或るお茶の時間にて
どこまでも続く、白い壁と木目の床で形成された室内。
そこへ整然と並べられた棚には古今東西ありとあらゆる蔵書が収められており、オレンジ色のランプが棚と棚との間の壁や通路に面した棚の側面にぽつりぽつりと備え付けられている。数だけ見れば十二分に明るいランプ、けれども古ぼけた光など幾らあっても仕方のない話だ。
蝋燭のように震える影が出来る事はなくとも、ここまで薄暗く加えて無尽蔵にある本棚相手、特定の本を見つけるのは至難の業であろうし、運良くありつけたとしても至るまでの間に追った文字で確実に視力を落としてしまうだろう。
高所まで手を伸ばせる滑車付の梯子が親切面で存在していようが、これらの不便さを解消出来るほどの利便性は感じられなかった。
そんな不親切極まりない本棚群にほぼ占拠された建物の奥、柔らかな光の差し込む一角では、不便も利便も何処吹く風というていで、一人の少女がお茶の時間を楽しんでいた。
青いリボンで後ろに纏め上げられた髪はクロムイエロー。
長い睫毛に縁取られた大きな瞳はセレストブルー。
ほんのりと朱の滲む肌は滑らかで、アンティーク調のティーカップに触れる唇は柔らかな薄紅。
眉は穏やかに曲線を描き、鼻筋の通った輪郭は幼さを残しながらも少女が徐々に成長していく様を綺麗に形作っている。
同じく成長過程で女性特有の丸みを帯びつつある身体は、白いブラウスと青いスカーフ、青を基調にしたチェック柄のスカートと茶色いブーツで固められている。
飾りっ気のない木造の円卓に飲みかけのティーカップを置いた少女は、温かな明かりが降り注ぐ割に白しか見えない窓の光景を留めつつ、ティーカップと同種の皿からクッキーを一枚抓むと一口頬張り。
「うーん、やはりプリマさんの手作りクッキーは絶品ですね。程好い甘さにしつこくないバターと玉子の風味。この前頂いたチョコチップ入りも見事でしたが、シンプルゆえの技の光り様は中々どうして」
右手で欠けたクッキーを掲げては、左手を頬に添えてうっとり溜息をついた。
まさに至福の一時、といった具合の少女。
対し、背後の本棚の陰から不思議そうな男の声が訪れた。
「にゃ? りりあ、そのクッキーを作ったのはプリマじゃないデス。プリマはマダムだから自分の手は汚さないデス」
「自分の手を汚さないって表現はどうかと思いますけど。ええ勿論分かっていますよ、エニグマ。それでも持って来て下さったのはプリマさんですから、プリマさんの手作りクッキーで良いんです。プリマさんがいらっしゃらなければ、どこの誰が作ろうともわたしの口には入らないでしょう?」
クッキーを褒め称えたくせに作製者を蔑ろにした少女は、彼女の事を「りりあ」と呼んだ人物を振り返り、熱弁の名残のように食べかけのクッキーを翳してみせた。
これをエニグマと呼ばれた人物がぱくりと迷いなく口にしたなら、少女・リリアは花も綻ぶ微笑みを浮べた。
「美味しいですか?」
「…………フツー」
素っ気ない感想を述べた自身の口周りをべろりと舐めるエニグマ。
ついでに差し出されたままのリリアの指を舌先で突くと、笑みを引っ込め目を丸くする少女へ口角を上げてみせた。
「りりあの方が美味しそう」
アクセントにじゅるりと唾を嚥下する音をつけて。
危険極まりない言葉を吐いたエニグマだが、その容姿はリリアと比べるとそれ以上に異様であった。
猫背気味の長身痩躯やシルバーグレイのギザギザした長髪に散る色とりどりの花、赤と黒を基調とした厚着の服に引っ掛けられた数々の楽器は、まあ良しとしても。
不可思議な紋様を刻む布に覆われた目許から伸びる鼻先は、グラスグリーンの鱗を持つばかりか、長い亀裂の合間に鋭い牙を見え隠れさせているのだ。
袖口から覗く手にしても同じ鱗に覆われており、細く長い指先の爪すらも人間にはない黒の鋭さを持ち合わせていた。
凡そ、リリアと同じ種族ではないと一目見て分かる風貌、たとえるならばワニかトカゲか、はたまた御伽噺に出てくる竜が適当か。
