小さな訪問者 その2
子ども部屋や喫茶店のカウンター、外に出てしまったのかと錯覚させる丘、リリアの通っていた学校によく似た教室等々。
本当に図書館の中なのかと疑いたくなる、それら全ての空間を閲覧スペースだと言い切ったエニグマは、最後に壁を本で覆われた螺旋階段の先、塔の中を思わせる石造りの小部屋までリリアを案内すると、サロン風の閲覧スペースに戻った。
これでざっと見て回ったという彼に対し、人間の感覚が抜け切らないリリアは歩きっぱなしの足を労わるように椅子へ腰掛ける。
――と、ここに来て彼女はようやく、その存在に気づいた。
「す、こし、はっ! き、づいてくれてもっ、よ、良いのではっ、ないかし、らっ!?」
「あなたは……えーっと、プリマ――何とか様」
「ぷ、プリマで、結構! 様、もっ、いりません、わ!」
暗がりからよろけ出てきたプリマは、もう歩けないとばかりに膝から崩れ落ちると、フリル満載の薄青のドレスの裾を、折り畳んだ同色の傘共々ぎゅっと握り締めた。
「くぅっ! い、忌々しいこのドレス! 歩き辛い事この上ありませんわっ!」
先程は見えなかった銀細工のバレッタが、憤りに振られるハニーイエローの髪の中で、散りばめられた宝石をキラキラと輝かせる。
ドレスに合わせたと思しき色は、幼いプリマが着けるには些か華美が過ぎるものの、数年後の彼女ならば似合うに違いない。
ただし、甘さを前面に押し出したドレス自体は、今の彼女が一番着こなせているだろうが。
だというのに、これを破く勢いで気に入らないと叫ぶプリマ。
余程の事情があるのか、それともお嬢様の気まぐれというヤツなのか、判断しかねるリリアはどうしたら良いだろうと迷い、彼女と同じテーブルの椅子に座ったエニグマは対照的に、迷いなくプリマへ嘲りに似た言葉を掛けた。
「歩き辛いなら着てこなければ良かっただろう」
「仕方ありませんわ! これくらいしか、動きやすそうな服がなかったのですから!」
(歩き辛いのに歩きやすい。矛盾する主張ではありますが、つまりはこのドレスがプリマさんの衣装の中で一番の軽装……それはさすがに嫌ですね)
行かず後家とまで言われていた勉強漬けの日々があったとしても、今や正体が本だったとしても、一端の年頃の少女である事に変わりのないリリア。
美しいドレスを一度で良いから纏ってみたいという願望はなきにしもあらずだが、だからといってプリマの衣装を基準として選べと言われたら、丁重にお断りさせて頂く。
それくらい、似合うに合わないは別として、プリマの比較的動きやすいドレスには自由がなかった。
元より遠い姓のある家柄では、このドレスを上回る動き難いドレスなど、一庶民のリリアには想像も出来ない。
けれどもリリアはここで、別の可能性に行き当たる。
(すっかり失念していましたが、わたしの基準が必ずしもプリマさんに当て嵌まる訳ではありませんね。もしかしたら、貴族以外の方も姓を持つ世界からいらしたのかもしれませんし、デザインは兎も角、上質そうな生地もそれが当たり前という場合もあるでしょう)
この衣装で庶民というのは釈然としないものの、世界が違えば基準も違うのだろうと思った。
勿論、プリマが貴族であるという可能性も捨てていない。
捨ててはいないが、幼い外見にそぐわない喋り方を考慮しても、プリマの親しみやすさはリリアの知る貴族とはかなり違う。
(ああ、そうです、そうでした。外見にしても、プリマさんの世界にしてみれば成人なのかもしれません。たとえ見た目通りの齢だったとしても、必ずしもそれが人間とイコールとは限りませんし)
思い浮かべたのは、プリマの容姿に近いと感じた動物・犬の齢の取り方。
人間の年齢に置き換えたなら、一歳で成人という育ちっぷりはプリマにも当て嵌まるかもしれない、リリアがそう思った矢先。
「貴族の五歳児に動きやすい服など不要だろう?」
「失敬な! あれから何年経ったと思ってらっしゃいますの!? 二年ですわ、に・ね・ん! あたくし、七歳になりましたの」
「やれやれ。大して変わらんぞ。どの道、お前さんは子どもではないか」
「きぃっ! 相変わらず失礼な方ですわっ! そう思いません事!?」
「あ、え……わたし?」
