マダムと侯爵様 その1
歩き疲れたプリマが床に座り込んだのは、サロン風の閲覧スペースに辿り着いた時が最初ではなかった。
ある事に不満を持って家出を目論み、この図書館へ訪れた彼女は、そこで出くわした顔見知りのエニグマの後を追いかけ、その都度限界が来ては休むを繰り返していたのである。
別に、そこまで必死になって彼と彼に押される形で前を行く娘を追うほどの用事はないのだが、大勢に囲まれて暮らしていたプリマにとって、長時間一人でいるのは耐えられない事だった。
たぶん、エニグマたちがいなければ、着いて早々家に帰っていただろう。
だからこそプリマは休みつつも一生懸命彼らを追いかけ、けれどその目的が特定の本ではなく案内だと知らない彼女は、館内を延々歩かされる羽目になる。
追いつきそうで追いつけない掠める姿があったなら、エニグマがわざと行き先を無茶苦茶にしているのだと恨みつつ。
今回に限ってはほぼ濡れ衣だったものの、エニグマという男は間違いなく、プリマにとって最初からそういう手合いであった。
こちらが懸命になればなるほど、それを嘲笑うが如く、また更に上に立つ――それも決して手が届かないような位置ではなく、頑張れば報われるようなところに。
性格の悪さは、プリマのこれまでの短い生の中でピカ一のエニグマだが、何故かそんな彼とプリマの夫は仲が良い――ように見えていた。
何せエニグマのからかいは、プリマ他数名に限定されていたのだから、最初から犠牲にならない夫など裏切り者も同義。
いや、エニグマがいなくとも、彼の男は元々プリマの敵であった。
少なくとも、プリマからしてみれば。
リリアが感覚を思い出して提供した、魔法の紅茶を一口含んだプリマは、サロン風の閲覧スペースでようやく合流できたのだと告げると、物憂げに溜息を一つ吐き出した。
「さてと。何処からお話すれば宜しいでしょうか?」
エニグマと共に同じテーブルを囲むリリアは、その問い掛けにまずは身近な彼の事について尋ねようと思った。
本人を前にして訊くことではないとは思いつつも、エニグマが何を無自覚でしたのか、最初に気になったのはそこなのだ。
決して、他人の家の込み入った事情などではない。
……興味がないと言えば、大嘘になってしまうが。
「エニグマが無自覚、というところから――」
「そうあれは二年前、あたくしが五歳になって間もなくの事でした」
(え、と。もしかして先程のはただの前置き?)
いきなり話し始めたプリマを前にして、聞き手に徹するしかないと知ったリリアは、自分の分のティーカップを手に取ると、勘違いした恥ずかしさを消し去るように紅茶を含んだ。
**********
そうあれは二年前、あたくしが五歳になって間もなくの事でした。
普段は外交でいらっしゃらないお父様がご帰宅され、久しぶりに家族揃って夕食を頂いたのですが、楽しい食事を終えた後、何故かあたくしだけがお父様とお母様に、応接室まで来るよう言いつけられたのです。
たくさん兄弟がいる中であたくしだけ。
まだまだ甘えたい盛りでしたし、両親を独り占め出来る絶好の機会と思ったあたくしは、喜び勇んで馳せ参じましたわ。
それがまさか、結婚話のためで、しかもお相手までもが応接室にいらして、挙句、そのままその方の屋敷に連れて行かれるなど、夢にも思わずに!
今思い出しても腹立たしい、いえ、今であったならお父様の頭に傘でも突き入れていたことでしょう!
と……コホン。失礼。
えー、それはさておきまして、ですね。
結婚のお話を頂いた時、あたくしがまず思いましたのは、何故あたくしなのか、という点でした。
何せあたくしの上には姉が五人、それも適齢期の未婚者が二人も控えておりまして、加え、それまではきちんと年齢順で上二人を送り出しているのです。
まさかまさか、適齢期にさえ程遠い五歳のあたくしが、まさかまさか次に嫁ぐなど、誰が予想した事でしょう?