けれども恐ろしい頭部を持つ男を前にして、捕食を匂わせる宣告を受けたリリアは、きょとんと目を瞬かせるばかりで逃げもせず。
それどころかもう一度微笑んでは、隣にある椅子を手で示してエニグマへ座るよう促した。
「わたしを食べてもエニグマのお腹は膨れませんよ。それよりもほら、一緒に紅茶を飲みませんか?」
「……試してみなくちゃ分からないデス」
「試さなくても分かりますって。だってエニグマ、そんなにお肉食べないでしょう?」
あっさり言ってのければ、エニグマの猫背の肩が更に低く下がっていった。
渋々隣に腰掛けたエニグマはリリアの淹れた紅茶を受け取ると、器用に一口こくりと飲み込んだ。
「にゃあ……りりあがちっとも怯えてくれなくて、えにぐまはとっても不愉快デス」
「そうですか。では、お詫びにクッキーをお一つ」
「一つと言わず、全部寄越すデス」
「いいですよ。はい、召し上がれ」
リリアは円卓の中央からずずいっとクッキー皿をエニグマの方へと寄せた。
にっこり笑えば目を隠していても見えるという布越し、エニグマが困惑した気配を滲ませた。
「……やっぱり半分こするデス。えにぐまはそんなに食べられないデス」
黒い爪がリリアとエニグマの間までクッキー皿を押しやる。
「そうですか? では仲良く半分こにしましょうか」
「えにぐまはりりあが嫌いなので仲良くは嫌デス」
「それは残念。でもわたしはエニグマが好きですから、ここはやはり仲良く分けましょう?」
猫背でも座っても、どの道見上げるしかない長身をリリアは上目遣いに見つめた。
これにぷいっと顔を背けたエニグマは、もごもご口を動かした末に小さく呟く。
「…………やっぱりえにぐまはりりあが大嫌いデス」
「わたしはエニグマが大好きですけどね」
クッキーを分けつつしれっとリリアが口にすれば、背けられていた鼻先が勢い良く戻ってきた。
拍子にエニグマの頭に散っていた花が手に落ち、鱗に覆われた口が開く直前、リリアはコレを素早く彼の口に押し当てた。
「お話の続きはお茶の時間が終わってからにしましょう。だってわたしたちの時間はまだまだたっぷりあるんですから――――嫌になるくらい」
最後は姿勢を正してげっそりと吐き出したリリア。
暗い思いを遮るように、エニグマの口に押し当てた花を自身の口元に置いては、馨しい花に目を閉じる。
闇の中、馳せる記憶はこの場所、クロエ図書館に知らぬ内迷い込んだ日の事。
それは遥か遠い昔の出来事であると同時に、リリアにとってはつい最近の話でもあり。
リリアの名が、その身体が、すっかり変わってしまった始まりの時でもある。
今はもう悲嘆に暮れることさえなく、目覚めた途端に付随してきた役割への不満もない。
しかしそれでも――
――館長、クロエ館長ってば! いないの、ねえ魔道書!
「にゃー。りりあ、りりあの事、呼んでるデス。あの貧相な声は迷子っぽいデス」
「……そうですね。はあ。あんなに叫ばなくても聞こえていますって」
エニグマとのやり取りを経、すっかり冷めてしまった紅茶を煽ったリリアは椅子から立ち上がると、何処に在ったというのか、年季の入った分厚い本を小脇に抱えて声の方角向いて吐息を一つ。
「それでも、お茶の時間は静かに在りたいものですね」
心を込めて愚痴った唇を引き結び、本を開いては勝手に胸の高さで浮き出したそれへ、たおやかな手を翳した。
魔道書――そう呼ばれる唯一無二の書を前にして、クロエ図書館館長としての命を紡ぐ。
『我が名は魔道書。一の書にして其を統べらん。只今は招かれざる客の迷いを招く者なり――』
初めまして大山と申します。
「或るお茶の時間にて」はプロローグのつもりです。
さわりの本文でしたがご覧の通り、エニグマの容姿は人間ではありません。
これから登場する予定の人物たちもエニグマ同様、ヒトではない人ばかりになります。
生粋の人間は登場しません。予めご了承下さい。
特に起伏のある物語ではないので、のんびり楽しんで頂ければと思っております。