プリマの身元が正真正銘、貴族で子どもだと判り、考えた可能性を悉く消されてしまったリリアは、突然振られた話に自分を指差し戸惑ってしまう。
ついでに確定した身分の差から、床に座るプリマを差し置いて椅子に腰掛けた事へ、今更ながら無礼だったと思い至る。
そうでなくとも、項垂れる彼女の下へ、何故すぐに駆け寄らなかったのだろうと己を恥じるリリア。
実際のところ、プリマのやや大袈裟な嘆きが本気と捉え難かったから、リリアは行動を起こせなかっただけなのだが、初めて生で見る貴族に動転した庶民は全てを自らの非と認識してしまった。
なまじ本を読んでいたせいで、リリアの中の貴族と庶民の関係は、彼女自身が思うよりずっと、悪辣な印象をその心に植えつけている。
たとえば、貴族を軽んじた途端、その庶民の頭蓋は吹き飛ばされる、くらいに。
ゆえにリリアは答えよりも先に席を譲らなければと焦り、この動きを察したエニグマが、立ち上がろうと卓についた彼女の手を押さえて留めた。
「え、エニグマ……」
何故止めるのかと言外に問う反面、貴族であるプリマに気安く話しかける彼もまた、自分より上の立場なのではないかと察したなら、リリアの瞳だけが動揺に震えた。
そんな彼女の心を知ってか知らずか、リリアの手に手を重ねたまま、エニグマの鼻面が答えを待つプリマの方を向く。
「だからプリマは子どもだというのだ。失礼というならお前さんこそ失礼だぞ? りりあはこの図書館の館長だというのに、偉そうにして」
「……え?」
(わたしが、館長?)
初めて聞く話に震えていたリリアの目が大きく見開かれる。
一体全体、どうなったらそうなるのか、立ち上がろうとしていた身体をエニグマに向き直らせた矢先。
「ええええええええええっっ!!?」
「……プリマさん?」
リリア以上に驚きの声を上げたプリマが、ずざざざざーっと、起き上がりつつ滑るように後退するという離れ業をやってのけた。
「ぎゃひんっ!?」
しかも背後を確認しなかったばかりに、頭を本棚に打ってようやく止まる、そんなドジなオチまでしっかりつけて。
バレッタ分の痛みも付与されているのだろう、声も出せずに蹲るプリマを見て、今度はさすがに席を立ったリリア。
駆け寄って小さな身体へ気遣う手を回したなら、うるうる涙ぐんだチョコレートの瞳が、気後れと若干の怯えを浮べてこちらを伺ってきた。
打って変わったその視線に、少しばかり傷ついたリリアだったが、身じろぎはしない様子に努めて優しく声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
「……はい。申し訳ございません。取り乱してしまいまして」
自分の大袈裟な反応に遅れて気づいたのか、プリマの顔が羞恥から下へ向けられる。
次いでリリアに支えられながら立ち上がったプリマは、まだ痛む頭を擦りながら困惑を映して見上げてきた。
「あの……それでリリア様が館長というのは」
「……エニグマ?」
リリアの方こそ問いたい問いを掛けられ、答えを持たない彼女は椅子に座ったままのエニグマを呼んだ。
ゴツゴツした鎧に包まれた足を器用に組み、二人のやり取りを視ていた彼は、つまらなさそうに頬杖をつくと、空いている右手をリリアに差し伸べた。
「そう。りりあは館長だ」
「どういう事ですか? だってわたしは」
「経緯は関係ない。この図書館の中で原本はりりあだけ。だからりりあは自然、館長となる」
「この図書館の中での原本……まさか! リリア様は魔道書!?」
驚いた様子のプリマは、かといってまた後退するでもなく、あんぐりと口を開けた状態で見つめるのみ。
それが先程よりもプリマの中の衝撃の大きさを表しているようで、居心地が悪くなってきたリリアは、凝視してくる彼女を置いてエニグマの下まで歩いて行く。
ただしそれは、魔道書=館長の関係を確認するためではなく。
「エニグマ……わたしが魔道書だという事は知られても良い事なのでしょうか?」
手にした者のどんな願いでも叶えるという魔道書。
今やその正体となってしまったリリアが、自身の所在に恐れを抱いたなら、率先してバラしたエニグマは頬杖のままで首を縦に振った。