ですが、実際は予想どころの騒ぎではありませんでした。
疑問はあっても呆気に取られるばかりのあたくしに対して、その方――侯爵様を紹介したお父様が結婚以上にとんでもない事を仰ったのです。
あたくしは最初から、侯爵様の妻になるために生を受けたのだと。
しかもお母様まで頷かれて!
あの時のあたくしの気持ちは、今のあたくし自身であっても、到底量り切れるものではありませんでしたわ。
だってそうでしょう!?
あたくしが生まれた後にも、弟妹たちが続いているのですよ!?
それなのに、ああ、それなのにそれなのにっ!
どうしてあたくしだけっ――そう、思いましたわ。
それと同時に、もしかしたら弟妹たちもあたくしと同じなのかもしれない、とも思いました。
けれど……。
やはり、あたくしだけがそういう腹積もりだったそうですの。
そう断言された理由は、侯爵様の過去にございました。
お父様の幼少の頃からのご友人でいらっしゃる侯爵様には、同年代の奥様がきちんといらっしゃったのですが、お身体を長く患っていたために、あたくしが生まれる前に亡くなられたそうです。
奥様を大変愛していらっしゃった侯爵様は、ご存命の内には「暗い顔はしていられない」と明るく振舞っておいででしたので、亡くなられた後の哀しみようは凄惨たる有様だったとお聞きしております。
ここまでならば、悲恋であっても美しい思い出のまま、この話は終わったはずでしょう。
ですが、あたくしの結婚話からも判る通り、そうは問屋が卸しませんでした。
独り残す夫を案じてか、あるいは元々そういう気質だったのか、亡くなる前に侯爵様の奥様は彼の手を握りながらこう仰ったのです。
必ず生まれ変わって、貴方の許へ嫁ぐから、と。
……実はその時、あたくしのお父様とお母様も同席しておりまして。
ここまでくれば、多くを語らずともお判り頂けると思いますが、その奥様の遺言紛いの予言を実現すべく、侯爵様の目も当てられない落ち込みようを何とかしたいと思ったお父様とお母様が励んだ結果、生まれたのがあたくしだったそうです。
しかも何の因果か、あたくしが誕生したのは奥様の命日のその次の日。
奥様の真意が何処にあったのかは存じませんが、実行に移した愚か者は、そんな自分たちの願いが神に通じたのだと信じて憚りませんでした。
何て頭の悪い人たちでしょうか。
それが実の両親だなんてっ。
あたくしは、あたくし自身が可哀相でなりません、本当に。
しかし、更に恐ろしい事に、愚者は両親だけではありませんでした。
哀しみに暮れていた侯爵様までもが何をとち狂ったのか、まだ赤子だったあたくしを奥様の生まれ変わりとお認めになられたのです!
この事実を聴いた瞬間、常識ってオイシイの? とどなたかにお尋ねしたくなったのは言うまでもありません。
兎にも角にも、そんな仕様もない理由で生まれて間もなく、いいえ、お母様のお腹にいる時から、あたくしは侯爵様の婚約者だったと知らされたのですが、すぐにでも手元に引き取りたいという彼を蹴飛ばし、五年の歳月を掛けて育てたのは、他の誰でもないあたくしの両親でした。
しかも蹴飛ばすとは比喩ではありません。
その表現すら生易しい行為を、侯爵様への元気付けに成功した矢先、夫婦揃ってしたそうです。
将来的には侯爵様の花嫁でも今は自分たちの可愛い娘だ、という言い分らしいのですが、それにしましてもやり過ぎでしょう。
まあ、今更あのお父様とお母様に、世間一般の常識を語っても仕方のない話ですが。
何せそんな可愛い娘を、適齢期もまたずに五歳で嫁がせる方々なのですから。
けれどモノは考えようですわ。
最初から侯爵様の手元で育てられたなら、あたくしはあの方の事をお父様と慕い後々えらい目に遭っていたでしょうし、適齢期まで待っていたなら恋しく想う方との理不尽な別れを未練たらしく嘆いていたことでしょう。
ええ、ええ、認めて差し上げますわ。
