何なんだ、と問う気持ちでリリアが訝しむ声を上げたなら、はっとした表情を虎の顔に浮べたイディリアは、照れを隠すようにコホンとわざとらしく咳払い。
「失礼。ですが詠唱も無しにこの魔法……もしや貴方はあの魔道書では?」
「ええ、まあ。実感はあまりありませんが」
あっさりリリアが頷くと、イディリアは少しだけがっかりした様子を見せた。
「やはり、そうですか。はあ。いつか、わんこ無しで探し当てようとしていた私の夢が……ああっ」
「……です? 私?」
プリマのやり取りとは違う口調。
戸惑うリリアに、隣で落ち込むイディリアを冷ややかな目で見つめたプリマは、溜息混じりに言った。
「地と外の使い分けですわ。先程のやり取りも、リリア様がいる時点でいつもならこちらの喋り方ですのに。イイ齢した男が妻に逃げられたくらいで取り乱すなんて情けない」
「プリマ……君は本当に、いつでもどこでも容赦ないな。少しは可哀相な夫を慰めようとしてくれても」
「あら。侯爵様ともあろうお方が慰めて欲しいだなんて。では、こんな慰めは如何でしょう?――可哀相なのは頭だけですから、そんなに落ち込まないで下さいまし」
「君は、私の身体だけが目当てだったのか!?」
またしても始まった漫才モドキを前にして、紅茶へ口を付けたリリアはこくんと飲み干してから頷いた。
「お前から君。という事は、今現在、侯爵様におかれましては、わたしの存在を容認して下さっている、という事なのでしょうかね」
「……魔道書様。失礼ながら御身は外見に似合わず、その、淡白でいらっしゃるので? それとも実は、お怒りなのでございましょうか?」
「はあ、特に怒ってはおりませんが……」
プリマに向かっていた口がリリアへと開かれたなら、出てくる言葉は耳慣れない敬語。
自分は良くても他人に使われると酷く滑稽に聞こえるソレを、曲がりなりにも侯爵であるイディリアから聞かされ、リリアの整った眉が怪訝に寄った。