「問題ないデス。言い忘れていたが、事魔道書に関しては、悪しき考えを持つ者でもわんこを利用できるデス」
「そんなっ」
青褪め非難の声を上げるリリアに対し、つまらなさそうだったエニグマの頬が弛緩した。
リリアの手が責めるようにエニグマの左袖を掴めば、これを右手で取った彼は楽しそうに上下に振った。
「何せ魔道書の内容を解読できる者はいないからな。どんな研究者であっても最後には挫折を見る。この図書館に流れる時間が悠久であろうとも……」
「あっ」
ぐいっと引っ張られたリリア。
組むのを止めた腿の上に、エニグマの左側から腰掛ける形にされては、裾に連なる楽器に足を掬われ、バランスを崩した上体が頬杖に使われていた右腕に抱きかかえられた。
一連の動作にリリアが驚き目を見開いたなら、取られたままの右手にエニグマの指が絡みついた。
「手にした者のどんな願いでも叶える魔道書。けれど手にした、とはその行動ではない。魔道書を開く権限を得て、初めて手にしたと言える。たとえば……りりあ、えにぐまはお茶が飲みたいデス」
「え? あ、はい」
不穏なエニグマの語りを耳にしつつも、不安定な格好に支えを求めて自由な左手で彼の肩を掴んだリリアは、ほっとする間もなく乞われた事に頷いた。
次いで脳裏に浮べたのは、トレイに乗った白地に青い花のティーセットと、
「お茶……紅茶で宜しいですか? 品種は」
「紅茶でいい。品種は知らん」
「判りました。では――」
言いながらリリアはふと、可笑しな感覚に気づく。
(? わたし、どうして頷いたのでしょう? 図書館にお茶なんて、あるのかさえ知らないのに。それに)
視線を落せば、左右斜めに傾ぐ腹と腿の上に、浮べた通りのティーセットがある。
エニグマの右手がリリアの手からカップの一つを取ると、すかさずティーポットから注がれる上品な色合いの紅茶。
それもリリアの手を介しての。
「頂くデス」
言って、器用にカップへ口を付けたエニグマの喉が、こくっと鳴り動くまでを見届けたリリアは、お代わりに待機する手の状態で首を傾げた。
「あの、エニグマ? これは一体?」
「これ? これはお茶デス。なかなか美味しいデス」
そういう事を聞いている訳ではないのだが、エニグマの口元から下ろされたカップの縁が、リリアの唇に軽く押し当てられた。
飲むよう勧められる代わりに傾く中身が、状況に恥じ入る間もなく、押された事で小さく開いたリリアの口内を潤していく。
「んっ……」
「美味しいか、りりあ? 魔道書になったばかりだからな。意識して飲食しなければ大変な事になるデス。そう……そうだ。よし、全部飲み込んだな」
「ふ、はぁ」
温い紅茶を飲み干し、仄かに紅潮するリリアの頬。
エニグマの言う通りの味わいの余韻に息をついたなら、ティーカップをトレイに戻した手がティースプーンを取り、添えてあったジャムの瓶をリリアの肩を抱く左手に持たせた。
「ジャムも舐めとくデス。角砂糖もあるが、こっちの方が食べやすいだろう」
スプーンに軽く一匙乗ったジャムが、リリアの意思とは関係なしに口の中へ運ばれていく。
「ぁ、んむっ……んっ」
紅茶同様、こちらもなかなかどうして絶品な、程好い甘味と酸味が広がる。
「美味いか? じゃあもう一杯」
「は、はい」
言われるがまま、再び差し出されたカップにリリアが紅茶を注いだなら、今度はエニグマを経由せず直接口元に向かう硬質。
またしてもそれを飲み干しせば、紅茶とジャムに濡れた唇を、黒く鋭い爪を携えた親指の腹が、優しく拭い取って行った。
そうしてそのままその指は、持ち主の舌にぺろりと舐められ。
「っ!? え、エニ――」
「エニグマ! あ、貴方、子どもの前でなんて不埒な真似をされるのですか!? 思いっきり見入ってしまったではありませんかっ!!」
リリアが我に返るのと同時に叫んだプリマは、折り畳まれた傘の先端でエニグマを差しながらずんずん近づいて来た。
途中、「きゃわっ!?」とドレスの裾を踏んづけつつも、掲げていた傘を杖代わりに態勢を正し、なんとか二人の前まで到着。
コケかけた恐怖と恥ずかしさに息を弾ませながら、傘で差したままのエニグマを放った彼女は、キッとリリアの方を睨みつけてきた。