だからといってあたくし、両親を嫌いに為った訳でも、侯爵様が気に食わない訳でもございませんの。
どんな腹積もりで生を受けさせられたとしても、愛情を持って育てていただいたのは確か。
所業には呆れてしまいましたが、今でもお父様とお母様が大好きですわ。
それに侯爵様の事も。
腐ってもお父様の幼馴染、完全に親子の年齢差ではありますが、変態的な幼女趣味の在る方ではございませんもの。
お屋敷に連れて来られてからも、それはそれは丁重に扱われていますわ。
腹立つくらいにっ。
……コホン。
そんなこんなで侯爵様の下に半ば強引に送り出されたあたくしは、そこでこの、エニグマと出会いました。
この男、初対面から最悪でしたわ。
こちらがきちんと礼を取ったというのに、足を組んで紅茶を飲みながらそれを見て、席を立ったかと思えば近寄り、いきなり人の頭を鷲掴みにしましたの。
卑しい笑いを貼り付けて、「エニグマだ、チビ」と言い、「この小さいのーみそで覚えられるか、チビ」と。
そちらこそたった今名乗ったばかりのあたくしの名を言えていないじゃないのと睨みつけても、効果は全くありません。
侯爵様にしても、そんなエニグマの為すがまま。
幾ら彼が、結婚の儀を執り行うのに必要な方だと言っても、少しくらい、何か注意して下さっても宜しいでしょうに。
他にも数え切れない程、嫌味なからかい方をするエニグマでしたが、それを一から挙げていくと膨大な量になってしまいますので、ここでは省かせて頂きます。
けれど、どうしたって許せない事が一つだけあるんですの!
結婚の儀と言えば清廉潔白な場が信条のはずなのに、あろう事かそれを仕切る立場のエニグマが、とんでもない行為に及んでいたと儀の前日に発覚したのです!
**********
「とんでもない行為、ですか」
鼻息も荒く、チョコレートの瞳で鋭くエニグマを睨みつけるプリマ。
これに対してリリアは、少し落ち着くようにとの意味合いを兼ねて、彼女のカップへ新しい紅茶を注いでいく。
プリマの方もリリアの言いたい事が判ったのだろう、礼を述べると小さく深呼吸し、カップに一つ口をつけた。
リリアも習って一口含み、飲み込んではプリマの不機嫌もどこ吹く風、涼しい顔をしてカップを傾けるエニグマを見やった。
リリアと向かい合って座るプリマに、完全に背を向けた状態の彼は、素知らぬ風体で足を組み頬杖をついている。
それでもプリマが自分の話に入り怒れば怒るほど、楽しそうな雰囲気は増しており、しっかり聞いているのだという事は窺い知れた。
(からかわれているプリマさんには失礼ですけれど。何か微笑ましい光景ですね)
本人たちに気づかれぬよう、カップの裏でこっそり唇に笑みを刻んだリリア。
そうしてもう一度、紅茶を飲もうとした矢先。
「……その女性は、お腹の子を認知して欲しいと仰いました」
「……はい?」
御年七歳であるプリマが語るには生々しい単語に、聞き間違いかとリリアのカップがテーブルに戻された。
改めてプリマを見つめたなら、幼さに似つかわしくない、諦めにも似た物憂げな表情を滲ませて、同じくテーブルに置いたカップを眺める姿があり。
「すると今度は別の方がそれなら自分が先だ、と。続いてまた別の方が、いつぞやの夜は夢心地と仰れば、違う方が昼の貴方も素敵でした、等など続々と」
「え、ええと、それはつまりどういう」
「……あたくしに皆まで言えと仰いますの?」
「い、いいえ。滅相もございません」
じろりと睨まれ、それ以上尋ねる勇気のないリリアは、両手を挙げて首を振った。
何が恐ろしいかと言えば、エニグマの逸話よりも、自分の半分の時間しか生きていない少女が、具体的にナニがナニしたと語る方が恐ろしかった。
剣呑なプリマの眼から逃げるように、話題の主であるエニグマへと視線を向けたリリアは、その途中で(あら?)と思い出す。
(確かエニグマ、自分が男かどうかはよく判らないって言っていましたよね? 子どもにしてもあんな認識止まりですし)