「リリア様もリリア様です! これでもエニグマは殿方なのですよ!? 幾ら魔道書とはいえ無防備ですわ!」
「うっ。す、すみませ――」
「にゃー。煩いプリマ。某はりりあに魔道書の説明をしているだけだ。それのどこが不埒だというのだ?」
「こ、この男はっ! また、無自覚ですの……?」
心底理解出来ないといったていで、リリアを膝に抱えたままのエニグマが首を傾げたなら、がっくりとプリマは項垂れた頭を抱えて苦悩する。
(そういえばこの二人、お知り合い、でしたね)
エニグマとプリマのやり取りを経て、現在の状況に特別な意味合いがないと知ったリリアは、恥じる心を恥とし、長身痩躯に身体を預けた状態で疑問符を口にした。
「プリマさん。また、とは?」
「ええ、それはですね…………と、その前にリリア様。エニグマから降りては頂けないでしょうか? はっきり言わせて貰いますが、物凄ぉく、目の毒ですの」
「あ、はい。判りました――エニグマ?」
子どもに目の毒とまで言われたリリア、降りるべく手を添えたなら、肩を抱く左腕が彼女の身体を引き寄せてきた。
一瞬、上に置かれたトレイが引っくり返るのではと焦ったが、いつの間にやら重み共々、その姿は綺麗さっぱり消え失せている事を知った。
まるで、望めば現れるリリアの本体のようである。
(……先程エニグマが魔道書の説明と仰っていましたが、つまりあれも魔道書の姿の一つ?)
リリアという前例がいるため、完全には否定は出来ないものの、この場で真実を知っているのはエニグマだけだろう。
加え、抱き寄せる格好に対してもどうしたのかと問う視線を送ったリリアだが、映るのはグラスグリーンの喉元のみ。
けれどもにやつく気配を感じては、困ったように眉根を寄せた。
「エニグマ。プリマさんをからかうのは止めてください」
「……え?」
「にゃあ。りりあはえにぐまの楽しみを奪うデス。プリマをからかうのはえにぐまのライフワークの一つなのに」
「んなっ! そんな事のためにリリア様を!? 何処まで性根が腐っておりますの!!?」
ぶーぶー口先で愚痴るエニグマへ、薄っすら朱を滲ませて憤るプリマ。
薄いとはいえ毛で覆われた肌に出るほど顔を真っ赤に染め上げた彼女は、それでも貴族の矜持なのか、傘を振り回して暴れる事なく、威嚇する犬のようにぎりっと小さく歯を軋ませた。
そんなプリマを尻目に、リリアの身体をひょいっと持ち上げて床に下ろしたエニグマは、離れる身を惜しむようにその頭を軽く撫でてくる。
「ところでりりあ。さっきの説明で手にした者の意味、判ったデス?」
「え……いえ。あのティーセットが何だったのかさえ判りませんでした」
正直に告げれば頷いたエニグマが、これ見よがしに「全く、プリマのせいデス」と、彼女の方を見ずに言った。
これへ、更に怒りを増すかと思いきや、プリマは居心地が悪そうに項垂れるだけ。
尖った口からは文句を呟く声が聞こえるものの、内容は判らず、覇気もない。
意気消沈するプリマを予想していなかったのだろう、自分で追いつめたくせに戸惑う様子のエニグマは、仕切り直すように咳払いしながらも、彼女をちらちら気にしつつ話を続ける。
「にゃ……えー、何処まで話したか。そ、そうそう、手にした者、手にした者デス。それと、ティーセット。……要は、だな。手にした者というのは、りりあからりりあの名を教えられた者の事デス。この場合はえにぐまの事デス。だからえにぐまがお茶を飲みたいと言ったら、りりあはお茶を出した」
「出した、という事はあれは魔道書ではない?」
「にゃ? 魔道書はあくまでりりあだけデス。りりあ以外に姿を変える事はないデス。あのティーセットは、りりあが無意識に魔法で作り上げた品。えにぐまの頼みを受けて、出してくれた物に過ぎないデス」
「それって……それではわたしがもし、他の方に名を教えてしまったら、望まれるまま無意識に魔法を使うという事ですか?」
名を教える事の危険性が、身近なたとえとして現れた事にリリアの顔が青褪めた。
これを拭うように頭に置いていた手を頬へ添えたエニグマは、変温動物の皮膚を持つにしては温かな手の平で、むにむに優しくリリアの肌を揉む。
「安心するデス。無意識といっても、りりあの意思はちゃんとあるデス。えにぐまがお茶ではない危険な事を望んでいたら、りりあは困るデス。困ったり迷ったりすると無意識は実行に移せないデス。それに今は無意識でも、慣れてくれば意識して使えるようになるデス。特にこの図書館内に纏わる事なら、ティーセットを出した時のように呪文要らずで色んな事が出来るデス」
「色んな事……」
荒唐無稽な話だが、今更否定できるものではない。
かといって、出来る「色んな事」を探してみたリリアは、これといって何も浮かばず小さく息をついた。
頬に触れるエニグマの手を取りながら眉を寄せ、座っても高い位置にある顔へ笑ってみせる。
「今のところは何も浮かばないのですが」
「少しずつ覚えていけばいいデス。ただ、飲食だけは定期的に取らねばならん。りりあの身体は、摂取したモノを全て魔力へ還元するから排泄の必要はないが、それでもその擬態は以前の身体の感覚で、何かを浪費して動こうとする節がある。まあ、飲食物を出現させる魔法を覚える、いい機会だと思えば苦でもないデス」
(要約すると、わたしが願いを叶えるのは、わたしから名前を教えた方だけ。でもわたし自身がわたしのために魔法を使う事も可能。魔法には普通呪文が必要だけど、この図書館に纏わる事なら、ティーセットを出した時みたいに思い浮かべるだけで色んな事が出来る……)
考えを纏めながらエニグマのごつごつした手を指で踏むリリア。
最後、無意識に「思い浮かべるだけで」と自身で加えた言葉には気づかず、知らず落ちていた視界を上げると、エニグマに向かって頷いた。
「判りました。兎に角今は、習うより慣れろ、といった感じでしょうか」
「にゃあ。何か違う気もする。でも、大まかにはそれで良いと思うデス。……他にも注意点は多々あるが、追々でも問題はないはずだ」
「?」
ぼそりと付け加えられた言葉にリリアが首を傾げたなら、その視線を外すようにエニグマが、捨て置かれた腹いせのように背中を丸めて蹲るプリマへ声を掛けた。
「プリマ、リリアと話をするのだろう? そんなところに蹲ってないで、こっち来て座れ」
「…………」
尊大な口調だが、ぴくりとも動かないプリマに滲む惑いの色。
「プリマ。プリマ。プリマ」
「…………」
「プリマさん?」
「…………」
すっかりヘソを曲げたらしい彼女は、リリアの声掛けにも一切反応を示さず。
「プリマ…………………………マダム」
エニグマが幼い少女に掛けるに相応しくない呼称を付け足した。
これに対し、ぴくりと反応したプリマを横に捉えたリリアは、不思議そうにエニグマへ問い掛けた。
「マダム?」
すると更にぴくぴく動く、プリマの身体――というか肩。
加えて剣呑な雰囲気が小さな少女から漂い始めたなら、戸惑いから一転、笑い混じりにエニグマがもう一度言う。
「マ・ダ・ム」
「うーっるさいっ、うるさい、うるさい、うるさい、うるさぁいっ!!」
溜めの入った声に我慢できないと立ち上がったプリマは、手にした傘ごと両腕を上げると怒鳴り散らした。
次いでくるりと振り返っては、エニグマに向かってまたしても傘の先端をずびしっと向ける。
「誰がマダムよっ! あたくしはまだ、レディーで充分ですわ!」
チョコレートの瞳を吊り上げ、ハニーイエローの髪とブラウンの垂れ耳を揺らしながら首を振る。
七歳とは思えない痰火の切りようにリリアの目が丸くなれば、プリマの怒りが戻った事に安堵してか、エニグマが遠慮なく鼻で笑った。
「レディー? 侯爵夫人のくせにか?」
「は? 侯爵、夫人?」
貴族とは聞いていたものの想像よりだいぶ上だった爵位を耳にして、いや、七歳の子どもをして夫人という立場を聞きつけて、リリアはまず自分の聴覚を疑ったのだが。
「うっるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさいぃっっ!! あんな方、あたくしの夫などではないわ! ただの親バカよ!!」
「……え?」
(夫と言うからには男の人。でも親バカって……ど、どういう意味ですか?)
エニグマ以上のとんでもない宣言を本人から直々にされたリリアは、理解するのを怖れて半歩ほどその場から退いてしまった。