エニグマと初めて顔を合わせた時にした会話。
その辻褄が合わないと、リリアが眉間に皺を寄せてエニグマを見やれば、これに気づいた彼はふんっと鼻息をついた。
「大半はデタラメデス。それにその時のえにぐまは女を抱いてなんかないデス。子どもが出来るはずもないデス」
「デタラメ、ですか」
「ええ。確かに大半はデタラメでした。大半は」
エニグマの言葉にリリアが納得してみせたなら、含みを持ってプリマが「大半は」を繰り返した。
どういう意味なのかと問うべく、首を傾げたリリアがプリマへ視線を戻す。
と、そのタイミングでエニグマがさらっと付け足した。
「えにぐまはデタラメ以外の女と寝ただけデス」
「……は?」
思わず戻した視線をもう一度エニグマに向けたなら、今度はプリマの方から盛大な溜息が為されていく。
またリリアの顔がそちらに戻れば、億劫そうに額を押さえたプリマが説明を付け加えた。
「だから、また、無自覚なのです。実際、子どもの話は女性の狂言で終わりましたし、その他の方々もお変わりない日々を過ごされています。中には本当にただ眠っていただけ、と仰る方もちらほらいらっしゃいました。ですが、全てが全てそうであるなどと、どうして断言できましょうか。もし仮に、本当にただ単に、横で眠っただけだったとしても、です。誰がそれを素直に信じるというのでしょうか? 誰しも、とんでもない由々しき事態だと思われるでしょう?」
「にゃー。どうしてただ寝ただけでそこまで言われるのか、えにぐまにはさっぱり判らないデス」
「それが無自覚だというのです! でなくともあの時の貴方の姿といったら、無駄にフェロモン垂れ流していたではありませんか!」
「ふぇろもん……エニグマに?」
ここまで来ると七歳児を理由に、プリマの発言にショックを受ける事もなくなってきたリリアだが、今まで一度もエニグマ相手に感じた事のない単語を耳にしては、疑う眼差しをチョコレートの吊り気味の瞳へ向けた。
困惑混じりのリリアの視線を真っ直ぐ受け止めたプリマは、怯みもせずに大きく頷く。
「ええ。エニグマに、です。勿論、こんな変テコな状態のではありませんが」
「にゃ。失敬な。えにぐまの何処が変テコデス。りりあ、りりあも何か反論するデス」
「えーっと……」
黒い爪をプリマに向けたエニグマが、鼻面をこちらに向けて訴える。
一瞬目を泳がせたリリアは、いやいや重きを置くべきは別にある、とあえて明言を避けてプリマへ問うた。
「と、いう事は、エニグマも魔道書、つまりわたしのように擬態できるのですか?」
「ええ。そうですね。あれは擬態と表現した方が正しいのでしょう。侯爵様やあたくし、限られた者の前ではこの姿でしたが、あたくしの世界では珍しい容姿。欺かねば騒がれる事必至、でしたからね」
「珍しい容姿、で片付けられるのですか?」
「ええ。そういえば、リリア様の容姿も珍しいですわね。魔道書とはいえ、その容姿はどのような世界から?」
「わたしは……放浪者でした。それで気づいたら精神だけ魔道書に」
「それはまた、不運でしたわね」
プリマの目が、気の毒そうに下に落ちる。
倣う形でリリアの目も下に落ちれば、伺う声でプリマが問うてきた。
「それでその、元の世界には」
「帰る事は出来るそうです。でも、同じ時間には帰れない、遥か未来に辿り着いてしまうと」
「そう、ですの」
言葉もないとそれっきり閉ざされる口。
プリマから紅茶を飲む音が響けば、エニグマの大人しさに気づいたリリア。
視線を移せば、背もたれを抱えるようにして座り、円卓を背にして項垂れる姿があった。
どうしたのだろう、そう思い声を掛けかけるが。
「酷いデス。りりあ、りりあはえにぐまの事、変テコだと思っているデス。反論してくれなかったデス。鬼デス。悪魔デス」
「…………」
足掻いたところで否定できない愚痴りに、リリアの手と意識が紅茶へと伸ばされた。